我が家での穏やかで幸福な日々と、
大図書館で多くを学ぶ日々。
ヴェリテと出会ってから……2ヶ月が過ぎた。
リタとエレナが待つ家に、ヴェリテと共に帰宅した日の夜11時、子供達が眠ってから、リタはやっと胸の内を明かしてくれた。
「……あなた。エレナがね、この前言ったの。
『おねえちゃんはヴェリテおねえちゃんがいい』って」
俺を見つめる瞳に嬉し泣きの涙が浮かぶ。
愛しいと思える頬をそっと撫でる。
「ソリスティアのどこかに、ヴェリテちゃんの家族がいる。それは分かってるの。
ずっと一緒にいられないのも分かっている。
お父さんとお母さんが見つかるまで……ヴェリテちゃんを私達の養子に……。
ヴェリテちゃんがこの家に来てくれた時に……家族として『お帰りなさい』を言いたいの」
リタの願いに、抱きしめて応えた。
「俺も同じことを思っていた。
明日、ヴェリテに話そう」
「ありがとう、あなた」
空に雲ひとつない、とても晴れた日に。
ブランコに乗る背を押しながら、俺は言葉を選びながら話した。
言い終わってすぐに、
「ブランコを止めてください」
ヴェリテの声に俺は手を止める。
彼女は大きく動揺していた。赤い瞳は俺を一切見ようとしない。
「……考えさせてください」
返答は貰えなかった。
リタは「またご飯を作るわ。いつもと同じようにここで過ごして、納得できるまで考えて、ゆっくり決めてね」と声を掛け、ヴェリテは困惑した顔で頷いた。
大図書館に戻る。
養子の件はアンとホリーとハーヴェイにも打ち明け、ヴェリテにはその話題を一切出さないように配慮した。
講義を受けるヴェリテはいつも上の空で、大勢の学者と学徒達を心配させた。
ヴェリテは常に難しい顔をして、女史2人に話しかけられても、返答が遅れてばかりだった。
大きく変わったのはヴェリテとハーヴェイだ。たまに見せていた微笑みを、ハーヴェイには一切向けなくなった。
「何を言われたんだ」とヴェリテに問い詰めても「なにもありません」と拒絶された。
ハーヴェイにも問い詰めた。
厳しい顔で「お前が原因だ。自分で言ったことを、まさか忘れてしまうとは」と冷たく言い捨てられた。
ヴェリテを散歩に誘っても断られるようになった。
ホリーとアンに密かに聞けば首を振られ、
レディ・クラリッサに相談すれば「ヴェリテさんと2人で話してください」と言われた。
大図書館の心苦しい日々が過ぎ、リタとエレナのもとに帰る日がやって来る。
女史2人とハーヴェイとレディ・クラリッサに見送られ、俺とヴェリテは出発した。
帰りの船で、酒場の席にヴェリテと座る。
ブドウを食べる。赤い瞳は俺を見ようとしない。
「……養子の話をしてからだ。
なぜ、そこまで大きく態度を変えてしまった」
不満そうな顔で黙々と食べる。
「俺には隠さず話せと言ったはずだ。
話してくれなければ分からない。理解もできない。それでいいのか、ヴェリテ」
赤い瞳がやっと俺を見た。
心を閉ざした無表情の仮面だ。
「……ソリスティアのどこかに私の家族がいます。私は、本当の家族のところに帰らないといけません」
「養子はヴェリテの家族が見つかるまでだ。
書類をしかるところに届ければすぐに取り消すこともできる。
エレナの“お姉ちゃん”になりたいと言っていただろう。
リタもエレナも、ヴェリテが家族になることを望んでいる」
「オズバルド先生はどうなんですか!?」
突然の剣幕に、俺は言葉を失った。
「私の家族になってくださいと!」
ヴェリテはいきなり立ち上がる。
椅子が勢いよく倒れた。
「私は! オズバルド先生にお願いしました!!」
赤い瞳に涙が浮かんでいた。
ぼろ、とこぼれ落ちる。
「オズバルド先生は断りました!
