麦野沈利の0次元の極点に関する能力開発が進められていた頃
その裏で、橘沙羅はもう一人、アイテムの重要な戦力の調整にも力を注いでいた。
対象は、滝壺理后。
マジックシアター地下の研究区画。
その一室にある能力調整用の特別室で、滝壺は静かに椅子へ腰掛けていた。
周囲には複数のモニターが並び、脳波、AIM拡散力場、体内代謝、神経伝達速度など、細かな数値が次々と映し出されている。
結絆は壁際に寄りかかりながら、その様子を見守っていた。
「沙羅、お疲れ様。滝壺の方は順調かなあ」
「そうね。かなりいいところまで来てるわ」
沙羅は端末を操作しながら、穏やかに答える。
「滝壺さんの能力である能力追跡(AIMストーカー)は、とても特殊な能力ね。相手のAIM拡散力場を記録・追跡し、さらに感知だけじゃなく、深く同調すれば干渉もできるみたいよ」
「その代わり、負担が大きいんだよねえ」
結絆の言葉に、沙羅は真剣な表情で頷いた。
「そうね。もともと滝壺さんの身体は、能力使用時の負荷を受け止めるための制御機構が不完全だった。だから体晶で強制的に出力を底上げしつつ、神経系を無理やり通していた。結果として、能力を使うたびに強い苦痛と、深刻な身体へのダメージが出ていたみたいね」
滝壺は静かに自分の胸元に手を置く。
これまで何度も、能力を使うたびに全身が焼けるように痛んだ。
息が苦しくなり、身体の芯が軋み、下手をすればそのまま倒れ込むこともあった。
それでも、アイテムのために使い続けてきた。
麦野たちのために。
だが、そんな滝壺の姿を見ている側も、決して平気ではなかった。
「......もう、あんな無茶な使い方はさせたくないからねえ」
結絆が優しく言うと、滝壺はこくりと小さく頷いた。
沙羅は投影モニターに新しいグラフを表示した。
「今回の調整は、滝壺さんの脳と身体に能力の通り道を再構築するものよ。結絆君が、これまで研究者たちから回収した能力開発理論、それらを組み合わせて、AIMストーカーの負荷を分散させる」
「つまり?」
結絆が首を傾げると、沙羅は微笑んだ。
「簡単に言えば、体晶なしでも自然に能力が使えるようになるってことね」
滝壺の瞳が、わずかに揺れた。
「......体晶、なしで?」
「そうね」
沙羅は真っ直ぐに頷く。
「もちろん、一度で完璧にとはいかないわ。でも、慣れてしまえば能力の使用は問題なくできるようになるはずよ」
その言葉に、滝壺の表情がほんの少しだけ柔らかくなる。
結絆はにこっと笑った。
「よし、それじゃあ始めようかあ」
調整は数時間に及んだ。
沙羅が滝壺の脳波とAIM拡散力場を細かく整え、結絆が水の原典による繊細な生命活動の補助で神経伝達と代謝を安定させる。
通常なら研究者数十人規模で行うような高難度の能力開発を、学園都市最高峰の能力者と研究者が二人がかりで進めていく。
やがて、最後の調整が終わった。
「......これで完了。滝壺さん、試してみて」
沙羅の言葉に、滝壺は静かに目を閉じた。
意識を広げる。
空気の中に漂う、無数のAIM拡散力場。
このマジックシアターの中だけでも、結絆、沙羅、麦野、フレンダ、絹旗、そして多くの能力者やスタッフたちの“痕跡”が重なり合っている。
その中から、滝壺は迷いなく麦野の力を捉えた。
「......見える」
その瞬間、モニターの数値が安定して跳ね上がる。
体晶なしで、AIMストーカーは正常に発動している。
「苦しくないかい?」
結絆がすぐに声をかける。
滝壺は目を開け、自分の手を見つめた。
息苦しさがない。
頭が割れるような痛みもない。
胸を締めつけるような不快感も、身体の奥を削られるような感覚も、何もない。
ただ自然に、能力が流れている。
「ほんとうに、痛くない」
ぽつりと、滝壺が呟く。
その言葉を聞いた沙羅は、安堵したように微笑む。
「成功したみたいね」
結絆も、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「よかったあ」
その直後、扉が勢いよく開いた。
真っ先に飛び込んできたのは麦野。
後ろにはフレンダと絹旗も続いている。
「滝壺!大丈夫!?また苦しそうにしてない!?」
「滝壺、顔色いつもよりいい感じじゃん!」
「超成功したんですか!?」
三人に囲まれた滝壺は、少し驚きながらも、こくりと頷いた。
「うん。体晶を使わずに能力を使えた。しかも、苦しくない」
一瞬の静寂。
そして次の瞬間。
「......っ、はぁ......!」
麦野が大きく息を吐き、心底安心したように目を閉じた。
「......そう。そうなのね......」
その声には、安堵が滲んでいた。
「やったじゃん!!これでもう滝壺が毎回苦しむの見なくて済むってわけよ!!」
フレンダはぱあっと顔を輝かせる。
「超よかったです!滝壺さんが倒れるたびに、こっちまで胃が超痛くなってたんですよ!」
絹旗も嬉しそうに拳を握る。
麦野はそっぽを向きながらも、滝壺の頭をぽんと軽く叩いた。
「......無茶しすぎなのよ、あんたは。これで少しは安心できるわ」
滝壺は、そんな仲間たちを見回して、小さく笑った。
それから、結絆と沙羅の方へ向き直る。
ゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。
