美濃の魔女たち   作:多治見国繁

13 / 18
第11話 死地へ

出撃準備を終えた頃、隊員たちは食堂へと呼ばれた。

出撃前に食事を取るように、との指示が下されたのだ。

 

普段なら、食堂へ向かう道中には談笑の声があふれ、時には「今日の献立はなんだろう?」などという他愛もない会話が交わされるものだった。

しかし、今は違う。

 

廊下を進む隊員たちの足取りは重く、誰一人として口を開かない。

沈黙が支配する空間の中で、ただ靴音だけが無機質に響く。

 

——これが、最後の食事になるかもしれない。

 

そんな思いが、全員の心にのしかかっていた。

 

食堂の扉を開けると、そこにはいつもとは違う光景が広がっていた。

 

長机の上には、整然と並べられた簡素な缶詰。

それだけだった。

 

湯気の立つ温かい食事はどこにもない。

スープも、炊きたての米も、焼きたてのパンもない。

 

ただ、黙々と並べられた缶詰だけが、今の基地の状況を物語っていた。

 

——もはや、調理の時間すら惜しまれるほどの緊迫した状況なのだ。

 

それでも、誰も文句を言う者はいなかった。

不満を漏らす者も、落胆の色を見せる者もいない。

 

全員が理解していた。

 

今、自分たちが戦場に向かおうとしていることを。

そして、そこで何が待ち受けているのかを——。

 

「食べておけ」

 

静かに響いた光恵の声に、隊員たちは無言で頷いた。

 

「戦場に出れば、食べる暇などない。喉を通らない者もいるだろうが、無理にでも胃に流し込め」

 

いつもと変わらぬ、落ち着いた口調。

しかし、その言葉の持つ重みは、今までとは違っていた。

 

——これが、最後の食事になるかもしれないのだから。

 

隊員たちは黙って列を作り、光恵から缶詰を受け取る。

 

無言で、着席。

 

蓋を開ける音、スプーンや箸が缶の縁を叩く音。

それ以外に、何もない。

 

いつもなら、ここには賑やかな笑い声があった。

 

「今日はご馳走だな!」

「このスープ、最高!」

「お前、そればっかり食ってるな」

 

そんな何気ない会話が、食堂のあちこちで飛び交っていた。

だが、今日は違う。

 

誰も、口を開かない。

 

食堂の壁時計が、一定のリズムで秒針を刻む音だけが耳に残る。

 

美春は、手元の缶詰に視線を落とした。

 

——大和煮。

 

何度も食べたことがある、ありふれた缶詰料理。

 

指をかけて、蓋を開ける。

冷えたままの牛肉が、濃い醤油のタレに沈んでいた。

 

——生姜の香りが微かに鼻をくすぐる。

 

普段なら、食欲をそそる香りだったはずだ。

けれど、今は違う。

 

ただの、無機質な「食料」。

 

「食事」ではなく、「栄養補給」。

それが、今の状況を端的に表しているように思えた。

 

美春は、箸を動かし、一切れの肉を口に運ぶ。

 

噛みしめる。

醤油の風味が、しっかりと染み込んでいる。

生姜の香りが、鼻を抜ける。

 

——それなのに、何の味もしない。

 

まるで、すべての感覚が麻痺してしまったかのように。

 

喉が詰まる。

飲み込もうとするたびに、胃の奥が拒絶するような感覚に襲われる。

 

——これが、最後の食事になるかもしれない。

 

そう思うと、どんな味も、どんな香りも、ただの情報のようにしか感じられなかった。

 

「……美春、大丈夫か?」

 

ふと、目の前から声がかかった。

 

顔を上げると、光恵がこちらを見ていた。

 

変わらぬ凛とした瞳。

そこには、ただの優しさではなく、指揮官としての責任と覚悟が宿っていた。

 

——光恵も、分かっているのだ。

 

これが、最後の食事になるかもしれないことを。

しかし、それでも食べなければならないことを。

 

「……はい。大丈夫です」

 

美春は、精一杯の笑顔を作った。

 

——憧れていたはずだった。

 

戦場に立つこと。

軍人として、祖国を守ること。

 

けれど、今になってようやく分かる。

 

これは、生きるための戦いではない。

死を覚悟し、命を懸ける戦いなのだ。

 

美春の心が、締めつけられるように揺れる。

 

それでも、箸を止めるわけにはいかない。

一口、また一口と、無理にでも大和煮を喉へ押し込む。

 

