時系列としては、政略結婚編やイタリア編と同じ日付です。
常盤台悪夢事件その1
常盤台中学は、いつも通り澄んだ空気と規律正しい生徒たちの足音で満ちている。
だが、その日、白井黒子の胸中には、妙に重たいものが沈んでいた。
「最近、悪夢を見る生徒が増えている......ですの」
風紀委員支部の机に肘をつき、黒子は届いたばかりの報告書に視線を落とす。
共通点は“常盤台生”“数日間連続”“内容が異様に生々しい”。
そして、最初に相談を持ちかけてきたのが......
「白井さん。少し、よろしくて?」
廊下から聞こえた、よく通る声。
振り向けば、扇子を片手に胸を張った婚后光子が、珍しく眉をひそめた表情で立っていた。
その後ろには、困ったように微笑む湾内絹保と、落ち着きなく周囲を見回す泡浮万彬の姿もある。
「婚后光子......それに湾内さんに泡浮さん。どうぞ中へですの」
応接用の椅子に三人を通し、黒子は静かに扉を閉めた。
この時点で、黒子は既に面倒な事件の予感がしていた。
「それで、最初に相談してきたのは婚后さんでしたわね。悪夢を見た、と」
黒子が切り出すと、婚后は腕を組み、ふん、と鼻を鳴らした。
「ええ。最初は、わたくしも一時的なものだと思いまして。でも......あれは、あまりにも、悪趣味でしたわ」
「具体的には、どのような夢だったのですの?」
黒子が問うと、婚后の指先がわずかに震える。
「......真っ暗な場所で、わたくし一人。すると、どこからともなく、ぞろぞろと......お化けが出てきましたわ」
「お化け......ですの?」
「ええ。数えきれないほど。顔のないもの、首の曲がったもの、笑いながら近づいてくるもの......。逃げようとしても、足が動かなくて」
婚后はそこまで言って、一度言葉を切った。
「目が覚めたとき、生きた心地がしませんでしたわ。あんな夢、もう二度と......」
「その夢を見たのは、一度きりですの?」
黒子はメモを取りながら、静かに頷く。
「いいえ。三日間も、それも連続で」
その言葉に、湾内が小さく息を吸った。
「......私も、です」
湾内絹保は膝の上で指を絡め、不安そうに続ける。
「私の夢では......蜘蛛が、たくさん出てきて......」
「今度は蜘蛛、ですの?」
「はい。小さいのから、大きいのまで。気づいたら、体の上を這いずり回っていて......取っても取っても、増えて......」
声が震え、最後はほとんど囁きになっていた。
「目が覚めたあとも、しばらく、皮膚に何かが触っている気がして......」
黒子は思わず、自分の腕をさすってしまいそうになるのをこらえた。
想像するだけで、背筋が冷える。
「泡浮さんも、同じように?」
「は、はい......」
泡浮万彬は、いつものお淑やかさが影を潜め、震えながらぎゅっとスカートの端を握っている。
「私は何かに追いかけられる夢を見て......姿は見えないのですが......叫び声だけが、ずっと聞こえて......」
「叫び声......人によって夢の内容は様々ですのね」
「『にげろ』とか、『たすけて』とか、そんなのが、ぐちゃぐちゃに混ざってて......耳ふさいでも、頭の中に響き続けました」
泡浮は悪夢を思い出してしまい、俯いてしまった。
「正直、ちょっとトラウマになってます......」
三人の話を聞き終え、黒子はペンを置いた。
内容は違えど、共通している点がある。
(恐怖を直接刺激する内容......逃げ場がない感覚......そして、連続性)
理屈ではなく、本能に訴えかける悪夢。
しかも、常盤台の生徒に集中している。
「皆様、最近、何か変わったことはありませんでしたの?特定の場所に行った、同じものを見た、同じ人物と接触した......など」
三人は顔を見合わせ、しばらく考え込んだ後、同時に首を横に振った。
