【悲報】下江姉、エッチを知らない   作:スラバヤサトゥ

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お泊り

店を出ると、夜気がふわりと肌を撫でた。

ラーメン屋の暖簾越しに漏れていた湯気と濃い匂いが嘘のように、通りは静まり返り、街灯の光だけが石畳を淡く照らしている。

 

「いやー……やっぱ、うまいっすねぇ。大将はめんどいヤツっすけど」

 

イチカは両手を頭の後ろで組み、心底満足そうに伸びをする。

歩幅はいつもより少し大きく、足取りも軽い。

 

「……うん。美味しかった。ちょっとラーメンのこと見直したかも」

 

「うどんが好きなんだっけ?珍しい」

 

「そんな珍しいかな…まぁトリニティじゃそうかも…?」

 

シオリは隣を歩きながら、少し遅れて頷いた。

確かに腹は満たされている。けれど、胸の奥には、言葉にできない小さな引っかかりが残ったままだ。

 

しばらくは、他愛のない話が続いた。

次に来るなら何味にするか、とか。

最近の後輩がどうだ、とか。

その合間、イチカが本当に何気ない調子で口を開く。

 

「……でさ。シオリ、委員会に戻れる目処って、どんな感じっすか?」

 

その瞬間、二人の歩調がほんのわずかにずれた。

 

「……」

 

シオリは視線を前に固定したまま、答えを探す。

言葉ならある。事情も、理由も、説明もできる。

けれど、そのどれもが正解じゃない気がして、喉の奥で引っかかった。

 

「まだ……もう少し、かな」

 

曖昧で、逃げるような言い方だった。

単純に自分の語彙力がないからか『もう少し』それぐらいしか言葉が浮かばない。いや、別にこれは教養がどうだとかの話ではないかもしれない。

 

「そっすか」

 

イチカはそれ以上踏み込まず、いつもの軽い調子で笑う。

 

「まぁ……いや、分かったっす。待つっすよ、私は。気長に待つっす。私まーつーわーって」

 

その一言が、胸刺さった。

街灯の下を通り過ぎるたび、シオリの影が伸びては縮む。

自分だけが、その場に立ち止まっているような感覚が、急に強くなった。

 

「……イチカ」

 

「はい?」

 

シオリが呼び止めると、イチカはすぐに足を止めて振り返った。

 

その呼び方に、胸の奥がわずかに跳ねる。

 

今まで、ほとんどなかった呼び捨て。

いつかは自然に、「イチカ」「シオリ」と気兼ねなく呼び合えたらいいなと、ぼんやり思ったことはある。友人だし、仕事では相方だ。それなのに、未だに残る「ちゃん」付けは、どこか一歩引いた響きを持っていた。

それに正直なところ、“イチカちゃん”という響きは自分に似合わない、とも思っている。

可愛らしい語尾や柔らかい扱いは、どうにも落ち着かない。

 

だからこそ、今の一言は不意打ちだった。

 

「どうかしたの」

 

なるべくいつも通りの調子で返す。

声が少しだけ硬いのを、自分でも自覚する。

 

呼び捨てにされるなら、もっと穏やかな瞬間だと思っていた。

任務帰りの屋上で、風に当たりながら笑い合う時とか。

委員会室でくだらない雑談をしている最中とか。

少なくとも、ラーメンの匂いがまだ微かに残る帰り道で、こんな震えた声と一緒に呼ばれる形ではなかった。――いや、シチュエーション自体は悪くない。むしろちょっとドラマチックですらある。

 

問題は、シオリの様子だ。

 

さっきまで普通に笑っていたはずなのに。

 

イチカは、ほんの少しだけ目を見開く。

胸の奥で、嫌な予感が静かに広がる。

軽口で流せる空気ではないと、本能が告げていた。

 

「私さ……」

 

声が、思った以上に震えていた。

 

夜風が、二人の間をすり抜ける。

遠くで車のエンジン音がかすかに響き、また静寂が戻る。

 