ここで!この席で! お前の家族にはなれないって!!」
ヴェリテは走って甲板に飛び出して行った。
全身が重い。すぐに追いかけることができない。
「ああ……」
己の心に、後悔だけが浮かぶ。
思い出した。確かに言った。ヴェリテと初めて会った日に。
間違いなくこの席で。
「……ずっと覚えていたのか」
ハーヴェイの言い捨てた『お前が原因だ』をやっと理解した。
重い足を引きずりながら追いかける。
無人の広い甲板に、どしゃ降りの大雨が降っていた。
「……ヴェリテ!」
甲板へ出ていったのを確かに見た。出入り口はここしかない。
この大雨の中にヴェリテがいる。
「どこだ! ヴェリテ!!
ヴェリテ!!」
腕で顔を守りながら、大雨に打たれながら前へ進む。視界が悪い。ヴェリテがどこにいるか発見できない。あの子の鮮やかな赤い髪が見えない。
「ヴェリテ!! 俺の名を呼べ!!」
腹の底から大声を出す。
どしゃ降りのうるさい雨音の中、とても小さな声が聞こえた。
ヴェリテが俺の名を呼んでくれた。
声を頼りに走り、発見できた。
大雨に打たれながら、ずぶ濡れになりながら、膝を抱えて座っていた。
「ヴェリテ……風邪を引く……。
話さなくていい……中へ戻るぞ……」
小さな手を握る。ヴェリテも握り返してくれた。
2人で酒場に戻る。
床を広く濡らしてしまい、酒場の店主には謝罪した。
店主は俺とヴェリテの口論を聞いてしまっていたようで、申し訳なさそうに大きなタオルを貸してくれた。
先にヴェリテを拭いてやる。この後は入浴だ。
これがエレナなら一緒に風呂に入ってやるところだが、相手はヴェリテだ。
ひとりで入浴させるしかない。
ヴェリテはまだ泣いていた。
年相応の顔で、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「ごめんなさい……オズバルド先生……。
私、養子の話、すごく嬉しかったんです。
エレナちゃんの“お姉ちゃん”になりたい……。
でも私は……本当の家族のところに帰らないといけないんです……」
「帰っていい。本当の家族も俺が探す。背中の文字も解読してみせる。
ヴェリテ、本当の家族を見つけるまでだ。リタとエレナと俺の家族になってくれ」
ヴェリテは泣きながらくしゃりと笑う。
嬉しそうな満面の笑みだった。
「はい、オズバルド先生……!」
どしゃ降りの雨は、いつの間にか止んでいた。
下船した後は、2人でまた帰路を歩く。
ヴェリテに笑顔が戻った。
帰宅して出迎えてくれたリタとエレナを抱きしめる。
どしゃ降りの中を歩いたせいか、帰宅してすぐ、俺は高熱に倒れてしまった。
ベッドの中で苦しむ俺をリタが手厚く看病してくれて、エレナとヴェリテの励ましの声を聞きながら安静にして、2日後に全快した。
「ヴェリテも大雨に打たれていた……。
……なぜ平気なんだ」
「子供だからですか?」
「免疫力は子供のほうが低い」
「なら、私が特に健康なんでしょうね」
ヴェリテは平然と言った。
翌日、エレナは近所の仲良し3兄妹のところに遊びに行った。
リタと手を繋ぐ小さな背中を見送るヴェリテは嬉しそうだ。やわらかく微笑んでいる。
「寂しくないか?」
「いいえ。エレナちゃんとはずっと一緒にいましたから。たまにはこういうのもいいです。
森へ行きましょう、オズバルド先生」
俺とヴェリテの外出先はリタに事前に伝えている。
大不死鳥について書かれた本を手に、俺とヴェリテは近くの森へ出かけた。
俺は読書、ヴェリテは発見した植物を手記に描き写す。お互いに好きなことをする時間だ。
初めて読む本に、のめり込むように熱中して読んでしまった。
────ハッと我に返り、顔を上げる。
空は夕暮れになっていた。もう日没だ。
退屈したヴェリテは散歩しているのか、発声練習の声が遠く聞こえる。
「……詠唱の練習か?