「特には......」
「いつも通りですわ」
「放課後も、普通に......」
黒子は一瞬、目を閉じた。
自分の背後で、じわりと得体の知れない影が動いたような気がする。
(夢に干渉する能力......精神系、あるいは外部要因)
思考を巡らせながらも、黒子は表情を崩さない。
「分かりましたわ。こちらで調査を進めますの」
「白井さん......」
湾内が不安そうに呼ぶ。
「また、あの夢を見るんでしょうか......?」
黒子は、はっきりと頷いた。
「否定はできませんの......。ですが、私が必ず止めますの!」
そう言い切った瞬間、自分の声が少しだけ強張っていたことを、黒子自身が一番よく分かっていた。
(正直、かなり......怖いですの)
黒子は雷や幽霊などが苦手である。
だが、風紀委員である以上、引くわけにはいかない。
「皆様は、しばらく無理をせず、何かあればすぐに相談してくださいな」
三人を見送り、扉が閉まった後。
静まり返った部屋で、黒子は一人、深く息を吐いた。
「悪夢......ですの。あんな話を聞いてしまったら私も見てしまいそうですわ......」
ふと、背後を振り返る。
もちろん、そこには誰もいない。
だが、確かに何かが、常盤台の夜に忍び寄っている。
黒子は、そう確信していた。
その夜、黒子はなかなか寝付けずにいた。
常盤台の寮の一室。
規則正しく整えられた机、壁に掛けられた風紀委員の腕章、静かな空気。
どれも見慣れたはずの光景なのに、昼間に聞いた悪夢の話が、じわじわと胸の奥に沈殿していく。
「......考えすぎ、ですの」
そう呟いて目を閉じても、婚后の語った“顔のないもの”や、湾内の“蜘蛛”、泡浮の“叫び声”が、断片的に脳裏をかすめる。
「どうしたの、黒子。表情が優れないように見えるけど?」
「ちょっと疲れが溜まっているのかもしれませんわ。お姉様、おやすみなさいですの」
黒子は美琴に心配をかけるわけにはいかないと思い、不安を押し殺しながら布団をかぶる。
そして、黒子は眠りに落ちていった。
ゴロゴロ......ドォンッ。
耳をつんざく雷鳴で、黒子ははっと目を開けた。
「......ここ、は......?」
見覚えのない場所だった。
天井は高く、壁はひび割れ、剥がれたコンクリートがむき出しになっている。
割れた窓ガラスの向こうでは、夜の闇を切り裂くように稲光が走り、雨が激しく叩きつけられていた。
廃墟......そうとしか言いようのないビルの中。
明かりは一切なく、視界はほとんど利かない。
「......夢、ですのね」
そう理解した瞬間、逆に胸が冷えた。
昼間の話と、あまりにも符合しすぎている。
黒子は立ち上がろうとして、足元の感覚に違和感を覚えた。
床は平坦なはずなのに、どこか頼りなく、きしむ音が微かに響く。
そのとき。
壁際に、ぽつんと置かれた物が目に入った。
「......懐中電灯?」
手に取ると、幸いにもまだ使えるらしく、スイッチを入れると白い光が闇を切り裂いた。
光の輪の中に浮かび上がるのは、剥がれた壁紙、落書き、崩れかけた扉。
黒子は足の震えを抑えながら、慎重に歩き出す。
「出口を......探さなければ......」
夢なら、目覚めればいい。
そう分かっているのに、夢は覚める様子はない。
そうであれば、いつものように空間移動を使えば一瞬で外に出られると思い、黒子は能力を発動しようとした。
だが......
「......っ!?」
何も起こらない。
演算はできるが視界が揺れることも、転移の感覚も、一切ない。
「どういう......こと、ですの......?」
胸の鼓動が、急に速くなる。
黒子の背中を、冷たい汗が伝った。
「......使えない......ですの?」
夢の中だから?
それとも......
