ナギサはほんの僅かに笑みを形作り、言葉を濁した。
「……退学だなんて、大げさです。補習授業部はあくまで教育の場。落ちこぼれを救済するための……愛を与える場です。それに、私が生徒達を退学させる事にどのようなメリットがあるのでしょうか?」
ナギサはほんの僅かに笑みを浮かべ、言葉を濁した。
その声音は優雅に聞こえるが、どこか上滑りしている。
ハスミの重々しい指摘に、怯んだ様子こそ見せなかったが、紅茶を口に運ぶ手は微かに揺れ、気づかぬうちにカップの中で波紋を広げていた。
「……救済、ですか」
ハスミは視線を逸らさず、言葉を重ねる。
「それだけが理由だと言うには、どうにも辻褄が合いません。わざわざ多忙な先生を呼びつけ、学園外の力まで持ち込む必要がどこにあるのですか…たかが補習、と言ってしまうのは当人達にとても申し訳ないですが、どうもそこが引っかかるのです」
ナギサの指が一瞬、ソーサーの縁を叩いた。控えめな音。しかしそれは、隠しきれぬ焦りの露呈だった。
「…すぅ…」
言いよどむナギサ。
彼女の纏う気品と微笑みは変わらない。それでも、ほんの刹那、視線の奥に揺れる影をハスミは確かに捉えていた。
恐ろしい人だ。
この人が政治に深く絡んでくる立場にいなくて良かったとつくづく思う。全く政治とは無縁と言うわけではないが、正実はあくまでも治安機関であり、ティーパーティーの下部組織だ。
政治ができる軍人ほど怖いモノは無い。
「…」
「すみません、私もこのような脅しに近い言葉になってしまって、ですが…後輩の事を思うとどうも…あの姉妹は委員会の未来を背負う二人なのです、正義の心に溢れ、勇敢であり、仲間思いで」
「えぇ…報告書で認知していますとも…ご活躍は」
ナギサが初めて『下江』の名を耳にしたのは、確か彼女が二年の後半――派閥の次期代表を誰に託すか、という話題が水面下で持ち上がり始めた頃だった。
『正実に良さげな一年生がいる』
そんな噂話が耳に届いた。まぁ話のそれ自体は決して珍しいことではない。どの組織でも「期待の新人」の話は絶え間なく流れてくる。生徒会内部に他の委員会や部活動、時々無所属…もちろん正義実現委員会でもだ。
それはもう毎年の話であり、ほぼトリニティ風物詩。
それはもう、ほとんど“トリニティの風物詩”のようなものだった。
優秀な一年生が現れるたび、上級生たちは腕を組みながら遠目に観察しては独りで満足げに頷いたり、あるいは露骨に勧誘合戦を繰り広げたりする。引き抜きをかける場面では、もはや高校生の範疇を超えた熾烈さが垣間見えるほどだ。そのおかげか歓迎のチラシのクオリティは年々上がっているよう。
笑い話めいた噂もある。「今年は新人が豊作すぎて選び放題ですわ」などと茶をしばいていた上級生が、その「選び放題」の相手に自分の椅子を奪われたという話だ。真偽は定かでないが、こうした逸話がまことしやかに流布するあたり、先輩たちにとっても決して気の抜けない季節であることは間違いない。
唯一、シスターフッドだけは例外で、彼女たちの秘匿性ゆえに話題が遅れて届き、あの大聖堂から引き抜きを成功させた者はほとんどいない。あそこは要塞だ。
ある場面で当時の正実委員長が受けた新聞部のインタビュー、その録音記録にこんな話があった。
〔録音記録:正義実現委員長インタビュー/某日・新聞部取材〕
「えっと次は…仲正ちゃんはね、うん。ちょっと…いやかなり荒っぽいところあるけど、化けると思うよ……なんだろな、人を率いるのに長けそうな感じだし、とくに年下から人気でそう」
「え?理由?あーそうねぇ……なんか本人が『努力してる』って感じがするから。雑?そこは一年生のことだから二年に任せてるわよ、私は…あ、彼女さぁなんか面白いことしてるんだよね。目を出来るだけ閉じて視線で敵に行動を悟られないようにしてるんだとか、その発想は無かったわ」
「他に良さげなコはいるかって?いやぁ…さ?私は紹介人じゃなくて正実の委員長なんだけど……ってこれ言うの5回目か…」
(狭い間を置いて、目を細める)
「他ねぇ……あ、あぁいた。羽川がディグって来た子……下江ちゃんだっけ?」
(横にいた副官に手をひらひらと動かす、写真を要求)
「あーそうそう、このピンクちゃん。このコはねぇ、良いと思うわよ?ガッツあるし。ただ本人が目標とか正義を見つけてとか言われれば……それはNOかなぁ。あと、すぐ突っ込む癖がある…多分あれは剣先の影響なんだろうけど…それかジョンブル魂の申し子か…さぁね」
