私は死刑です。
午後の鐘が鳴り終わり、教室は騒がしさと笑い声に包まれていた。
「お疲れ~!」
「帰りカフェ寄ってく?」
「最後のBDだけ何だか雑じゃありませんでした?」
「そう?やっぱり勉強ガチ勢は違うね~」
机の上にノートを出したまま、友人同士でおしゃべりを始める生徒たち。
その輪から少しだけ離れた席で、シオリは丁寧に資料と筆記用具をまとめ、カバンにつめていた。
(さてさて、今日は何がまっているのやら)
委員会の仕事は授業終わりからが本番だ。
クラスメイトが制服を緩めて笑っている頃、自分は制服のボタンをきちんと閉め、仕事に向かう。
それが、いつもの日常――のはずだった。
「ねぇシオリ」
「ん?」
前の席の女子がくるっと振り返り、シオリに顔を寄せてきた。
髪を高めの位置でツインに結んだ元気そうな子だ。
「聞いた? 最近、出るらしいよ。夜の通学路で、“謎の影”」
「……影?」
思わず手の動きが止まる。
「うんうん、なんかさぁ、背丈は女の子っぽいんだけど……」
「はぁ」
「でも、ふわってしたピンク色が見えるんだって」
「ピンクねぇ…」
「で、……なんか、地面が濡れてるらしいのよ!」
「濡れてる……? 雨じゃないの?」
「ちがうちがう、そんな都合よく部分的に濡れるわけないじゃん? 地面にこう、足跡っぽく水がポタポタ……って」
「凄いね…何と言うか…都市伝説的な」
半分相槌のように返すと、『でしょでしょ!』と。
ちょっと盛ってるような口調だが、周囲の子たちも『聞いたことある!』と便乗しはじめる。
机の周りにはいつの間にか人だかりができていた。
「オカルト研究部、マジで調査始めたらしいよ」
「実際、3年の先輩が夜に声を聞いたって話も……」
「シスターフッドの陰謀…って話も聞くわね」
「……」
キャッキャと盛り上がるクラスの空気に、シオリは苦笑しながら肩のストラップを肩にかける。
「オカルト研究部が動いてるのはともかく……そんな話が流行ってるんだ?初めて聞いたよ」
そんな噂が広まっているだなんて今は知ったから何がなんだか…なぜかこういう話になると、みんなテンションが上がるのだ。
「正実って、夜もパトロールしてるでしょ? シオリ、見たことないの?」
「ん~?私は無いかなぁ。もしかしたら同僚で見てる人がいるかもしれないけど…今の所なにも」
「そっかぁ」
「うん、それっていつからの話?」
「えーと…ココ最近だけど…正確には知らないなぁ」
正直、あちこちで妙な話や“誰かが騒いだ”程度のことはよくある。
季節の変わり目には、特に意味のない目撃情報や噂が増えるのは毎年のことだ。
(でも……地面が濡れてる、っていうのは少し変わってるかも)
あくまで“少し変わってる”レベルの話。
今のところは、事件性もなく、生徒のいたずらか勘違いの域を出ていない。
なんだか百鬼夜行の古い怪談話みたいな感じだ。
「ま、でも気をつけてね? 夜中に変な影とか出たらマジ怖いじゃん」
「そこで正義実現委員会の出番でしょ!」
「がんばれ、おまわりさん!」
「……はは、ありがと。変な人がいたら、ちゃんと声かけてみるよ」
冗談半分の声援に、シオリは苦笑しながら返す。
カバンのストラップを肩にかけると、教室を出る前に一度だけ後ろを振り返った。
教室には、まだ話に花を咲かせるクラスメイトたちの笑顔があった。
「ピンクの影ね…いや色がついた影ってなによ…」
小さくつぶやいて、思わずノリツッコミ。
そのまま教室をあとにした。
この時、彼女はまだ知らなかった。
その“影”と、今夜――また出会うことになるなんて。
正義実現委員会の本部活動拠点は、トリニティの中央校舎の一角にある。
昼間は資料整理や報告の確認が主だが、放課後から夜にかけては、巡回や夜警、通報対応の業務が多くなる。
