ヴェネツィア風に整えられた室内で、しばらく寄り添っていた二人。
夕焼け色の光がゆっくりと夜へ移り変わる中、結絆は看取のことを抱きしめたまま、小さく息をついた。
「......はあ」
「なに、そのため息」
看取がくすっと笑う。
「幸せすぎて現実に戻れなくなりそうだねえ」
「それは流石に言いすぎ」
そう言いながらも、看取の指先は結絆の髪を優しく梳いている。
ふと、その手が止まった。
「......結絆さん」
「うん?」
「お腹、鳴ったわよ」
一瞬の沈黙。
そして。
「おっと」
結絆はきょとんとする。
次の瞬間、ぐう、と遠慮のない音が静かな室内に響いた。
「......」
「......」
看取は堪えきれずに笑い出す。
「ロマンチックな空間が台無し」
「今日は朝からいっぱい働いたし、書類も片付けたからねえ......」
「はいはい」
看取は一歩離れ、腕を組む。
「昼食、ちゃんと食べてないんでしょ?」
「まあ......朝食の味噌汁以降は......」
「やっぱり」
少し呆れたように、それでもどこか嬉しそうにため息をつく。
「トンカツ、作ってあげる」
「え?」
結絆の目がぱっと輝く。
「本当に?」
「ちゃんと全部食べること!」
「約束するよお」
魔術で整えたイタリア風の内装は一旦解かれ、結絆の自室はいつものマジックシアター仕様に戻る。
看取はドレスから着替え、代わりにシンプルなエプロン姿になる。
白いエプロンをきゅっと結ぶ仕草が、妙に様になっている。
その姿を見た瞬間、結絆の胸に温かなものが広がった。
「......どうしたの、結絆さん?」
視線に気づいた看取が振り返る。
「いやあ」
結絆は頬を緩める。
「幸せだなあって思って」
「急にどうしたの?」
「さっきまで舞踏会みたいだったのに、今はエプロン姿でご飯作ってくれるんだよお?」
「落差が激しいって言いたいの?」
「俺はどっちも好きだよお」
即答。
看取の耳がほんのり赤くなる。
「......調子いいわね」
豚ロースに塩胡椒を振り、小麦粉をまぶす。
卵液、そしてパン粉へ。
結絆はその動きをじっと見守っている。
「パン粉、もう少し足すかい?」
「お願い」
すっと差し出されるボウル。
「トング持ってこないと......」
「はい」
結絆は的確なタイミングで、看取に調理器具などを渡す。
「......なんでそんなにタイミングいいの」
「長い付き合いだからねえ」
「怖いくらい読まれてる気がする」
油に入れた瞬間、じゅわっと音が広がる。
香ばしい匂いがキッチンを満たす。
結絆はコンロの火加減を微調整する。
「温度、ちょっと上げたほうがいいかも」
「ちょうど言おうと思ってた」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
揚げ時間を計り、きつね色に変わったところで引き上げる。
サクッという音が期待を高める。
「キャベツ、もう切ってあるよお」
「いつの間に」
「さっきのうちに」
「本当に抜け目ないんだから」
包丁を洗い、皿を並べ、ソースを用意。
まるで長年連れ添った料理人コンビのような息の合い方だ。
やがて。
「できた」
黄金色に輝くトンカツ。
湯気が立ちのぼり、香りが食欲を刺激する。
結絆は手を合わせる。
「いただきます!」
一口。
サクッという軽快な音。
肉汁がじゅわっと広がる。
「おおぉ......美味しいねえ」
思わず目を細める。
「本当に?」
「うん。最高だよお」
看取は少し照れたように視線を逸らす。
「ちゃんと噛んで食べなさいよ」
「わかってるよお」
向かいに座った看取も、自分の分を口にする。
結絆は夢中で食べながら、ふと顔を上げる。
「ヴェネツィアの夜も素敵だったけどお......今の方が好きかなあ」
看取がきょとんとする。
「どうして?」
「こうやって、エプロン姿でトンカツ作ってくれて、一緒に食べる時間のほうが、ずっと贅沢だからねえ」
看取はしばらく何も言わなかった。
やがて、ふっと笑う。
「......本当にずるい人」
