8人の旅人と、赤い髪の娘たち   作:遠野ハネ

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【6話 追憶①】「オズバルドが隠し子を連れてきた」「冗談は止めろハーヴェイ」

 

 クロップデールの祭り。会場は大賑わいだ。

 通り過ぎる者は必ず、俺の両ポケットの特大の膨らみを一瞥していく。

 俺に“でっかい岩”をふた塊贈った娘は今は食事に夢中だ。

 現在、彼女には秘密で一人ずつお返しの品を買いに行っている。

『父さんの様子見てくるね』と行って離れていたアグネアが戻ってきた。贈り物は無事に購入できたらしく、微笑みを浮かべている。

 次にソローネが「私もそこらへん歩いてくる」と言いながら席を立つ。

 

「先生も後で行く?」

「ああ」

「いってらっしゃいソローネさん」

 

 手を小さく振って見送った後、上機嫌の笑顔を俺に向けてきた。

 生き生きした瞳の色は、店で売っていた果物よりも赤々としている。

 

「オズバルド先生!」

 

 その呼び声に、赤い髪の少女の姿が頭をよぎる。大きく心を揺さぶられる。

 沈黙しそうになって、かすかに息をこぼし、返事を絞り出す。

 

「……なぜ、俺を先生と?」

「いろんなことをたくさん教えてくれますよね。だから“オズバルド先生”です。

お勉強頑張っていっぱい研鑽します。

テメノス様のお手伝いをたくさんしたいです」

 

 将来の夢を明るく話す声だ。

 隣に座るテメノスが誇らしげに微笑んでいる。

 俺をちらと見つめ、口の端をわずかに上げた。底意地の悪い笑みだ。

 

「オズバルド。私も教えてほしいことがひとつあります」

「俺の生徒のことか」

「おや、鋭い。言い当てられるとは思いませんでした」

「お前のことだ。知りたいのはそれだけだろう」

「はい、とっても気になります」

「はーーーい! 私も気になります!!」

「ミルフィーユ君。そんな近くで挙手しなくてもいいんですよ」

 

 深いため息が口から漏れ出る。

 眼鏡を外し、ミルフィーユが贈ってくれた眼鏡拭きを早速使った。

 

「……“どんな子”か。それを話すには場所が悪い。

ここではないどこかで、いつか話してやろう」

「おやおや。そうですか、わかりました。

いつか絶対話してくださいね。

“永遠にその日は訪れない”は無しですよ」

「……ああ」

 

 その後、ミルフィーユにお返しのプレゼントを贈り、夕食を食べ────

 

 

────夜11時。ミルフィーユが眠った後、ソローネと宿屋を出た。

 

「先生、ふたりで散歩する?」

「……いいや。

ひとりで散策する」

「そう。じゃあね」

 

 ソローネと離れ、月明かりに照らされた村を歩く。

 森の中、祭り会場の音が遠く聞こえる場所で足を止める。

 意識を目の前の景色ではなく、もっと遠くへ向ける。過去を、俺の生徒を追憶する。

 初めて出逢ったのは……

 

 

────── [ 6年前 ]

 

 

 大図書館の講義室でハーヴェイと議論を重ね、数日滞在して研究し、カナルブライン行きの船に乗り、徒歩でコニングクリークに……リタとエレナが待つ我が家に帰る。

 家族と過ごしたり自室で研究をして7日後、徒歩でまたカナルブラインに行き、船に乗り、徒歩でモンテワイズに……大図書館の講義室でハーヴェイと記録を精査して議論する。

 そんな日々を繰り返す。

 充実した、満たされた日々だった。

 

 エレナを抱き上げ、リタを抱きしめ、家を出て、カナルブラインへ。

 船に乗ろうとしたら……

 

「こんにちは、オズバルド先生」

 

 エレナより背が高い。120センチほどの……見知らぬ少女に声を掛けられた。

 服装はすぐ破れてしまいそうな薄いシャツとズボン。

 所持しているのは大きな厚い本一冊。

 髪と瞳の色は、火炎魔法よりも鮮やかで明るい赤。

 髪は産まれてから一度も切っていないのか、大人が羽織るマントのように長かった。

 

 感情が読めない瞳。大人びた顔つき。得体の知れない少女。

 最初に抱いたのは警戒だ。

 視線を反らし、少女を無視して通り過ぎて乗船しようとすれば。

 