(カップを口に運び、一口。すぐに肩をすくめて笑いながら続ける)
「……でもまあ、
(その直後、ドアが開く音。足音と荒い息遣い)
「え?今?……ちょっと、インタビュー中なんだけど」
(耳打ちされる。しばし沈黙)
「私が出ないといけないって?……いやぁさ、いちいちトップが現場に行く組織ってどうなのさ。……まぁいいや。わかってる、みんな優秀だし。私がこうしてインタビュー受けてる時点で、昔よりずっとマシよね」
(小さく笑い、椅子を開く音)
「おっけわかった。行くわ。――んじゃ、そういうことで新聞部さん、良い感じの記事を期待してるよ」
〔録音終了〕
トリニティはキヴォトスでも屈指の治安を誇る――と誰かが言った。
生徒会にとって、正義実現委員会の戦力が充実するのは大いに歓迎すべきことだ。
当時のナギサもそれを理解しており、そっと微笑みを浮かべていた。
「優秀な人員を箱の中に閉じ込めておくのは、高級スポーツカーを走らせず、ガレージに眠らせておくのと同義ですよ」
理屈を述べるだけ――そんな風を装いつつも、ハスミの声音には僅かな棘が滲んでいた。
ナギサはわずかに笑みを保ちつつ、言葉を返す。
「シオリさんの権限は“現状維持”にとどめています。もしもの場合には、すぐにでも召集できる体制です。それではご不満でしょうか?」
「……我々、正義実現委員会は慢性的な人員不足に悩まされています、時には自警団と協力せざるを得ない場面もある程には」
ナギサは返す言葉を失った。
普段なら、やり手の政治家のように淀みなく会話を繋げることができるのに、黒セーラーの少女を前にしている今、なぜか口が重くなる。
彼女にできたのは、空になったカップを傾ける仕草だけだった。
ハスミは唇を結び、一拍置いてから続ける。
「優秀であろうと平均的であろうと、一人でも欠ければ……今まで噛み合っていた歯車は途端に軋み、機械は狂いだす。その危うさを、ナギサ様もご存知でしょう」
ナギサはゆっくりと瞬きをして、かすかに笑った。
「……えぇ、まあ。士官訓練時代に、その危うさは嫌というほど学びましたよ」
ナギサは軽く肩をすくめながら答える。だが、その笑みは形ばかりで、どこか張り詰めたものを含んでいた。
「でしたら――ご理解いただけるはずです」
ハスミの声音はわずかに低くなり、静かな熱を帯びる。
丸テーブルの上に身を少し乗り出す…するとナギサの足はピクリと後ろに下がる。護衛もついにやったかとハスミを撃とうとしたが…本人がすぐに自分の行動を詫び席に着くと、唾を飲みこみながら再び定位置に戻った。
「あの二人はまだ未熟で、粗削りです。しかし、委員会の未来を担う人材でもあります。ここで退学という烙印を押せば、彼女たちが背負うべき未来は潰え、委員会…いえ、トリニティも大きな損失を負うでしょう」
ナギサはその言葉を受けながらも顔色を変えず、ポットを傾けて新たにカップを紅く満たす。
一口すすった後、傍らに控える護衛へと視線を投げた。
「外で待ちなさい」
「なぜ?」と目で問いかける護衛だったが、上司の鋭い視線に気圧され、言葉を飲み込むと渋々テラスを後にした。
次に「全員です」と一言。
護衛以外の召使数名も慌てたようにその場を後にした。
残されたのは二人だけ。重い沈黙が場を支配していく…もはや蓄音機のラッパから出てくるクラシックなど全く聞こえない。この空気感のせいか、それとも曲が終わったのか。
やがてハスミが席から立ちあがり、見下ろす形で口を開く。
「委員会にとっても、正義の理念にとっても、そしてこの学園にとっても――彼女たちは必要な存在です。どうか、真意をナギサ様の口からおっしゃっていただきたいのです。
深々と頭を下げるハスミ。その姿を目にした瞬間、ナギサはまるで電流が走ったかのように、手にしていたカップをぱっとテーブルへ戻した。
彼女は、眉間に西部の大地にあるような渓谷がごとき深いしわをよせた後、唇の端を噛み、歯ぎしりをした。
そして大きく息を吐きながら、自分に言い聞かせるように何度も小さく頷き…なにか一種の覚悟を決めたような瞳でハスミを見つめ…言葉を口にした。人を信用しないことは良い事だが…信じる事はもっといい事だ…と。
「お顔を…どうか上げてください…説明いたします」
ハスミとナギサは、形式上は上司と後輩という関係にあたる。
だが、実際にはそれ以上の距離感を持っていた。プライベートでも時折顔を合わせ、テーブルを挟んで紅茶を嗜む程度には良好な間柄だったのだ。