まぁ通報があれば昼間だろうが現場にスッとんでいく訳だが…最近はトラブルは減ってきた。
一時期はとてつもないレベルで自治区…いやキヴォトス全体が荒れていたが、ある日を境にパタッと秩序が戻ってきた。
話じゃ連邦生徒会長が失踪していたけど…その代わりになれるような人が来た?とか。
とりあえず平和になって万々歳だ。
シオリがドアを開けると、室内にはすでに何人かの委員が集まっていた。
「お疲れさまです」
顔見知りの後輩が手を振る。
その手には無線端末のメンテナンス用の布が巻かれていて、作業の途中らしかった。
シオリはいつもの席に荷物を置き、制服とパーカーを整える。
共有のポットからマイカップにお茶を注ぎ、静かに啜る。
ゆったりと仕事前のティータイム中…背後から、コツ、コツ、と一定のリズムを刻む靴音が近づいてくる。
「お疲れ様です。シオリ」
「んぁ……お疲れ様です!」
声をかけられる直前、ちょうど熱いお茶を飲みこんだ直後だったせいで、少しだけむせそうになりながら慌てて立ち上がる。
「本日夜警担当のシオリさんに、“例の件”についての確認ファイルを。正式な通報記録と、オカルト研究部からの非公式報告書、両方がまとめてあります」
「れ、例の件?」
「影…と言えば分かるでしょうか」
そう言って、ハスミは茶色のファイルフォルダーを静かに、シオリのデスクの端へ置いた。
「え?あれってただの噂話なんじゃ…」
目を丸くするシオリ。
まさか先輩の口から噂話がでる事になるとは思ってもいなかったのだろう。
「えぇ、我々も当初は単なるイタズラかと思っていたのですが…目撃情報がやけに多く…」
「…集団幻覚なのでは?」
「それはそれで事件ですね」
シオリは苦笑しながら『確かに…』と頷く。
ファイルに手を伸ばし一ページ目を覗いた。
ウワサのオカルト研究部の報告書だ…あそこってほぼ遊びみたいな部活だと思ってたけど、案外ちゃんとしてるのか?
えーと何々?
【この世ならざる気配が、闇の中に満ちていた】
【足音のない足跡――それは“向こう側”からのメッセージ】
【見た……ような、見てないような、何かの気配】
【あぁ…水だ、滴る音だ。オアシスだ】
【シスターは怪しい】
「詩集かな?最後に関しては別の方向にパンチ飛ばしてるし…」
ぼそっとシオリが漏らすと、ハスミがほんのわずかに口元を緩めたように見えた。
すぐに元の表情に戻ったが、たしかに笑った。気がする。
「正式な報告は次のページです」
「あっハイ」
言われた通りにめくる。
あ、よかったココはいつもの感じの報告書だ。
内容は生徒数名からの証言がシンプルにまとめられたモノ。
正直、さっきの詩とどっこいどっこいな情報しかない。
「“地面が濡れていた”“ピンク”“視線を感じた”……など、今のところ明確な危険性は確認されていませんが、通報が続いている以上、無視するわけにはいきません」
「警戒レベルは?」
「本件は、まだ“警戒レベル1”の案件です。基本的には巡回ルートの確認で構いません。ただ……」
「ただ?」
「相手が何者か分かりません、十分注意してください。それと無理はしない事」
そう言ってからの一瞬、ハスミは静かに一歩近づいた。
無言のまま、彼女の右手がするりと伸びて――
そっと、シオリの左肩に置かれた。
その手は驚くほど静かで、でも不思議と温かかった。
「あなたは、正しさを貫ける人です」
いつものクールな声。それなのに、今はどこか、心の芯に触れてくるような響きを感じた。
「大丈夫ですよ先輩…戦争に行く訳でもないんですし、夜警は慣れてますから」
「ふふっ…報告書には『犯人を捕まえた』か『何も無かった』と書かれる事を期待します」
「イエッサーです!」
すっかり外も暗くなり、静かになった委員会室。
時計の針はもうすぐで出発の時刻をさそうとしている。
シオリは少し息を整えてから、装備の最終チェックをしていた。
