【悲報】下江姉、エッチを知らない   作:スラバヤサトゥ

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お疲れ様です。よろしくお願いします。


教育とは難しい

「先生」

 

教室の空気が、かすかに揺れた。

 

「っ……な、なにかな、シオリ」

 

先生がビクリと肩を震わせながら、なるべく平静を装って振り返る。

 

その真正面に、澄みきった赤い瞳があった。

曇りのない視線。疑いも下心もない、ただ真っすぐな好奇心だけがそこにあった。

 

「結局、エッチって何なんです?知ってそうなハナコちゃんはどっか行っちゃったみたいだし…」

 

机を前にして正座の姿勢で、シオリがごく真面目な顔で尋ねてくる。

その隣でアズサも、コクコクと小さく首を縦に振る。

 

「……」

 

沈黙。

 

室内の時計の針の音が、やけに大きく響いた気がした。

 

「……え、えっと〜〜〜……」

 

先生は目線を泳がせ、書類に手を伸ばし、そしてすぐそれを元に戻した。

 

(……高校生でまさか…って言うのはだめだよね…うん。別に悪い事ではないよ、そういう子もいるんだ)

 

心の中で何度も言い聞かせるように反芻するが、思考はどうしてもざわついて落ち着かない。

ふと思い返してみるが…自分がそんな知識をつけたタイミングを全く思い出せない。

だがキッカケがあったような…無かったような……何歳ぐらいの話だったか。

まぁ彼女達にはそんな機会が一切なかったのだろう……『そんな事あるかい!』と言う感情もあるが、伏せておこう。

 

彼女達の真っ直ぐな問いかけに、大人として、教育者として、どう向き合うべきなのか。

 

(…これは教えるべき? いや、教えていいのかな?でも性教育…って感じじゃあなさそうなんだよ…なんか哲学に片足踏み込んでるような…)

 

「先生、汗すごいですけど…大丈夫です?」

 

「だ、だいじょうぶっ、全然大丈夫だよ!」

 

先生は慌てて手のひらを振るも、声が裏返り、目は虚ろ。とても“全然”には見えない。

その様子を、やや離れたところから見ていたヒフミがあわあわと指を動かす。

なんだかとても居心地が悪そうだ。

 

「えっとね…まぁ…そうだなぁ…」

 

先生はもう一度、ごくりと唾を飲み込んだ。

たぶん人生の中でもトップクラスに神経を使っている。

ここで下手なことを言えば…シオリのナニかを変え、後々の人生に多大なる影響を与えかねない。

 

「その……“エッチ”って言葉はね、人によって意味がちょっとずつ違う部分もあるんだけど……」

 

「はいはい」

 

「基本的には、すごく親しい人との間で、特別な気持ちを伝えるような、そういう“関係性”をあらわす言葉かな…あと、なんというかね…特定のモノに対する感情…的な?」

 

先生は、自分でも何を言っているのか分からなくなってきていた。

だが、それでも――今のベストは尽くした。

この場を穏便に切り抜けるための、全力の言葉選び。

地雷原を探知機無し、犬の同伴なしで歩いている気分。

 

「なるほどぉ?」

 

「うむ……」

 

シオリは真剣な顔で、しきりに頷いている。

だが、その赤い瞳にはまだ納得しきれていない、きらきらとした探求心が灯っていた。

 

その隣では、アズサが無言で腕を組み、じっと天井を見上げていた。

何かを考えているようで、何も考えていないような……曖昧な顔…その目はなんだかじっとりしている。

 

「つまり、強い信頼関係をあらわすと?」

 

「ま、まぁ……そう、いうことになるのかな?」

 

先生の声にはすでに自信がなく、半分諦めのような響きすら混じっていた。

 

「つまり! 私とコハルの関係って事ですね!! 私とコハルはエッチっていう訳ですか!」

 

「シオリちゃん!?」

 

ヒフミが思わず声を上げる。

その頬は見る間に赤く染まり、両手で顔を覆ってうずくまる。

 

(うへぇ〜〜〜〜〜……)

 

先生の頭の中で、よく知る生徒の鳴き声がこだまする。

現実が想像の数歩先を行く時、人は言葉を失うのだ。

 

