8人の旅人と、赤い髪の娘たち   作:遠野ハネ

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【6話 追憶②】「髪を結んでいるな。似合うぞ、エレナ」

 それから3日目、昼の2時。

 一切進展することなく、未知の文字は、大図書館の学徒達と学者達の頭を悩ませるだけだった。

 俺とハーヴェイ、女史2人と、集まった15名の男女の学徒・学者達で賑わう講義室は、いつもと違って活気に溢れていた。

 着席して本を読むヴェリテは14冊目を完読してパタリと閉じる。

「はい」と挙手する少女に全員が視線を向ける。

 

「どうしたヴェリテ。昼食が足りなかったか?」

「お腹は空いてませんよ、オズバルド先生。

まだ3日目の途中ですが解読を終了します。

私の字は皆さんを悩ませるだけなので」

「ま、待ってヴェリテさん!! 良いところに気づいたの!!」

「まだだ!! 取り寄せた本が夕方に届くんだ!!」

「見切りが早すぎるぞ。ハーヴェイお兄さんが調べているから待っていろ」

 

 大勢がやる気に溢れた声を上げる。

 ヴェリテは熱心に調べる全員を一人ひとり見て、「ありがとうございます」と言いながら頭を下げる。

 机にゴンと額をぶつけて「うぐ」と小さく呻いた。

 顔を上げる。恥ずかしいとも思っていない仮面の表情。

 

「大丈夫か!? 注文してる席がもうすぐで届くからな!」

「ありがとうございます」

 

 幼い声は素っ気ない。

 微笑みもしない、子供らしくない少女だが、熱心に本を読む姿はここにいる全ての大人の心を掴んだ。

 

 ────そして、夜10時30分。

 子供には遅すぎる就寝だが、ヴェリテは夜11時ちょうどにならないと眠れない体質だった。

 女史専用の宿泊部屋でヴェリテは寝泊まりしている。

 1字すら解読できず、関連する資料も手掛かりになりそうな手記も一切発見できることなく、少女の要望通り、解読作業は終わりを迎えるしかなかった。

 少女の前に全員が並ぶ。消化不良の曇り顔だ。

 

「皆さん、今日も集まってくださってありがとうございます。

初日に言った通り、解読は本日で終了です。

明日から私は他のことを勉強します。

天候について、魔物について、魔法について、ソリスティアについて……。

知りたいことは他にもたくさんあるんです」

 

 幼い声でハキハキと喋る。大勢の大人達を前にしても物怖じしない。

 

「私は明日から講義室の一席、大図書館の隅で学びます。

皆さんの知っている事、調べている事を、お時間あるときに聞かせてください。

よろしくお願いします」

 

 深々とお辞儀をする。小さな身体がもっと小さくなった。

 幼い学徒の仲間入りを全員が笑顔で喜んで歓迎する。

 

「皆さん、オズバルド先生、おやすみなさい」

 

 学者達も就寝の挨拶を返す。

 アンとホリーと共に講義室を出る少女を、全員が温かい眼差しで見送った。

 悔しがる顔で帰宅する学者、残念そうに肩を落とす学徒、もう少しここで解読しようとする学者────反応は様々だ。

 ハーヴェイが近づいてくる。軽薄な笑みを浮かべながら。

 

「さすがのオズバルドも解読には至らなかったな」

「……お前もな、ハーヴェイ」

「ここまで分からないといっそ清々しくなってしまう。

私は解読ではなく、あの子の出自を調べていた」

「そうだと思っていた。お前だけが、違うものを見ている目をしていた」

「ふふふ。オズバルド……やはり君だけが私に気づく」

「そのアプローチも良い。あの子が“どこから来たのか”、それを突き止めるのも解読の一助になる」

「まだ解読を続けるのか?」

「ああ。究極魔法と未知なる字の解読……その二つの解を」

「“二兎追うものは一兎も得ず”だぞ。

私は字の解読より、もっと心が踊るものを発見した。しばらくはそちらに専念にする」

「議論は必要か?」

「いらない。ひとりで楽しみたいんだ」

 