「いつまでも……待ってもらうわけには、いかないよね。うん、そうだよ」

 

その言葉は、石のように重く、静かに落ちた。

イチカが何か言うより先に、シオリは言葉を重ねる。

 

「優しいから。何も言わないから……それに甘えてるって、分かってる。イチカだけじゃない、委員会の全員に迷惑かけてる……」

 

「迷惑かけてるのに……こんなふうに、優しくしてもらって……それに奢ってもらうなんて……」

 

言葉がほどけ、途中で切れる。

唇を噛んでも、喉を締めても、感情は引っ込んでくれない。

 

「……ごめん……」

 

イチカは一瞬、きょとんとした顔をした。

けれどそれは本当に一瞬で、すぐに慌てて距離を詰める。

 

「ちょっ!シオリ、そんな……別に迷惑とかじゃ――って……」

 

言いかけて、ようやくはっきりと気づく。

 

頬を伝う涙。

赤くなった目元。

必死にこらえようとして、逆に崩れていく表情。

 

「……泣いてるじゃないっすか!」

 

「目からガソリンが流れてるだけだって……」

 

震えた声での強がりに、イチカの胸がぎゅっと締め付けられる。

 

「言ってる場合っすか!あぁもう!鼻水が……!」

 

慌ててポケットを探り、くしゃっとなったティッシュを取り出す。

手が少しだけ焦っているのが、自分でも分かった。

そっと、けれど勢い余って少し強めに、シオリの鼻先に押し当てた。

 

(これ……完全にガチ泣きじゃ……!どうすればいいんだ、これ……!やばい、人の目が……いや、それよりまずシオリを…)

 

周囲を一瞬だけ見回す。

幸い、人通りは少ない。

だが、このまま立ち止まっているのは落ち着かない。

 

「えっと……とりあえず、歩くっすよ!」

 

半ば強引に、けれど乱暴にならないように注意しながら、シオリの肩に自分の腕を回し、駅のある方向へと歩き出した。

 

 

 

「ごめんね……シャワーまで借りちゃって……あと、お風呂も……」

 

湯上がりのせいで、シオリの頬はまだうっすら赤い。

濡れた髪からはシャンプーの匂いがふわりと漂い、イチカの部屋の空気と混ざっている。

 

「大丈夫っすよ。はいこれ、コーヒー牛乳」

 

冷蔵庫から取り出したそれを差し出す。

今では珍しい瓶タイプ。銭湯帰りみたいだな、とイチカは内心で思う。

 

「ありがと」

 

受け取ったシオリは、迷いなく蓋を開け、ごくごくと喉を鳴らした。

自然と腰に手がいく。この動作にはなんか根拠があるって、昔テレビで言ってた気がする。

 

朝の情報番組で、専門家がそれっぽい解説をしていたはずだが、肝心の理由はもう思い出せない。

まぁそんなことはどうでもいい。

瓶の底に残った甘い液体を飲み干し、シオリは小さく息を吐いた。

 

「甘い」

 

「そりゃそうっすよ…苦いコーヒー牛乳は嫌っす。もうそれはベツモノでしょ」

 

「結構久しぶりに飲んだけど、おいしいね」

 

しみじみとした表情で空の瓶を眺めるシオリを横目に、イチカはふと思い出したように呟く。

 

「あ、連絡はしたんすか?」

 

「うん。コハルにモモトーク送って、みんなに伝えてもらうようにしたよ」

 

「ん~。で、落ち着いたっすか?」

 

「まぁね……お風呂ってすごいや」

 

ぽつりと呟く。

湯に浸かっている間だけは、ぐちゃぐちゃに絡まっていた考えが、少しだけほどけた。

温度に包まれる感覚が、体よりも先に心を緩めてくれた気がする。

 

「そっすか……とにかく、迷惑だとかそんなの一切ないっすから。今はしっかり勉学に励むっす」

 

「わかった……」

 

小さく頷く声は、まだどこか遠慮がちだ。

少しの沈黙。

時計の秒針の音と、外を走る車の気配だけが部屋を満たす。

 