銃の動作はOK、サブの拳銃をホルスターに入れて…メモに無線機っと。
懐中電灯は大き目のヤツで電池はさっき入れ替えたし大丈夫だろう。
準備は万全、あとは部屋の電気を消すだけ…そう思った瞬間、部屋のドアが音を立てて開いた。
「おつかれっす~……って、おや? シオリ?」
ふわっと軽い口調。入ってきたのはイチカだった。
忘れ物か何かだろうか。
「こんばんは、イチカちゃん。私は今から出るところ」
「あぁ夜警っすか、私は確か来週だったっけ。お疲れさまっす」
「うん、ありがとう。特に何もなければいいんだけど……」
「ふふん、もし“ピンクの影”とやらに遭遇したら、ちゃんと名刺でも渡しといてよ」
「イチカちゃんまでその話…というか名刺なんて持ってないし…!」
鞄を肩にかけながら、僅かに頬を膨らませるシオリ。
イチカはそんな彼女の様子を見て、どこか安心したように笑う。
「案外、仲良くなっちゃったり?」
「話が通じるか分からない相手と友達になりたくないんだけど…」
「でも、そうなったら面白くないっすか?」
「まぁ…確かに?」
「でしょ~?」
イチカはいつものように肩をすくめてみせると、ドアの横に避けて通路を空けてくれる。
「じゃ、気をつけて」
「うん、がんばる」
「じゃ、いってらっしゃい。影さんによろしく~」
「はいはい」
軽く笑い合いながら、シオリは一歩、室外へと踏み出した。
夜の空気は、昼とはまったく違う匂いがした。
道を包むように、ほんのり冷えた風が吹き抜けていく。
人の気配がほとんどなく、月明かりが綺麗だ。
それ以外はすべてが静かで、どこか秘密めいている。
シオリは、校舎の中心地から離れ小さな公園に足を踏み入れていた。
「……変わりなし、っと。あ、そう言えばコハルに遅くなるって言ってたっけ」
ポケットからスマホを取り出し、モモトークを起動してコハルにメッセージを送る。
『今日遅いからごはんは冷蔵庫の温めといて、先にねててね』
親指で画面を軽快タップし、文字を打ち込む。
ぽんと可愛らしい音と共にメッセージが飛んでいく…と、ほんの数秒で既読がつき『分かった!』と元気に返ってきた。
「これでヨシッと…あとは記録を」
スマホをしまい、手元の巡回記録用のメモに現在地と時刻を入力しながら、視線はその先の噴水へと向かう。
中央に設置された噴水はトリニティならどこにでもありそうな、飾り気のない円形の構造物だ。
スクエアの大噴水とは比べるのは酷だろう。
今は水も止まり、月の光を反射して静かに眠っている。
(夏はお世話になるんだろうなぁ)
その周囲には、ベンチがいくつか。
誰かが寝ているという事もなく電灯と月の光に照らされ、鎮座しているだけだ。
(……特に変わった様子は……)
歩き慣れたコンクリートの小道を一周しようとした、その時だった。
水音が――した。
「……っ」
ぴた、と足を止める。
どこか遠く、いや、近く。
水が跳ねたような音が、確かに耳に届いた。
噴水に水はたまっているが吹き出してはいない…
動物が飛び込んだにしては小さすぎる音だった。
耳をすます。辺りは静か。風もない。
(気のせい……? でも……)
ふと、噴水の周りの地面に目をやる。
濡れていた。
コンクリートの一部が、円を描くようにじんわりと濃い色になっていた。
誰かがそこを歩いたように、淡く、水の足跡が点々と残っている。
「…」
噴水はやはり止まっている。雨も降っていない。
ここにはスプリンクラーのような、夜間に水を撒くような自動設備はないはずだ。
「……誰か、いるの……?」
無意識に、小さく呼びかけてみる。
が、返事はない。夜の空気は、ただ静かに澄んでいる。
足音ひとつ、ない。
それでも、何かの気配だけが、じっとりと背後からまとわりつく。
SMGをしっかり構えると、冷たい鉄の音だけが響いた。
(これが…噂の?)