 今にも歌いそうなほどの上機嫌な笑み。

 あんなにも議論を重ねていたのに、俺とは違うところを向いている。

 

「有力な情報を得たら開示する。

解読したくなったら俺に声を掛けろ」

「そうさせてもらう。また共に議論しよう。

おやすみ、オズバルド」

「ああ」

 

 ハーヴェイはすんなり帰っていった。

 他の学者達も帰宅していく。

 静けさを取り戻した講義室で、初日から消していない黒板をジッと見つめた。

 あの小さな背に29字。誰があの子の背に刻んだのか。なんの目的で。引き継がねばならない何かがあるのか。

 大図書館に滞在するのはあと2日。ここを発ち、また我が家に帰る。

 幸い、大図書館には女性の研究者や学者が多く滞在している。

 子供を放ってはおけない優しい人間がたくさんいるし、教えたがりも大勢いる。

 ヴェリテは思うままに学べるだろう。

 

 帰るまでの2日間はとても充実していた。

 ヴェリテは新たに設置された子供用の席に座り、講義を聞きながら筆記帳に小さな手で内容を書き記す。

 疑問があれば美しい字で追記し、講義が終われば関連する本を探しに行く。

 

「オズバルド先生」

 

 事あるごとに俺を呼び、視線を感じて振り返れば後ろに立っている。

 共に食事を食べ、共に歩き、声を掛けなくてもついてくる。

 

「ヴェリテちゃん。

ハーヴェイお兄さんもここにいるよ」 

 

 さらにハーヴェイも同行してくる。

 親しみやすい声で話しかけ、同席もする。

 ヴェリテの質問に俺とハーヴェイが答え、少女の素朴な疑問には新鮮な気持ちを抱くこともあった。ハーヴェイが感心することもあった。

 

「さっき、アンフェミーさんの話で気付いたんですけど」

 

 ヴェリテはよく話す。

 こちらが驚くほど様々なことを。

 

「モンテワイズに雨は降りますか?

降雨の記録はありませんが、もし降ったら街の本棚が心配です」

 

 よく話し、相手の話もよく聞き、会話をする。 

 

「オズバルド先生はどう思いますか?」   

 

 変わらぬ表情で、輝く瞳で、対話を楽しむ。

 あっという間に2日が過ぎ、大図書館を離れる日、ヴェリテと女史2人とハーヴェイが見送りに表へ出た。

 

「オズバルド先生が家に帰ってしまう。

寂しくないか? ヴェリテちゃん」

「いいえ。ちっとも。

読みたい本がたくさんあるので」

「オズバルドさん。

ヴェリテさんのことは私達に任せてね」

「いってらっしゃい、オズバルド先生」

 

 一礼し、ヴェリテは大図書館に戻って行った。

 その後ろ姿をハーヴェイが追いかけ、アンもそれに続く。

 微笑みながらヴェリテの後ろ姿を見るホリーは、また俺に視線を戻す。

 

「オズバルド。ここにはいつ戻ってくるの?」

「7日後だ。いつも通り」

「あの子……寂しがるかもしれないわね。

ずっとあなたを追いかけていたから」

「寂しがる顔が思い浮かばないな。ハーヴェイがいるから退屈はしないだろう」

 

 ホリーの微笑みがわずかに曇った。

 

「どうした?」

「……いいえ。何も。

あの子は私とアンが支えるわ。そばで、目を離さないでおくから。

行ってらっしゃい」

「ああ」

 

 モンテワイズを後にする。

 帰路は想像していたよりも短く感じ、とても静かで、名を呼ばれないことに物足りなさを感じた。

 やっと我が家に帰り、出迎えてくれたリタとエレナを抱きしめる。

 両手を上げて背伸びするエレナを抱き上げ、目線を合わせた。

 

