現在時刻、午前六時。
この時期であれば、空はすでに白み始めていてもおかしくない――はずなのだが、今日は太陽が顔を見せる気配すらなかった。
重たい雲が空を覆い、水滴が容赦なく地面へと叩きつけられる。
その絶え間ない雨音が、窓越しに低く、そして確かに響いていた。
「……かなり降ってますね。まさか天気予報が外れるとは……」
カーテンの隙間から外を覗き込みながら、ヒフミがぽつりと呟く。
「仕方ありませんよ。今の技術力でも、完璧な予測は不可能ですから」
隣でハナコも同じように窓の外を眺め、静かに息を吐いた。
二人の背後で、毛布がもぞもぞと動いた。
「ん……うぅ……ぬあぁ……」
「……あら。おはようございます、コハルちゃん」
「……ふあぁ……おはよ……」
まだ半分眠ったままの声で返事をしつつ、コハルはゆっくりと上体を起こす。
「おはようございます。えっと……アズサちゃんは……?」
ヒフミの視線が、部屋の奥へと向けられる。
そこには、枕をぎゅっと抱きしめたまま、穏やかな寝息を立てているアズサの姿があった。
「ん……」だとか、「えへへ……」といった寝言を小さく漏らし、ときおり口元が緩む。
どうやら、ずいぶんと幸せな夢を見ているらしい。
「ふふ……これは、もう少し寝かせてあげた方が良さそうですね」
「何よ。いつもはアズサが一番に起きてるのに……」
「今まで無理をしていた反動が、ここにきて出たのかもしれませんね。まだ時間もありますし、ヒフミちゃんの言う通りにしましょう」
「え……まだ六時……?」
そう呟きながら、スマホをチラリ。
コハルは再び毛布に潜り込もうとする。
「コハルちゃん?二度寝はいけませんよ」
その動きを、ハナコが穏やかな笑顔のまま、そっと止めた。
「ぬぅ……お姉ちゃんみたいなこと言わないでよね……」
「うふふ。はい、ハナコお姉さんですよ♡」
「キッツ…やめて……うぅ……頭が……」
「そ、そんなにダメージ受けます!?こ、コハルちゃん……流石にハナコちゃんが可哀想ですよぉ……」
「あのね、ヒフミ。ちょっと考えてみなさいよ!実姉が水着で徘徊して、正義実現委員会のお世話になってるとか……!や、やばいでしょ、それ……!」
「……あはは……」
「ヒフミちゃん。何か言ってください」
「い、いやぁ……その……あ!お姉さんと言えば! シオリちゃんを見ませんねぇ!」
「ここまで露骨な話題転換も、なかなか見ませんね」
「あんたのせいでしょ……」
「まぁまぁ。うーん、確かに……シオリちゃんのベッド、空っぽですね」
「あの人、朝早いから……」
あくびを噛み殺しながら、コハルは目をこする。
――その時。
寝室のドアが、静かに開いた。
「ん?あぁ皆おはよ」
低く、気の抜けた声が落ちてくる。
振り向いた三人の視線の先に立っていたのはシオリだった。
「あ、お姉ちゃん。おはよ」
「おはよぉ~」
ハナコが少し目を細める。
「朝シャンですか?」
「うん。なんかね、起きたら気持ち悪くてさ、気分転換にばぁっと」
毛先から水分がポタリ…とはいかないが、髪はまだ完全には乾ききっておらず、片目が前髪で隠れてしまっている。首にかけたタオルは水分を含んで重そうで、いつもより少し肩が落ちて見えた。
「ふわぁ‥‥」
シオリはゆっくりと室内に入り、ベッドに座り込んだ。
眠気が完全に抜けきっていないのか、まばたきの回数も多い。
「おはようございます、シオリちゃん」
「……おはよ、ヒフミちゃん……」
「なんといいますか…随分、覇気がありませんね?」
「んー……まぁ……」
はっきりした返事はなく、曖昧に視線をスマホに逸らす。
「嘘。もっとこう……無駄に元気で、無駄に軽口叩いてるでしょ。朝っぱらから鼻歌凄いし」
「も~ひどいなぁ……」
そう言いながらも、反論する気力すらないのか、シオリは小さく笑うだけだった。
ふと、視線がベッドへ向く。
「……アズサちゃん、まだ寝てる?」
「はい。とても気持ちよさそうですよ」
「そっか……良かった」
それだけ言って、シオリはそれ以上踏み込まなかった。