「オズバルド先生に、解読してほしい字があるんです」

 

 幼い声、興味を引く言葉につい足を止めてしまった。パタパタと走ってくる。

 ゆっくりと振り向けば、はるか下で少女が私を見上げている。

 少女の正体より、少女の言う“解読してほしい字”に興味をひかれた。

 

「見せてみろ」

 

 その大きな厚い本を。

 小さな手で開くかと思いきや、少女は本を地面に置いた。怪訝に眉が寄る。

 少女は立ち上がり、もぞ……と動きながら、薄いシャツを脱いでしまった。

 平然とした顔で上半身裸になる。

 乗船しようとする旅人と、出港の準備を進めている船員と、近くで道具を売っている露天商が一斉にこちらを見る。

 無意識に手が動いていた。とっさに上着を脱ぎ、少女をバサッと隠す。

 動揺して息ができなかった。

 

「何を……やっているんだ……ッ!」

「見せてみろ、とオズバルド先生が言ったので」

 

 淡々とした声。変わらぬ表情。凪いだ瞳。

 

「解読してほしい字は私の背中に刻まれています」

 

 もう間もなく出港だ。

 

「……親は、家族はどこにいる」

「ソリスティアのどこかに」

「家はカナルブラインか」

「分かりません」

「どこから来た」

「気付いたらここにいました」

「……名は」

「ヴェリテです」

「……ヴェリテ(真実)か」

「私は……どこかに行きたいと思いました。

捜さなければいけない、と思ったんです」

「何を」

「分かりません」

 

 俺は沈黙する。地面に置いたままの大冊を拾い上げる。

 その少女を連れ、乗船せざるを得なかった。2人分のリーフを払う。

 俺ひとりならば個室に籠もっていられたのに。

 少女を酒場の一席に座らせ、大冊をテーブルに置いた。

 

「解読を望むのはいい。しかし、家族でもない男に己の肌を見せてはならない」

「解読してくれないんですか」

 

 感情を隠しているのか、希薄なのか。

 何を考えているか分からぬ少女だ。

 

「どんな文字か……気にならないんですね」

 

 挑発している。そう感じた。

 つい、解明したい欲がうずいてしまう。

 小さな手が厚みのある表紙を開く。本扉には何かの記号が一文字だけ大きく書いてあった。

 

「……これは」

「これが背中に刻まれています。

文字がいくつあるか把握できていませんが、他にも刻まれている感覚がします。

知りたいんです。私の身に何が書かれているのかを」

 

 大図書館で熱心に本を読む学徒と同じ目つき。

 その瞳は、火の精霊石よりも美しい色をしていた。

 

「オズバルド先生。

私の家族になってください」

 

 ほんの少し、わずかに明るい声。

 不可能なことを平然と言ってくる。眉間がまた寄ってしまった。

 

「……背中を見てもらうために?」

「はい」

「俺には妻と娘がいる。

お前の家族にはなれない」

「残念です」

 

 残念だと思っていない声で言った。

 大図書館の講義室には付き合いの長い女性の学者がいる。女性の学徒も大勢いる。

 俺の見えぬところで背中を確認してもらえばいい。

 

「お前はなぜ俺の名を知っていた?」

「ヴェリテです。“お前”ではなく名前で呼んでください」

 

 小さな手を動かす。

 ページめくれば、俺のフルネームと、俺の姿絵が載っていた。

 画家が至近距離で凝視しながら何時間もかけて描いたような完成度だ。

 

「この本に描いてました」

 

 小さな両手で本を押し、俺に差し出してきた。

 見ろ、ということか。指先でページに触れる。

 紙質が古い。数年以内に製本されたものではない。

 ページはとてもめくりやすく、俺の姿絵以外は全て白紙。この厚さなら大図書館でいくらでもある。これなら500ページほどだ。

 

「何か書いてもいいか?」

「どうぞ。全ページ記入していいです」

「1ページだけでいい」

 

 よく分からない白紙のページに、使い慣れたペンで数式を書いていく。

 紙に引っかかることなく、滑るように書き終えた。

 

「……おお。とても書きやすい」

「私の名前も書いてください」

「……つづりは?」

「分かりません」

 

 細くため息を吐く。“Verite”と走り書きした。

 

「……おお」

 

 幼い声で俺と同じように言う。

 何を考えているか読めない表情をしていたのに、今のヴェリテはよく分かる。喜んでいた。

 

