「フラスコからの、脱出? それは一体、どういう意味ですか?」
「話を続けるのは構わんが我が家に入ってからにしないか。いささか長くなりそうだ」
間髪居れず問いただしたメイの追求を躱すように家へと招待するテセウス。
アルフォンスとメイは逡巡の末その提案を呑んだ。虎穴に入らずんば虎児を得ず。正体定かならぬ目の前の男から情報を得ることを彼らは優先した。
警戒と共にテセウスの背に付いていき、橋を渡り敷居を跨ぐ。
……だが、その用心は杞憂に終わることになる。
彼の家は質素、いや言葉を飾らぬなら貧相そのものであった。
「生まれて初めて粗茶という物を入れてみた。どうぞ」
「あ、どうもお構いなく」
家というにはあんまりな惨状に、アルフォンスの毒気も抜かれてしまった。これがテセウスの策なのかもしれないが、幾多の修羅場をくぐった彼の勘はそれに否を突きつけている。
テセウスの行動に裏はなく、彼なりにもてなそうとしているのだと感じ取っていた。
とはいえ流石に無警戒にお茶を飲んだりはしなかった。見るからにマズそうというのも理由の一つだが。
メイも同じく茶を受け取ったが、その顔は渋いものとなっている。
「この茶菓子も良かったら食べてくれたまえ」
「あ、ありがとうございます。なんか、霞を食べてるなんて噂で聞いてましたから、何というか、意外と普通に食べるんですね」
「その話は私も聞いたことがあるが完全無欠にでたらめだな」
「はは、やっぱりそうですよね」
「そうだ。喰えないわけではないが、本質的に私は飲食不要。ゆえに霞など口にしたこともない。このような菓子も当然、食べたことはない」
「……この茶菓子は?」
「それは近くに住まう人間から貰ったものだ。約二年前、正確には二年と一ヶ月と九日だな」
「すみませんお茶だけ貰います」
「そうか。残念だな」
味以前の問題だったことを知ったアルフォンスは、彼に出されたものを絶対に食べないと心に誓った。
言葉の通り、テセウスはどこか残念そうな雰囲気を醸し出していた。
「あの、このお茶はもしや家の周囲に生えていたあの青い草で煎れました……?」
「うむ、その通りだが?」
「毒にも薬にもならず、その不味さから『泥水飲んだ方がマシ』と言われているんですが」
「すいません、僕やっぱりお茶もいらないです」
「……そうか。残念だな」
二人はこの家で出されたものは絶対に口にしないと心に誓った。
言葉の通り、テセウスはどこか残念そうな雰囲気を醸し出していた。
「それで、先ほども聞きましたが……フラスコからの脱出がホムンクルスの目的、とのことでしたがそれは一体どういう意味ですか?」
閑話休題。
過度な緊張や警戒は解れたが、本題はホムンクルス共通の願望、引いてはテセウスが何か企んでいないのかを知ることである。
敵意は感じない。だからといってそれが安全に繋がるかというとそうではない。相手はホムンクルス。善悪や価値基準といった
「そう難しい話ではない。『一は全、全は一』という言葉は知っているな」
茶と菓子を遠ざけたテセウスは、先とは雰囲気を一変させるとともに淀みなく口を開く。
唐突に尋ねられたのは錬金術の根本となる考え。アルフォンスが兄と共に文字通り体に叩き込まれた教えである。
「ええ、それはもちろん。僕たち『一』は『全』の一部でしかなく、けれど『全』は『一』によって構成されている」
「目に見えない大きな流れによって万物は流転し、変容し、全体を形作っていく。錬金術や錬丹術の基本となる原理ですね」
この基本は錬丹術においても変わらない。メイもまたスムーズに答えていく。
彼らにとっては遥か昔に通り過ぎた、基礎中の基礎であった。
「そう。我々は世界の一部でしかなく、されど我々なくして世界は成り立たない。我らは絶えず変化し続けこの世を巡っている。何であろうと無駄な存在などはないという素晴らしい理論だ。しかしそれは同時にこうとも言える。どれだけ重要な存在だろうが矮小な粒子であろうが、それらの間に本質的な差は存在せず全体を構成する一要素でしかない。全体の一部でしかない以上、どれだけ特別ないし優れた『一』であろうが『全』という概念から抜け出すことは叶わない」
そこまで言われれば彼らも察する。彼が言う所のフラスコの正体に。
「つまり貴方が口にした『フラスコ』とは、言うなれば『全』であると?」
優秀な生徒の答えに、満足するようにテセウスは一つ頷く。
「その通り。『全』とは『全』であっても『全』以上にはならない。言葉遊びのようだがね。どれだけ大きな存在であろうと、そこに枠組みが存在するのであれば所詮はフラスコと一緒だ」
「ですが僕たちが万物を構成する『一』である以上『全』――いや『真理というフラスコ』から抜け出すことは叶わない」
「君は全く察しがいいな。『扉』の向こうから帰ってきただけのことはある。いや我々がどこから来たのか知っていたのだったか?」
テセウスの問いに肯定するアルフォンス。
その推測を聞き、テセウスは一つ大きく頷いた。
「概ねその通りだ。私はとにかく抜け出したいのだ。己を閉じ込める『
フラスコの中の小人とはよく言ったものだ。自嘲するように彼はぼやいた。
「もう分かっただろう。私の目的が」
「……己を閉じ込める『全』――すなわち『真理』から、完全に抜け出すこと」
「それがテセウスさんが仰っていた、『フラスコからの脱出』という意味ですか」