考えを振り払うように、黒子は廊下へと足を進めた。
懐中電灯の光が、長い廊下を照らす。
奥へ進むほど、闇は濃く、雷鳴だけが不規則に響く。
ゴロ......ゴロゴロ......。
雷の光が、窓越しに一瞬だけ内部を照らした。
その刹那。
廊下の先に、“何か”が立っているように見えた。
「......っ!」
黒子は反射的に光を向ける。
だが、そこには何もない。
空気が揺れただけの、空虚な闇。
「気のせい......ですの......」
そう言い聞かせた、その瞬間。
ひやり。
「っ!?」
黒子の首筋に、何かが触れた。
冷たく、確かな“感触”。
「......誰ですの!?」
振り返るが、やはり誰もいない。
だが、確かに触られた。
指先のような、布のような、曖昧で、けれど明確な接触。
黒子は思わず、自分の首元を押さえた。
「幽......霊......?」
視えない“何か”。
婚后たちの言っていた、“姿のはっきりしない恐怖”。
嫌な符合に、喉がひくりと鳴る。
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
黒子は一歩、また一歩と進む。
途中、階段を見つけ、下へ降りようとするが、途中で崩れており、暗闇の底が見えない。
「......無理、ですのね」
反対側の扉を開けると、そこは広いフロアだった。
机や椅子が無造作に倒れ、天井からはケーブルが垂れ下がっている。
懐中電灯の光が、揺れる影を壁に映す。
その影が、一瞬だけ、人の形に見えた。
「......っ」
心臓が跳ね上がる。
次の瞬間。
ぎゅっ。
「きゃっ!?」
背中を、何かに掴まれた。
確かな“圧”。
逃がさない、と言わんばかりの力。
黒子は悲鳴を上げ、必死に振りほどこうとする。
「離しなさいですの!このっ......!」
だが、掴んでいるはずの“腕”は見えない。
懐中電灯の光は、虚空を照らすばかり。
息が荒くなり、視界が滲む。
「......夢なら......早く、覚め......っ」
そのとき、雷鳴が轟いた。
ドォンッ。
強烈な光が、フロア全体を白く染め上げる。
ほんの一瞬。
黒子の背後に、“何か”の輪郭が浮かび上がった。
人のようで、人でない。
歪で、空虚な影。
「......っ!!」
次の瞬間、影は消え、掴んでいた感触も消失した。
黒子はその場に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。
「......はぁ......はぁ......」
静寂。
雷の音だけが、遠くで鳴っている。
懐中電灯の光が、震える手元で揺れた。
「......悪夢......本当に、来てしまいましたのね......」
出口はまだ見えない。
そして、この廃墟のどこかに、“見えない何か”がいる。
黒子は、恐怖を噛み締めながら、再び立ち上がった。
常盤台の悪夢は、まだまだ終わらない。
懐中電灯の光を握りしめ、黒子は静まり返った廃墟のフロアを進んでいた。
足音が、やけに大きく響く。
自分の呼吸音さえ、闇に吸い込まれていくようだ。
「......落ち着くんですの......これは、ただの夢......」
そう言い聞かせるたび、胸の奥で何かが冷たく嗤う。
そのとき......。
鉄が軋むような、低く湿った音が、フロアの奥から聞こえた。
「......?」
黒子は足を止め、懐中電灯をそちらへ向ける。
光の先には、倒れた棚と崩れた壁。
だが、その影の奥で、何かが動いた。
ずるり。
床を引きずるような音。
「......っ!」
反射的に一歩下がる。
雷光が、窓の外を切り裂いた。
その一瞬、懐中電灯とは別の光が、闇を暴いた。
目が、合った。
「......ひっ......!」
そこにいたのは、明らかに“生き物”だった。
人型に近い輪郭。
だが、腕は異様に長く、関節の位置が歪んでいる。
皮膚のようなものはなく、濡れた影がそのまま形になったような存在。
そして、その顔は目だけが、異様に光っていた。
ぎょろり、と。
こちらを、確かに見た。
「......来ますの......!」
次の瞬間。
ぐるるるる......。
腹の底から響くような、低いうなり声。
怪物が、一歩、踏み出した。
床が、みしりと鳴る。
「来ないでほしいですのっ!」
黒子は踵を返し、全力で走り出した。
懐中電灯の光が、前方の廊下を乱暴に照らす。
左右に並ぶ扉、割れたガラス、崩れた天井。
背後から、重く不規則な足音が追ってくる。
どすっ......どすっ......。
「来ないで......来ないでくださいまし......!」
必死に廊下を曲がる。
階段を見つけるが、途中で途切れている。
横の扉も開かない。
行き止まり。
「そんな......っ!」
振り返る。
暗闇の向こうから、怪物の影が迫ってくる。
うなり声が、近い。
ぐる......ぐるる......。
息が詰まり、視界が揺れる。
祈るように能力を起動しようとするが、何も起こらない。
怪物が、腕を伸ばした。
影のような指先が、黒子の肩に触れ
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
全身が、凍りついた。
そして黒子は床に叩きつけられる。
見えない圧が、背中を押さえつける。
怪物の顔がすぐ目の前に迫り、光る目が黒子を覗き込み、怪物の舌が恐怖を煽るように黒子の頬を舐める。
「た......助け......」
その瞬間。
「きゃあああああああっ!!」
白井黒子は、跳ね起きた。
全身が、汗でびっしょり濡れている。
シーツはぐしゃぐしゃ、呼吸は荒く、心臓が暴れるように脈打っていた。
完全にオリジナルストーリーです。
悪夢の話は後二話で終わる感じです。