冷えた缶詰の味は、ますます遠ざかっていく。

 

——戦うために食べる。生き延びるために食べる。

ただ、それだけのために。

 

食堂の時計が秒針を刻む音が、やけに耳に残った。

 

小牧への出撃の時間が、刻一刻と迫っていた。

 

食事を皆がなんとか終えた頃、食堂の空気を切り裂くように、鋭く光恵の声が響いた。

 

「命令!」

 

その一言で、食堂にいた隊員たちは即座に反応した。

背筋を伸ばし、動きを止め、視線を光恵へと向ける。

 

誰もがその言葉を待っていた。

この戦いがどれほど厳しいものになるのか、皆が理解している。

けれど、それでもこの瞬間を迎えなければならなかった。

 

隊員たちは息を呑む。

この命令が、次の行動を決める。

生きるか、死ぬか。

戦場で何をすべきか。

そして、何を守るのか。

 

光恵は食堂の中央に立ち、まっすぐに隊員たちを見据えた。

その姿は威厳に満ち、落ち着いた口調は揺るぎない自信と覚悟を感じさせる。

彼女は、指揮官としての責務を果たすべく、確かな言葉を紡いだ。

 

「小牧に向かい、撤退してくる友軍部隊と避難してくる市民を支援しろ!」

 

一瞬、場の空気が張り詰める。

 

誰もがその言葉の意味を理解した。

戦場はすでに地獄と化している。

彼らが向かうのは、すでに壊滅しかけた戦線の最前線——その崩壊を少しでも遅らせ、そこから撤退する者たちを守るためだった。

 

「同時に、上街道を確保せよ!

小牧から岐阜へ至る撤退ルートの安全を確保し、上街道上の敵ネウロイを撃滅しろ!」

 

その命令に、隊員たちは一斉に顔を上げた。

視線が鋭くなる。

 

上街道——。

 

それは、小牧を抜け、犬山を経由して美濃加茂や可児へと続く、重要な撤退ルート。

この道が敵に塞がれれば、小牧を守る部隊も、撤退する住民も、すべてが袋の鼠となる。

逆に、この道を確保できれば、小牧からの撤退は大きく前進し、美濃の防衛ラインと中山道の合流点へと繋がる希望の道となる。

 

この戦いは、ただの防衛戦ではない——

未来へ繋ぐための「生き延びるための戦い」だった。

 

隊員たちの間に、静かに緊張が走る。

誰も口を開かない。

だが、その目には戦う覚悟が宿りつつあった。

 

光恵は隊員たちの表情を一人ひとり見渡し、しっかりとその決意を確認する。

そして、静かに、しかし力強く続けた。

 

「この戦いは、単なる撤退支援ではない。小牧と岐阜を繋ぐ“命の道”を守る戦いだ。

私たちが道を切り拓かなければ、誰も生き残れない!」

 

彼女の声が、食堂の隅々まで響き渡る。

 

隊員たちは、己の使命を改めて認識する。

この戦いが、ただの一戦ではなく、未来へと繋ぐ戦いなのだと——。

 

「各自、装備を再確認し、準備が整い次第、出撃する!

目標は、小牧の防衛および上街道の確保!

敵を排除し、撤退ルートを死守せよ!」

 

「「了解!!」」

 

その瞬間、隊員たちの声が食堂に轟いた。

それは、単なる返事ではなかった。

 

——それは、命を賭ける覚悟の証。

 

光恵の視線が、全員を見渡す。

誰も怯んでいない。

誰も迷っていない。

いや、もしかすると恐怖を抱えている者もいるかもしれない。

それでも、戦うしかないのだ。

 

美春もまた、深く息を吸い込み、拳を握りしめる。

 

食事の味はまったく感じられなかった。

それでも彼女は腹に力を込める。

 

生きるために食べたのだ。

戦うために、食べたのだ。

 

もう迷いはない。

小牧へ向かい、戦い、生き延びる。

それが、今の自分にできるすべてだった。

 

光恵が鋭い視線で頷き、一言だけ付け加える。

 

「生きて、帰れ。」

 

その言葉は、指揮官としての命令であり、仲間への願いだった。

 

隊員たちは、一斉に立ち上がる。

椅子が音を立て、装備を確認するために食堂を後にしていった。

 

静かに、しかし確実に、彼らは戦場へ向かう準備を整えていた。

 

——これは、生き延びるための戦い。

 

——仲間を、祖国を守るための戦い。

 

美春もまた、立ち上がる。

視線を前へ向け、歩き出す。

 