テセウスは何も答えない。何も反応しない。
当たり前のことを言われたかのように。
奇妙な沈黙が降りた中、アルフォンスとメイは頭を巡らせる。
真偽定かならぬ話ではある。裏づけとなる証拠はないが、否定すべき材料も見えてはこなかった。
この話を真実と仮定し『お父様』の行動を考えれば、納得がいく部分が見えてきた。
「成りたかったのは『神』というより『全』そのもの? そうして、『
「さあ、それはどうだろうな? これはあくまでも私の目的に過ぎない」
それについて誰も答えることはできない。
「とはいえ、だ。この私が何を求めているのか、これで理解してもらえたかな?」
「ええ。
「それは仕方がない。この世から去ったものの真意は誰にも分からない。であればその行動から類推するしかあるまい。そう間違っているとは思ってないがね」
「ですが、アナタの目的は先ほど言ってた通り」
「
「――アプローチが異なっている。そうでしょう?」
「その通り。私の方法は」
テセウスの言葉をアルフォンスは手を挙げて遮る。
方法は分からない。彼が『扉』を放棄したことが真実なのかも分からないし、それが彼の目的にどう繋がるのかも不明。
だが分かっていることがある。
ホムンクルスの――少なくとも目前のテセウスという人物の目的は『
その前提を以ってアルフォンスは一つの答えを導いた。
「方法は不明です。『扉』の放棄がどう繋がるのかも分からない。だけど貴方がやろうとしているのはアメストリスのがやろうとしていた、言うなれば『全の獲得』ではなく、それとはまったくの反対……『一の放棄』ではないですか?」
「……驚きだ。材料はあったが、すぐさまそこまで辿りつくとは。脱帽だな」
「ですが考えそのものはシンプルでしょう?『一は全、全は一』であるならば、『一ではないのならば全ではなく、全ではないのなら一ではない』のですから」
「なるほど。数学における対偶みたいなものですね」
「その通り。この茶が真理であり大いなる流れであるとするならば、湯呑みはさしずめフラスコ。そして私が成そうとしているものがこれだ」
突き出した湯飲みに指を一本漬けて、抜き出す。
皮膚を伝う液体が重力に従って爪先に集まり、滴下して床を濡らした。
「おそらく先達は自分自身を『全』とすることでフラスコの形を認識しようとしたのだろう。外殻たる器を知るということは、すなわち外を認識することと等しい。そこまでくれば後は出口を見つけるなり作るなりするだけだ」
メイの脳裏に浮かんだ言葉は『正攻法』。手法はともかく彼の人物は『全』に正面から挑み飲み込まんとしたのだと。
そう考えれば、テセウスの手法は邪道とすら言える。
とはいえ、そんなことなど彼らの知るところではない。テセウスにとって大事なのは目的を達成することであり、アルフォンスやメイにとってはそれが世界に、引いては身近な如何な影響を及ぼすのかを知ることが大事なのだから。
「私のスタンスや手法を理解してくれて良かった。意外と時間が掛からずに済んだな。もう日が落ちる頃だろう。そろそろお帰り願おうか」
「待ってください!」
アルフォンスは立ち上がったテセウスを呼び止める。
新たに生まれた疑問を放置したままには出来なかったのだ。
「まだ何かあるのか?」
「貴方の目的はわかりました。ですがそれを果たすために他人を巻き込んだりはしないんですか?」
「私の手段――君の言葉を借りるならば『一の放棄』か。これは私一人に帰結する問題だ。他人を巻き込む理由など存在しない」
「その貴方が選んだ『一の放棄』という手法。それは『扉』を放棄することで完了している。そうですね?」
「何を急に察しの悪いことを……ああ、君の兄のことか」
そう、テセウスは『扉』を放棄していた。己が兄と同じように。
彼にとってはこちらの方が問題であった。
錬金術師でなくとも万人が持ち得る『真理の扉』を失って何か不都合があるのか、それが一体何を招くのか。
およそ人類が史上初めて直面した事態への答えを持っているものなど誰も居なかった。
目の前の男を除いて。
それを聞きださずに帰ることなど、アルフォンスには出来なかった。
テセウスは腕を組み唸る。
「教えてもいいが、私だけが一方的に話すというのは些か不公平ではないかな?」
「そこをなんとか!」
「だからこうしよう。君たち錬金術師お得意の『等価交換』という奴だ。君の話を聞かせてもらいたい。君の兄が扉を失うまでの出来事を。そしてアメストリスのホムンクルスが起こした企てを。君たちがここに至るまでの全てを」
「え? えっと……それは別に構わないのですが、凄く長い話になると思いますが、いいんですか」
「構わない。無限とは言わないが君の話を聞くだけの時間は十分にある」
「……分かりました。それが対価になるのなら、お話させていただきます」
その返事を聞いたテセウスは満足そうに笑みを浮かべ、腰を下ろしかけた所で問いを投げる。
「長い話になるということは喉が渇くということだ。どれ、もう一度茶でも煎れようか?」
「「いえ、結構です」」
「…………そうか。残念だな」
すごすごと座ったテセウスの表情は元に戻ったが、されど少し落ち込んだように見えたのは、きっと自分たちの気のせいなのだろうなと二人は言い聞かせた。
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