佳乃と頼子が執務室を去ってから、光恵はずっと椅子に身を沈め、悩んでいた。
ナツと美夜を戦力として扱うべきか、それとも――。
軍の論理で言えば、当然、出撃させるべきだった。人的資源が枯渇する中、「飛べる者は一人でも多く戦場へ」 というのが鉄則だ。
しかし、彼女たちはまだ実戦経験がない。いくら訓練を積んでいたとしても、戦場は別物だ。未熟なまま送り出せば、命を落とす可能性は限りなく高い。
このまま、新人2人と光恵を除いた8人体制で戦うとなると、確実に持ちこたえられなくなる。
だが、出撃させれば、彼女たちは――。
光恵は、深く息を吐き、拳を握った。
「……私は、どうすべきなんだ……」
彼女の脳裏には、過去の戦場が蘇る。欧州戦線で何度も目の当たりにした、若いウィッチたちの死。
守りたくても守れなかった命。
あの時、もう少し慎重に判断していたら――そう思ったことが何度あったか。
「……答えは出てるはずなのに」
光恵は独りごちるように呟き、深く頭を抱えた。
その時だった。
執務室の扉が勢いよく開かれ、整備兵が息を切らしながら飛び込んできた。
「戦隊長! 人手が足りません!」
光恵は顔を上げ、鋭い眼差しを向けた。
「何があった?」
「基地の外に避難民が押し寄せています! すでに数千人規模です! 収拾がつかず、警備隊だけでは対応しきれません!」
光恵は即座に立ち上がった。
「……やはり、そうなったか」
名古屋方面からの避難民が、各務原基地を頼って殺到するのは時間の問題だった。
軍の施設を頼るのは当然のこと。しかし、基地には受け入れられる人数に限りがある。
すべての民間人を保護する余裕はなく、軍としての優先順位をつけなければならない。
光恵は素早く判断を下した。
「ナツと美夜を呼んでくれ。彼女たちに対応を任せる」
「了解!」
整備兵はすぐさま駆け出していった。
数分後、ナツと美夜が姿を現した。
「何? なんかあった?」
ナツがすぐに尋ねる。
美夜も何かを察しているのか、不安そうな目で光恵を見つめていた。
光恵は二人を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「ナツ、美夜、いいかい? 君たちの初仕事だ」
ナツの表情が引き締まる。美夜も、少し緊張したように唾を飲み込んだ。
「今、住民たちが基地の外に大勢集まっている。混乱が起きないよう、安全に誘導してほしい。そして、もし名古屋方面からの避難者がいたら、できるだけ詳しく話を聞き取ってくれ。どんな小さな情報でも、今は貴重なんだ」
「わかった!」
二人の声が重なった。
ナツは、はきはきと力強い返事を返し、その表情には初仕事への意気込みが滲んでいた。
対照的に、美夜はどこか不安げだったが、それでも静かに頷く。
二人を見送ると、光恵は椅子に深く身を沈め、大きく息を吐いた。
そして、疲れたように頭を抱える。
彼女の脳裏には、これからの対応策が渦巻いていた。
出撃メンバーには十分な休養を取らせなければならない。
しかし、それと同時に、今後の戦況を見極めながら迅速な判断が求められる。
いまだに、中部軍、東海軍、東部軍のいずれの司令部とも連絡が取れない。
監視哨から名古屋方面を見下ろせば、黒煙と炎が立ち上り、惨状は一目瞭然だった。
しかし、正確な情報は何も得られていない。
戦況はどうなっているのか。
どこが陥落し、どこが持ちこたえているのか。
それすらも分からない。
「……私たちは、この状況で戦えるのか……?」
光恵は独りごちた。
その時——。
「光恵さん」
不意に背後から声がかかった。
驚いて振り向くと、そこには美夜が立っていた。
彼女の顔は不安に揺れていたが、それでも懸命に勇気を振り絞っているのが分かる。
「……私……怖いけど、命令があったら、飛びます……」
美夜の瞳には、確かな決意が宿っていた——。
「ナツちゃんと話したんです。不安だし、怖いけど、私たちもウィッチだから……できることをやろうって……! だから、もし、私たちが必要なら、私たちに命令してください……!」
美夜は震える声で、それでも精一杯の力を込めて言葉を紡いだ。
光恵はじっと彼女を見つめる。
美夜の小さな手はぎゅっと握り締められ、爪が食い込むほど力が入っている。
その肩はかすかに震えていた。それでも、彼女の瞳には確かな決意が宿っている。
「ナツと話したのか……」
光恵の声は、自然と低くなった。
「……はい」
美夜は小さく頷く。
「ナツちゃんも言ってました……『怖いよ。でも、怖いからって逃げられるわけじゃないもんね』 って……。だから、私も……!」
最後の言葉はかすれた。
しかし、彼女の想いは、十分すぎるほどに伝わってきた。
ああ、そうか。
光恵は心の中でそっと呟いた。
彼女たちはもう子どもじゃない。
