夜の病院は、不気味なほど静まり返っていた。
外では台風の暴風が唸り、遠くではヴェントによる破壊の余波が空を赤く染めている。
だがこの一角だけは、嵐の目のように張り詰めた静寂に包まれていた。
その静寂を破ったのは、無音の侵入。
猟犬部隊――ハウンドドッグ。
木原数多率いる、アレイスター直属の暗部組織。
完全武装の隊員たちが、夜陰に紛れて病院内部へと雪崩れ込む。
ナイトビジョン、消音火器、対能力者用装備。
訓練された動きに無駄はない。
「目標は打ち止めだ。確保後、即時撤収しろ」
木原数多が低く言う。
その目は冷酷に冴えている。
「一方通行が出てきた場合は?」
「俺がやる。テメェらは目標の達成だけを考えとけばいい」
足音が廊下に響く。
だがその瞬間......
「......オイオイ」
階段の踊り場から、気だるげな声が落ちてきた。
一方通行。
白い髪を揺らし、ポケットに手を突っ込んだまま立っている。
「ずいぶん堂々と来るじゃねェか、木ィ原クンよォ」
猟犬部隊の銃口が一斉に向けられる。
だが木原は手で制した。
「待て」
そして薄く笑う。
「打ち止めを引き渡せば、見逃してやる。今回の目的はあくまであのガキだ。お前を殺すつもりはねぇよ」
静寂。
その言葉に、一方通行は数秒沈黙した。
やがて......
「......はァ」
深いため息。
「あいつの言った通りになっちまったなァ」
その顔に浮かんだのは、怒りではない。
憐れみ。
「残念だったな。あのガキはここにはいねェよ」
「あぁ?」
木原の眉がわずかに動く。
「マジックシアター......食蜂結絆が預かってるって言った方がわかりやすかったかァ?」
木原の表情が歪む。
木原は過去に結絆の逆鱗に触れてしまい、両腕を引きちぎられたことを思い出した。
一方通行は肩をすくめる。
「テメェらの動きなんざ、読まれてンだよ」
空気が変わった。
次の瞬間、多数の銃声。
だが弾丸は一方通行の能力によって、すべて反射される。
撃った本人の額へと、正確に返る。
血飛沫が舞い、猟犬部隊の隊員が次々に倒れていく。
「状況を立て直すぞ!」
隊員の叫び声が聞こえる。
しかし一方通行は一歩も動かない。
床を踏み鳴らしただけで、圧縮された空気が爆ぜ、隊員数名が壁へ叩きつけられる。
骨が砕ける鈍い音がする。
「能力を無効化する装置を!」
「遅ェ......」
一方通行の瞳が赤く光る。
摩擦、重力、空気の流れ。
すべてが彼の掌中。
隊員が投げた手榴弾が、起爆前に反転し、投擲者の足元で炸裂する。
悲鳴。
血と煙が廊下を満たす。
そして、一方通行の後ろに立つ少女。
エステル。
静かに両手を組み、呟く。
床に倒れた猟犬部隊の死体が、ぴくりと震えた。
白目を剥いたまま、ゆらりと起き上がる。
「な......!?」
生き残った隊員が後ずさる。
だが遅い。
死体が、銃を構えたままの隊員へと飛びかかる。
「どうなっているんだ、味方が......」
エステルの死霊術。
死者が、生者を襲う。
一方通行はそれを横目に、無表情で言う。
「自業自得だなァ」
次々と絶命していく猟犬部隊の隊員たち。
血の匂いが濃くなる。
木原数多の額に、冷や汗が滲んだ。
「......クソが」
それでも、彼は退かない。
「調子に乗るなよ、一方通行」
木原の目に狂気が宿る。
「テメェは俺が育てた実験動物だ。勝てると思うなよ」
床を蹴る。
凄まじい踏み込み。
常人離れした速度で、一方通行へと殴りかかる。
拳が唸りを上げ、空気を裂く。