喉の奥が少しだけ乾く。
でも、怖くて動けないわけじゃない。委員としての訓練が、体を自然に動かしてくれる。
(そう言えば…この辺…だったっけか目撃地点は)
腰に付けた無線端末に手を伸ばす――そのとき。
――パシャッ。
また、水音。今度は、確実にすぐ近く。
すぐそばの噴水の縁から、誰かが降りたような――そんな音だった。
(いる――!)
シオリは息を止める。
SMGを構えながら、そして、ゆっくりと振り返る。
月明かりが照らす、その噴水の縁。
そこに――
「あら?こんばんは、下江さんでしたっけ?」
聞き覚えのある、のんびりとした、少しだけ湿っぽい声。
「ひっ…!?」
自分の苗字を知る影の声に驚き、思わず体が飛ぶ。
そのままバランスを崩し、その場に尻餅をついてしまった。
体勢はそののまま顔を上げると…噴水の縁に腰かけるようにして座っていたのは、確かに“彼女”だった。
「あ、貴女は…」
桃色の髪に夜風に揺れる素足。
――そして、またしてもあの姿。トリニティの指定水着一枚だけを身にまとい、まるで海から上がったばかりのような雰囲気を纏っている。
何とも季節外れだ。
「う、浦和ハナコ…さん」
「ふふふ、またお会いしましたね」
月光に照らされて、笑うその姿は――どこか絵画の中から出てきたように幻想的だった。
ただし、着ているものさえ除けば。
「……はぁ…最悪」
一度息を整え立ち上がり、お尻の埃を掃う。
SMGを構える事はせずに一歩だけ前へ出る。
その姿勢はきちんと正義実現委員会のそれであったけれど、どこか前回よりも“固さ”が少ない。
呆れのせいだろうか。
「んふふ……また会えてうれしいです、下江さん。ちゃんと名前、覚えてくれてたんですね」
「……流石に、忘れませんよ。色んな意味で」
「ふふっ、そうですか」
ハナコは立ち上がると、髪を指先で梳かしながら、ゆっくりと近づいてくる。
その足元から、ひたひたと水音が続くのは、やはり濡れている証拠だった。
「はぁ…前回話しましたよね?」
「…どうしても…どうしても抗えなくって…」
「何に?」
「水着を着て、外出してしまうという生理現象に」
「んな現象あってたまりますか…」
シオリはハッとする…このままではまたこの人のペースにのせられるだけだ。
冷静に対処しなければ。
「夜ならいいかなと思ったんです」
「昼がダメなら夜もダメでしょうよ」
噴水の縁に腰掛けて、足をぶらぶら揺らすハナコの声は、どこか軽やかで悪びれもない。
「~♪」
「……懲りない人ですね、ほんとに」
シオリは腕を組んだまま、ゆっくりとため息を吐いた。
けれどその口調には、怒気は含まれていない。少し呆れているくらい。
「でも、こうしてすぐ見つけてくれるあたり……下江さん、私のこと気にしてくれてます?」
「夜警の途中でたまたまです!」
「うふふ、残念」
ハナコは噴水の縁から片足だけぶらりと降ろし、足元をなぞるように水音を立てた。ぺたぺた、と濡れた素足が石畳に当たるたび、夜気をわずかに湿らせたような錯覚を覚える。
「たまたまでも会えて良かったです」
「はぁ…私は別に良かったとは…」
「怖い人が夜警さんじゃなくて良かった♡」
「私って…怖くない…」
言葉の続きは、自然と喉の奥に引っ込んだ。
目の前の少女――浦和ハナコ――は、夜の噴水に照らされて、あまりに自然にそこにいた。あまりに、堂々と。異様ささえ、風景の一部のように思わせる不思議さ。
(なんだかこの人と話すと気が狂う…)
そんな自分の心の声に、シオリは眉をひそめた。
