0930事件の翌日の話です。
旅の始まり
マジックシアターの居住エリアは、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
「パスポートよし、招待状よし、実演用のデータ端末も......ちゃんとあるわね!」
スーツケースを開いたまま、御坂美琴は何度目かの確認をする。
真剣な横顔にはほんのわずかな高揚が混じっていた。
その向かいで、食蜂結絆は壁にもたれながら、軽く腕を組んでいる。
「美琴、三回目だよお。そんなに心配しなくても大丈夫だってえ」
「だって今回はアメリカよ?ただの旅行じゃないんだから」
二人が向かうのはアメリカ。
超能力実演の特別ゲストとして招待され、現地の研究機関やメディアの前で能力の公開実験を行うことになっているのだ。
結絆については大統領との会談も控えているため、全世界から注目を集めることになるだろう。
「まあねえ。でも、俺と美琴が揃ってるから失敗なんてするわけないよねえ」
結絆が軽く笑うと、美琴は頬をわずかに赤らめる。
「......そういうこと平然と言うの、ずるいわよ」
「事実だからねえ?」
美琴は小さくため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。
荷物の最終確認を終えると、二人はリビングへと向かう。
そこには、見送りの面々が揃っていた。
橘沙羅――学園都市屈指の空間移動能力者にして結絆の恋人である彼女は、いつもの冷静な表情で立っている。
「結絆君、現地の研究機関とは私の方でも連絡を取ってあるわ。何かトラブルがあればすぐに空間移動で向かうから」
「ありがとう、沙羅。頼りにしてるよお」
その隣には、艶やかな黒髪を揺らす九尾の狐・白羽。
「どうかお気をつけて。結絆様も、美琴さんも......無理はなさらないでくださいね」
優しい声に、美琴は少し照れながら頷いた。
さらに帆風潤子をはじめとしたドリームの女性陣も並び、どこか寂しげな空気を漂わせている。
「結絆さん、しばらく会えないですね......」
「実演が終わったらすぐ戻るよお。そんな顔しないで」
そう言いながらも、結絆の視線は皆を一人一人丁寧に見渡していた。
恋人たちの表情は明らかに寂しそうだった。
特に白羽は、静かに微笑みながらも、どこか心細さを隠しきれていない。
美琴はその空気に少し気圧されながらも、ぎゅっとスーツケースの取っ手を握る。
「......ちゃんと帰ってくるわよ。二人で、最高のパフォーマンスをして」
「ええ。あなたならできるわ、美琴ちゃん」
沙羅が小さく微笑んだ。
名残惜しい空気が流れる中、結絆が軽く手を振る。
「じゃあ、行ってくるねえ」
二人は居住エリアを出て、広大な施設のロビーへと歩き出す。
背後から視線を感じながらも、振り返らない。
二人は待機していた専用車両に乗り込み、空港へと向かう。
車が見えなくなるまで、見送りの面々はその場に立っていた。
「......やっぱり、“少し”寂しいものですね」
帆風がぽつりと呟く。
白羽も静かに頷く。
だが、その瞬間
「いやあ、別れのシーンって感動的になりがちだけど、分身の魔術があるといろんな意味で感動的にはならないねえ」
背後から聞き慣れた声が響いた。
一同が振り向くと、そこには食蜂結絆が立っている。
いや、正確には、その“分身体”が立っているといった方がいいだろう。
「お兄様......」
操祈がため息をつく。
分身体の結絆は肩をすくめる。
「本体はもう少しで空港に着く頃かなあ。でも、俺はここにいるし、寂しい思いはさせないよお」
その言葉に、重苦しかった空気が一気に緩む。
「本当に便利な能力ね。わかってはいたけど、感傷に浸る暇もないわ」
沙羅が小さく笑う。
「ええ......ですが、それもまた結絆様らしいです」
白羽もくすりと笑った。
「これなら涙も引っ込みますね」
帆風は安堵の息をつく。
分身体の結絆は両手を広げた。
「というわけで、通常営業再開だよお。俺はちゃんとここで皆と過ごすからねえ」
その軽やかな調子に、恋人たちの寂しそうな表情はすっかり消えていた。
一方その頃、空港へ向かう車内で、美琴は窓の外を眺めている。
「......あんなに寂しそうな顔して、みんな大丈夫かしら」
結絆は小さく笑った。
「心配いらないよお。“俺”がフォローしてるからねえ」
美琴は一瞬きょとんとした後、意味を察して吹き出す。
「ほんと、規格外なんだから」
やがて車は学園都市の空港へ到着する。
これから始まるアメリカでの実演。
世界に向けた超能力の披露。
だがその前にあるのは
「ねえ、結絆」
「ん?」