「……髪を結んでいるな。似合うぞ、エレナ」

「昨日、近くに引っ越してきた子に結んでもらったの。

お兄さんとお姉さんと妹さんで……」

「たのしかった。てをつないでね」

 

 リタとエレナの話を聞きながら食事をする。

 帰りたいと望む場所に最愛の家族がいる。俺は果報者だ。

 

 穏やかな日々を過ごす。

 研究室でエレナに本を読み、引っ越して来た家族に挨拶をし、究極魔法の研究を進め、手記に書き写した未知の字を調べ、夜にはリタの髪を梳き、昼にはエレナと散歩をする。

 満たされた日々が過ぎ、7日後、リタとエレナに見送られて出発する。

 ブドウとヴェリテの好きそうな本を買い、大図書館へ。

 

 講義室の扉をわずかに開ける。ヴェリテは最前列で話を聞いている。

 離れていても、赤い髪はよく見えた。

 教授の講義が終わり、ハーヴェイがヴェリテに声をかけてこちらを指差してくる。

 振り返る赤い瞳と視線がぶつかった。変化のない、平然としたいつもの無表情。

 席を立ち、ぱたぱたと走り寄ってくる。

 

「こんにちは、オズバルド先生」

「ああ、戻った。

元気にしていたか?」

「はい。本を29冊読みました。

感想と考察は筆記帳を2冊分書いています」

「素晴らしい。後で見せろ」

「はい。あの、オズバルド先生」

「どうした」

「私の……私の名を呼んでください」

 

 笑みの無い顔。俺をジッと見上げる赤い瞳は、何かを強く求めて切実だった。

 

「ヴェリテ」

 

 仮面が外れた。

 ふわりと花ひらく特別な笑顔を見せた。

 

「はい。

オズバルド先生、外の本を読みに行きましょう」

 

 嬉しそうに微笑みながら、俺の手を両手で握り、廊下へ連れ出した。講義室は騒然とした。

「ヴェリテさん笑った!」「え!?」「笑うのか!?」「笑ってた!!」と驚愕の声が多く溢れた。ヴェリテは周りを気にしない。

 

「最近、街で猫を見掛けました」

 

 淡々とした声。たった数分でいつもの表情に戻ってしまった。

 

 アンとホリーから話を聞く。

 俺が不在だった間、ヴェリテは一切寂しがらなかった。

 学徒の話を聞き、教授に質問し、本をたくさん読み、女史2人と多くの時間を過ごした。

 ヴェリテを特に気にかけたのはハーヴェイで、事あるごとに気さくに話しかけた。俺の不在を埋め合わせるように。

 それから数日間、滞在している間、ヴェリテは俺の後ろをついて回った。

 

「オズバルド先生」

 

 たくさん俺の名を呼ぶ。

 

「オズバルド先生」

 

 話しかけてくる。

 ハーヴェイを交えて3人で語り合い、ヴェリテと毎食を共にし、講義室で魔法を披露する。

 ヴェリテの筆記帳をじっくり読み、ヴェリテの読書をそばで見守った時間もあった。

 さらに別の日に、究極魔法をハーヴェイとヴェリテと学徒達と研究する。

 窓から日が差し込み、講義室は明るかった。

 

「オズバルド先生。4日前に“グラトン予測”の話を聞きました。

“第7の根源”も、ハーヴェイさんが教えてくれました」

「ほお。ハーヴェイが」

「熱心に聞いてくれたぞオズバルド」

「“ダーケストの大穴”はホリーさんが。

気になる事・思い至った事がありました。黒板の隅に書かせてください」

「書いていい」

 

 ヴェリテは黒板に彼女の似顔絵を書く。包丁で手を切って悲しむ表情。子供の落書きだ。

 少女のかわいらしい講義を、大人達は微笑ましそうに見守っている。

 