桐藤曰く、ハスミはどこかのスーパーメディックに暗黒卿…ではなく笑顔が素敵なシスターさんよりも何となく近くにいても疲れを感じないらしい。
もっとも、ミルクティーの作り方をめぐっては激しく言い争ったこともある。だがトリニティで「お茶の作法」に関して意見がぶつかるのは珍しい話ではない。むしろ健全な日常の一部といえる。
しかし最近の二人は、揃って仕事漬けの日々を過ごしていた。
「ペーパーレス化などしない」という、いったい誰が言い出したのかも定かでないトリニティの奇妙かつ逆張り精神旺盛な文化に振り回され、膨大な書類と格闘する日々。顔を合わせる機会があったとしても、それは業務上の必要に迫られた時だけだった。アイスブレイクをする余裕もなく、互いの現状を知るのは冷たい文字で交わされる報告書や通達に限られていた。
その状況に最も堪えていたのは、他ならぬナギサだった。
正義実現委員会の“生の声”が、まったく自分に届いてこない。
委員会を遠くから眺めるだけなら、薄っぺらな報告書でも事足りるだろう。だが、統制し導く立場である以上、それでは不十分だ。友人と直接言葉を交わし、現場の息遣いを知る必要がある。
自ら視察に出向くことも検討した。しかし、その立場上どうしても難しい。部下を派遣することも可能だが、代理では意味がない。自分で見聞きするか、委員会の人間から直接聞くか――そのどちらかでなければならない。
そうした不自由さの中で、ナギサの胸に次第に膨らんでいったのは「不安」だった。
正義実現委員会は、果たして本当に自分らの統制下にあるのか。
ひとたび現場の声を見失えば、彼女たちは独自の論理で動き出すかもしれない。
こういってはアレだが、なんせ自ら戦う事を決意し、志願した者の集団だ…できるだけ言葉を選ぶが…いや、やめておこう。
茶会お抱えの近衛では正面からなんてやり合えない。砲兵による効力射…巡行戦車による吶喊…情報部の工作で正実をトリニティの敵と仕立て上げ、他の勢力と共同戦線を構築する…対抗策は浮かぶが、もうそうなっては内戦状態だ、その結末だけは回避しなくてはならない。
正義実現委員会は、茶会の手のひらからこぼれ落ちかけているのかもしれない――そんな埋めたくない不安の種が、ひそかに胸の奥で蠢いていた。
そして、その種はある日、どうやら芽を出してしまったらしい。
よりにもよって、ゲヘナで。友人とその部下が、軽率な行動を起こしたという。
この時期にだ。彼女ら自身も、その危険性を理解していたはずなのに、どうして――。
確証はまだない。だが、もし事実だとしたら、その芽は容赦なく摘み取らねばならない。
「……ああ……スミマセン。ちょっと、情報の整理を……」
沈んだ痛みの面持ちで口を押さえるナギサに、ハスミは静かに聞こえた。
「ど、どうぞ……」
ナギサにそう返されながら、手元のティーカップを持ち上げる。 しかし、せっかくの高級茶葉の風味は、舌に届く前に脳裏をかけて慎重にかき消されていた。
とてもな内容に怒りを通り越して、呆れ…をさらに超えた先にあったのはどでかいクエスチョンマークだった。
「えっと…簡潔にまとめると…条約を妨害しそうな生徒を補習授業部として集め…『退学』させる…先生をお呼びしたのは『退学』というどうも他よりも圧倒的に難しい処置を執行するためにシャーレの力を使いたかったからと…」
「はい…」
「なかなか派手なムーヴと言いますか…大胆といいますか、権力を思う存分振りかざしているといいますか…」
「スミマセン…スミマセン…」
「いえその、私自身も色々と申し上げたいですが…謝るべきなのは当人らといいますか…」
「うっ…」
「そして私の後輩二人をその箱に組み込んだのは…我々が暴走しないようにするための安全装置…その、あえて言いますが…人質…と」
こくりと反応するナギサ。
「その…我々がそこまで信用なりませんでしたか?確かに私自身は、ゲヘナに対してどうも負の感情を抱いていますし…向こうの自治区で問題を起こしたりはしましたが…条約に対しては賛成派です、この和平によってより良い秩序が敷かれるなら、私達にとっても本望です…破壊だなんて…しませんよ」
「そうですか、そうですよね」
「シオリがその枠に入れられたのは…その時に私に同行していたのと…丁度良くテストを欠席したからでしょうか?」
「そう…ですね…えぇまぁ。それにハスミさんとかなり近い関係性であり、こういって申し訳ないのですが…思想的な事を共有しているのでは…と」