「......二人っきりで海外って、ちょっとだけ特別よね」
結絆は少しだけ目を細める。
「そうだねえ。大変なことも起こると思うけどお、せっかくだし楽しもうかあ」
美琴は小さく頷き、胸を張る。
世界の舞台へ向かう二人の背中には、不安よりも期待が宿っていた。
学園都市の空港は、近未来的なガラス張りの天井から日が差し込み、白く磨き上げられた床に光が反射していた。
チェックインカウンターで手続きを済ませた二人は、搭乗券を受け取り、保安検査を抜ける。
「いよいよね」
美琴が小さく呟く。
「まだ時間あるし、ちょっと見て回ろうかあ」
結絆は余裕の笑みを浮かべ、搭乗口近くのショップエリアへ足を向けた。
免税店やスイーツ専門店、学園都市限定グッズを扱う店が並ぶ中、ひときわ賑わっている一角があった。
「何あれ?」
美琴が足を止める。
そこには、デフォルメ化された金髪の少年――丸い目にゆるい笑み、白と青を基調にした小さな衣装を着たぬいぐるみが山のように積まれている。
そのポップには大きく書かれていた。
『大人気!ゆはんぬい空港限定バージョン!』
「......」
美琴はゆっくりと隣を見る。
「結絆」
「どうしたんだい?」
「どういうことなのよ?」
結絆は一瞬だけ目を逸らし、それから楽しげに笑った。
「いやあ、なんか勝手に人気出ちゃってねえ。マジックシアターだけじゃなくて、いろんな場所で売ってるよお」
「勝手に、ってレベルじゃないわよ!」
その瞬間、観光客らしき一団が棚に駆け寄り、次々とゆはんぬいを手に取っていく。
「これ可愛い!」
「海外の友達にあげよう!」
レジに行列ができ、在庫がみるみる減っていく。
美琴は目を見開いた。
「あんたは、ゆはんぬいを海外でも流行らせる気なの!?」
「ええー?俺は何もしてないよお?」
そう言いつつ、結絆の口元は明らかに楽しんでいる。
「空港限定ってことは、アメリカにも持ってかれるってことでしょ!?世界進出じゃない!」
そのとき、店の奥から慌てた様子で店員が駆け寄ってきた。
「あ、あの......もしかして、ご本人様でいらっしゃいますか?」
「たぶん、その本人だねえ」
結絆はにこりと微笑む。
店員は目を輝かせた。
「あの......サインをお願いできませんか!?実はこの店のシンボルとして飾っている特大ゆはんぬいがございまして......!」
案内された先には、通常サイズの10倍以上はあろうかという大きめのゆはんぬいが鎮座していた。
もふもふの質感に、少し誇らしげな表情。
「......でかっ」
美琴が思わず呟く。
「いいよお。どこに書けばいいかなあ?」
店員が差し出したのは真新しい色紙とペン。
結絆はペンを受け取り、迷いなく筆を走らせる。
さらさら、と流れるような筆致。
達筆なサインとともに、短いメッセージ。
『世界へ羽ばたけ、ゆはんぬい。食蜂結絆』
「うわ、無駄にかっこいい......」
美琴がぼそりと呟く。
店員は感激の面持ちで色紙を受け取り、それを特大ゆはんぬいに持たせるように固定した。
「ありがとうございます、店の宝になります!」
その様子を見ていた周囲の客がざわめく。
「本人!?」
「サイン入り!?」
結絆は客に対して手を振る。
すると、先ほど以上の勢いでゆはんぬいが売れていく。
棚の在庫はあっという間に空に近づき、店員が慌ててバックヤードへ補充に走る。
「......完全に火がついたわね」
美琴は半ば呆れ顔だ。
結絆は肩をすくめる。
「宣伝するつもりはなかったんだけどねえ」
「説得力ゼロよ」
さらにその場で写真を撮る人々、SNSに投稿する人々。
“空港で本人に遭遇”“サイン入りゆはんぬい爆誕”というワードが瞬く間に拡散されていく。
店員が息を弾ませながら戻ってきた。
「本日の売り上げ、過去最高を更新しています......!」
まだ出発前だというのに、すでに経済効果が発生している。
「アメリカ行く前から国際デビューじゃない......」
美琴は額を押さえる。
結絆は少しだけ真面目な顔になる。
「まあ、せっかくならさ。学園都市の名前も一緒に広まればいいよねえ」
その言葉に、美琴は一瞬だけ見つめる。
「......ほんと、どこまで考えてるんだか」
搭乗案内のアナウンスが響く。
『ロサンゼルス行き〇〇便、搭乗手続きを開始いたします』
「ほら、行くわよ」
「はいはい」
二人は店を後にする。
背後では、サインを持った特大ゆはんぬいが堂々と飾られ、その前で写真を撮る人々の列ができていた。
その後、この空港ショップは“サイン入りゆはんぬいの店”として観光名所の一つとなり、売り上げはさらに右肩上がりを続けることになるのだった。
海外旅行っていいですよね。