目指すは、小牧——

そして、その先に続く、まだ見ぬ戦場だった。

 

撤退戦の幕が、今、上がる——。

 

皆が次々と飛び立っていく。

日が傾き始めた昼と夕方の狭間の空へと——。

 

空はまだ青みを帯びているが、地平線の近くには淡い橙色が滲み始めている。

太陽は西へ傾きつつあり、遠くの山々の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。

しかし、その穏やかな光景とは裏腹に、隊員たちの胸には冷たい重圧がのしかかっていた。

 

以前のような高揚感はどこにもない。

胸を満たしているのは、ただ冷たい恐怖だった。

 

死の恐怖。戦場の恐怖。

 

かつては、飛ぶことがただの喜びだった。

大空を駆ける爽快感、仲間たちと編隊を組み、雲の合間を縫って進む感覚——

それらは、全てが戦場の現実とはかけ離れた、少年少女の憧れのようなものだった。

 

だが今、その幻想は砕け散った。

目の前に広がるのは、血と硝煙、絶え間なく降り注ぐ光線、そして終わりの見えない撤退戦。

 

「……っ!」

 

美春は奥歯を噛み締め、スロットルを押し込む。

ストライカーユニットが低く唸り、彼女の身体を宙へと押し上げた。

地面が遠ざかり、滑走路の端が視界の隅へと流れていく。

 

眼下には、各務原基地の光景が広がっていた。

格納庫の前では整備員たちが最後の作業に追われ、指揮所には兵士たちが集まっている。

しかし、それよりも異様な光景が広がっていたのは、その外側だった。

 

——押し寄せる避難民。

 

基地のフェンスの向こう、道路の両側には、逃げてきた人々の姿があった。

子どもを抱えた母親、年老いた夫婦、背負えるだけの荷物を背負った男たち——

彼らは皆、一つの希望を求めるように、基地の方向を見つめていた。

 

各務原基地は、今や最後の砦だった。

ここが落ちれば、彼らにはもう行き場がない。

 

彼らはこの空を見上げている。

 

自分たちを。ウィッチを。

 

誰もが、助けを求めるように、戦う者たちの姿を見つめていた。

 

その事実が、美春の胸を鋭く貫いた。

 

「私たちは……」

 

誰かが小さく呟いた。

 

美春も、それに続けるように言葉を絞り出した。

 

「……守らなきゃ」

 

この空の向こうで、彼女たちを待ち受けているのは、まだ誰も知らない。

ただ、ひとつだけ分かるのは——

 

ここで止まるわけにはいかない。

 

美春は、震える指先をギュッと握りしめた。

そして、真っ直ぐに小牧の空へと向かっていった。

 

その時、編隊から二機が静かに分かれた。

ナツと美夜だ。

 

彼女たちは、小牧ではなく岐阜へ——。

 

「ナツ、美夜、行け! 岐阜を頼む!」

 

光恵の声が通信越しに響く。

 

「了解!」

 

ナツの声には、いつもの陽気な調子はなかった。

代わりに、張り詰めた緊張と、それを押し殺すような決意が滲んでいる。

 

「私たちも、戦います……!」

 

美夜の小さな声が、インカム越しに伝わる。

けれど、その言葉には、確かな意志があった。

 

彼女たちはただ逃げるのではない。

次の戦線を築くために、命を懸けて岐阜へ向かう。

 

美春は彼女たちの機影を見送りながら、そっと呟いた。

 

「……行ってらっしゃい」

 

ナツと美夜が小さく手を振り、そのまま機首を北へ向ける。

黄昏に差しかかる空の下、彼女たちの背中が遠ざかっていく。

 

美春はぐっと拳を握りしめる。

 

自分は、小牧へ。

彼女たちは、岐阜へ。

 

どちらの道も、命を賭けた戦いの場。

どちらの道も、生存が保証されているわけではない。

 

けれど——

どんな運命が待ち受けていようとも、自分たちは前へ進むしかない。

 

それが、戦う者の使命なのだから。

 

「小牧山上空へ到達したら即時報告してくれ!」

 

光恵の鋭い号令が、通信機越しに響き渡る。

 

美春は顔を上げ、仲間たちと共に加速する。

ストライカーユニットがうなりを上げ、彼女の体を空へと押し上げる。

すぐそばを飛ぶ仲間たちのシルエットが、傾きかけた太陽の光に浮かび上がる。

 

