その日の業務を終えた夜。
白井黒子は、第七学区の一角にそびえるマジックシアターの中で、ゆったりとソファに身を沈めていた。
高い天井。
柔らかな間接照明。
遠くからは、水族館エリアの水音と、動物園エリアの静かな気配が伝わってくる。
「......やはり、ここは落ち着きますわね」
風紀委員の支部とは正反対の空気だ。
事件と書類と緊張に追われた一日の終わりに、この場所は黒子の思考を静かに整えてくれる。
テーブルには、香りのよい紅茶。
そのときだった。
「こんばんは、黒子」
のんびりとした声が、背後から響いた。
「......結絆さん」
振り返ると、そこには恋人である食蜂結絆の姿があった。
隣には、白衣を羽織った橘沙羅(学園都市屈指の研究者であり、学園都市で一番の空間移動能力者)がいる。
「お邪魔してますわ」
「いいよお、ここは皆の家だから、ゆっくりくつろいでいってねえ」
結絆は気軽に手を振り、沙羅は小さく微笑む。
「今日は少し遅くなったの。実験の後処理があってね」
「橘博士は相変わらずですの......それはそうと、実は、お二人にお話ししたいことがありまして」
黒子は紅茶を一口飲み、ふっと息をついた。
「おや、どうしたんだい?」
結絆がソファに腰を下ろし、興味深そうに首を傾げる。
「今日、風紀委員の仕事で......念写ができる能力者の少年に会いましたの」
黒子は、先ほどあった出来事を簡潔に語った。
未来を写す能力。
予知された事件。
そして、それを空間移動で覆したこと。
「なるほどねえ」
話を聞き終えた結絆は、少し楽しそうに目を細めた。
「とても興味深いわ」
沙羅は腕を組み、静かに頷く。
「その少年の予知は、ほぼ確実......ですが、私が介入すると未来は変わった。つまり、空間移動は因果律そのものに干渉できるのではないか、と」
黒子は、核心に触れる。
「うん、たぶん合ってるよお」
結絆は、あっさりと言った。
「......え?」
「念写の能力はねえ、三次元における演算で未来をシミュレーションしているんだと思うよお」
黒子は、思わず身を乗り出した。
「演算......ですの?」
「そうそう。例えば今ある情報、位置、速度、そして感情の揺らぎ......そういうのを全部使って、『このまま行けば、こうなる』って結果を出してる感じかなあ」
「結絆君の言う通りね。マジックシアターにも、念写ができる能力者は何人かいるから、この情報は確実よ」
沙羅は続ける。
「共通しているのは、未来を“確定事項”として見ているわけではない、という点よ。あくまで、現時点で最も確率の高い未来を切り取っているだけ。予知の精度や予知できる範囲は人によってまちまちね。」
黒子は、はっとした。
(やはり......)
自分の仮説が、確信に変わっていく。
「だから、空間移動みたいに......」
「高次元に関連する能力が介入すると、予知の演算結果とは違う未来になる可能性があるわ。未来が変わるのは、理論的には自然なことよ」
沙羅は淡々と告げた。
黒子は、ゆっくりと背もたれに身を預けた。
「......私の考えは、間違っていなかったのですわね」
安堵と、少しの高揚。
風紀委員として、能力者として、自分の選択が正しかったと証明された瞬間だった。
「でもねえ、一つ、気をつけなきゃいけないことがあるよお」
結絆は、少しだけ真面目な声になる。
「......なんですの?」
「念写は、使いすぎると体に来る」
黒子の表情が引き締まる。
「脳への負荷が大きいんだよお。未来を無理やり計算し続けるようなものだからねえ。俺や一方通行みたいに並外れた演算力があるなら問題ないけど、普通の能力者なら連続の使用は良くないねえ」
結絆の言葉に沙羅も頷く。
「頭痛、吐き気、感覚のズレ......最悪の場合、意識を失って動けなくなるわ」
「そんな......」
「だから、黒子、その美山って子に、能力を使いすぎないように伝えてあげてほしい」
結絆は、穏やかに言った。
「もちろんですわ」
黒子は、強く頷いた。
あの少年の、少し大人びた瞳を思い出す。
「未来を救う力が、彼自身を壊すようなことがあっては本末転倒ですわ......風紀委員としても、私個人としても、放っておけませんの」
結絆は満足そうに笑った。
「うん、それでこそ黒子だねえ。その真っすぐなところが大好きだよお」
黒子は顔を赤く染める。
その様子を見ていた沙羅は微笑みながら静かに紅茶を口にした。
「未来を変える力は、希望にもなるけれど......同時に、重荷にもなるから。支えてあげてね。」
「了解ですの!」
黒子は立ち上がり、マジックシアターの広い空間を見渡した。
この街は、不思議なことが多い。
だが、だからこそ。
(変えられる未来が、ある)
その確信を胸に、黒子は静かに微笑んだ。
その後、ついでに黒子は沙羅から空間移動についてのアドバイスをもらい、能力の効率的な使い方を学んだ。
夜のマジックシアターには、穏やかな時間が流れていたのだった。
翌朝。
学園都市の空は、雲ひとつない青に澄み渡っていた。
しかし、黒子の胸中は、晴れやかとは程遠い。
風紀委員177支部の一角。
来客用の椅子に座る美山写影は、両手でインスタントカメラを強く握りしめていた。
「......今朝、また念写したんだ」
低い声でそう告げ、机の上に写真を置く。
黒子と初春は、同時にそれを覗き込んだ。
写っていたのは、公園の一角。
遊具と芝生、そして......黒煙と炎。
「火災......ですか?」
初春の声が、かすかに震える。
写影は頷いた。
「一週間後。場所は第七学区の中央公園。時間は......夕方、人が一番多い頃だね」
黒子は、写真から目を離せなかった。
(よりにもよって......)