一方通行は、その拳を無表情で見つめていた。
血と硝煙の匂いの中。
二人の衝突が、今まさに始まろうとしていた。
木原数多の拳が唸る。
その踏み込みは鋭く、無駄がない。
猟犬部隊の隊員とは比較にならない速度と重さ。
研究者とは思えぬ実戦的な動きだった。
「死ね、一方通行!」
拳が一直線に一方通行の顔面へ向かう。
だが木原は、ただの力任せではない。
接触寸前に、ほんの数センチ手前で拳をわずかに“引いた”。
一方通行の能力の一部である反射は、触れた瞬間のベクトルを計算し、逆向きへ返す。
それを逆手にとって、当たる直前に拳を引き、遠ざかるベクトルとして認識させることによって、衝撃を通す。
理論上可能ではある。
だが、できる人間はそう多くない。
かつての一方通行なら、対応できなかったかもしれない。
木原の口元が歪む。
「これがテメェの......」
木原が自らの勝ちを確信しかけた瞬間、ゴキリ、と嫌な音が廊下に響いた。
木原の表情が凍る。
機械でできた腕が、あり得ない方向へ曲がっていた。
「......はぁ!?」
拳は、一方通行に触れていない。
むしろ、引いた瞬間に、逆向きの圧縮が発生していた。
腕全体が、自らの力で内側へ叩き潰されたかのように。
一方通行は、冷めた目で見下ろす。
「甘ェンだよ」
「な......!」
木原が呻く。
「その手は、もう知ってンだ」
脳裏に浮かぶのは、あの男の顔。
食蜂結絆。
学園都市一の身体能力を持つ彼から何気なく言われた言葉。
『遠ざかるベクトルを反射すると、自分が食らう可能性があるよお。あとねえ、演算に組み込んでいない概念は、完全に無効化するはできない。こんな感じにねえ』
反射を複数の方法で破られた衝撃は、今でも忘れられない。
結絆は、反射の“穴”を的確に示してくれた。
「確かに反射は万能じゃねェ。でもよォ、見つけた穴をそのままにするわけがねェだろうがよォ」
一方通行の瞳が赤く光る。
「引きの動きも、遠ざかるベクトルも、全部演算対象に組み込ンでンだよ」
木原の腕が、さらに軋む。
反射が、わずかな動きも逃さず解析し、最適な圧力へ変換する。
「テメェの見るに堪えねェ体術は......通用しねェ」
一方通行が一歩踏み出す。
床がひび割れ、拳が振るわれる。
空気の塊が木原の腹部へ叩き込まれ、身体が廊下の壁へ激突した。
コンクリートが砕け、粉塵が舞う。
木原が血を吐く。
「ゴホっ......!」
木原は立ち上がろうとするが、その頭上から、重力がのしかかる。
膝が床に沈む。
「テメェは俺を実験動物にした」
無表情のまま、一方通行は木原の顔面を蹴り上げる。
骨が砕ける音。
「だがなァ、俺は......もう、その檻の中にはいねェ」
さらに拳。
さらに蹴り。
木原の身体が何度も床を転がる。
血と埃にまみれた研究者は、それでも歯を食いしばる。
一方通行の脳裏に、結絆の笑顔が浮かぶ。
打ち止めを預かる時の、あの余裕の表情。
“任せていいよお”
その一言。
「......チッ、全部お見通しってことかよォ」
一方通行は木原の胸倉を掴み、壁へ叩きつける。
「テメェらの計画は全部読まれてンだ。打ち止めも、妹達も、俺たちが守る」
圧縮された空気が、木原の身体を締め上げる。
骨が軋む。
呼吸が奪われる。
「終わりだなァ......」
廊下には、猟犬部隊の死体と、エステルの操る死者たちが転がっている。
嵐の音が窓を叩く。
その中心で、一方通行は静かに立っていた。
もはや実験体ではなく、守る側の怪物として。
時を同じくして......