「......ありがとう」
その一言に、普段の滝壺よりもずっと強い感情がこもっていた。
「結絆。沙羅。......ほんとうに、ありがとう。私、もうずっと、このままなのかなって思ってた。能力を使うたびに苦しくなるの、仕方ないって......でも、助けてくれた」
結絆は少し照れたように頭をかく。
「いやいや、俺はちょっと手伝っただけだよお」
「滝壺さんが頑張ってきたからこその成果よ。これは滝壺さんの努力の証ね」
沙羅も優しく言う。
滝壺はその言葉を胸に刻むように、もう一度小さく頷いた。
そして、その日の夜
マジックシアター居住エリア、結絆の部屋。
結絆はソファに座って本を読んでいたが、不意にドアがノックされた。
「ん?こんな時間に誰だろう?」
扉を開けると、そこに立っていたのは滝壺だった。
ゆったりとした部屋着姿。
いつも通り静かな表情......だが、どこか緊張しているのが分かる。
「滝壺?どうしたんだい、こんな時間に」
「......少し、話したいと思って」
「もちろん。入っていいよお」
部屋に入った滝壺は、しばらく黙ったまま立っていた。
結絆は慌てさせないように、優しい声で促す。
「座らないのかい?」
「......ううん。このままでいい」
滝壺は一度深く息を吸い、結絆を真っ直ぐ見上げた。
「今日は本当にありがとう」
「うん。喜んでもらえてよかったよお」
「それだけじゃない」
滝壺の声が、少しだけ震える。
「ずっと前から、結絆は私たちを助けてくれてる。麦野のことも、フレンダのことも、絹旗のことも、私のことも。......私は、そういう結絆のこと、ずっと見てた」
結絆は静かに聞いていた。
「......好き」
短いけれど、真っ直ぐな言葉だった。
「結絆のこと、好き。......だから、もしよかったら、私と付き合ってほしい」
静かな部屋に、その告白だけがはっきりと響いた。
結絆は、少しだけ目を細める。
そして、ふっと柔らかく笑った。
結絆は滝壺の前まで歩み寄り、そっとその手を包む。
「俺も、滝壺のこと好きだよ。静かで優しくて、仲間のために頑張れて、でも無茶しちゃうところも含めてねえ。だから、こちらこそ、よろしくねえ」
滝壺の頬が、ほんのり赤くなる。
次の瞬間、その表情がふわりとほどける。
「......ほんとう?」
「本当だよお」
「......うれしい」
滝壺は小さな声でそう言うと、そっと結絆の胸に身を寄せた。
結絆は優しく抱きしめる。
その後、二人は遅くまで寄り添いながら、静かに言葉を交わし続けた。
翌朝
マジックシアター居住エリアの廊下。
食堂へ向かおうとしていた麦野は、何気なく角を曲がったその先で、ぴたりと足を止めた。
「......は?」
目の前にあったのは、結絆の部屋の扉が開き、そこから結絆と滝壺が一緒に出てくる光景だった。
しかも、滝壺はどこか満たされたような柔らかい表情をしている。
結絆も、いつも以上に穏やかな笑み。
その空気だけで、何があったか大体分かる。
麦野の眉がぴくりと引きつった。
「......ちょっと待ちなさい」
「おはよお、麦野」
「おはよう、麦野」
「おはようじゃないわよ!!」
麦野は思わず声を張り上げる。
「なんであんたたち、朝からそんな“いかにも何かありました”みたいな空気出してるのよ!?」
滝壺はこてんと首を傾げ、それから素直に答えた。
「......昨日、結絆に告白した」
「はぁ?」
「受け入れてもらった。だから、付き合うことになった」
麦野の口がぱくぱくと開閉する。
「......へ、へえ」
なんとかそれだけ絞り出したが、胸の奥が妙にざわつく。
驚きはあった。
でもそれ以上に、ちくりとした感覚が胸に刺さる。
滝壺が幸せそうなのは嬉しいし、結絆になら任せられるとも思う。
なのに......
「......なんか、ムカつくわね」
「え?」
「いや、別に!?滝壺が幸せそうなのはいいのよ!?でもなんか先越された感じがして腹立つ」
「麦野、超分かりやすいですね」
いつの間にか後ろにいた絹旗が、呆れたように言う。
その隣ではフレンダがにやにやしていた。
「結局、麦野も結絆の前では乙女ってわけよ」
「別に、嫉妬なんかしてないわよ!!」
即答だった。
だが、その頬はわずかに赤い。
結絆はそんな麦野を見て、くすりと笑う。
「まあまあ、麦野にもちゃんと構うから安心してねえ」
「だ、誰がそういう意味で言ったのよ!!」
朝の廊下に、いつものように賑やかな声が響く。
滝壺は結絆の隣で静かに微笑み、そっと結絆の袖をつまんだ。
その小さな仕草に、結絆は優しく視線を向ける。
麦野はそれを見て、また胸の奥がちくりとした。
けれど同時に、滝壺がもう苦しまずに笑っていられること、そしてその笑顔の隣に結絆がいることに、確かな安心も感じていた。
だからこそ、麦野はふんと鼻を鳴らし、少しだけ意地悪く笑う。
「......ま、いいわ。せいぜい滝壺を泣かせないことね、結絆」
「もちろんだよお」
そんなやり取りを見ながら、フレンダと絹旗は顔を見合わせて笑った。
こうしてまた一つ、マジックシアターの中に新しい関係が生まれる。
それはきっと騒がしくて少し複雑で、それでも温かい、ドリームとアイテムらしい、新しい日常の始まりだった。
滝壺もヒロインになりました。