しかし、今のヴェリテでは……」
口上の指導を受けて魔法を発現できる者が大半だが、ごくまれに、己が決めた言葉を唱えないと魔法を使えない者もいる。
ヴェリテは後者だ。長い月日を費やし、研鑽を積むしかない。
今も発声練習の声が遠く聞こえる。
間もなく夜だ。帰らなければ。
ヴェリテを呼ぼうと顔を向け、絶句した。
声が聞こえる方向、森の木々の奥で、魔法の光が炸裂している。
「ヴェリテ!!」
地を駆け、木々の間をすり抜ける。
枝で頬を切りながらも、すぐにたどり着いた。
ヴェリテは鳥の魔物・ウミスズメと戦っている。
発声練習の声で魔法を発動し、素早く襲いかかる魔物とやり合っている。
小さい身体で攻撃を避け、火炎と雷撃の魔法を同時に放つも、魔物には一切当てられない。
「“氷よ……切り裂け”!!」
魔物を瞬時に滅した。
ヴェリテは立てなくなり、尻もちをつく。
肩を大きく上下させ、荒く呼吸を繰り返す。服はボロボロになっていた。
「ヴェリテ……!」
俺の呼吸も不規則だ。心が騒々しく荒立っている。早足で歩み寄った。
「私は近くにいた。呼べばすぐに駆けつけた……!」
心が震える。ヴェリテの危機に気付かなかった自分自身に怒っていた。
「なぜ俺を呼ばなかった!
己ひとりで挑まずとも私に助けを求めろ!!」
心が震えるままに言う。荒らげる声のまま言ってしまう。
「習得した魔法を魔物に試したかったか? 己ひとりで戦えると思ったか? 傲慢も甚だしい!!」
ヴェリテは泣き出し、俺は声を詰まらせた。
子供相手に……怒鳴ってしまった……。
悔恨の念で胸がいっぱいになる。
荒立つ心を深呼吸で鎮め、ゆっくりとしゃがみ込む。ヴェリテと同じ目線になる。
「……どうして、ひとりで戦った」
全身を震わせて泣いている。
魔物か怒鳴る俺か、どちらに恐怖したのか分からなかった。
穏やかな顔を意識する。ヴェリテの返答を静かに待つ。
ひく、とヴェリテは小さく声を漏らした。
「まもの、が、急に……出てきて……」
極寒に震えるような声だった。
「ひと、ひとりの時に。
オズ、バルド、先生が、前に……い、言いました……」
私はすぐに思い出す。
「“ひとりの時に魔物と遭遇したらどうすればいいか”?」
ガクガクと頷いた。話せる状態じゃない。
ここからは俺が代弁したほうがいい。
「俺は……逃げるしかない、と答えたな」
ヴェリテはまた頷く。
「ヴェリテは俺のところに逃げようとした。
しかし、魔物のほうが速かった。
逃げ道を塞がれ、別の道から逃げようとして、結果、俺から遠ざかってしまった」
恐怖する顔つきが、徐々にやわらかくなっていく。
「なぜ魔法を使えたかは分からないが……ヴェリテは、当てられずとも牽制する為に、魔法を使った」
右手を差し出す。ヴェリテは両手で握った。
震える全身を抱きしめる。
なぜ、俺の名を呼べなかったのか。
どうして助けを求められなかったのか。
それも問い詰めたかったが、今のヴェリテには、我が家に連れて帰るのが一番だと思った。
「オズバルド先生は……」
落ち着きを取り戻した声に、ヴェリテを少しだけ離した。
「『私に助けを求めろ』と言いました。
でも、あの……どんなことを言えばいいんですか……?」
俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「私……どう言えばいいか分からなくて……。
オズバルド先生の名前も、喉が詰まって、呼べなくて……」
なにがオズバルド“先生”だ。
ヴェリテに、最も大切なことを教えていなかった。
「助けてほしい時は『助けて』だ。言いなさい」
弱々しく揺れていた赤い瞳が輝いた。
「た……たす、たすけて……ですか?」
「たどたどしいな。もう一回だ」
「たすけて」
「そうだ、素晴らしい。
必ず俺に言え。俺じゃなくてもいい、相手は誰でもいい。