「酒場で何か注文する。食べたいものを言え」

「ブドウとプラムを食べたいです。

ありがとうございます、オズバルド先生。

お代はリーフを稼げるようになったら返します」

「不要だ。子供からは受け取らない」

 

 酒場の店主に注文し、買ったものを手に戻る。

 果物だけとは。エレナのほうがよく食べている……と思いながら、飲料と袋に包んであるサンドイッチも購入する。

 席に戻れば、ヴェリテは上着をテーブルに置いてシャツを着ようとしていた。

 

「周りの目があるのに、こんなところで着替えとは……」

「ずっと上着を借りたままだとオズバルド先生が困りますから。

……あ」

 

 破れた音が小さく聞こえた。

 赤い瞳をわずかに見開き硬直している。ヴェリテの心が手に取るように分かった。

 なぜかそのまま着替えを再開しようとして、ビリリビリッとさらに破れる音が聞こえてくる。

 ヴェリテはゆっくりと俺を見上げ、俺の目をジッと見つめながら、小さな腕を伸ばして上着を手繰り寄せる。自分のほうに引き寄せる。

 

「……オズバルド先生の上着を貸してください。

服が破れてしまったので」

「使っていい」

「ありがとうございます」

 

 ブカブカの上着を着る。

 長い長い袖を折ってやり、手首が見えるところまで腕まくりをしてやる。

 仮面を装着しているように、ヴェリテの表情は変わらない。

 にこりともせず、困ったり、慌てたり、怒ったり……それらの感情の変化を一切見せない。子供らしくない少女。エレナと正反対だ。

 テーブルの上、ヴェリテの目の前に、買ったものを全て置く。

 

「全てヴェリテのものだ。

食べきれぬ分は後で空腹を感じた時に食べるといい」

「はい。いただきます」

 

 俺も着席し、食事の様子を観察する。

 ヴェリテは小さな口でプラムを食べ、ブドウを三分の一食べ……

 

「ごちそうさまでした」

 

 ……少食にも程がある。

 

「食べるのはそれだけか」

「はい。残りは夕食の分です」

 

 あえて食べないのか。

 一児の父として、くらりと目眩がしてしまう。

 

「……夕食はモンテワイズの食堂で食べる。ヴェリテの分も注文する。

目の前にあるそれは今食べていいものだ」

「はい。ありがとうございますオズバルド先生。いつか大人になったらお返しします」

「不要だ。子供からは受け取らない」

 

 ヴェリテはまた「いただきます」と呟き、残していたものを口に運ぶ。変わらぬ表情でもりもり食べる。

 

「栄養のあるものを食べたら、食べた分だけ成長する。

果物だけで食事を済ましてはならない。覚えておきなさい」

「はい、オズバルド先生」

 

 ニューデルスタ港に到着し、ヴェリテと共に下船する。

 いつもは早歩きで進む道のりも、子供の歩幅や歩くペースに配慮しなければならない。

 時間を掛ければ掛けるほど、魔物と多く遭遇する。

 後方に下がらせ、魔法で全て一掃した。

 

「……行くぞ、ヴェリテ」

 

 振り返り見れば、無表情の仮面がぽろりと外れていた。

 頬を染め、わずかに開いた唇は興奮にふるふる震えている。

 まん丸と見開く赤い瞳は輝いていた。

 

「オズバルド先生……今のは何ですか?」

「魔法だ。“火炎魔法”と“氷結魔法”」

「……すごいです」 

 

 明るい声。花が咲いたような笑顔。

 しかし、すぐに無表情に戻ってしまう。仮面を装着したように。

 

「オズバルド先生はすごいです」

 

 本心ではそう思っていないような顔と声だ。

 しかし、瞳は変わらず輝いている。

 

「私もオズバルド先生みたいに戦えるようになりますか?」

「万人が魔法を使えるわけではない。多くの修練が必要だ。子供が大人になるまでの年数を要する」

「そうですか……。

……もし、私ひとりの時に魔物と遭遇したらどうすればいいですか?」

「逃げるしかないな」

 

 しばし歩き、またもや魔物が飛び出してくる。

 “雷撃魔法”で穿ち、落ちた“獲得品”を拾い上げる。

 

