「おとちゃん、今日は何?」
東京都は北千住、文化ホール前。
何も知らされずに誘いに乗ってやってきた澁谷かのんは、東音羽の姿を見るなり問う。
「かのんちゃんに見せたいものがあって」
「見せたい、もの……?」
てんで心当たりがないものだから、かのんは首をかしげて言葉を復唱する。
「ねえ、この世で一番の芸術って何か知ってる?」
「え? ……うぅん……」
ロビーに入り、中の小ホールに向かうゆるやかな傾斜の道で、音羽はそう聞く。
かのんの中にはいくつもの候補が浮かんでは消えていく。絵? 写真? いや、五感を駆使するならやはり歌や演奏? こんなホールに連れてくるくらいだ、まさかオペラ? いや、なんかしっくり来ない……。
「難しく考えなくていいよ」
チケットもぎりに、二人分のチケットを渡す音羽。何を見るのやら、さっぱり分からないかのんは、思考が散らばってしまい、ただただ今の状況はいわゆるデートなんじゃあないかってことくらいしか考えられなくなってしまう。
「歌、絵、服や踊り。果ては戯曲……音楽、舞踊、美術、文芸、その他もろもろエトセトラ。僕はそんな世界中の芸術をひとつにまとめ上げた、ひとつの『芸術の最高到達点』に、最近お熱でさ」
「べた褒めだね」
「かのんちゃんにも見てほしくて」
そう振り返る彼の顔は、清々しくも、かのんそのものを見ているようで。
「僕の見ている景色を見てほしい。このホールで」
愛の告白かと思うほど、それこそ歯の浮くような言葉に、かのんは顔を赤くする。
「……演劇部」
話題を逸らすというほどでもないが、緊張してきたかのんは、目に入った文字をそのまま読み上げる。
「そ、演劇」
客席に繋がる重いドアを音羽が開けると、中にはパラパラと客が見える。目測でキャパが千席程なのに対し、十数人。これなら好きな席にも楽々座れそうである。
音羽曰く、先程のチケットはあくまで客の入りを確認するためのものであり、チケット代はかからないらしい。つまりはボランティア公演。
いや、それにしてはおかしい。日曜日に行われる無料の公演だというのに、来ている人がパッと見では少ない。開演15分前だというのに。かのんはそんな疑問をそのまま音羽に投げかけた。
「かのんちゃん、進んで劇を見に行こうって気持ちになる?」
「え? ああ……ならない、かも」
「しかも、プロでも何でもないアマチュアのを」
「存在すら知らないかもね、普通なら」
「その相乗効果だよ」
ただでさえ知名度の低い学生演劇の世界、しかもクオリティに偏見を持っていつつ──下手な演技を『演劇部』と揶揄するなど一般人からすればザラだ──無料ということも知られていない、そもそも普通は劇など進んで見に行かない……。
そんな複数の原因が重なりに重なって、学生演劇、こと高校演劇において、こういったチャリティー公演の客層というのは、普段から商業演劇に学生演劇と垣根なく観劇をするような演劇オタク、一部生徒の身内、そして音羽のように最近演劇にハマった人あたりなのだという。
ふたりは舞台全体を見渡せる後ろの席に座る。辺りに人はおらず、特等席とでも言わんばかりに、客席後部はふたりのための客席となる。
「こんなホールを借りてるのに、知名度は低い……」
「だからこそ『布教』っていうのが大事なんだよ」
緞帳をじっと見ていると、開場前の注意アナウンスが流れてきた。途中退場、途中入室可能。携帯の電源を切る。周りの人に気を遣う。商業演劇とあまり変わらないアナウンスを聞きながら、ふたりは携帯をシャットダウンさせる。
かのんは中学の頃の学校行事であった演劇鑑賞以来、久しぶりの劇場で、開場までの5分間、スマホも触らずに、じいっと留まる。
彼女は、映画館を思い出していた。何かが始まり、それを時計じかけのオレンジのルドヴィコ療法のように、椅子に縛り付けられながら見る。そんな非日常的とも言える体験に、心臓が躍り出す。
思えばその学校行事以来だ、演劇なんて。
そのうち、ブザーが鳴る。音羽、かのん共に、その心の高鳴り、トキメキは最高潮を迎え、そんな観客にようこそとでも言わんばかりに、緞帳がスムーズに上がる。
まず、2サスが点いた。舞台に立っていたのは、メガネをかけた制服姿の男子生徒。
高校生が演じるにおいて、ほとんどの演者の場合、一番向いているのは高校生役である。そんな知り合いの言葉と、この『虹ヶ咲学園』の劇ではほとんどの場合、高校を舞台に台本を書くという特徴を思い出しながら、音羽は食い入るように舞台を見る。
そこから動きながら自己紹介をする男子生徒に明かりが追従した時、かのんは初めて2サスにスポットライトの明かりも重なっていたのだと気づいた。
まあまあに忙しない動き──何故か挟まるアニメの例えや、唐突な完成度の高いジョジョ立ちなど──にも、スポットライトは追従していく。違和感を与えず、ほとんどの客は彼の面白おかしいセリフに笑い声をあげる。
それから舞台が進行していく中でも、登場人物はギャグを挟みつつ、台本の目的地である『文化祭のお笑いステージでの成功』を目指して進み続ける。
無駄なセリフこそひとつもないが、要所要所に笑いを仕込む。プロの所業としか思えない。まあ、虹ヶ咲学園の台本を書いている人は、それこそプロの小説家と聞いたが。音羽は感嘆の息を漏らしながら、時に笑い、時に食らいつき、舞台を見る。
「わ……」
かのんも思わず声を漏らす。プロと遜色のない発声は、同じ声を使う部活であるスクールアイドル部の彼女から見ても、感心の一言だった。
マイクも使わずに、あんな声を。しかも、セリフも噛まずにすらすらすら。
待って、あのセリフってこれから60分間ずっと飛んじゃいけないの!? しかも動いて、走って、ボケて……ああいう動きも記憶しなくっちゃあいけないし、当然ながらすべてをこなす体力もなくてはならない。
当たり前のようでありながら、今更でありながら、そんな基礎的なことにすら驚かされるかのん。
虹ヶ咲学園演劇部のやる演劇は、奇をてらったテーマや奇天烈かつシュールなコメディ路線でありながらも基本に限りなく忠実であり、そんなスタンスが観客にダイレクトに演劇の楽しさや難しさを教えてくれるのであろう。音羽はそう解釈した。
「本当に美味しいスープは、スプーン一杯で鍋に山盛りの具材を想起させる」
そんな一言に、かのんは言葉を返す暇もなく、ただただその場で繰り出される会話劇、シュールなギャグの応酬を目の当たりに、食らいつくことしかできなかった。
さて、今日における学生演劇の醍醐味とは何か。
演劇部の人々に聞けば、役者や音響や照明、果ては演出や顧問を問わず、ほとんどがこう返すだろう。
昨今のスクールアイドルやガールズバンドのライブ、プリズムショーにも見られる、いわゆる舞台上での『妄想による領域の展開』。言わば『脳内のお花畑の具現化』。
そんな世界に、気づけば音羽とかのんは引き込まれていった。