暴風雨の中、マジックシアターの正面広場に黒い影が集結していた。
猟犬部隊。
病院へ向かったものとは別の分隊。
目標はマジックシアター内部の妹達。
「突入と同時に確保を急げ。ドリームの能力者が出てくる前に終わらせるぞ」
隊長格の男が低く告げる。
巨大な建造物は、嵐の中でも揺るがない。
外壁は淡く光り、どこか異質な気配を放っている。
「......不気味だな」
「ビビるな。相手は人間だ」
隊員たちは覚悟を決め、突入体勢に入る。
その瞬間......
重厚な正面扉が、音もなく内側へ開いた。
明るいロビーの光が、雨の闇を裂く。
現れたのは、二人の女性。
白衣を身に纏った沙羅。
そして、艶やかな黒髪を揺らす白羽。
「......いらっしゃい、歓迎するつもりはないけれど」
二人は静かに微笑む。
猟犬部隊は即座に銃口を向けた。
「動くな!両手を上げろ!」
だが。
引き金にかけた指が、動かない。
「なっ......!?」
隊員たちの身体が、ぴたりと止まる。
呼吸はできる。視線も動く。
だが筋肉が、体が動かない。
白羽が一歩、前へ出る。
「暴力は......いけませんよ」
その声は優しい。
だが、周囲の空気が凍る。
九尾の力。
白羽の背後に数えきれないほどの妖怪たちが見えた気がした。
「か、体が......!」
「安心してください。命までは取りません。私たちは......」
白羽が微笑む。
その隣で、沙羅が小さく息をついた。
「さて」
彼女の指先がわずかに動く。
空間が歪む。
次の瞬間。
猟犬部隊の装備――銃火器、ナイフ、爆薬、通信機、対能力者拘束具――すべてが、忽然と消えた。
「......は?」
手にあったはずの銃がない。
背負っていた装備も、腰のホルスターも、空だ。
沙羅は淡々と説明する。
「地下の技術部門に送っておいたわ。良いサンプルになりそうね」
隊員たちの顔が青ざめる。
丸腰。
そして身体はまだ動かない。
白羽が、そっと金縛りを緩めた。
体が動くようになった。
だが、武器はない。
沙羅は優雅に一歩近づき、皮肉っぽく微笑んだ。
「頑張って生き延びなさい、すぐに死んだら面白くないもの」
「......?」
その言葉の意味を理解する前に。
視界がぐにゃりと歪み、足元の感覚が消える。
次の瞬間。
猟犬部隊は、別の場所へ立っていた。
湿った土の匂いと安全柵。
いたるところから低く唸る声が響く。
「......ここは」
猛獣ゾーン。
目の前で大きな瞳が光る。
レグルス。
天衣装着を扱う巨大なトラが、ゆっくりと首を傾げる。
その背後には、ライオン、オオカミ、そしてグリズリー。
他にも筋肉の塊のような猛獣たちが、静かに彼らを見下ろしている。
「お、おい......冗談だろ......」
隊員の一人が後ずさる。
だが柵の外側から、白羽の声が届く。
「直ぐに殺してはいけませんよ、レグルス」
「そうだな、いきなり食ってしまっては面白くない」
レグルスはそう言って、後ろに控える猛獣たちに目配せする。
「逃げ道は自分たちで探しなさい。運が良ければ助かるかもしれないわね」
沙羅の皮肉混じりの声を合図に、猛獣たちが一歩、前へ出る。
猟犬部隊は完全に丸腰。
訓練された兵士たちの顔に恐怖が浮かぶ。
レグルスが大きく口を開き、咆哮する。
夜の嵐に、獣の声が混ざる。
沙羅は静かに踵を返す。
白羽も微笑みながら続く。
背後で、悲鳴と猛獣の唸り声が響いた。
沙羅と白羽の本格的な戦闘シーンは、結構後に書く予定です。