「4日前、アンフェミーさんがお昼にご飯を作ってくれました。その時、指を切ってしまったんです」

「アン、怪我をしたのか?」

「ええ。少し出血して心配させちゃった」

「アンフェミーさんは薬師のところには行かないで、傷口を水で洗っただけでした」

「とても浅い切り傷だから、塗り薬は不要だと思ったの。もう痛くないわ」

「昨日、指を見せてもらったんです。傷口が塞がっていました」

「自己治癒力だな。人間にも動物にも備わっている」

 

 ヴェリテは黒板に、怪我をしてから治るまでの日数を書く。

 

「指を切り、薬を塗らなくても自然と治る。

大きな負傷は神官の“回復魔法”でも癒すことができると聞きました」

 

 振り返り、俺達全員に目を向ける。

 変わらぬ仮面の表情。しかし、赤い瞳は美しく輝いている。

 

「私は“第7の根源”だけでなく“第8の根源”もあると考えました。

全ての生きるものに備わっている……“癒す力”です」

 

 堂々と言うその少女に、幼い子供に。

 俺は、息を忘れるほどの衝撃を受けた。

 

 講義室が静まり返る。誰も微笑んでいない。あのハーヴェイすらも。

 ヴェリテは一礼し「以上です」と講義を終えた。黒板を離れ、着席する。

 最初に動いたのはハーヴェイだ。真顔で拍手する。

 それから先は大騒動だった。

 講義室を飛び出した学者達が、ヴェリテの提唱した“第8の根源”を言い触らして回った。

 大騒ぎだった。大図書館がひっくり返ったような。

『この話は西大陸にも、学界にも広がる』……そう、俺は予感した。

 ホリーとアンが大興奮の笑顔でヴェリテを撫で、抱きしめる。

 少女は変わらぬ表情で抱きしめ返す。しかし、その瞳は嬉しそうで。

 話を聞きつけた者達が講義室に大勢押しかけ、俺とハーヴェイは壁際に追いやられた。

 騒々しくなる大部屋でヴェリテは眠そうに目を細める。

 話を聞かせてほしいと求められ、また話す。子供らしくない無表情で。

 隣のハーヴェイがくつくつ笑う。

 

天晴(あっぱ)れだ。

生きる者はその人生で必ず怪我をする。薬を持たぬ者は自己治癒力のみで日数をかけて傷を癒す。

どうして治るのか、人体の仕組みを知っているなら深く考えずに研究もしない。

生きるものに備わる、それは確かに根源だ。

“癒す力”……あの子だけが真価を見出した」

 

 喜悦の笑みを俺に向けてくる。

 

「なぁオズバルド。俺は君に深く感謝している。

よくぞヴェリテを大図書館(ここ)に連れて来てくれた」

「……珍しいな。お前が誰かに感謝の念を抱くとは」

「おいおいオズバルド、私も人間だ。感謝する時は礼を言う。その機会が訪れないだけで」

 

 満面の笑みだ。初めて見た。

 

「ありがとう、オズバルド」

 

 その表情と声に、なぜか俺は寒いものを感じて。

 

「……ああ」

 

 見たことない表情だから俺は困惑しているのか、と思った。

 ヴェリテから視線を感じた。

 大勢に囲まれながら、赤い瞳を俺に向けている。見つめている。『オズバルド先生』と呼んでいる気がした。

 すぐに歩を進める。

 

「休憩だ。ヴェリテに静かなところで息を抜かせてやってくれ」

 

 集まった者達に声を掛ければ、一様に謝罪し、講義室を出ていってくれた。

 

「ごめんなさいね、オズバルドさん」

「ふふ。確かに休憩は必要だわ」

「ありがとうございます、オズバルド先生」

「アンとホリーがそばにいただろう」

「どうしたらいいか分からなくて。オズバルド先生みたいに言えば良かったんですね」

「そうだ。

ヴェリテ、食べたいものを言え。街で買ってくる」

「ブドウとプラムがいいです」

「……いつもそれだ。好きなのか」

「はい」

「ヴェリテはここで本を読んでいろ。買い物が終わればすぐ戻る」

「オズバルド先生、ありがとうございます」

 