代わりにタオルで髪を拭きながら、静かに息を吐く。
「……今日は、雨かぁ……」
「うふふ。最初見た時は、雨の中を走ってきたのかと思いましたよ?ほら、まだ濡れてます、ここら辺とか」
コハルが「濡れている」とハナコが言ったところで何を想像したのかピクリと反応した。
「あ、まじか…ぼぉっとしてたかも。ドライヤーもやったんだけど」
「タオル貸してください」
そう言うや否や、ハナコは半ば強引にシオリの首からタオルを取り上げ、
後ろ髪の毛先に残った水分を、丁寧に拭き取っていく。
柔らかな布地が、髪を包み込む。
押さえつけるのではなく、軽く挟み、叩くように水分を吸わせる丁寧な動きだった。
タオルが湿気を含むたび、わずかに重くなる感触が指先に伝わる。
「ん…」
小さく喉を鳴らし、目をつむるシオリ。
「…お姉ちゃん。翼のオイル塗った?」
ベッド脇でカバンを開きながら、コハルが顔だけこちらに向けて問いかける。
「昨日塗ったけど…わかんない、さっきので落ちちゃったかも」
「じゃあ塗ってあげる!」
言い切るようにそう言って、コハルは慣れた手つきで小さい円柱型のケースを探し出す。
一見ハンドクリームに見えるが、その蓋にはでかでかと天使の羽のようなマークが書いてある。
「オイル…ですか?」
ヒフミは少し驚いたように目を瞬かせ、コハルの手元を覗き込む。
「うん。水分弾いたり、寄生虫対策よ」
当たり前のことのように言いながら、コハルは蓋を開ける。
ほのかに独特な匂いがまじる、フルーティな香りが立ち上り、空気に混じった。
「なるほど…大変そうですね…」
「蔑ろにするとボロボロになって人前歩けないからさ、めんどいけどやらないといけないんだよ」
そう言って肩を竦めるシオリ。そんな彼女の髪をハナコは最後にもう一度、タオルで毛先を整えるように撫でる。
湿り気を残した髪は、先ほどよりも軽く、素直に揺れた。
「はい。これでいいですかね」
「ありがと~。コハル以外に髪拭いてもらったのすっごい久しぶりだよ~春にあったキャンプ以来かな」
ハナコと入れ替わる形で、今度はコハルがシオリの背後にまわる。
オイルを翼用のブラシに塗り込み…いざ、撫でよう…としたとき、ハナコが声を上げた。
「濡れているで思い出しました!」
「エッチなのはダメ!死刑!!」
「コハルちゃん!そんな事言ってる場合じゃないですよ!シオリちゃん洗濯物って…!」
「え?あっ!やばい、そのままだよ!?」
「まずくないですか?もう雨が降ってから、何時間も…!」
次の瞬間だった。
「行ってきます!!」
ハナコはそれだけ言い残すと、スリッパのまま勢いよく部屋を飛び出した。
ドアが開き、廊下へ――
「きゃっ」
「おっと」
ちょうど入ってきた先生とぶつかりかける。
だが、互いに一歩引くようにして、ぎりぎりで回避。
「す、すみません!」
「いや、大丈夫――」
謝罪だけを残し、ハナコはそのまま廊下を駆け抜けていった。
足音が遠ざかり、残された三人と一人の先生。
「えと?」
「洗濯物が外にあるんです!今、取り込まないとひどいことに…!」
「そ、そうだね!私もいくよ」
どたどたと部屋を出ていく補習部の面々。
その足音で目が覚めたのかむくりとアズサが体を起こした。
「……?」
それから、ちょうど一時間が経過した。
外は相変わらずの豪雨で、体育館の屋根を叩く雨音が、低く重たい反響となって広がっている。
時折、風に煽られた雨が横殴りになり、壁に当たって弾ける音まで聞こえてきた。
「いやぁ……間に合わなかったねぇ」
シオリは床にぺたりと腰を下ろし、片膝を立てながら肩をすくめる。
そしてどこか諦めの混じった笑みを浮かべた。
「まぁ、確かに全部洗い直しですが……こうして水着パーティーを開催できたので、結果オーライではありませんか?」
「どこがよ……」
コハルは腕を組み、指先で床をとんとんと叩きながら視線を逸らした。
「ティーパーティーが茶会なら、水着パーティーは水会?」
「それ、ただ集団で水分補給してるだけでは……?」
ヒフミが首を傾け、指先を顎に当てた――その瞬間。
――ドンッ!!