教室の空気が、凍りついたように静まり返る。

その静寂を破ったのは――

 

「なんか、大きな声が聞こえたんだけど…」

 

教室のドアがカラリと開き、コハルが戻ってきた。

後ろからは、ハナコも顔をのぞかせる。

 

困惑が混じった妹の声にぴきーんと反応し、にこにこと笑い、くるりと振り返る。

 

「コハル! 私たち、エッチだよね!!!」

 

「……え?」

 

コハルは数秒間、その場でフリーズした。

口はわずかに開き、瞳孔がわずかに揺れる。

時間が止まったような感覚。思考が、音を立てて軋んだ。

 

(……は?)

 

自分の耳を今まで一番疑った瞬間だった。

しかし、今のは確かに――姉が、満面の笑みで。

 

(エッチって、今……え? え、なに? 誰と誰が何!? 私と……お姉ちゃん? え? えぇ……??)

 

ぐらりと視界が揺れる。

酸欠やら貧血やら…足がおぼつかなくなる感覚。足の裏から何かがすーっと抜けていく。

脳の処理速度が落ちているのが自分でも分かった。

 

自分が席を外している間に一体何が?

どうせこの姉の事だ、何も分からないで言っているハズ…そもそも『エッチ』と言う、語句を知らなかったわけだ。

初めて知った言葉を何だか異様に使いたくなるのは人間の性…そしてその意味を知りたくなるのも自然な事。

 

そして次の瞬間――

 

「誰が吹きこんだのっ!?!?」

 

怒号が教室を突き破った。

空気が一気に緊張し、誰もがびくりと肩をすくめた。

まず最初に、視線が向いたのはペロロ様のリュックサックを抱え、すこし後ずさっていたヒフミだった。

 

「コハルちゃ…っひぃ!」

 

ギロリと桃色の瞳が動く。

いつものシオリの一歩後ろで回りを警戒している、可愛らしい一年生…という空気は無い。

冗談ではなく本気で死刑を執行しそうな彼女の様子に、流石のヒフミも肩を跳ねさせ後ずさり。

 

「わ、私ですか!?え!?完全に傍観者ですぅ!!」

 

全力で両手を振り、必死に否定するヒフミ…もう刑を免れようとする事しか頭にない。

その姿にコハルの瞳がわずかに揺れる。

 

(まぁ…あのヒフミの事だし…ないわよね!この中じゃお姉ちゃんと同じくらい真面目そうだし)

 

選択肢を一つ潰したところで、次はアズサへ。

コハルの視線に無言で反応する、氷の魔女。

執行人の判断は、一瞬だった。

 

(アズサは絶対違う。むしろお姉ちゃんと同類。…あぶない意味で)

 

次に、一番危険でやらかしそうなのが浦和ハナコだが…

 

(ハナコは一緒に廊下にいたから…まぁ一応無罪よね…出る前に言おうとしてたけど…私が遮ったし)

 

これで補習授業部全員が選択肢から外れた…だがその枠から外れた者がまだ残ってる。

彼女は最後の体を向ける。

沸き上がるのは、怒りというよりも、もっとこう――“あまりよろしくない感情”。

彼女の桃色の瞳は光を失いどす黒く濁る。

 

「……先生」

 

出せる限りの低い声。

 

「えっと…あのねコハル?」

 

先生は思わず二歩、三歩と後ずさる。

 

「私は、直接的なことは全く言ってないのよ? ただ、あの、その……」

 

目線は宙を泳ぎ、声はか細くなるばかり。

 

「あのねじゃないわよ!!」

 

声が爆ぜた。

 

「解釈は人によるでしょうがあぁぁぁぁぁ!!!!!」

 

指を突き指して叫ぶコハルの声が、建物を揺らした。

 

 

 

 

「えっと…じゃあ、あの本は絆とか信頼関係にまつわる本なんだねぇ~」

 

改めてシオリが笑いながら言うと、その隣でコハルが頭を抱えて唸る。

 

「えっとぉ…委員会の活動中に差し押さえたモノものをカバンに入れたままにしてしまった…と」

 

ヒフミが助け舟をだすと、そのチャンスを逃すもんかとコハルが口を開く。

 