 急ぎ足で街へ行き、ブドウとプラムとサンドイッチを買う。

 静かな講義室に戻り、ヴェリテの目の前に買ったものを置いた。

 

「ありがとうございます、いただきます」

 

 表情を変えることなく、もりもり食べる。

 ヴェリテを見ていると自然と微笑みが浮かんでしまう。

 今日の夕食は何を食べるか……そんなことを考えた。

 

 俺がここを発つまで、大図書館で湧き上がった熱狂は静まることがなかった。

 講義室は普段よりも人が集まり、子供用の席に座るヴェリテに大勢の視線が向く。

 静かな講義だが、俺はうるさく感じてしまった。

 

 さらに翌日、めったに姿を見せない館長がヴェリテのもとを訪問し、大図書館はさらに湧き上がった。

 館長から新品の筆記帳と特別なペンを直々に贈られ、ヴェリテは丁寧にお辞儀する。

 

「たくさんの本を読ませて頂いてます。

ありがとうございます、館長さん」

 

 変わらぬ表情でお礼を言う。

 館長は満足そうに笑い、帰っていった。

 その翌日、俺が出発する日。

 見送りは前回と同様、ヴェリテとハーヴェイと女史2人だ。

 

「いってらっしゃい、オズバルド先生」

 

 いつもの声で言う。しかし、その瞳には『行ってほしくない』という感情が読み取れた。

 

「オズバルド、こっちは私達に任せろ。

ヴェリテちゃんが静かに本を読める環境を作ってやる」

「みんな盛り上がっているけど、ヴェリテさんのことは全員が尊重している。安心して帰ってね」

「私とアンが支えるわ。いつもそばにいる。目を離さないでおくから。

行ってらっしゃい」

「ああ」

 

 見送られて出発する。

 いつもと同じ帰路につく。

 ヴェリテのことを思いながら、我が家へ続く道を進む。

 大図書館を離れる前に見た、ヴェリテの赤い瞳を思い出す。

『間違えた』……そんな感情を抱いてしまった。

 

 帰りたいと願う我が家に、会いたいと思うリタとエレナのもとに、まっすぐ帰宅する。

 出迎えてくれた2人の「おかえりなさい」の声を聞く。

 

「ただいま」

 

 共に生きたいと願う家族を、俺は抱きしめた。

 温めてくれたものを食べる。そのテーブルに、エレナはお絵かきしたものを出してくる。

 

「パパ、みて」

「……これはリタとエレナと俺と……誰だ?」

「『お姉ちゃん』よ、あなた。

いつも遊んでるお兄さんとお姉さんに、エレナが思ったみたいなの。

『お姉ちゃん』が欲しいって」

「……そうか」

 

 エレナは長女だ。その願いを叶えてやることはできない。

 

「また明日、そのお兄さんとお姉さんと遊びなさい」

「うん、わかった。パパもいっしょにね」

「ああ」

 

 そしてまた穏やかな日々を過ごす。

 遊びに行くエレナに同行し、研究室でエレナに魔法を見せたり、散歩するエレナをおんぶしたり、リタと共に買い物をして、研究の記録を確認し、未知の字の規則性を確認する。

 3日目の夜。俺のベッドで眠るエレナを見て、微笑んでから、目の前のリタに視線を戻し、髪を梳く。

 

「……あなた。何か、困ったことがあった?」

「どうして」

「たまに……遠くを見る目をしてる。

モンテワイズにやり残してることがあるのかな、って思ったの」

 

 穏やかに笑う顔。俺にも微笑みが浮かぶ。

 