「きれいな石ですね」

「火の精霊石だ。これは才が無い者でも、一度だけ魔法を使うことができる。

当ててみるか?」

「はい」

 

 無表情の顔、しかし、赤い瞳はやる気に溢れている。

 小さな右手に渡してやる。

 ヴェリテはそれを左手に持ち直し、近くに落ちている石ころを右手で拾い上げた。

 

「何をする気だ」

「練習です。あのくぼんだところに」

 

 背筋を伸ばし、狙いを定める。

 道のくぼみへ敏速に投げつけ、艶やかな長髪がぶわりと広がり、狙い通りに直撃した。

 勢いは強く、石ころは大きく跳ね上がる。

 

「……おお」

「どうですか?」

「有望だ。精霊石を投げていい。

だが、動きの遅い魔物のみだ」

「はい」

 

 モンテワイズまであと10分の距離で、道の真ん中に居座る魔物と遭遇した。

 

「ヴェリテ。あれを討っていい」

「はい」

 

 ヴェリテは火の精霊石を右手で握り、先ほどと同じように敏速に投げる。

 しかし、投げた先は空だ。

 高く飛んでいき、フッと消えてしまう。

 魔物が動く前に俺が追撃する。“火炎魔法”で焼き払った。

 

「緊張して手元が狂ったか?」

「いいえ、違います。手が勝手に違うほうに動きました。

私は魔物を攻撃できないみたいです」

 

 見下ろしていた手から顔を上げる。

 残念がるわけでも、悔しがるわけでもない、作業を終えた後の表情。

 

「行きましょう、オズバルド先生。大図書館へ」

 

 ヴェリテと並んで歩く。

 仮面の表情。しかし、赤い瞳は楽しそうに進む先を見つめていた。

 重いだろうと、ヴェリテの本は俺が持ち運ぶ。

 

 モンテワイズに到着する。

 この街は晴天の下にたくさん本棚が並んでいる。読みたい本を読みたい時に読みたい場所で。

 俺と共に大図書館を目指す少女の足は、ふらふらと違うところを歩こうとする。小さな手を捕まえた。

 

「先に登録だ。大図書館を利用できない」

「そうでした。気になるものがたくさんあるので」

 

 大図書館の大扉は常に開け放たれている。

 中に入ってすぐ、司書が立つ受付台が見える。

 司書と話しているのは、真新しいコートを着た痩身長躯の男・ハーヴェイだ。

 声を掛ける前に振り返る。

 

「来たな、オズバルド」

「ああ。ハーヴェイ。今日もお前が先だな」

 

 人当たりが良い笑みは、俺の隣で天井をぼんやり見上げているヴェリテを見るなり、驚きで大きく崩れた。

 

「……オズバルドが隠し子を連れてきた」

「冗談は止めろハーヴェイ」

 

 笑顔で司書に手を振り、軽快な足取りでこちらに来る。

 

「その子は誰だオズバルド」

 

 うきうきした声、状況を楽しむ顔で近づいてくる。

 

「名はヴェリテだ。船に乗る時に出会った。

解読してほしい字がある、と頼まれた」

 

 ハーヴェイは接近し、ヴェリテの前でしゃがみ込む。

 天井の照明をジッと見つめていたヴェリテは、そこでやっとハーヴェイに気付いた。

 友好的に微笑む男と、にこりともしない少女が対面する。

 

「こんにちは、赤い髪のお嬢さん」

「……こんにちは、黒い髪のお兄さん」

 

 ハーヴェイはくつくつと笑う。

「面白いな。私はハーヴェイだ。君の名を聞かせてくれ」と愉快そうに微笑む。

 少女は眠そうに目を細め、「ヴェリテです」と無感情に名乗った。

 

「ほう、素晴らしい名だ。命名されたのは父君かな? 母君かな?」

「ハーヴェイさん。

私は大図書館の本を読みに来ました。どちらで登録をすればいいですか?」

「はは、学ぶことに熱心なお嬢さんだ。

登録はあの受付台で司書に声を掛け、登録書に必要事項を記入する。一緒に行こう」

「ひとりで行けます。

オズバルド先生は後ろで待っていてください」

 

 私をちらと見て、ハーヴェイの横をすり抜け、ヴェリテはひとりで受付台に進む。

 優男は苦笑して肩をすくめた。

 