空気を震わせる雷鳴が、体育館を揺らした。
「ぴゃあ゜ぅ!!」
コハルは反射的に肩をすくめ、座ったまま勢いよく跳ね上がる。
次の瞬間、腕を伸ばしてシオリの腰にしがみついた。
「なんだ、コハル。雷が怖いのか?」
アズサが表情を変えず言う。
「う、うるさい!ゆ、油断してただけよ!」
そう言いながらも、指はしっかりと姉の腕を掴んで離れない。そこへ、ハナコが背後から忍び寄り、コハルの脇腹をつついた。
「ひゃっ!?」
コハルは再び甲高い声を上げて先ほどより高く跳ね上がり、その勢いでシオリの背中側へ回り込む。
半分隠れるようにして、がるる……と目元に影を落とし、威嚇をハナコに飛ばした。
「えっと……すごい状況だね……」
先生は水着姿の面々を見回しながら、額に手を当てて苦笑する。
ハナコが水着パーティと言う通り、今この場にいる補習授業部の全員は、学校指定の水着姿だった。
洗濯物は雨にやられて全滅。
傘も差さず庭に出たせいで、パジャマ代わりのジャージもずぶ濡れ。
途中で足を滑らせ、泥までつけた者もいた結果、着られる衣類は完全に消えた。
唯一、あのプール掃除の一件以降、カバンの奥に仕舞われていた水着だけが、無事だったのだ。
濡れたジャージを身につけるよりは、乾いた水着の方がまだマシ。
そうして始まったのが――
第一回・補習授業部水着パーティーである。
「やっぱやだ!戻る!絶対部屋に戻った方がいいってば!」
コハルは頭を抱えながら叫ぶ。
「てか、なんなのよ水着パーティーって!卑猥よ卑猥!やるとしても適切な時間と場所があるでしょ!」
「ひわい……が何かは知らないが、停電した部屋に戻るのか?」
アズサは腕を組み、首を傾げる。
「それは……」
言葉に詰まり、コハルは口を開いたまま固まった。
「予備電源があると思ったんだけどねぇ……」
シオリは顎に指を当て、天井を見上げる。
蛍光灯は、うんともすんとも言わずに暗い顔でぶら下がっているだけだ。
その近くの鉄骨の隙間に挟まっている、バレーボールを見つめながら、ため息をひとつ。
「まさか無いとは……どうする? 例の車のバッテリーから引っ張ってくる?」
「うふふ……シオリちゃん、考えてみてください……」
ハナコはシオリ近づき、意味深に微笑む。
「この状況、合宿の“花”だとは思いませんか?」
「というと?」
「みんなで寄り添い合い、お互いの深〜い部分を曝け出すんですよ……」
両手を胸の前で組み、楽しそうに目を細める。
「しかも大雨に停電。仕組んだかのように完璧な雰囲気です!」
「まぁ……私、台風だとテンション上がるタイプの人間だし……ちょっと分かるかも?」
シオリは肩を揺らして笑う。
ベッドの上で、毛布にくるまりながら、窓を眺めるのは結構楽しい。
雷が落ちるたび、足をバタバタさせてしまう。
我ながら子供っぽい…あ、子供か。
「ええ!せっかくの休み時間です。有意義に過ごしましょう」
「ま、まぁ……合宿といえば、って感じなのは分かりますが……」
ヒフミは指先を合わせ、控えめにうなずく。
「だからと言って、水着である意味は何よ!」
「着る物がこれしかありませんから」
ハナコは手を頬に添える。
その返答にコハルは何も言えなかった。
「あ、コハルちゃんが下着がいいというなら、止めはしませんよ?」
「どっちも同レベルでエッチ!死刑!」
コハルは目を猫のようにし、甲高く叫んだ。
しかし、雨が屋根に落ちる音の方が大きいからか、いつもより小さいように聞こえる。
「またコハルの『エッチ、死刑』だ」
アズサが淡々と呟く。
「何回か聞いてるけど、パターンが読めない……シオリ、分かる?」
「うーん……先生曰く『エッチ=絆』みたいな感じ、らしいんだけどさ」
シオリは首を傾げる。
「下着と水着で反応するのが、よく分からないんだよね。関連性が謎」
「そうか……暗号か何かか…?」
「なんだか、研究会みたいになってきましたよ」
「私の教え方のせいで、二人があらぬ方向にいかないか心配だよ…」
「だ、大丈夫ですよ先生!あの場では最良の選択だったと…思います!」
「そうだね。もしこの先、何かを間違えたならば…その道を正してあげるのも私の使命だ。でも彼女達の歩みを尊重しないとね、とりあえずは見守ることにするよ。流石に自力でいける限界もあるだろうし…」
「そうしましょう…!」
「で、ハナコ。パーティーって何するのよ」
コハルは半ば諦めたように、腕を下ろした。
「あら、乗り気ですねコハルちゃん!」
「仕方なくよ!しーかーたーなーく!」
「まぁまぁ」
ハナコは両手を打ち合わせる。
「私はおしゃべりがしたいだけです。話題は何でもありですよ」
