1億Gという非常識な重力から解放されたあとでも、結絆の足取りは普段と何一つ変わらなかった。
「さて、と......」
軽くストレッチをしながら、結絆は地下トレーニングエリアの通路を歩く。
隣の重力室からは、規則的な呼吸音と、時折金属が鳴る音が聞こえてきていた。
「潤子たちも頑張ってるみたいだねえ」
結絆は扉の前で立ち止まり、内側を覗く。
そこでは帆風潤子、御坂美琴、麦野沈利の三人が、それぞれ汗を流しながらトレーニングに励んでいた。
設定重力は、3G。
1億Gには遠く及ばないが、一般人にとっては十分厳しい環境である。
「......はぁっ、はぁ......!」
帆風はウェイトを使ったスクワットを繰り返し、美琴は体幹トレーニング、麦野はパワー系のメニューを黙々とこなしている。
結絆の影に隠れがちではあるが、帆風は片手で車を持ち上げることができる程の筋力があるため、一般人と比べたら十分化け物である。
「あれ、結絆」
最初に気づいたのは麦野だった。
「そっちは終わったの?」
「うん。落ち着いたから、様子を見に来たんだよお」
そう言って中に入ると、3Gの重力が全身にかかる。
「......?」
結絆は一瞬、首を傾げた。
「何も感じないねえ」
「それ、絶対言っちゃいけないやつだから」
美琴が即座に突っ込む。
「私たちにとっては結構きついの!」
「ごめんごめん。とりあえず、今からは三人のトレーニングを手伝うよお」
まず、結絆は帆風の後ろに回り、スクワットの姿勢を確認する。
「もう少しだけ、腰落とそうかあ。そうそう」
「こう......ですか?」
「うん、そのまま」
結絆が軽く背中に手を添えただけで、帆風の動きが安定する。
「......あ、やりやすいです」
「重心が整うと、同じ重力でも負荷のかかり方が変わるからねえ」
次に美琴の前へ。
「美琴は、肩に力を入れすぎだねえ」
「だって重いからっ!」
「肉体を強化してるなら少し力を抜いても大丈夫だよお。ほら」
結絆が軽く手を添え、姿勢を微調整する。
ちなみに結絆の体は絶縁体なので、美琴たちの電気は効かない。
すると、美琴は驚いたように目を瞬かせた。
「......あれ?楽になった気がする」
「無駄な力使ってたからねえ。美琴はもっと強くなれるよお」
最後に麦野。
「麦野はちょっとパワー任せになってるかなあ」
結絆はにこりと笑い、付け加える。
「パワーを維持したままで、体幹も意識すると、もっと伸びるよお」
それを聞いた麦野は一瞬黙り込み、体幹を意識してみる。
「......効率的に動かせそうね」
三人のトレーニングを一通り見て回ったあと、帆風がふと聞いた。
「そういえば結絆さん、先ほどはどれくらいの重力でやってたんですか?」
「ん?さっき?」
結絆は軽く考える仕草をしてから、さらっと答えた。
「1億Gかなあ」
「............はい?」
帆風の動きが止まる。
「は?」
美琴も、思わず声を裏返した。
「ちょ、ちょっと待って。今、何て言ったのよ?」
「だから、1億Gだよお」
一瞬の沈黙。
「......はは」
麦野が乾いた笑いを漏らす。
「冗談にしちゃ、質が悪すぎる」
「本当だよお。それに、今日は聖人や悪魔や天使の力を使わずに鍛えてたからねえ」
「............」
三人は顔を見合わせた。
「......いや、驚いたけど」
美琴が腕を組み、ため息混じりに言う。
「でも、あんたならできても不思議じゃないって思っちゃうのが、なんかもう悔しいわ」