「……ここ最近、大図書館で本を読む少女が……俺の生徒になったんだ。

9歳ぐらいの子で熱心に学んでいる」

「まぁ。あなたに生徒が」

「ああ。“オズバルド先生”と呼ぶ子だ。

あまり笑顔を見せない。エレナのほうがよく笑う。大図書館で女史2人と暮らしている」

「……ご家族は?」

「離ればなれのようだ。自分の家族に関心が無く、勉強ばかり」

「自分の好きなことに集中してるのね」

「寂しがらぬ子だ。女史がそう話していた。

俺がここに帰っている間も、大人に混じって講義に参加している」

「すごいわね、9歳なのに」

「いつも早起きしている、子供らしくない子だ。

しかし、この前出発した時は……少し、様子が違っていた。

普段は何を考えているか読めないのに……あの時は……」

 

 話してはならない気がして、そこで沈黙した。

 ゆっくりと立ち上がった妻が俺を抱きしめてくる。

 

「……“あの時は”……何があったの?

話して、あなた」

 

 リタの背を両手で支える。

 

「……『行ってほしくない』と思っているような、そんな目をしていた。俺にはそう見えた」

「そうだったのね。

ありがとう、あなた。話してくれて」

 

 エレナがもぞ、と動き、布団から逃げる。

 俺はリタの腕から離れて、深く眠る娘に布団をかけ直した。

 

「あなた。明日、大図書館に行ってあげて」

「……なぜ」

「あなたの生徒を、ここに連れて来てあげてほしいの。たくさんごちそうを作るわ。

あなたと、エレナと、私と、その子で、みんなでご飯を食べましょう」

「……エレナに悪い。怖がらせたくない。エレナの知らぬ子を家に連れて帰るのは」

「喜ぶわ。『お姉ちゃん』を欲しがってるから」

 

 晴れやかに言うリタに、俺はすぐに頷けなかった。

 翌日、朝食を食べ終わったエレナに、俺は目線を合わせて説明する。

 赤い髪と赤い瞳の、あまり笑わない、本ばかり読む女の子の話を。

 

「……エレナの話を聞いてくれる子だ」

「どう? エレナ。ここで一緒にご飯を食べたい?」

「うん!! おはなししたい!!」

 

 目を輝かせるエレナを撫でる。

 

「今日、ここに連れてくる。

いいか? エレナ」

「ありがとう、パパ! いってらっしゃい!」

 

 2人に見送られ、俺は急ぎ足で我が家を発つ。

 大図書館に行くのは本来なら数日後だ。講義室で本を読むヴェリテを思う。

 驚くかもしれないな、と表情を予想して少し笑った。

 

 走って大図書館に戻る。

 講義室に続く廊下で、偶然にもホリーと遭遇した。

 

「え!? もう帰ってきたの!?」

「ああ。妻と子にお願いされてな。

ヴェリテはどこに」

「書室よ。講義室は今、大きな実験をしてて」

「アンがそばにいるのか?」

「いいえ。登録書の確認で管理室へ。

ごめんなさい。私も教授に呼ばれてあの子のそばを離れていたの。今戻るところよ」

「ヴェリテのそばにはハーヴェイがいるのか?」

「ええ。本を読むと」

「行こう」

 

 早歩きで書室を目指す。

 本棚がひとつあり、物書き机が二つ並ぶ、勉強に集中できる狭い部屋だ。

 ノックをして扉を開ける。

 机に座り、並んで本を読んでいる。ハーヴェイとヴェリテが同時に顔を上げた。

「……戻るのが早いな」とハーヴェイは驚愕に目を見開き、

「オズバルド先生!」とヴェリテは席を立つ。

 読んでいた本を机に広げたまま、走って俺のもとに飛び込んでくる。

 受け止めれば、俺の上着をヴェリテはギュッと握った。

 いつもと変わらぬ表情。しかし、赤い瞳がわずかに揺れている。

 

「良かったな、ヴェリテ。

オズバルド先生がすぐ帰って来てくれて」

 

 ハーヴェイは明るく笑う。読んでいた本を閉じて本棚に戻した。

 

「オズバルド先生」

 

 いつもと同じ声だ。

 上着を握る小さな手を俺は握る。

 

「オズバルド先生、2人で散歩に行きたいです」

 

 普段と変わらぬ声。しかし『何かあったな』とすぐに気付いた。

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