水音はなおも続く。ハナコは無邪気な顔のまま、まるで水辺で遊ぶ児童のように、足元の濡れた石を観察していた。
「素足の方が開放的で、自然を感じられるんですよ?」
「そのせいで噂が広まっているんですが…」
「まぁ♡ それはそれでロマンです」
「はぁ…素足での解放感を味わいたいなら海開きまで待ってくださいよ…」
どこまでも自分の理屈で動くこの人に、まともな感覚は通じないのか――そんなあきらめが、喉の奥で苦笑に変わる。
だがそのとき、ハナコの声色がふっと変わった。
「そういえば、下江さんは……こういう夜に一人だと、寂しくなったりしませんか?」
「きゅ、急ですね…とくに何も」
何気ない問いのはずだった。けれどその語尾の“寂しく”にどこか含みを感じて、シオリは反射的に首をかしげた。
「ふふ、じゃあ夜に、誰かとお話したくなることも……あるんじゃないですか?」
「ん~?妹にモモトークを送る事はありますけど…」
あっけらかんと返すシオリに、ハナコはぱちりと瞬きを一度。そして、にこり。
「妹さんだけですか?…なるほど姉妹でって選択肢も…」
「え? 他に誰かいます?友達とかって事?」
「たとえば、特別な関係の相手とか……いわゆる、夜のオトモだとか♡あ、
「……はぁ?」
「ふふふ、わかりませんか?」
声はあくまで穏やかだったが、言葉には少しだけ引っかかりがある。
まるで、相手の知識の深さを探る釣り糸のような言い回しだった。
「たとえば……夜のベッドの中で、ね? 甘く囁き合ったり、互いの体温を分け合ったり……そういう時間を過ごす相手ですよ」
「……あぁ、そっか。そういう話。昔ちょっとだけ見たことあります。病室で目が覚めたら誰かが横にいる、みたいなやつですよね?」
シオリは表情一つ変えず
「それは医療ドラマでは?」
「え? 違うんですか?あの、『落ち着いて聞いてください』的な感じかと…」
「もう医療系ですらない感じですね」
ハナコは人差し指と親指で顎を少し擦りながら考え込む。
「夜はお一人で致すタイプですか?」
「え?うん。え…致すって?」
シオリの適当な返事に手を合わせ『まぁ!』と目を輝かせるハナコ。
何でそんなにテンションが高いのかシオリには理解できなかった。
「ふむふむ、なるほど…つまり……パートナーと過ごすより、お一人で楽しむ方が性に合っている、と。確かに相手の事を考えずに好きにできますからね!快感も自分で調整できますし、ある程度の技術やモノがあれば二人よりもはるかに素晴らしい刺激を得る事も可能…なるほど、ナニニストですか、自分の身体は自分が一番知っていると」
やけに早口で目をつむりながら語る。
シオリは話についていけず、何となくで答えるしかなかった。
「快感…まぁ一人の方がストレス解消しやすいしね。でもまぁ友達の家でパジャマパーティとかも楽しそうだけど」
そうシオリが呟いてから沈黙が二秒ほど。
そして――
「ふふっ」
「ちょっ!今笑いましたよね!?」
口もとを右手で隠しながら肩を揺らして笑い出すハナコ。
その笑いはからかうようなものではなく、どこかくすぐったいものを見つけたときの、やわらかい調子だった。
しかしシオリにとって笑われた事には違いないため、声を荒げ、何故笑ったのかを問う。
「なるほど、なるほど…可愛いくらいに、真っ直ぐな方ですね」
「ど、どういう意味ですか…!」
そう言われると、照れるというより困る。
自分のどこを見て「真っ直ぐ」と判断されたのか、シオリにはまったく分からない。
(褒めてる……のかな?いやこの人に褒められても別に…いやでも綺麗な人から可愛いって言われたからまぁ誇っていいのか?)