小さな体に、揺れながらも確かな覚悟を宿し、自分の意思で戦場に立とうとしている。
――立派な一人のウィッチなんだ。
光恵は椅子から立ち上がると、静かに美夜の肩に手を置いた。
「……ありがとう、美夜」
それだけを言うと、美夜は、はっとしたように光恵を見上げた。
「でもな……」
光恵は少し笑って、彼女の小さな肩を優しく叩く。
「命令を出すのは、私の役目だ。それに、お前たちをどこに送るかは、まだ私が決める。だから……安心して待っていてくれ」
「……光恵さん……」
美夜の目に、わずかに涙が滲む。
「無理をするな、美夜。お前たちの力が必要になった時は、必ず呼ぶ。その時は……頼むぞ」
光恵の言葉に、美夜は強く頷いた。
「……はい!」
その返事は、小さくも確かだった。
美夜の声に満足そうに頷くと、光恵はそっと彼女の肩を叩いた。
「行ってこい、美夜」
「はい!」
美夜は短く返事をすると、くるりと背を向け、駆け出していった。
小さな背中は、先ほどよりもわずかに力強く見えた。
光恵は彼女の姿が廊下の向こうへ消えていくまで、しばらくじっと見送っていた。
そして、深く息を吐きながら、ゆっくりと机に向かう。
手元の出撃表には、すでに熟練の隊員たちの名前が並んでいた。
戦力として最も頼りになる者から順に記され、最後の欄だけがまだ空白のままだった。
光恵は迷いなく、その最後の枠に二つの名前を書き込んだ。
杉下美夜
渡辺ナツ
一番最後、一番優先度の低いところに――。
「……お前たちは、まだ死なせない」
光恵は、静かにそう呟いた。
彼女たちはウィッチであり、軍人であり、戦場に立つ覚悟を決めている。
それでも、今の彼女たちはまだ未熟だ。
だからこそ、この名前を書き込む手が、誰よりも重かった。
光恵は、ペンを置くと再び天井を仰ぐように目を閉じた。
「……さて、どう動くか……」
戦局は待ってはくれない。
光恵はすぐに思考を切り替え、次の指令へと意識を向けた。
隊員たちは休ませなければならない。
彼女たちは限界まで戦い続け、疲労も蓄積している。
だが、その間にも戦況は刻一刻と変化し、状況は確実に悪化していた。
名古屋が持ちこたえられる時間は、もはや長くない。
それは光恵にも痛いほど分かっていた。
しかし――。
「……くそっ……!」
光恵は歯を食いしばり、拳を握り締めた。
今、彼女にできることはただ一つ。
隊員たちの休養が終わるのを、じっと待つこと。
それがどれほど歯がゆいことか――!
敵が迫っているのに、自分はただ待つことしかできない。
戦場で戦うよりも、この無為な時間の方がずっと耐えがたかった。
その時だった。
執務室の扉が勢いよく開かれ、誰かが駆け込んでくる音がした。
「光恵さん……!」
美夜だった。
「どうした!?」
光恵は即座に身を乗り出す。
美夜は息を切らしながら、それでも必死に言葉を紡いだ。
「あの……栄から来たって人がいます……!」
「なに!?」
光恵の表情が一瞬で変わった。
栄――名古屋の中心部。
そこが陥落したのか、それともまだ持ちこたえているのか。
どちらにせよ、そこからの避難者がここまで来たということは、重要な情報が得られる可能性がある。
「本当か!?」
「はい! さっき避難民の中にいるのをナツちゃんが見つけて……!」
「よし、今すぐ向かう!」
光恵はすぐに立ち上がり、美夜と共に執務室を飛び出した。
名古屋の中心部で何が起こっているのか。
それを知る、ただ一つの手がかりを求めて――。
光恵は美夜に案内され、避難民が集まる一角へと向かった。
そこには、疲れ果てた様子の一人の男が座り込んでいた。
服は埃と煤で汚れ、顔色は悪く、靴はすり減り、血の滲んだ包帯が腕に巻かれている。
それでも彼の目は強い光を宿していた。
「……あなたが栄から来た人ですね?」
光恵が声をかけると、男はゆっくりと顔を上げ、かすれた声で答えた。
「ああ……警防団の者だ。名古屋の住民避難を手伝っていた……」
「警防団……!」
光恵の胸が詰まった。
警防団――戦争中、空襲や火災の際に住民を避難させるために組織された民間防衛隊。
彼らは決して戦闘要員ではない。
それでも、危険を承知で住民たちを守るため、最後まで町に残っていたのだ。
「……あなたは、どうしてここへ?」
男は肩で息をしながら、ゆっくりと語り始めた。
「住民避難が終わるまで、俺たち警防団は栄に残った……。
だが、ネウロイは想像以上に速く迫ってきた。熱田区はもう持ちこたえられず、完全に突破された……」
光恵の表情が険しくなる。
「……やはり、そうか……」
男は苦しげに続けた。
「警防団長から言われたんだ……『お前だけでも生き残って、救援を伝えてほしい』と……。
それで、俺は……命からがら逃げた……歩き続けて、ようやく岐阜まで……」