「最初はさ……数日、前線を離れるだけで、すぐ戻れると思ってたんだよね」

 

シオリは空になった瓶をテーブルに置き、手元に視線を落とす。

 

「私ってさ、前に骨折って三日くらい救護のお世話になってたじゃん? あれくらいの感覚でいたんだけど」

 

「あー……」

 

「こんなに長引くとは、マジで思ってなかった…ってコトっすね」

 

「うん」

 

一拍置いて、シオリは苦笑する。

 

「正直さ…思ったよ。私は合格点なのに、なんで……って。でも、風邪ひいたのは自分のせいだし、仕方ないよねって」

 

その言い方が、自分を納得させるための理屈だと、イチカにはすぐ分かった。

 

「いや、おかしいんすよ」

 

思わず声が強くなる。

 

「聞いたことないっすよ、テストで連帯責任とか。マジで。こんな人材をあんな古臭い建物にぶち込んで……それにコハルちゃんもっすよ。一年は今の時期が大事なのに」

 

「……まぁ、コハルはしっかりとテスト駄目だったから……」

 

「……それでもっすよ」

 

イチカは眉を寄せる。

 

「補習に落ちたことないから聞いた話でしかないっすけど、課題いくつか提出すれば終わりって聞いたっすよ。わざわざ部活作って、あの先生? とかいう大人を呼んでくるとか……」

 

納得いかない、と顔に書いてある。

シオリは少しだけ笑う。

 

「……まぁ、新しく友達ができたから、プラス面もあるよ。それがキツいんだけどさ

 

戻りたい場所と、新しくできた居場所。

どちらも本物だからこそ、胸が痛い。

 

急に渡された生殺与奪の権を私はどう使えばいいのか。

 

「先輩……ハスミ先輩には話したんすか? いろいろ」

 

「うん」

 

短い返事。

 

(やっぱりか……)

 

イチカは思い出す。

最近のハスミの様子。いつもよりボルト操作が雑で、視線が泳いでいたこと。

散々ダイエットだーなんて言ってたのにこっそりツルギ先輩にばれないようにお菓子をやけ食いしてたこと。――あの人も相当きてるのだろう。まぁわかる。しかたない。

 

「まぁ……とりあえず頑張る」

 

「もう十分頑張ってるっすよ」

 

イチカは柔らかく笑った。

その声音は、さっきまでの強い調子とは違い、丸くてあたたかい。

 

「えらいっす」

 

ぽん、と軽く手を置く。

 

指先が、濡れた桃色の髪に触れた。

ドライヤーはかけたはずなのに、まだほんのりと湿り気が残っていて、指にやわらかく絡む。

 

「……ん。もしかして、撫で慣れてる?」

 

シオリが片目をつむり、少しだけ上目遣いで見上げてくる。

悪戯っぽい笑みが、わずかに混じっていた。

 

「手つきが慣れてる人のそれだもん」

 

「えっ? あっ! これはっすねぇ……」

 

言われて初めて気づく。

自分の手が、ごく自然にシオリの頭を撫でていることに。

 

慌てて引っ込めかける。

だが、一瞬だけ止まる。

 

(――癖がでた……)

 

後輩を褒めるときは、無意識に頭を撫でる。

教育担当になってからは、なおさらだ。

そして今、教えている後輩たちは揃ってどこか幼い雰囲気がある。

その空気が湯上がりで、少し気が抜けていて、甘い飲み物を飲んでほっとしている友人の姿と、妙に重なって見えてしまったのだろう。

 

イチカは小さく咳払いをする。

 

「……ただの、労いっす」

 

そう言いながら、もう一度だけ。

今度はさっきよりゆっくりと、丁寧に撫でる。

指先で髪の流れを整えるみたいに。

するとなんだか、ウチのシャンプーとは違うなんだかフルーティな香りが漂ってきた。

 

(リンゴ…いや?いや…うーん。あぁ…そう言えば)

 