中央公園は、多くの学生が集まる憩いの場だ。
大規模な火災が起きれば、被害は避けられない。
「原因は......分かりますの?」
「まだはっきりしない。でも、爆発的に燃え広がってる。偶発事故じゃない可能性が高いね」
支部内に、重い沈黙が落ちる。
黒子は、ゆっくりと息を吐いた。
(これは......私一人では止められませんわ)
空間移動で助けられる人数には限界がある。
しかも、火災となれば範囲が広すぎる。
だが......
(予知、というだけでは......)
黒子の胸に、不安が広がる。
念写による未来予知。
確かに、これまで的中してきた。
しかしそれは、公式な証拠ではない。
この情報だけで、他の風紀委員や警備員を動かせるのか。
「白井さん......」
初春が、心配そうに顔を上げる。
「上に報告......しますよね?」
「......しますわ」
黒子は、そう答えながらも、内心で迷っていた。
(もし、信じてもらえなかったら......)
(もし、動いてもらえなかったら......)
その不安を押し殺し、黒子は報告へと向かった。
数時間後。
予想に反して、支部内は慌ただしく動き始めていた。
「中央公園周辺の巡回を、通常より強化する!」
「消火設備と非常動線の再確認を急いで!」
「別支部にも連絡を回すわよ!」
次々と飛ぶ指示に、黒子は一瞬、呆然とした。
「......え?」
初春も目を丸くしている。
そこへ、落ち着いた足取りで一人の女性が近づいてきた。
固法美偉。
黒子にとって、風紀委員としての先輩であり、尊敬する存在である。
「白井さん」
「固法先輩......!」
固法は、柔らかく微笑んだ。
「話は聞いたわ。大変な予知ね」
「......あの、予知というだけで、こんなに動いていただいて......?」
黒子の言葉に、固法は首を横に振る。
「予知だから、じゃないわ」
「え......?」
「白井さんや初春さんは、普段から沢山の事件を解決してるでしょう?」
その言葉は、静かだが、確かな重みを持っていた。
「現場で命を救って、判断を誤らず、結果を出してきた。だから......認められているのよ」
黒子の胸が、きゅっと締め付けられる。
「あなたたちが『危険だ』と言うなら、動く価値がある。それが、信頼というものよ」
固法は、黒子の肩に手を置いた。
「あなたたちだけで背負わなくていいの」
「......わかりましたの」
黒子は、深く頷いた。
別の支部の風紀委員たちも合流し、連携体制が整えられていく。
そこへ、警備員の一団が現れた。
「風紀委員さん」
その中の一人が、黒子に声をかける。
「上層部から、今回の件は風紀委員に協力するように言われていますので」
「......!」
「詳細は伏せられてますが、非常事態扱いです。指示があれば、こちらもすぐ動けるよう準備しています」
「......ありがとうございます」
思わぬ救援に黒子は一瞬言葉を失い、そして頭を下げた。
「白井さん......すごいです......」
初春は、目を潤ませながら呟く。
「......私たちだけじゃ、ありませんの」
黒子は、写影の方を見る。
写影は、少し戸惑いながらも、どこか安心したような表情をしていた。
「僕の予知......信じてもらえたんだね」
「ええ」
黒子は、はっきりと答えた。
「あなたの予知した未来を、皆で変えますわ!」
三日後に起こるはずの火災。
それを“起こさせない”ために。
黒子、初春、そして美山は、事件に備えて動き出す。
夕方の支部に差し込む光の中で、黒子は決意を新たにした。
(必ず、未来を変えますわ)
そのために、風紀委員は存在しているのだから。
警備員が風紀委員に協力しているのは、結絆の指示があったからですね。