「確かにシオリは私の補佐としてやってもらっていますが、彼女にそんな傾向はないと思います。委員会でも貴重な柔軟な考えの持ち主ですし……何なら、ゲヘナでの事件の後、向こうの戦車長と良好に会話しているのを見ています」
「うぅ…」と唸りながら頭を文字通り抱えてるナギサ。
「その一ついいですかね?」
「はい…何でしょうか…」
「彼女の妹が補習授業部に組み込まれた理由は?姉妹そろってその…不穏分子認定ですか?」
「それは…丁度良くお二人がどうも良い結果に巡り合っていない様子でしたので…いっそのコト…」
「そんな、セットでお得…のようなノリではないんですから…」
「ですよねぇ…そうですよねぇ…」
「色々違和感はありましたよ…赤点を取っただけで、特別に部活を設立して合宿だなんて…と」
「怪しすぎましたか…?」
「はい」
すん…淡々とした口調。セリフをかぶせる勢いで肯定するハスミ。
「確かに私達が、ナギサ様の胃をつついてしまうような行動をしたコトに関しては改めて謝罪しますし、これからの振る舞いにも十分配慮します…そこはどうか信頼していただきたいです。友人としても、同学年としても…上下関係としてもです」
「えぇ、もちろんです」
「まぁそれはそうと退学は…やりすぎだと、どうしても思ってしまいますね」
苦笑交じりに首を捻るハスミ。ナギサがまさかそこまでやろうとしていたことには驚きだった。
そんな反応に、まぶたをぎゅっと閉じ…羞恥心やらなんやらの感情をかみしめるナギサ。
「ですが……」
ハスミは間を溜めた。
「一大プロジェクトである『エデン条約』を本気で妨害しようとする者が存在するとしたら…やり方は少々粗々しいですが、ホスト代行としてはその選択肢は十分視野に入るモノだとは思いますよ?まぁその対象に後輩がいるとすると私は力強く首を横に振りますが」
「そ、そこはご安心してください…お二人の身は…保障しますよ」
「ありがとうございます…そのお言葉聞けただけで…満足です」
ハスミは穏やかに微笑み、外の景色を眺めた。
「やっほ~ナギちゃん☆いい夜だね~」
「っ…って…はぁ、ミカさんでしたか…いつもなら中々な足音を出すのに今日はニンジャのようですね…」
「中々ってなにさ、中々って。まぁいいや…そういえばさ、ハスミちゃんに話したんだってね?例の件」
「相変わらずの耳をお持ちですね…」
「女の子だよ?そんなもんだって」
ナギサは軽く息を吐き、肩の力を抜いた。
こうしていつもの幼馴染がふらりと現れると、緊張していた気持ちが少しだけほぐれるのを感じる。
「はぁ……まぁそうですね、話しましたよ」
「良かったの?」
「えぇ…まぁ…正実に関しては元々裏切り者だから…という意味合いは薄かったですし、ハスミさんの言うように、確かに優秀な人材なので未来のトリニティには必要だと判断し、候補から外す事にしました。ここは友人を信じる事にします」
「ふーん。友達は信じれてもさ、その後輩は信じれるの?」
「……まぁ」
「なのにヒフミちゃんはダメなんだ」
ミカは腕を突っ伏し、テーブルの上に並べられた焼き菓子に目をやり気に入った一つをピックアップして上品に頬張り、笑顔を作る。
「ミカさんっ…」
「おっと…ごめんごめん」
「いえ、大丈夫です…」
「まぁ、ヒフミちゃんは大丈夫なんじゃない?いい子だし…まぁいい子だからってそれがなんだって話にはなるんだけどね」
「…」
ナギサは言葉に詰まり、しばし視線を落とす。
少し、気まずい空気がながれる…がどうも居心地が悪かったのかミカが次の話題を提供した。
「そのえっと…シオリちゃん?だっけ」
「はい、下江シオリさんですね」
「資料見たけどさ、確かに優秀って感じだね。情報部のエージェントの観察記録を見ても、特に不穏な気配はない……頼れるお姉ちゃんって感じ……いいなぁ、あんなお姉ちゃんいたら色々楽しそう~☆それに、横差しマガジンのSMG使いかぁ、いいね!親近感わいちゃうよ。不祥事は…まぁ、あげるとしたら……ゲヘナであっちの生徒を投げ飛ばしてることと、テストの欠席かぁ……う~ん…どっちもしょうもないなぁ〜」
ミカは腕を組み、目を細めて考え込む。ナギサはその様子を見て、眉を軽く寄せた。この幼馴染は一体、頭の中で何を巡らせているのだろうか――その自由奔放さは、長年付き添っていてもどうも読めそうで読めない。
「ねぇさ、使えるんじゃない?この子、色々とさ…例えば、スパイ?とか」
ナギサ様は追い詰めて説得しましょう。
また長く空いたね、ごめんね、申し訳ないね。