「おいオズバルド。なんであの子、君の上着を着てるんだ? ブカブカじゃないか」

「自分で服を破いてしまってな」

「歩きづらいだろう、可哀想に。

私がホリー女史かアン女史に声をかけて予備の制服をもらってきてやる」

「借りようと思っていたところだ。礼を言う」

「いつもの講義室で集合だ」

「ハーヴェイ、どちらか1人でいい。女性を講義室に呼んでくれ」

「着替えの手伝いか? 分かった。連れてきてやろう」

 

 ハーヴェイは軽薄に言った後、早足で行った。

 見送った後、受付台にゆっくり近づく。

 ここの受付台はヴェリテの背では30センチ足りない。床に座って登録書を書いていた。

 いつの間にか、周囲に人が集まっている。

 読書をしに来た学徒、講義室に行こうとしていた教授、本を寄贈しに来た学者、本を借りに来た学徒達が、好奇心の目をヴェリテに向けていた。

 大勢の視線に少女は気づかない。登録書にペンを走らせている。

 自分の名、来館目的、探している本、大図書館に対する要望────それらの空欄を、ヴェリテは美しい字で埋めていく。

 完成したのか立ち上がり、つま先立ちで背伸びして、受付台に登録書を提出しようとする。

 周囲の人間は助けるか否か迷っていて、俺は数歩前に出て、ヴェリテの手から登録書を抜き取り、代わりに提出した。

 

「ありがとうございます、オズバルド先生」

「やり辛ければ周りを頼っていい」

「はい、分かりました」

 

 俺の手から登録書を受け取った司書は、ヴェリテの書いたそれに目を剥いた。

 子供が遊びに来たとでも思っていたのか、謝罪したそうな顔で慌ただしく表に出てくる。

 ハーヴェイと同様にしゃがみ、丁寧な口調で登録書の受理を伝えた。

 さらに教授まで動き、受付台で忙しなくペンを走らせ、ヴェリテに学徒用の“長期滞在許可証”まで用意する。

 

「ありがとうございます」

 

 数ミリも微笑むことなく、礼儀正しく深々とお辞儀をする。

 赤い髪はさらさらと流れて、美術品のように美しかった。

 頭を上げて背筋を伸ばす。

 

「行きましょう、オズバルド先生」と言いながら、講義室とは正反対の方・書架へ行く。

 

「あっちだ。先に着替えをする」

「はいオズバルド先生」

 

 大勢の視線を感じながら、ハーヴェイの待つ講義室へ。

 入った瞬間、大喜びの笑い声を上げながら出迎えてくる。その背後には白衣姿のホリーとアンが控えめに微笑んでいた。

 

「よしよし、よく来てくれたヴェリテちゃん!

私とオズバルドは廊下で待っているから着替えるといい」

 

 瞠目した。ハーヴェイがいつもと違う。異様に明るい。

 ヴェリテは「はい」と素っ気なく返事をしながらハーヴェイの横をすり抜け、女史達のもとへ行く。

 丁寧にお辞儀をして「ヴェリテです。よろしくお願いします」と挨拶をした。

 

「ホリー・フェンよ。大図書館へようこそ」

「よろしくね、ヴェリテさん。私はアンフェミー」

「ホリー、アン。着替えの時に背中を見てほしい。確認したものを全て記録してくれ」

 

 2人はわずかに困惑する。しかし、すぐに笑みを浮かべて頷いた。

 退室しようとするハーヴェイが、俺の肩に気安く腕を回してくる。

 

「着替えを見てはならないぞぉオズバルド。さっさと廊下に行こう」

 

『なんだお前は』という文句を飲み込み、私はハーヴェイを振りほどいて先に廊下へ出た。

 すぐに俺を追いかけ、笑顔で講義室の扉を閉める。

 

「オズバルド。あの少女には何があるんだ?」

「解読してほしい字が背中にあるらしい」

 

 片手で持つ大冊をハーヴェイに向ける。

 表紙を開き、一文字だけの記号を見せた。

 

「“これ”が何か、知っているか?」

 

 ハーヴェイの顔から笑みが消える。

 切れ長の目を細め、覗き込んできた。

「……手に取って見ても?」と静かに呟く。

「ヴェリテから預かった。大事にな」と釘を差し、手渡した。

 ハーヴェイは本を裏向け、最後のページからパラパラとめくっていく。

 

「……白紙だ。何も書いていない。火で炙ったら文字が浮かび上がるのか?」

「試すなよ。あの少女の唯一の所持品だ」

「たった1ページ貰うだけだ。

……おいおいオズバルド。これは君の字だ。大事にしなければならぬ本に何を書いているんだ」

「許可を得た。名を書いてくれとも頼まれた」

 

 ハーヴェイは“Verite”のところを指でなぞり、唇の端を吊り上げる。

 

「オズバルド“先生”か……君を特別に思っている。

なぁオズバルド。あの子に一体何をしたんだ?