そんな事を思いつつ、彼女は大きくため息をついた。
「……とにかく、水着での深夜徘徊は、やっぱりダメです。今回も、ちゃんと報告書にまとめて提出しますから」
シオリは少しだけ硬い表情でそう告げた。
月明かりの下、風はやや強くなり、夜気が肌に染みる。
「もちろん、それはご自由にどうぞ? でも……そんな顔をして」
「え?」
「本気で私を処理しようとする気がなさそうに見えますがどうでしょうか?」
「そんな事ない…」
即座に返した声は少しだけ固いが、どこか曖昧さが混じっていた。
委員会の一員として、やるべきことはやらなければならない。
すでに報告書には、影の正体がハナコであることも、水着姿での徘徊もきっちり記載済みだ。手は抜かない。
ただ――それとは別に、心の中にわだかまる何かがあるのも、確かだった。
説明できないモヤモヤ…胸やけした時みたいな感覚。
「一応、委員会としては“厳重注意”の対象として扱う予定です。行動次第では再度の呼び出しもありますし……」
(停学…最悪の場合は退学…)
それは口に出せなかった。
水着姿での徘徊は、常識的に見ればアウトだ。
けれど危害を加えたわけでもない。
本人にとっては「趣味」なのだろう、一種の心の安らぎなのかもしれない――それでも、他の生徒たちに不安や混乱を与える行動だったのは間違いない。
「……」
月明かりと灯りに照らされた記録用紙の上、ペン先が止まった。
そのときだった。
「……へくしっ!!」
「っ!?」
不意に、ハナコが小さくくしゃみをした。
小鳥が鳴くような、愛らしい音。けれどその音は、暗い空気に妙に響く。
「……くしゅん……ふふ、ごめんなさい。少し、冷えましたね……」
そう言って、ハナコは腕を抱えるようにして身体をさすっている。
いくらなんでも、この夜に水着は寒いに決まっている。そんなことは言われるまでもない。
彼女は寒中水泳をやるような肌の感覚がぶっ飛んだ人間とは違う、普通の少女だ。
「……ちぃ……」
ふぅ、とため息をついたシオリは、ポーチの中から缶を一本取り出した。
ホットの缶コーヒー。眠気が襲ってきた時に飲む予定だった秘密兵器だ。
買った直後ほどではないがまだ温かい。
迷いのようなものを数秒だけ噛みしめてから、そっとそれをハナコに差し出した。
「はいコレ」
「……?」
ハナコは不思議そうにその缶を受け取る。
「紅茶党のトリニティお嬢様が、こんな庶民派コーヒーを飲む。これが今回の“罰”です。コーヒー部の人でも多分見向きもしない、百円の激安缶…まぁ飲めない泥水より、ウンゼン倍もマシだけどね」
「ふふ……“罰”にしては、随分と優しいですね…次やったら牢屋に放り込むだとか言ってませんでしたっけ?」
「それ覚えてるなら同じ事しないでよね。今から牢屋に入れるには時間があれだし、救護騎士団の仕事を増やさないようにしてるだけ」
眠気が吹き飛ぶブラックだ、あの苦さは十分罰になるハズ。
「なるほど」
ハナコはそう呟き感のプシュッとプルタブを上げ、一口。
ほのかに漂う、コーヒーの香り。
トリニティではあまり見かけない、庶民的な香りだった。
「……意外と、悪くないですね」
「それはよかった」
腕を組み、短くそう言いながら、シオリはメモ帳の最後の欄に今回の案件についての注意事項をまとめた。
“影”の正体は本校生徒『浦和ハナコ』の深夜行動を見間違えたモノ。
よってテロリストや超常的現象の可能性は限りなくゼロに近い。
本名は公表せずに真相を発表するのが良いだろう。
そして本件、再発時は一定の処分を視野に入れること。
ただし、対象の精神状態および動機はそこまで危険な様子ではない。
要経過観察。夜間警備強化の継続を推奨。
現在時点で行為は二回目…
二回目…二回目か…そっか…
「…やっぱりなんだか甘すぎる気がする…」
「あら?これはブラックですよ?」
流石の浦和さんも寒さには勝てないんですね。
どっかの他のピンクを見習ってほしいモノです。