彼の声はかすれ、震えていた。
栄で仲間を見捨てるようにして逃げてきた罪悪感――。
それを誰よりも感じているのは、彼自身だった。
光恵は拳を握り締める。
「……それで、名古屋の状況は?」
男は口の端を噛み締め、力なく笑った。
「ひどいもんだ……。
熱田区はもう完全に突破されてる。俺が脱出する頃には、中区の奥深くまでネウロイが入り込んでいた……」
「栄区には?」
「おそらく、もう差し掛かっているか、いや……すでに東区、北区、西区にも入り込んでいるだろうな……」
光恵の背筋に冷たいものが走った。
――早すぎる。
名古屋の中心部が、たった数日でここまで蹂躙されるとは。
もはや名古屋を守るどころか、撤退戦をどう戦うかを考える段階に入っているのかもしれない。
だが、撤退は簡単ではない。
まだ多くの住民が取り残されている。
このままでは、さらに多くの命が失われる――。
「光恵さん……」
美夜が不安げな目で光恵を見上げる。
光恵は深く息を吸い込み、冷静に男に問いかけた。
「他に、重要な情報は?」
男はしばらく考え込んだあと、低く呟くように言った。
「……ネウロイは、奇妙な動きをしている」
「奇妙な動き?」
「ああ……最初はただの蹂躙だった。だが、ある地点から、動きが変わったんだ。
まるで、何かを探しているような……そんな進軍だった」
「何かを……?」
光恵の眉が寄る。
ネウロイの行動には、何らかの意図があるのか?
それとも単なる偶然か?
――何かがおかしい。
「……詳しく聞かせてもらえますか?」
光恵は、男の言葉を一言一句逃さぬよう、耳を澄ませた。
男は、血の滲んだ包帯を押さえながら言葉を続けた。
「まるで意思を持っているというのか……分からないが、そういう空気を感じた。
俺はネウロイのことなんて詳しく知らない。ただの民間人だからな。
だけど、あれは……普通じゃなかった」
光恵は、無意識のうちに息を詰めた。
「どういうこと?」
「……人間の意欲というのかな? それを挫こうとしているように感じた」
男の声は、疲労のせいか低く、しかし妙に確信めいていた。
「最初はただの蹂躙だった。まるで掃討するように進んでいったんだ。
でも、途中から変わった。破壊するだけじゃない。何かを探しているような……
いや、それよりも、人間の心を折ろうとしているような動きだった」
「心を折る……?」
光恵の表情が険しくなる。
確かに、ネウロイは今までの侵攻とは違い、異常なまでに速く、執拗に攻め込んでいる。
単なる破壊衝動ではなく、確固たる意図があるようにすら見える。
「たとえば、どんな動きだった?」
男は目を閉じ、思い出すようにゆっくりと語った。
「……最初に攻め込まれた地区では、空爆のような形で無差別に襲いかかってきた。
だけど、ある程度制圧した後は、わざと焦らすように進軍していたんだ」
「焦らす?」
「そうだ……ただ一気に蹂躙するんじゃなくてな。
避難が完了していない場所を狙い、そこにいる人々が逃げる時間を与えるようにじわじわと迫っていく。だが、途中で道を封鎖し、行き場を失わせるんだ」
光恵は言葉を失った。
「……逃げ道を作っているように見せかけて、絶望させる?」
男は静かに頷いた。
「まるで、希望を持たせておいて、一瞬で打ち砕くような動きだった。実際、俺が見た限りじゃ、逃げ遅れた人間は次々と……」
男は言葉を切った。
そこから先は、語るまでもない――ということだ。
光恵は目を閉じ、歯を食いしばった。
―――ネウロイは、ただの怪物ではない。
それは、あまりにも明確に “恐怖” を植え付けようとしている。
光恵の脳裏に、過去に聞いた噂がよぎった。
――ウィッチを攫うネウロイがいる。
――ウィッチと同じ姿をして、ウィッチの真似をするネウロイがいる。
噂程度でしかない。戦場では数多の怪異が囁かれるものだ。
だが、もしそれが事実だとしたら――。
「……まさか……」
光恵は小さく呟いた。
これまでのネウロイの行動が、単なる侵攻ではないとしたら?
単なる破壊衝動ではなく、何かを“探している”のだとしたら?
冷たいものが背筋を這い上がる。
「……光恵さん?」
男が不思議そうな顔をして見つめていた。
「いや……ありがとう。報告してくれて、本当に助かった」
光恵は表情を引き締め、深く息をついた。
「美夜、佳乃と頼子を執務室へ呼んでくれ」
「……はい!」
美夜は駆け出していく。
光恵は男を見据えながら、心の中で決意を固めた。
「名古屋は、もう長くは持たない……。
だが、最後まで戦わなければならない」
基地の周囲には、すでに絶望が満ちている。
それでも、彼女たちは前に進まなければならなかった。
つづく
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