「…そう!委員会だと…押収品管理係やってるから…普通の委員より、そういうのを持ってる確率が高いの!!」

 

「流石コハル~ちゃんと仕事してるぅ!」

 

シオリにわさわさと頭を撫でられ、恥ずかしがるコハル。

褒められた喜びと、羞恥心がバチバチとぶつかり合って、なんとも言えない感情が蠢く。

 

「なるほど。トリニティ古書館の地下には、禁書が大量に眠っているという噂も聞きましたし…正義実現委員会が、そう言った物を含めて、差し押さえをしているのは不思議ではないですね」

 

「まぁ、別にそんな壮大な話じゃないよ~」

 

シオリが苦笑しながら返す。

 

「トリニティじゃ、実質的にウチが風紀委員みたいな感じだし…スタンダードな仕事の一つだね」

 

「…正実の皆さんって…いつもドンパチしているイメージが強くて…なんかそう言う地味な仕事は範囲外かと思っていました」

 

ヒフミがぽつりとこぼすと、シオリは「あ~」とうなじをぽりぽりと指でかきながら、目を泳がせる。

そう思われても仕方ない…まぁ白昼堂々、フルオートで撃ちまくってる光景をみれば誰もそんな感情を抱くだろう。

トリニティは地域柄と言うのだろうか、中々偏見というか…まぁそう言ったのが強い事が多い、それは内も外も大体均等に向けられる。

 

学園に似つかわない黒と赤のシンボルは爆発寸前の火薬庫…懸念を抱く者も少なくはないだろう。

だが、正実に向けられた目は他の組織よりかはかなりマシな部類だと思える。酷いところはもっと酷い。

 

「えへへ…まぁ…そうだねぇ…うん、事実っちゃあ事実なんだけどさ、お巡りさんみたいな仕事もするんだよ。確かに…怖いってイメージが強いけど…みんないい人だよ!」

 

「むぅ」

 

アズサが眉をひそめて唸る。

 

「アズサちゃん?どうかしましたか?」

 

ヒフミが気遣うように問いかけると、アズサは少しだけ視線を横にずらし、ため息をついた。

 

「あぁいや。委員会で管理している押収品が、こうして合宿場の一室にあるのは……後々、問題に発展しかねないと思って」

 

「……あぁ。確かに…?」

 

ヒフミが曖昧に相槌を打つ。考えてみればその通りだ。

これはコハルが正義実現委員会として没収した公式な管理品…その取り扱いには、慎重さが求められるはずだ。

 

「これを言っては……アレですが、コハルちゃんが今でも管理係だったら、いざという時に誤魔化せるかもしれません。しかし現在は、きっと別の方が担当されてますよね?」

 

「う、うん……知り合いの一年生の人に、今は引き継いでもらってる…」

 

コハルは気まずそうに視線を落とし、小さく答える。

 

「アズサちゃんの言う通りですね……押収品の“数が合わない”なんて事になったら、話が面倒になりそうです」

 

「えっ!? め、面倒ごとは……できるだけ、回避したいっ……!」

 

コハルはアワアワと手を振って狼狽える。

一時的…と言っても委員会を離れてしまった事に対して、かなりの申し訳なさを感じていた所、重ねてトラブルとなると…先輩達に、同級生に…そして姉に合わせる顔がなくなる。

穴があったら入りたい…無かったら掘ってやる…塹壕の掘り方は委員会で習った。

 

「うーん。じゃあ、戻しに行こっか」

 

そんなコハルの肩を、ぽんっと軽く叩きながら、シオリが爽やかに言い放った。

 

「それが一番だと思います。……ですが、私たちはこの合宿場を、許可なく離れてはいけない決まりです。もし誰かに見つかった場合……」

 

ハナコは戻す事に賛同するも、もしもの懸念を口に出す。

 

「そんなに深刻に考えなくていいんじゃない?」

 

と、シオリが肩をすくめながら続ける。

 

「一応だけど、私、特別措置で委員会としての権限そのものは停止されてないから。『お仕事中』って言えば、まぁ……なんとかなるかも?」

 

「……あら?そうなんです? コハルちゃんは活動停止だったと聞きましたけど?」

 