「そうですね......結絆さんですから」
帆風も苦笑する。
麦野も頷いた。
「はは。そこまで言われると照れるねえ」
結絆は頭をかきながら、三人を見渡す。
「でもねえ、3Gでもちゃんと意味はあるよお。基礎練は大事だからねえ」
「......1億Gやった直後に言われると私たちの立場が無いのよ!」
美琴のツッコミに、結絆は笑うだけだった。
重力室の中には、再びトレーニングの音が響き始める。
その中心で、結絆は三人を支え、彼女たちはさらにパワーアップすることとなる。
3Gの重力室では、再び規則正しい呼吸音が響いていた。
「そうそう、そのまま!」
結絆は帆風の体に軽く手を添え、動きを確認しながら声をかける。
「いい調子だよお」
「は、はい......!」
美琴と麦野も、それぞれ自分のメニューに集中していた。
さきほどまでの疲労はあるものの、結絆のサポートのおかげで動きに無駄がなくなっている。
「......ちょっと」
美琴が息を整えながら言う。
「さっきよりっ、確実に効いてる」
「それは良いことだねえ」
「良いけど、かなりきつい!」
「美琴ならやれるよお、あと一回頑張ろうねえ」
そんなやり取りの最中だった。
重い足音が、通路の奥から響いてくる。
「よおーっ結絆!!元気にしてるか!!」
その声に、全員が一斉に振り向いた。
「来やがった......」
麦野が顔を引きつらせながら呟く。
削板軍覇だった。
いつも通りの独特なデザインのシャツを着て、既に闘志全開といった様子だ。
「軍覇、よく来たねえ!」
「おう!約束どおりだ!!」
軍覇は拳を打ち鳴らし、周囲を見渡す。
「お前らも鍛えてんのか!いい心意気だな!!」
「......3Gだけど」
美琴が言うと、軍覇は一瞬きょとんとしたあと、豪快に笑った。
「十分だ!!最初はそこからだな!!」
そして、視線を結絆に戻す。
「で、結絆!さっきまでどこでやってた!?」
「隣の重力室だよお」
結絆は、悪戯っぽく笑った。
「俺はさっきまで1億Gでやってたけど、軍覇も根性ですぐに適応できると思うよお」
「最高じゃねェか!! 行こうぜ!!」
結絆の言葉に軍覇は驚くどころかむしろやる気を見せている。
「え、ちょっと!?」
美琴が止める間もなく、軍覇は結絆の肩を掴む。
「案内してくれ!!」
「お任せあれ」
結絆は軽く手を振り、三人に向かって言った。
「続きはまた後でねえ」
「無事だったら、ね......」
美琴の不安げな声を背に、二人は重力室へ向かう。
再び、最大1億G対応の重力室。
制御室では沙羅がモニターを立ち上げ、二人を迎えた。
「......本当にやるのね」
「任せろ!!」
軍覇は腕を組み、仁王立ちになる。
「まずは、軽く行こうかあ」
10G。
「おお!来たな!!」
100G。
「まだまだだァ!!」
1000G。
床が低く唸る。
通常なら、この時点で命はない。
だが軍覇は――歯を食いしばり、笑っていた。
「これは......効くな!!」
「いいねえ、その調子だよお」
10000G。
軍覇の足が、わずかに沈む。
筋肉が張り詰め、血管が浮き上がる。
「ぐ......!」
それでも、倒れない。
「根性だ!!」
100万G。
沙羅が思わず数値を二度見する。
「......信じられない」
軍覇は、全身を震わせながらも、拳を握り続けていた。
「理由は......ねェ!!」
1000万G。
結絆は、横で静かに立っている。
「ほら、来てる来てる」
「しゃあああ!!」
5000万G。
空間が軋む。
そして......