どう振る舞ったらあんなにも懐くんだ」

「何もしていない。

船に乗ろうとしたら声を掛けられ、ここまで連れてきただけだ」

 

 ハーヴェイはページをめくる。

 俺の姿絵を見て、さらに笑みを深くさせた。

 

「……なるほど。あの子が君を一方的に知っていただけか」

 

 本を閉じ、返してくる。

 ハーヴェイは壁にもたれかかり、喜悦の笑みを浮かべた。

 珍しいな。ここまでの表情を見せるとは。

 

「あの子の背にある字の解読……。

……しばらくはそんな感じか」

「ああ。ここに来る学者にも協力を要請する。

己の身に何が書かれているのかをあの少女は知りたがっている」

「クク、面白いことになったな、オズバルド。

私も参加していいか?」

「真剣に取り組めよ、ハーヴェイ」

 

 しばらく待ち、扉が開く。制服に着替えたヴェリテが顔を出した。

 子供が着れる服はこの大図書館には置いていない。

 袖をたくさん折った長いシャツとロングスカートの姿だ。

 

「着替えました。中へどうぞ、オズバルド先生」

「おいおいヴェリテちゃん。私もここにいるぞ?」

「……ハーヴェイさんもどうぞ」

 

 ヴェリテと共に講義室へ戻る。

 最奥の黒板には、未知の記号が羅列されていた。あの筆跡はホリーのものだ。

 アンが講義で使う筆記帳を持ってくる。

 

「オズバルドさん、こちらにも記録しました」

 

 記入したページを一瞥する。黒板と同じ内容だ。

 ハーヴェイは黒板を凝視し、ブツブツ呟く。

 ヴェリテは近くの席に座った。大人用の座席は少女には大きすぎる。

 しかし、顔つきは素晴らしい。まるで講義に出席する学徒のようだ。

 

「……29字か?

違うな、いくつか同じ字がある。20種だ」

 

 ハーヴェイは速い。俺も筆記帳に視線を落とし、全てに目を通す。

 

「3字目と7字目と26字目と28字目は同じだ。

他は5字目と29字目、あとは9字目と16字目、13字目と17字目、14字目と18字目、21字目と24字目」

「クク、さすがはオズバルドだ」

「思っていたよりもたくさん書かれていましたね、オズバルド先生」

「背中、見てしまってごめんなさいね、ヴェリテさん」

「産まれた時、身体に字を刻む……そんな風習がある地方、私は聞いたことがないわね。

小さな身体にどうして……なぜ、あんなにもたくさん……」

 

 いくつか心当たりがある。

 しかし、この文字は初めて見た。

 ハーヴェイも、女史達も、そしてこの大図書館にいる者、全員がこの文字を知らないだろう。

 

「3日ですね。進展が無ければ解読しなくていいです」

 

 幼い声で淡々と言う。全員の視線が少女に集まった。

 

「……なぜだ、ヴェリテ。

知りたがっていただろう」

「数日かけて皆さんに調べて頂いて、それでも手掛かりすら掴めない文字なら、私は他のことを知りたい」

 

 赤い瞳は好奇心で輝いていた。

 講義室の本棚をジッと見つめている。今すぐにでも本を読みたい、そんな眼差しだ。

 

「私は皆さんの話を聞きたい。

色んなことを教えてほしい。

たくさんのことを知りたいんです」

 

 私を見て、女史達に顔を向け、頭を下げる。

 机にゴンと額をぶつけて「うぐ」と小さく呻いた。

 顔を上げる。恥ずかしいとも思っていない仮面の表情。

 その赤い瞳は、夜明けに昇る太陽に似た色をしていた。

 

「私、この大図書館でたくさん勉強したいです」

 

 女史達、ハーヴェイの顔つきが変わる。目の色を変える。それは私も同じだった。

『2日だ。必ず解読してやる』……そんなことを、俺は思った。

 

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