「ふぅ、今日は静かでいいわ」
小窓から昼下がりの柔らかい日差しが差し込む店内、誰もいないカウンター席に腰かけたウィーン・マルガレーテはひとりつぶやいた。
澁谷かのんの自宅で、マルガレーテの下宿先であるこのカフェは、普段は隠れた名店として遠方から訪れる人も少なくない。
「それにしても、退屈ね」
意味なく群れることより一人でいることを好むマルガレーテにとってこの環境は好ましい。
しかし、そんな彼女でも今の状況は少しばかり静かすぎる。
どういうわけか今日に限っては客足がぱたりと途絶えており、いつ終わるとも知れぬ店番の時間がただただ過ぎていたのだった。
「誰でもいいから来てくれないかしら」
ほんの淡い期待を込めてそんなことをつぶやいた直後。
「お邪魔しまーす」
からからからん、と来店を告げる軽快な鈴の音と共に入り口の扉が開いた。
「いらっしゃいませ……なんだ、あなただったのね」
ようやく待ち望んだ退屈な時間を終わらせる存在。それはかのんでもありあでもなく、お客さんでもない。
「こんにちは、マルちゃん」
澄んだ声のその人はLiella!のサポーター、東音羽その人であった。
これは今紡がれている物語の場面を少しばかり進めた、なんでもないある日の物語。
思いもよらぬ来訪者に内心驚くが、そこは店番としての務めがある。手慣れた様子でコーヒーを淹れる準備にかかる。
「そういえば今日はマルちゃんひとりなんて珍しいね」
「かのんなら『ちょっと買い物してくる』って出て行ってそれっきり。まったく時間かかりすぎなのよ。ありあもちょうど出かけてるわ」
話している間に淹れられたコーヒーが音羽の前に置かれる。
「かのんから聞いてるわ、あなた猫舌なんでしょ」
「あはは、お気遣いありがとう」
そう言って音羽は目の前に置かれたぬるめのコーヒーをゆっくりと一口喫する。
「やっぱりマルちゃんの入れるコーヒーが一番だよ。なんたって猫舌仲間だからね」
「よ、余計なこと言わないちょうだい! かのんに聞かれたって知らないわよ」
音羽の言葉の通り、マルガレーテは熱いものが苦手、いわゆる猫舌なのである。そんな思わぬところを突かれたマルガレーテだったが、音羽を前にしてはどうしてもいつものような調子にはなれない。むしろ内心では褒めてもらったことに素直になれない自分をもどかしく思っていた。
「それで、今日はどうかしたの? さっきも言ったけど、かのんならいないわよ」
「いや、今日は特に何か用があるわけじゃないんだ。ただなんとなく、かな」
「そういうところ、変わらないわね」
マルガレーテにとってこの東音羽という人間は、はっきりいってよくわからない存在である。
音楽一家という同じ境遇を持ち、類まれな才能を有しながらも、それを誇示するわけでもなくどこか自分に自信がなさげなその姿は、全くもって理解しがたく、苛立ちさえ感じられるほどのものであった。
しかし、スクールアイドルとしてLiella!と競っているうちに、そんな彼に対して感じた今までに感じたことのないような感情がマルガレーテの中に芽生えてきた。最初は倒すべき敵の一人から乗り越えるべき相手へ、そして今こうして自分がLiella!の一員となり互いに助け合いながらも高め合う仲間へ。思えば何とも不思議な縁だ。そんな不思議な関係の彼に対する興味は尽きることはない。
「……マルちゃん? どうかした?」
「えっ? べ、別に何でもないわ」
無意識のうちに音羽の事を見つめていたらしく、それを本人から指摘されて反応に困るマルガレーテ。咄嗟にそっけない返しをしてしまうが、実際はこう普段の何気ないことで彼の事を意識してしまう自分がいることに彼女自身も気が付いていた。
そして変わらず客足は途絶えている中、二人きりの店内でコーヒーを飲みながらただ何をするわけでもなく話を続ける。
「そういえばマルちゃん、最近どう?」
「どうって、変わりないわよ。ほぼ毎日会ってるじゃない、何でそんなこと聞くのよ」
「いやあ、マルちゃんが正式にLiella!に入って暫く経つけどどうかな、って単純に気になったんだ」
「別に変りないわよ。強いて言うなら騒がしすぎるわね」
それまでは群れに属することなく一匹狼のように過ごしていたマルガレーテにとって、Liella!のような大人数グループの中で過ごすのに慣れるのは容易な事ではなかった。
少しでも時間が空けば他愛のないことで盛り上がったり、特に理由もなく一緒に出掛けたり、マルガレーテにとっては理解しがたかった。
「でも、騒がしいのも悪くはないでしょ? 僕はそれで毎日が楽しいよ」