「......1億G、行くわよ」
沙羅の声が、わずかに硬くなる。
1億G。
想像を絶する圧倒的な圧力。
だが軍覇は、膝をつきそうになりながらも、吠えた。
「うおおおおおお!!」
彼は......立っている。
「......」
制御室で、沙羅は完全に沈黙した。
十秒程たって、ようやく口を開く。
「......結絆君が環境に適応していくメカニズムは、ちゃんと論理だてて説明できるわ」
モニターに映る数値を見つめながら、続ける。
「でも......軍覇君については、さっぱりよ」
「ははは!!」
軍覇は笑った。
「細けぇことは気にすんな!!」
「......それを気にするするのが科学者なの!」
結絆は軍覇を見て、楽しそうに笑う。
「やっぱり、いいねえ」
理論と根性。
正反対の二人が、同じ重力に立ち向かっている光景を眺めながら、沙羅は頭を抱える。
1億G。
それはもはや「重い」という言葉で表現できる領域ではなかった。
空間そのものが鉛の塊になったかのように、存在するものすべてを押し潰そうとする圧。
それでも。
「......そろそろ大丈夫そうかなあ」
結絆は軍覇が重力に適応したことを確認して笑顔になる。
「ねえ軍覇」
「おう?」
「もっと重力に慣れるためにさあ、この1億Gの空間で軽く組み手をしようかあ」
一瞬、制御室が静まり返る。
「......軽く?」
沙羅が小さく眉をひそめた、その直後。
「ははっ!!」
軍覇が豪快に笑った。
「面白ぇ!!やろうぜ結絆!!」
「即答だねえ」
「俺たちにとっては、最高の状況だろ!!」
沙羅は深く息を吸い、二人を睨むように見つめた。
「......いいわ」
二人の視線が向く。
「ただし」
沙羅ははっきりと言った。
「重力室の壁に、攻撃の余波が飛ばない程度にするのよ。壊れたら直すの大変なんだから」
「わかったよお」
「任せろ!!」
その返答の軽さに沙羅はため息をつく。
結絆と軍覇は、ゆっくりと向かい合う。
1億Gの中では、ほんの一歩動くことすら常人には不可能(というより、そもそも存在を保つことすらできない)。
だが二人は、自然に立ち、自然に構えた。
「じゃあ......」
結絆が、軽く拳を握る。
「始めようかあ」
「おう!!」
次の瞬間。
消えた。
そう錯覚するほどの速度で、軍覇が踏み込む。
1億G下での踏み込み
本来なら、身体は自壊する。
だが軍覇の脚は、軽く床をへこませるだけで耐えた。
「おおおっ!!」
豪快な正拳突き。
結絆はそれを、片手で受け止める。
衝撃は外へ逃げず、二人の身体の中だけで相殺される。
「いいねえ......!」
「まだまだぁ!!」
軍覇は拳を引き、肘、肩、体重すべてを乗せた連撃を叩き込む。
重力がある分、一撃一撃の重さは天文学的。
だが結絆は、最小限の動きで捌く。
「無駄がないねえ」
「理屈は知らねぇ!!」
軍覇が吼え、回し蹴りを放つ。
結絆は身体を沈め、すれ違いざまに肩を当てる。
ドン。
音は、低く、短い。
軍覇の身体が押し戻された。
「......っ!!」
それだけで、尋常ではない。
1億Gの中で「押し戻す」など、本来あり得ない。
沙羅は、モニターを食い入るように見つめていた。
「......本当に周囲に被害は出てないみたいね」
余波は、壁に一切届いていない。
それどころか、重力室の構造材が悲鳴を上げていない。
「結絆君......」
呟きが漏れる。
一方、軍覇は笑っていた。
「くぅ......やっぱり親友は最高だな!!」
「軍覇も、もうだいぶ慣れてきてるねえ」
「根性でな!!」
二人は再び踏み込む。
拳と拳がぶつかり、肘と肘がぶつかる。
そのたびに、1億Gの圧力が歪む。
だが、壊れるものは何もない。
壊れないように制御し、受け止め、流し、返す。
それができるからこそ、この組み手は成立していた。
「......信じられない」
沙羅は、完全に研究者の顔になっていた。
「1億G下で、出力を制限しながら組み手をするなんて......」
数分後。
二人は、同時に一歩引いた。
「ここまでにしようかあ。これ以上やると抑えが利かなくなって設備を壊しちゃうからねえ」
「だな」
軍覇は拳を握り、満足そうに笑う。
「いやー、最高だったぜ!!」
「いい適応トレーニングになったねえ」
1億Gの中で、普通に会話を交わす二人。
沙羅は、深く息を吐いた。
「......二人とも、本当に規格外ね」