ハナコが言うと、シオリは「残念ながらね〜」と両手を上げた。

 

「まぁ、いつも通りにパトロール!ってのは流石にできないけどさ、“戦力の低下を防ぐための措置”なんだって、そこまで成績が悪いって訳でもないからなんか特別にね」

 

「予備役みたいなものですかね?」

 

「そうなのかな?まっそうかも?」

 

にぺ〜っと笑い、ハッキリしない返事をする。

 

「さっ行こう、行こう!時間も時間だしね!」

 

「う、うん」

 

「私もついて行くよ、同伴すれば説得力も増すだろうしね」

 

先生は学習椅子から腰を上げ、身体を伸ばした。

 

「心強いです!」

 

「ま、まぁ…」

 

「あ、コハルちゃん」

 

ひょいひょいと招くようにハナコが手を動かすと、怪しみながらもコハルは近づいた。

そして周りに聞こえないように耳打ちで…

 

「おすすめがあったら…是非共有してくださいね♡」

 

「……」

 

「う、うるさいわよっ!このバカっ!!!」

 

 

 

「よしっ…これで完璧…数も…おーけぇ〜」

 

シオリは引き出しの中とフォルダーを交互に見ながら、鉛筆を回すと何度か頷き、コハルの持っていた本を他の仲間達と共に、暗闇に閉じ込めた。

 

「結局、誰とも会わなかったね」

 

「普通は夜警の人がいるはずですけど…入れ違いかな?」

 

「じゃ、じゃあ早く帰ろ…!いくらお姉ちゃんと先生がいるからって…何があるかわからないじゃん!」

 

コハルは人見知りをしている時以上の警戒心を発動し、シオリの腰にしがみつきながら落ち着きなくキョロキョロしている。

 

「そだね〜帰ろうかぁ」

 

ふわぁとあくびをしながら踵を返したその時だった。

保管室入り口、その方向からフローリングを鳴らす音がする。

 

「……シオリにコハル?」

 

そして目があってしまった。

恩人、尊敬する人、最高の先輩…我らが副委員長――ハスミ先輩のご登場だ。

安心感の塊…姉の次に近くにいて落ち着くのがハスミなのだが…今だけは一番会いたくない人物だった。

 

「は、ハスミ先輩!?」

 

「あ、お疲れ様です!」

 

「えぇ…お疲れ様です…って先生も?確か、別館で合宿中だったのでは?」

 

「えっと…それは…」

 

「コハルは成績が改善されるまで、ここには出入り禁止に……いや、待ってください…シオリがいると言うことは何か事件が?」

 

ハスミはガチャリと肩にかけていたボルトアクションライフルを構えた。

 

「ちっ…違います!その…」

 

「えっと、少しですね…合宿場に…危険物があったので流石にこっちに預けたほうがいいかなぁ〜と思いまして。先生は同伴者として来てもらいました」

 

シオリが良い感じにそれっぽい理由を取り繕う。

表情は変わらないが、汗が頬に垂れており中々に精神を削っているようだった。

悪意が無いとは言え…嘘をつくのは中々苦しい。

 

「あぁ…なるほど。危険物ですか、確かに…正しい判断ですね。流石です」

 

「あはは…ありがとうございますぅ…」

 

「うぅ…」

 

「しまい終えて、今から戻るところだったんだ、ごめん連絡の一つ入れれば良かったね」

 

「あぁ大丈夫ですよ、先生がいるなら安心です」

 

「で、では私達は戻りますね…また今度ぉ~」

 

「あ、待ってください。二人に改めて伝えておきたいことがありまして」

 

ハスミの言葉に姉妹は顔を見合わせる。

そしてすぐに視線を先輩の方へと戻し、頭に上に『?』を浮かべた。

 

「先生、申し訳ないのですが…少々席を外していただけると助かります。正義実現委員会としての大事な話…と言えば分かっていただけるでしょうか…」

 

「うん。オーキードーキー」

 

「すみません、ありがとうございます」

 

気軽にサムズアップをし、先生は保管室を後にした。

 




エッチがゲシュタルト崩壊してきました。なんなんだよエッチって。
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