「あなたは騒ぐ方でしょ」
「ええっ、騒ぐほう? 僕が?」
「昨日だって練習終わりに可可先輩や千砂都先輩たちと一緒になって騒いでたじゃない。たこ焼きがどうとかって」
「だってあれはくぅちゃんが……マルちゃんだって最近はかのんちゃんとか冬毬ちゃんと楽しそうにしてるじゃない」
いつも他愛のないことで大いに盛り上がる先輩たちを見て、最初は呆れたと思うこともあった。
しかし音羽の言う通り、志を同じくする仲間と過ごしてきたことによって、自分もいつしかその騒がしさの中に入っていたのかもしれない。
「Liella!のみんなが元気なのは、最初からそうだったからねぇ」
「まあ、簡単に想像はできるわね」
「話してたらなんだか急に懐かしくなっちゃった。一緒に見てみる?」
「それもいいわね。あまり振り返る機会もないからちょうどいいわ」
そしてスマホを取り出す音羽。こうして二人きりの店内で思い出を語りながらのライブ鑑賞会が始まった。
マルガレーテにとって自分がLiella!に入る前、それより以前名前すら知らなかった頃の話は興味深く、気が付くと自然と話し込んでいた。
そしてとりわけ目に留まったのは『Wish Song』のライブ映像。まだLiella!という名もないころ、結ヶ丘女子高校スクールアイドル部が初めて5人になった、はじまりの曲といってもいい存在である。
「かのんも他の先輩たちも、最初はこうだったのね」
「まあ、初めてだからね」
長い歴史を持つ音楽一家の一員として幼いころから英才教育を受け」てきたマルガレーテからしてみれば、歌もダンスもその技量はまだまだ拙いと言わざるを得ない。
「……でも、いいわね」
普段だったら興味すらわかないであろう拙い歌に基本を押さえたばかりのどこかまだぎこちなさが残るパフォーマンス。
しかし、どこか強く惹かれるものがあり、思わず見入ってしまう。どれだけ高名な音楽家に教えを乞うても、どれだけステージの場数をこなしても決して得ることのできない、経験や技量といった目に見えてわかるものを超越した感動をマルガレーテも感じていた。
「……私にはこの輝きはないわ」
実力こそが何よりもすべてだと頑なに信じて疑わなかった過去の自分の姿が反射的に頭の中をよぎる。
尊敬する姉と同じウィーンの学校に入るという目標が叶わず、頼れる人もない故郷から遠く離れた異国の地で実績を残して家族から認めてもらうことしか考えていなかった頃。
しかし現実は彼女にとって残酷なものだった。栄光と勝利への渇望を込めて歌った歌は素人レベルと見下していた相手に完膚なきまでに敗北した。そして、自分が信じていたものが打ち砕かれただ暗闇の中をさまようような日々もかつてはあった。
そんなマルガレーテにとって、まだ生まれたての初々しい輝きを放つLiella!の姿は、一員となった今の状況をもってしてもあまりにも眩しすぎたのだ。
「輝いてるよ、今のマルちゃんは」
「えっ?」
「だって、マルちゃんは変われたもの」
俯きかけていたその顔が音羽の方に向く。
「最初はみんな同じだったよ。いっぱい迷って、悩んで。喧嘩みたいになった事もあったけど、今こうしてみんなLiella!として一つのになって輝いて、歌ってる。マルちゃんだって今はその中の一つだよ」
そのまっすぐな瑠璃色の瞳は今の言葉が自分に気を使って言ったわけではないことがよく分かる。
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ」
たしかに彼の言う通りかもしれない、マルガレーテは思った。結ヶ丘に入ってLiella!の一員となり、仲間というものがどれだけ大切なものか、身をもって知った。拒絶されても何らおかしくない自分をLiella!の皆と音羽は受け入れてくれたことは彼女にとって救いであり、どれだけ感謝してもしきれない。不器用な性格の分どうしても定型文のような単調な言葉になってしまったが、それは彼女に今できる精いっぱいの感謝の仕方だった。
「どういたしまして」
そんな彼女の想いをでくみ取ったのか音羽は優しい笑顔で答える。
「なんか、いっぱい話したら疲れちゃった」
「何か食べたいなら言ってちょうだい。話してくれたお礼ってわけじゃないけど、サービスするわよ」
「それじゃあ、何かおいしいスイーツが食べたいな。疲れた時には甘いものが一番だからね」
「それ、普通は作る側の台詞だと思うんだけど。まあ、いいわ。少し待ってなさい」
そう言ってマルガレーテは背後の冷蔵庫から材料を取り出して慣れた手つきで調理を始める。