「褒めてるのかい?」
「褒め言葉よ」
外ではまだ復旧作業の音が響いている。
街は完全には戻っていない。
けれど、このキッチンには温かな日常がある。
サクサクとした音と、穏やかな会話。
結絆は満たされた表情で、もう一切れを口に運んだ。
「やっぱり、看取のトンカツは最高だねえ」
「ありがと。おかわりいる?」
「もちろん!」
笑い声が、夜のマジックシアターに優しく広がっていった。
トンカツの皿が空になり、湯呑みの中身も飲み干した頃。
結絆は満足げに背もたれへ身を預けた。
「はあ......幸せ」
「大げさね」
看取は食器を片付けながら微笑む。
「でも、いい顔してる」
「看取のご飯の効果だよお」
「はいはい」
その後、洗い物を終えた看取は、ふと結絆を見る。
「結絆さん......まだ時間ある?」
「大丈夫だよお。今日は完全オフだし」
「じゃあ」
看取は小さく笑った。
「バー、開けましょうか」
マジックシアター最上階。
大きなガラス窓から学園都市の夜景を一望できるバーラウンジ。
結絆がソファに腰を下ろした頃、奥の扉が開く。
「お待たせ」
現れた看取は、先ほどのエプロン姿とはまるで違っていた。
黒を基調としたバーテンダー衣装。
細身のベストに白いシャツ、蝶ネクタイ。
髪もきちんとまとめられ、洗練された雰囲気を纏っている。
「......」
結絆は一瞬言葉を失う。
「どう?」
「完璧だねえ!」
即答だった。
「さっきは家庭的で、今はプロのバーテンダーって......振れ幅すごいねえ」
「今日はサービスデーだから」
看取はカウンターの内側に立ち、氷をグラスへ落とす。
カラン、と澄んだ音が響く。
「結絆さんは何にする?」
「看取に任せるよお」
「逆に困っちゃうんだけど......」
シェイカーに氷とリキュールを注ぎ、軽やかに振る。
リズミカルな音が夜の空間に溶けていく。
結絆はその姿を、うっとりと眺めていた。
「本当に何でもできるねえ」
「あなたが無茶振りするから鍛えられたのよ、趣味もあるけど」
看取は元々コスプレが趣味だったが、結絆と接しているうちに様々なことができるようになっていた。
シェイカーを開け、グラスに注ぐ。
淡い琥珀色のカクテルが、光を受けてきらめく。
「これは?」
「少し甘めのやつ。今日みたいな夜向け」
もう一つのグラスには、看取自身の分。
透明感のあるドリンクが氷の間で静かに揺れる。
カウンター越しに、二人は向かい合う。
「それじゃ」
看取がグラスを持ち上げる。
「今日一日、お疲れさま」
「お疲れさま」
カチン、と軽く触れ合う音。
二人はゆっくりと口をつける。
「......この場所の雰囲気とマッチしてて最高だねえ」
「よかった」
窓の外に目を向ける。
壊れたビルの周囲にはすでに足場が組まれ、新しい外壁パネルが運び込まれている。
道路の穴も半分以上は埋め戻され、交通整理の光が整然と並んでいた。
「早いよねえ」
結絆が呟く。
「昨日まで瓦礫だらけだったのに」
「学園都市の本気はすごいわ」
看取も頷く。
「結絆さんの指示が的確だったから、一週間後には元通りになってそう」
「そんなに?」
「資材の優先順位も、人員配置も、無駄がなかったから」
結絆は少し照れたように視線を逸らす。
「みんなが動いてくれたからだよお。俺一人じゃ無理だねえ」
「でも、方向性を示したから早く進んでるのよ」
看取は穏やかに言う。
夜景が二人の横顔を照らす。
傷跡はまだある。
だが、そこには再生の光が確かに宿っていた。
「街も、僕たちも、結構タフだよねえ」
結絆がグラスを回す。
「ボロボロになっても、ちゃんと立ち上がる。そういう場所を選んで、私たちはここにいるんでしょ?」
「そうかもねえ」
結絆は微笑む。
「......でも」
看取がカウンター越しに身を乗り出す。
「うん?」
「無理はしないで、結絆さんが倒れたら、意味ないんだから」
真っ直ぐな視線。
「わかってるよお」
結絆は立ち上がり、カウンターを回り込む。
看取の隣に立ち、同じ夜景を見る。