一瞬、視線を流して。
「コハルちゃんの趣味に関する話でもいいんですよ……?」
「い、言うわけないでしょ!?」
「あら、言えない趣味が?」
「えっ!?あっ……そ、そういう事じゃなくって!」
「なんかハナコちゃん、すごく楽しそうだね」
シオリが苦笑混じりに言う。
「うふふ。こういうこと、前からやってみたかったんです」
雷鳴が遠くで鳴り、雨音が一段と強まる。
「なので今日は……いつもよりギアが上がってます!」
「わかる。その気持ち」
アズサは小さくうなずいた。
「なんなら、補習授業部に入ってから、ずっとそんな状態だ」
「あら、そうだったんですか?」
「うん。何かを学んだり、食事をしたり、洗濯や掃除をしたり……移動中の何気ない会話ですら、全部が楽しいんだ」
そう語るアズサの表情は、どこまでも穏やかだった。
いつもなら読み取れない、ひんやりとした無機質さはそこになく、年相応――いや、それ以上に幼さを感じさせる、柔らかな笑顔だった。
その場にいる全員が、自然と笑顔になる。
ハナコは純粋にこの時間を楽しんでいる。
コハルは呆れを混ぜつつも、内心ではこの空気を嫌っていない。
ヒフミは相変わらず突拍子のない発言に戸惑いながらも、楽しそうに相槌を打つ。
先生は終始穏やかな笑みを浮かべ、生徒たちの談笑を見守っていた。
――けれど、一人だけ。
シオリだけは、どこか違った。
口元は笑っている。
話を振られれば、いつものように軽く返す。
だが、会話の輪から外れた瞬間、視線はふっと遠くへ流れ、瞳から光が消える。
どうしても、あの手紙の内容が頭を離れなかった。
こんなにも良い人たち。
いつの間にか「仲間」どころか、「友達」と呼べる距離にまでなった彼女たち。
――それでも、ティーパーティーの判断では…彼女たちは、エデン条約締結を妨げる“障害”らしい。なんなら自分自身も妹もその枠組みだった。今でも疑われた理由が思いつかない。
トリニティが学園の総力を挙げて進める条約。
それを、トリニティの生徒自身が阻む。
すなわち"裏切り者"
事を起こす前に排除する。
この地から追放する。
それが、シオリに下された役割だった。
任意を装った文面。
だが、あれは命令だ。
無視できるものではない。
従わなければ、矛先は自分だけでは済まない。正義実現委員会にまで砲弾が降り注ぐ。
そして――条件が、あまりにも重い。
自分の学園生活など、最早どうでもいい。
だが、最愛の妹、コハルの未来が保証されるという一文は、あまりにも大きすぎた。
そのために必要なのは、ここにいる三人の人生を壊すこと。
学園の秩序を乱そうとする奴は、蹴散らすべきだろう。
だけれど、明確に何をしたかだとかはまだこの目で見ていない。そんな状況で執行する正義は正義なのか。
仮に白だったらどうするか、私は責任を取り切れる気がしない。
組織に所属する者としては正解かもしれない、けど人間としての何かを失うような気がする。
――どうすれば、いいのだろう。
「シオリもだ」
不意に、アズサの声がした。
「いつも世話になっている。なんだか……
「……へ?」
その一言が、シオリを現実へ引き戻す。
断片的に話は聞いていた。
どうやら、アズサが補習授業部の面々へ感謝を伝えていたらしい。
そして――今、自分に順番が回ってきたのだ。
「あ、ううん。こちらこそだよ」
シオリは、少しだけ間を置いて答えた。
「私自身さ…色々、アズサちゃんから学ばせてもらってるしね。ありがとう」
本心からの言葉だった。
偽りではない笑顔を、シオリはアズサへ向ける。
「……」
アズサは何も言わず、シオリの前へ歩み寄る。
そして、少し迷うようにしながら、両腕を広げた。
その仕草に、シオリは首を傾げる。
「えと?」
「あの……えと……ヒフミは、抱きしめてくれた」
言葉を探すように視線を彷徨わせながら。
「だから……シオリも、そうなのかと思っただけ…」
しゅん、と腕を下ろそうとする。
だが、完全に下がる前に、シオリが声をかけた。
「んふふ。そういうことかぁ」
柔らかく笑って、腕を広げる。
「はい。アズサちゃん、おいで」
「あ、うん!」
ぎゅっと、二人は抱き合った。
腕だけでなく、翼までもが自然と動き、お互いに相手を包み込む。
(なんだろう……甘い匂い)
(いい匂いだけど……なんだか、火薬みたいな匂いが……微かに…気のせいかなぁ)
アズサは、安心したように小さく笑った。
シオリは、胸の奥で何かを押し殺した。
公式の動画を見た限り、我らがファウストも無知無知っぽいんですけどぉ!
まぁここのヒフミは……ご想像にお任せします。