そしてしばらくして音羽の目の前に出されたのはリンゴのいい香りを漂わせた綺麗な洋菓子であった。
「今度新しくメニューに入れるつもりなの。誰かの感想が欲しかったらちょうどいいわ」
「それじゃあ、いただきます」
切り分けられた一切れを刺したフォークを口の中に入れて間もなく顔がほころぶ。
「うん! 甘い! これってオーストリアのお菓子?」
「アプフェルシュトルーデ。アップルパイみたいなものね」
「へえ、マルちゃんの故郷のお菓子かぁ。僕もいつかウィーンに行ってみたいって思ってるんだ。マルちゃんのお姉さんにも会ってみたいしね」
「いつでもいいわよ。私とお姉さまでウィーンの街を案内してあげるわ。まず第一に……」
人の性と言うべきか、離れた故郷の話となると自然と話が弾む。
そして気づけば次から次へと話題が出て行き、ふとした折に時計を見ると音羽が店に来てから随分と針が進んでいた。
「なによ、そんな顔して」
フォークだけになった皿を前にして音羽は柔らかい笑顔でマルガレーテを見つめている。
「なんだか、こうやってマルちゃんと二人きりで話すのも久しぶりだなぁ、って思って」
「そうね。あらかた話し尽くしたんじゃないかしら」
「まだまだ全然話し足りないよ。マルちゃんに聞きたいことならたくさんあるんだから」
「聞かれるこっちの身にもなってほしいんだけど」
そう言うマルガレーテであったが、彼女自身も音羽と二人きりで話す時間がとても心地かった。目まぐるしく変化する騒がしい毎日の中、音楽という共通点で繋がった稀なる存在。彼と巡り会えたのが奇跡のように思える。
「ねえ音羽、私……」
そこまで言いかけたその時、軽快な鈴の音と共に入り口の扉が開いた。
「いらっしゃいま……」
「ただいまー! ごめん、遅くなっちゃって!」
「かぁのん!!」
「ひぃっ! あれ? おとちゃん!?」
「お邪魔してます」
しかし音羽と会話を続ける余裕も与えずにすかさず詰め寄るマルガレーテ。
「言ってたわよね! 『そんなに時間かからない』って! 一体どこで何してたのよ!」
「いやー最初はすぐ戻る予定だったんだけど……ちょーっといろんなことがあったというか……」
「だったら普通連絡くらいしなさいよ!」
「あはは、まあまあマルちゃん……」
音羽がマルガレーテをなだめてなんとかその場はおさまった。
「それで、一体どういうわけなの」
「じつはそれが……」
かのんの言葉が終わらぬうちに、後ろから続々と人が入ってきた。
「驚いた、音羽までいるじゃないの」
「怎么可能! アッ……! 音羽デス!」
「おっ、おとくん! ういっすー!」
「なんと! すごい偶然ですね!」
「ええと、みんなついてきちゃって……」
かのんに続いて可可、千砂都、すみれ、恋の四人が入ってくる。噂をすれば影、と言わんばかりに今まさに話題に挙げていた人物の登場にあっけにとられる音羽とマルガレーテ。
「みんな! どうして!?」
「ちょっとかのん、一体どういうことなのよ。近くに買い物に出かけていたんじゃないの?」
「それが、すごい偶然というか、みんなたまたま近くに来てたみたいで……」
かのんが言うには、買い物に行く先々や道すがらで他の四人に出会いそれで遅くなったというのである。
「それでせっかくみんな集まったんだし、今日は貸し切り営業に使用かな~って思って」
かのんのその言葉にその場がわぁっ、と盛り上がる。
「それじゃあ早速注文を……」
「わたくしはアールグレイをお願いいたします」
「じゃあ私はこの新作スイーツにしようかなー」
「ククはココアがいいデス! すみれも早く決めるデスよ」
「ちょっと待ちなさいったら待ちなさい。考える時間ってものがあるでしょ普通」
先程までとはうって変わって賑やかな声に包まれる店内。そして厨房は先ほどまでの退屈が嘘のようににわかに慌ただしくなる。
「よしっ! 私も頑張ろう……マルガレーテちゃん?」
「……何でもないわ。私は調理の方をするからかのんは飲み物の方をお願い」
エプロンを身に着けてカウンターに入ってきたかのんの目に映ったのは口角があがったマルガレーテだった。
視線の先にはLiella!の皆と無邪気に話す音羽の姿。自分の言いたかったことを言えるタイミングは当分来そうにない、そう分かっていながらも、マルガレーテの心の内はどこか穏やかで温かかった。
『あなたに出会えてよかった』。それを言う機会はまたにすることにした。
「やっぱり騒がしいわね、Liella!って」
でもそれも悪くはない、むしろそれがいい。賑やかな店内に暖かい日が差し込む昼下がり、ウィーン・マルガレーテはそう思った。