「だから最近はこうやって休む時間も増やしてるよお」
「ならいいわ」
二人は肩を並べる。
グラスの中の氷が静かに溶ける。
遠くでクレーンが動き、新しい外壁が取り付けられていく。
「本当に、一週間後には元通りかもねえ」
「ええ。きっと」
結絆はそっと看取の手に触れる。
「そのときは、またここで乾杯しようかあ」
「復興祝い?」
看取は微笑む。
「約束ね」
夜景の向こうで、学園都市は着実に再生していた。
その光を眺めながら、二人は静かにグラスを傾け続けた。
結絆と看取は、並んでグラスを傾けていた。
氷が溶ける音が、小さく響く。
「......結絆さん」
看取が、ふと視線を落とした。
「どうしたんだい?」
「明日から、アメリカなんでしょ」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
「美琴と一緒に超能力の実演をやってくるよお。」
結絆は頷く。
「一週間くらいかなあ。向こうのスポンサー向けデモと、技術交流会も兼ねてるからねえ」
看取はグラスの縁を指でなぞる。
「忙しそうね」
「まあ、それなりに」
沈黙が落ちる。
外では作業用のライトが動き、クレーンの先端がゆっくりと回転する。
「少しだけ......寂しいわね......」
看取は小さく息を吐く。
その横顔は、いつもの凛とした表情よりも柔らかく、どこか心細そうだった。
結絆はその変化にすぐ気づく。
「看取」
「なに?」
「分身体の維持は問題ないから、寂しい思いはさせないよお」
穏やかな声。
「向こうで本体が動いてても、こっちに分身体を常駐させておける。感覚も共有できるし、会話もできる」
正直な言葉だった。
結絆はグラスを置き、看取のほうへ向き直る。
「確かに、物理的には離れる。でも......」
そっと看取の頬に手を伸ばす。
「俺はどこにいても、看取のことを考えてるよお」
視線が重なる。
夜景の光が二人の瞳に映る。
「だから」
結絆は優しく微笑む。
「寂しくさせない」
そして、そのままそっと唇を重ねた。
不意打ちのようでいて、どこまでも自然な動き。
看取の肩がわずかに震え、やがて力が抜ける。
唇が離れたあと、看取は結絆を見つめた。
「......ずるい」
「何が?」
「そういうこと、さらっと言って」
けれど、その表情は先ほどよりも明らかに柔らかい。
不安の影は薄れ、代わりに安堵が宿っている。
「安心したかい?」
「少しはね」
看取は小さく笑う。
「分身体がいるなら、ちゃんと様子も見られるし」
「わかったわ。そうそう、向こうで無茶しないこと!御坂さんを困らせないように!」
「善処するよお」
「“善処”じゃなくて、ちゃんと守りなさい!」
「わかったよお」
素直な返事に、看取はくすっと笑った。
二人は再びグラスを持ち上げる。
今度は軽く触れ合わせず、それぞれ静かに口をつける。
「帰ってきたら、また唐揚げとトンカツ作ってあげるから」
「本当かい!?」
「アメリカで頑張ってきたご褒美として」
結絆の目が輝く。
「頑張る理由が増えたねえ」
「結絆さんってそういうところが単純なんだから」
でも、どこか嬉しそうだ。
しばらく二人は、他愛のない話を続ける。
アメリカの気候のこと。
お土産は何がいいかという話。
復旧が進む街の未来。
「戻ってくる頃には、きっと、もっと景色が変わってるわね」
「そうだねえ」
「そのとき、またここで乾杯しましょう」
「約束だねえ」
結絆はそっと看取の肩を抱く。
看取も自然に寄り添う。
夜景の向こうで、学園都市は静かに再生を続けている。
そしてこのバーラウンジでは、二人の時間が穏やかに流れていた。
「行ってらっしゃいは、明日言うから」
「うん」
「今日はまだ、隣にいて」
「もちろん」
グラスの中の氷が、最後に小さく音を立てた。
二人は寄り添ったまま、言葉を交わし続ける。
離れる前の夜は、静かで、温かかった。
次回からは番外編を少し挟んで、結絆と美琴がアメリカに行く話を書こうと思っています。
どちらもオリジナルストーリーです。