どんな困難でも、危機でも、苦しいことが起こっても『助けて』を言え。大きな声で叫べ。
ヴェリテの『助けて』を聞いた人間が、ヴェリテを必ず助けてくれる。
もちろん俺もだ。必ずヴェリテのところに行く」
ヴェリテはホッと息を吐き、やっと笑ってくれた。守りたいと心から思える笑顔だった。
「はい、オズバルド先生」
「帰るぞ、ヴェリテ。
もう夜だ。リタとエレナが待ってる」
頷くヴェリテの手を握る。
家族の待つ家に2人で帰る。
あともう少しで到着、というところで俺は足を止めた。
「……ヴェリテ。やはり今聞かせてくれ」
「魔法のことですか?」
「ああ。いつ使えるように」
「魔物と戦った時です。喉が詰まってうまく声が出せない時に偶然」
「発声練習の声だったな。
帰る前に見せてくれ」
「はい、オズバルド先生」
ヴェリテは走って俺から離れる。
くるりと向き直り、丁寧に一礼した。
顔を上げて、堂々と立つ。講義の時の学徒の表情。
それから、華やかに微笑んで発声練習の声を出す。
高らかな声、鮮やかな炎が舞い上がった。
次は低い声、宙に氷塊が現れ砕けた
柔らかい声、夜空を雷撃が走った。
「単音か!!」
ヴェリテはニッと笑んだ。
発声練習を続ける。美しい声だった。
魔法式が瞬時に構築され、少女を中心に発動していく。
赤、青、黄、緑、光、紫────6つの根源の輝きを。
魔法が消え、静かな夜に戻る。
ヴェリテは誇らしげに微笑む。『どうですか?』と言っているような表情だ。
走り寄り、小さな身体を抱き上げる。エレナによくやっている高い高いだ。
「素晴らしい!! 美しかったぞ! ヴェリテ!!」
ヴェリテは子供らしく笑う。
今日という日を、見せてもらった光景を、俺は生涯忘れない。
心に深く残る1日になった。
扉を開ける前に、ヴェリテが俺の名前を呼んだ。手を止める。
「どうした?」
「私の魔法はオズバルド先生だけの秘密にしてください。
アンフェミーさんにも、ホリーさんにも、クラリッサさんにも。……ハーヴェイさんにも。
誰にも言わないんでほしいんです」
警戒している表情。緊張している赤い瞳。
「分かった。誰にも言わない。生涯沈黙する」と固く誓えば、ヴェリテは首を振った。
「あ、あの……やっぱり、言ってもいいです」と発言を撤回する。
「……数年後、オズバルド先生が信頼できる人にだけ、私の事、話していいです」
「承知した」
ヴェリテは満足そうに目を細める。
そして、帰宅した。
それから先は、ずっと幸福に満ちていた。
リタとエレナとヴェリテとの日々。
ハーヴェイとホリーとアンフェミーとヴェリテとの日々。
レディ・クラリッサはたまに立ち寄ってくれた。常に幸せに溢れていた。
『本当の家族のところに帰る』という願いの為に、ヴェリテは多くの事を大図書館で学んだ。
『オズバルド先生に、解読してほしい字があるんです』と、ヴェリテが俺に話しかけた日から1年が経った。
もうすぐ家に帰る日……というタイミングで、館長からヴェリテ宛に手紙が届いた。
「オズバルド先生、とてもきれいな手紙です」
「手紙の内容は?」
「ストームヘイルに来てほしいと。
そこに今は滞在されていて、そこで情報を得たそうです。
赤い髪と赤い瞳の女性が、聖堂機関本部で活動していたと」
「ヴェリテさんと同じ特徴ね」
「オズバルド先生。
他には……その女性の活動の記録が、聖堂機関本部に保管されています。
持ち出しは不可で、本部内でしか閲覧できないそうです。
だから……私に、ストームヘイルに来てほしいと。
通行許可証も同封されていました」
「行くのか?」
「もしかしたら、私の母か……姉かもしれません。私はストームヘイルに行ってきます」
「俺も……」
「いいえ。オズバルド先生は家に帰ってください。エレナちゃんとリタさんが帰りを待っていますよ」
「ヴェリテの帰りも待っている」
痛いところを突かれた顔を一瞬だけして、ヴェリテはニッと笑んだ。