『下江からはいい匂いがする』

 

とか中々な噂を耳にした事があったが、割と本質情報なのかもしれない。

最初にこの話を世に放ったヤツは何者なんだろうか…キモいようなずるいような。

 

「そっか、ありがと……なるほどぉ……うん、いいかも。もっと撫でてよ」

 

「えぇ……」

 

予想外の要求に、イチカの眉が跳ねる。

 

「いいじゃん、減るモノじゃないし。私、いつもは撫でる側なんだもーん」

 

そう言って、シオリはほんの少し身を寄せる。

距離が、さりげなく近づく。

イチカの膝に触れそうなほどの位置。

 

「この~」

 

イチカは『にひっ』と口元を緩めながら、指先をわざと乱暴に動かす。

 

「アホ毛立ててやるっす!」

 

「あっ、ちょっ、やめて!直すの大変なの分かってるでしょ!?」

 

シオリが慌てて両手で頭を押さえる。

 

だが、笑っている。

さっきまでの重たい空気は、もうほとんど残っていない。

イチカはその様子を見て、少しだけ胸を撫で下ろす。

 

(――こうやって笑ってる方が、やっぱりいいっす)

 

「あッ…腕つった…!」

 

「……イチカちゃん!?」

 

 

 

「寝てる……っすね」

 

イチカは、自分のベッドの上で小さく寝息を立てているシオリを見つめ、ほっと息を吐いた。

 

まぶたはきゅっと閉じられ、呼吸は規則正しい。

さっきまでの強がりも、気丈さも、全部どこかへ落としてしまったみたいな顔。

 

「はぁ……ソファで寝るとか言い出して……頑固だと思ったら、ベッドに入った途端これっす……んふっ」

 

完全に警戒を解いた友人の寝顔を見て、イチカは思わず口元を緩める。

 

無防備だ。

 

任務中なら絶対に見せない顔。委員会室でも見たことがない顔。

まさか初めてのお泊り会がこんな形で起きてしまうとは思わなかったが、まぁいいか。

次はそっちの家に転がり込んでやる。

 

ふと時計を見る。

 

――3時。

 

「やっば……」

 

明日の業務を考えれば、もうとっくに寝ていなければならない時間だ。

イチカはぐいっと背伸びをし、軽く肩を回す。

今日はソファで十分だ。最近は暑いしタオルケット一枚だけで十分だろう。

お腹を出さないように注意すればいいだけだ。

 

踵を返し、部屋を出ようとする。

 

「おやすみ」

 

小さく呟いた、そのとき。

足先に何かが当たった。

 

「ん? あぁ、シオリのカバンか……雑だなぁ」

 

床に無造作に置かれた雑嚢をひょいと持ち上げる。かなり重さを感じた…きっと撃ち切ったマガジンが大量に詰まっているのだろう。

中身が偏っていたのか、がさりと音がした。

 

リビングのテーブルに置こうとした、その瞬間。

 

ひらり、と。

 

白いものが一枚、床に落ちる。

 

「……あれ、なんだ?」

 

拾い上げる。

紙だ。折られた、手紙のようなもの。

 

「……」

 

喉が、無意識に鳴る。見るべきではない。人の持ち物だ。

 

――でも。

 

妙な違和感があった。

 

ただのメモではない。それにしては紙が上質すぎるし、折り目が、何度も開き直されたように擦れている。端も、わずかに歪んでいる。何年も使い古している単語帳のようなすり減り方だ。

 

イチカは数秒固まり…そして、スマホを取り出した。

画面をすっと撫で、ライトを起動する。

 

白い光が、紙面を照らした。

 

そこに並ぶ文字を認識した瞬間――

 

「…………は?」

 

イチカの目が、ぱっと見開かれる。思わず、素っ頓狂な声が漏れてしまった。

暗く静かな部屋に、その声だけが不自然に響いた。

 

イチカの喉が、急にひどく乾いた。




シオリのメンタルは弱いのか強いのか分からなくなってきました。
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