既存の理論で説明できる者と、理論を根性で踏み潰す者。
1億Gという狂った環境の中で組み手を成立させた二人を見つめながら、沙羅は確信していた。
この重力室は、まだ進化する。
そして、それに適応する存在もまた。
重力室のハッチが、低い駆動音を立てて開いた。
外に出た瞬間、体がやけに軽く感じられる。
「......ふう」
結絆が軽く肩を回す。
「いやあ、楽しかったねえ」
「おう!!」
軍覇は大きく腕を振り回し、豪快に笑った。
「最高だったな結絆!!あの重力の中で動けるなんてな!!」
「軍覇も凄かったよお。最初は動くだけでも大変そうだったのに、後半は完全に馴染んでたからねえ」
「根性だ!!」
即答だった。
「理屈は分かんねえが、身体が『こう動け』って言ってきたからな!!」
「それが一番厄介で、一番強いタイプだねえ」
二人は自然と拳を合わせる。
ごく軽い動作。
だがそこには、1億Gを共有した者同士にしか生まれない信頼があった。
その様子を、少し離れた場所から沙羅が見ていた。
「......まったく」
呆れたように、けれどどこか誇らしげに小さく息を吐く。
「怪物が二人揃うと、施設の方が先に音を上げるわね。これ以上続けるようだったらストップをかけてたわ」
結絆と軍覇がそれに気づき、軽く手を振る。
「ありがとう、沙羅」
「助かったぜ、博士!!」
「どういたしまして」
沙羅は得られたデータを見て考えるのを半ば放棄した。
「なあ結絆」
軍覇がにっと笑う。
「ん?」
「飯、食いに行こうぜ!」
「いいねえ!!」
結絆は即答だった。
「ちょうど腹が減ってきたんだよねえ」
「決まりだな!!」
結絆が1時間前に恋人たちの手料理を20キロ近く食べていたことを忘れてはいけない。
二人は並んで歩き出す。
「結絆君」
「どうしたの、沙羅?」
「あなたたちが食事している間に、重力室の修繕と改良をやっておくわよ」
結絆は足を止め、振り返る。
「無理しなくていいんだよお?」
「無理じゃないわ」
沙羅は少し頬を赤く染めながら続ける。
「結絆君のためなら容易いことだから」
その言葉を聞いた結絆は分身の魔術を使った。
空間が揺らぎ、結絆の分身体が次々と姿を現す。
「じゃあ任せるよお。愛してるよ、沙羅」
「ええ」
沙羅は分身体たちに指示を出し始める。
「まず耐衝撃層の再構築。それから、重力変動時の応力分散......」
結絆と軍覇は、沙羅に深く感謝しながらトレーニングルームを後にした。
「うおお!!この匂い、たまんねえな!!」
マジックシアター内に出店しているレストラン街。
和・洋・中・エスニック、果ては異世界料理まで揃うこの一角は、訓練後のすっからかんになった胃袋にとって天国だった。
「まずはここかなあ」
二人が最初に入ったのは、ステーキ専門店。
「いらっしゃいませ、オーナー様にご友人様。注文はいかがなさいますか?」
「二人とも、一番大きいサイズを頼むよお」
「焼き加減はどうなさいますか?」
「任せるよお」
鉄板の上で肉が焼ける音が響く。
「くぅ〜!!」
軍覇が目を輝かせる。
「トレーニング後の肉は最高だなぁ!!」
「だねえ」
二人は肉を食べやすいサイズに切り分け、豪快に口に運ぶ。
「......うっめぇ!!」
「......最高だねえ!」
そこからが本番だった。
次はラーメン。
次は海鮮丼。
次は異世界スパイスの効いた串焼き。
「まだまだ行くぞ!!」
「もちろんだよお」
笑いながら、店をはしごしていく。
一方その頃。
重力室では、沙羅と結絆の分身体たちが忙しく動いていた。
「ここ、耐久値が限界ギリギリね」
「了解。補強するよお」
「次は制御系。ひとまずの目標は1兆Gよ」
分身体が淡々と作業を進める。
「......結絆君の適応は理解できる」
沙羅は独り言のように呟く。
「でも、軍覇君は本当に......」
解析不能。
だからこそ、研究のしがいがある。
沙羅は小さく笑った。
「次は、二人が全力で組み手をしても大丈夫なように調整しないとね」
その頃、結絆と軍覇はデザートに突入していた。
半熟カステラの濃厚な甘さに二人は舌鼓をうつ。
「なあ結絆」
「ん?」
「またやろうぜ、重力室の組み手」
「勿論、お互い慣れてきたから、次はもう少し長くやりたいねえ」
二人は笑い、スプーンを手に取る。
怪物たちは、こうして静かに、しかし確実に次の段階へ進んでいく。
結絆も軍覇も化け物ですね。