「私は今回の帰宅を辞退します。
次回帰った時に、たくさんリタさん達を抱きしめますから」
「安心してね。私が一緒に行く」
「ホリー……」
「私もヴェリテちゃんに同行する。
ホリーと私と、私が雇った衛兵2人と護衛1人でストームヘイルに行く。
聖堂機関本部には聖火教会が押収した本がたくさんあるらしい。
うまいこと話して何冊か持って帰ってきてやろう」
10冊ぐらい持って帰りそうな笑みをハーヴェイは浮かべた。
ヴェリテがそれを横目に見ながら「大不死鳥についての本もお願いします。読みたいです」とほんの少しだけ笑って言う。
ハーヴェイが調子よく得意げに笑った。
「任せろヴェリテちゃん! 私が30冊ほど持ち帰ってやろう!!」
「どう持ち帰る気だハーヴェイ……」
ヴェリテと大人5名。
それなら、ストームヘイルに行くのは問題ない。
ヴェリテが出発する日、今度は俺が大図書館の外で見送った。
その翌日、俺も1人で出発する。
帰りの船は問題が発生したのか、乗船できるまでに3日を要した。
船の近くで時間を潰すのは退屈だった。
「今頃、ヴェリテ達はストームヘイルか……」
ホリーがいるなら安心だ。
ハーヴェイがいるならきっと退屈しない。
ヴェリテは本当の家族の手掛かりを得て、大図書館に戻って来る。
そして俺は、エレナとリタを思った。
残念がるだろうか。
お姉ちゃんが帰って来ないと泣くだろうか。
……そんな事を思って。
コニングクリークに帰り、エレナと仲良しの3人兄妹とその夫妻・フィール一家と出会った。
いつもは俺と共に帰るヴェリテがここにいない。
心配する夫妻に「大切な用事があって、大図書館に残っている」とだけ言ってごまかした。
「オズバルドさんこんにちは!」と挨拶する兄は、また身長が伸びたようだ。
「お帰りなさい、オズバルドさん」と姉も笑顔で話してくれた。
「あ! 空に黒いのあるよ!」と妹が空を指差した。夕暮れの空に一筋の黒い煙が上がっている。
「あっちの方角は……」
……我が家のある方だ。
ざわりと総毛立ち、夫妻達に挨拶もしないで俺は走った。
静かな墓地の横道を駆け抜け、荷物を放り捨ててひたすら走る。
「……!!」
リタとエレナが俺の帰りを待っている。
帰りたいと願った家が、業火に包まれていた。
「リタ!!」
熱気が肌を焦がす。一歩も近づけない。
「エレナ!!」
窓からは猛火が噴き出し、唯一の扉も炎に呑まれていた。
中にいる、リタとエレナは、
「うおおおおおおおおおお……!!」
膝をつく。両手が土で汚れる。
近くで物音が聞こえた。何かを軽く踏みしめる音。
燃える我が家と、燃えるブランコの間から、ハーヴェイが歩いて出てきた。
「ハーヴェイ……」
目の奥が痛む。唖然とする。
なぜお前がここに。お前はヴェリテと共にストームヘイルへ……
「私は……長く、その背中を追いかけて来た」
その声に、それが幻ではないと理解する。
噴き出す炎を背にハーヴェイは笑う。
「だが……私が、君の全てを奪ってやる」
ハーヴェイが動く。足音を立てながら、私の前まで歩いてくる。
「君の代わりに……“究極”を完成させてやろう」
遠く遠く離れたところ、墓地のあたりから「いたぞ! オズバルドだ!」と怒鳴る声が聞こえた。
「ヴェリテは……!!」
「ありがとう、オズバルド。
ヴェリテを置いて帰ってくれて」
ハーヴェイは喜悦に溢れた笑みを浮かべる。
その表情に、俺は寒いものを感じた。
「私は、あの子が一番欲しかったんだ」
複数の足音が迫ってくる。
息もできない間に、衛兵達は俺に飛びかかり、拘束してきた。
全身が震える。目の奥から炎が噴き出すような、そんな怒りが湧き上がる。
「ハーヴェイ……貴様ッ!!」
俺を拘束する衛兵達は俺しか睨んでいない。ハーヴェイが目の前に立っているのに。
「オズバルドよ。これが……私の解だ……!
フハハハハハハハハ!!」
大口を開けて嘲笑っているのに。
衛兵達は見向きもしない。
「ハーヴェイ!! 貴様は!!
……くそ!! 離せッ!!」
拘束から逃れようとして、衛兵に顔と腹を蹴られた。
目の前が暗くなって、何も見えなくなって……
『よくぞヴェリテを
『ありがとう、オズバルド』
あの時に寒いものを感じた。その理由を、なぜ深く考えなかった。
『面白いな。私はハーヴェイだ。君の名を聞かせてくれ』
ハーヴェイと初めて会った時に、ヴェリテは眠そうに目を細めた。
『ああ、あの人には話したくないです』
そう言った時も、眠そうに目を細めて。
今思えば、あれは嫌悪の表情だった。
ヴェリテは最初から、ハーヴェイを警戒していた。俺がそれに気付かなかった。
『あの子の髪に……大きな虫の死骸が絡まっていて……。
気味の悪い虫でな、教えたら怯えさせると思って、黙って取ったんだ。死骸がバラバラにならないように、慎重に取って……』
あれも嘘だ。触りたくて触った。ヴェリテが震えて嫌がるまで。
あの密室で、ハーヴェイは執拗に髪を触ったんだ。
アイツの理由を、俺は愚かにも信じてしまった。
俺はハーヴェイに言った。
『苦手意識が消えなければ進展しない。誠実に生きろ』と。
ヴェリテが警戒を解いたのは俺のせいだ。
『私は字の解読より、もっと心が踊るものを発見した。しばらくはそちらに専念にする』
『ひとりで楽しみたいんだ』
今にも歌いそうなほどの上機嫌な笑み。あれは……分かった。
ハーヴェイは最初から、ヴェリテを狙っていたんだ。
あの子はもう、大図書館には戻ってこれない。
ハーヴェイの手で別の場所に連れて行かれた。
共に行ってくれたホリーも無事ではない。ハーヴェイは家を燃やすのと同じように、彼女も手に掛けた。
俺から全てを奪うために、リタとエレナまで!!
「ハーヴェイ……!!」
心に炎が湧き上がる。
消えることなく燃えている。
ずっと燃え盛り、心をずっと焦がしている。
大切な思い出を少しずつ燃やして────
燃やして────
────俺はそこで、追憶を止めた。
真夜中の森の中で、祭り会場の賑やかな声が遠く聞こえている。
「……ぐ!!」
強い吐き気が込み上げ、俺は夕食に食べたものを全て吐いた。
何度も咳き込み、口内に残ったものも吐き出して。肩で息をして、汚れた口元を拭った。
「リタ……エレナ……!」
俺のせいだ。俺が、ハーヴェイと関わらなければ!!
「ヴェリテ……!!」
あの子を大図書館に連れて行かなければ。
俺を先生と呼んでくれたあの子は、ハーヴェイに狙われることなく学び続けられた!!
「俺が、俺の、せいだ……!!
リタ!! エレナ!!」
込み上げる涙は出てこない。
心を焦がす炎で蒸発してしまう。
荒い呼吸を繰り返す。肩で息をする。
「俺の、俺の……!」
両手で顔を覆い隠そうとして、俺は両ポケットの特大の膨らみに気付いた。
これを俺に贈ってくれたミルフィーユを思い出した。
「……でっかい岩です、か」
ふ、と笑みが浮かび、ポケットからでっかい岩を出した。
とても大きいのに驚くほど軽い。
「“説明を。ただ何となくではいけない”
“それを俺に話しなさい”……ヴェリテに向けた言葉を、俺は、ミルフィーユにも同じことを言っていた……」
自然と笑みが浮かぶ。
この大きな岩石に、ミルフィーユがやっていた事を思い出す。
ふたつの大きな岩石を、俺も同じように抱きしめた。指先で優しく撫でてやる。
「“とても小さい”
“かわいい子がこちらを見ている気がする”
“守らなければいけない” “大事にしてあげたい”
あの子はそう言っていたな……。
……ならば俺も、そうしよう」
心が不思議と穏やかになってくる。
俺にはそれが、ただの岩石ではない気がしてきた。
抱きしめたまま歩き、宿屋が遠く見えたあたりで、大きな岩石をポケットにしまいこんだ。
「……また明日だ。誰もいないところで抱きしめてやる」
両ポケットに小さく声を掛ける。
真夜中の宿屋、外に人影が……ソローネが立っていた。
「お帰り、先生」
素っ気ない声で迎えてくれた。
「ずっと待っていたのか?」
「うん。ひとりで思い出していた。
戦っていると忘れるね。思い出そうとしてやっと、忘れていた過去を思い出した」
「ソローネもか。……俺もだ」
「先生も?」
「多くの事を思い出した」
長い夢のようだった。
大切なことを。忘れたくなかった記憶を。
追憶することで、思い出せた。
ソローネは微笑む。ニューデルスタで“友達”に向けていた時と同じ表情だ。
「俺の家族と、俺の生徒のことを、思い出した」
「先生の生徒……ミルフィーユと同じ顔の?」
「ああ。赤い髪と赤い瞳の。俺の……娘のことが大好きだった」
「……ふぅん。先生はどう思う?」
ソローネの顔から笑みが消える。真剣に見つめてくる。
「先生の生徒とミルフィーユは、同一人物か……別の人間か」
「まだ分からない」
ミルフィーユを見守り続けて。
『ヴェリテだ』と思えることが多くあった。
別人なら、ヴェリテは今もハーヴェイに囚われている。
同一人物なら、記憶を思い出せば“ミルフィーユ”と“ヴェリテ”が混ざる。
テメノスを慕うあの子が、あの子ではなくなってしまう。
「先生が望むのはどっち?」
「……分からない」
俺はハーヴェイを殺す。
殺した手で、ヴェリテを抱きしめることはできない。
「分からないが。
幸せでいてほしい、と願っている」
「私も……そう思う」
そして宿屋に帰り、寝たフリをして。
深夜1時に起きたミルフィーユがテメノスを起こして、2人で夜の散歩に出かけていった。
起き上がったソローネがすぐにベッドを離れる。
「行くよ、先生。
テメノス達を離れて見守ろう」
「とても楽しんでいるな」
ソローネと静かに外へ出る。
テメノスとミルフィーユが月明かりの下で話している。
あの子の「好きです」はたくさん聞いた。いつか“大好きです”をたくさん言うようになるだろう。
テメノスが両手を広げる。ミルフィーユが嬉しそうに飛び込むのが見える。
「幸せになってほしい。
俺が望むのはそれだけだ、ソローネ」
「……うん」
「帰るぞ。ここから先は2人きりにしてやれ」
そして俺達は宿屋の、ベッドの中に戻った。
ポケットから大きな岩石を出し、枕もとに並べる。
『おやすみ』の視線を送り、俺は就寝した。
夢を見た。
リタが「あなた」と。
エレナが「パパ」と。
ヴェリテが「オズバルド先生」と。
俺を呼んでくれる夢を。