空は、昼と夕方の狭間にあった。

柔らかい陽の光が地平を照らし、地上に長い影を落としている。

雲一つない澄み切った空に、ただ機体の残す飛行機雲だけが、細い白線を描いていく。

 

美春は、わずかに目を閉じる。

 

この空の向こうに、何が待つのかは分からない。

それでも、自分たちは飛び続ける。

 

生き延びるために——。

 

息を整えながら、美春は眼下に視線を落とした。

そこには、昨日まで変わらず広がっていたはずの街並みがあった。

 

けれど、今は違う。

 

街は静まり返り、まるで命を失ったかのように沈黙していた。

道路には車が並んでいるが、動く気配はない。

商店のシャッターは閉ざされ、窓ガラス越しに見える室内は暗闇に包まれている。

人の気配がない。

 

まるで、誰もが一夜にして消えてしまったかのようだった。

 

——いや、違う。

 

彼らは「消えた」のではない。

この戦火を逃れるために、誰もが避難を余儀なくされたのだ。

 

昨日までは、確かにそこにいたはずなのに。

市場で声を張り上げる商人たち、通学路を駆ける子どもたち、バス停で足を止める会社員たち——

そのすべてが、たった一日で消え去った。

 

美春は、基地のすぐ近くにある学校を探した。

昨日までは、授業を終えた子どもたちが校門の前で友達と談笑し、見送りの教師が立っていたはずだった。

 

——けれど、今は違う。

 

運動場には誰の姿もない。

校舎の窓は閉じられ、教室の灯りもすべて消えている。

昨日、手を振ってくれた生徒たちも、どこかへ避難したのだろう。

 

彼らは無事に逃げられただろうか。

家族と共に安全な場所へ向かったのだろうか。

 

「……っ」

 

美春は、無意識のうちに拳を握りしめた。

 

避難した者たちを守れるのは、自分たちしかいない。

この撤退戦の成否に、彼らの命がかかっているのだ。

 

それでも、この空の向こうには、敵がいる。

次に小牧へ向かう彼女たちを待ち受けているのは、血と硝煙、絶え間なく降り注ぐ光線、そして終わりの見えない撤退戦——。

 

「小牧山上空へ到達したら即時報告してくれ!」

 

光恵の鋭い号令が、通信機越しに響き渡る。

 

美春は顔を上げ、仲間たちと共に加速する。

ストライカーユニットがうなりを上げ、彼女の体を空へと押し上げる。

すぐそばを飛ぶ仲間たちのシルエットが、傾きかけた太陽の光に浮かび上がる。

 

空は、昼と夕方の狭間にあった。

柔らかい陽の光が地平を照らし、地上に長い影を落としている。

雲一つない澄み切った空に、ただ機体の残す飛行機雲だけが、細い白線を描いていく。

 

美春は、わずかに目を閉じる。

 

この空の向こうに、何が待つのかは分からない。

それでも、自分たちは飛び続ける。

 

生き延びるために——。

 

息を整えながら、美春は眼下に視線を落とした。

そこには、昨日まで変わらず広がっていたはずの街並みがあった。

 

けれど、今は違う。

 

街は静まり返り、まるで命を失ったかのように沈黙していた。

道路には車が並んでいるが、動く気配はない。

商店のシャッターは閉ざされ、窓ガラス越しに見える室内は暗闇に包まれている。

人の気配がない。

 

まるで、誰もが一夜にして消えてしまったかのようだった。

 

——いや、違う。

 

彼らは「消えた」のではない。

この戦火を逃れるために、誰もが避難を余儀なくされたのだ。

 

昨日までは、確かにそこにいたはずなのに。

市場で声を張り上げる商人たち、通学路を駆ける子どもたち、バス停で足を止める会社員たち——

そのすべてが、たった一日で消え去った。

 

美春は、基地のすぐ近くにある学校を探した。

昨日までは、授業を終えた子どもたちが校門の前で友達と談笑し、見送りの教師が立っていたはずだった。

 

——けれど、今は違う。

 

運動場には誰の姿もない。

校舎の窓は閉じられ、教室の灯りもすべて消えている。

昨日、手を振ってくれた生徒たちも、どこかへ避難したのだろう。

 

彼らは無事に逃げられただろうか。

家族と共に安全な場所へ向かったのだろうか。

 

「……っ」

 

美春は、無意識のうちに拳を握りしめた。

 

避難した者たちを守れるのは、自分たちしかいない。

この撤退戦の成否に、彼らの命がかかっているのだ。

 

それでも、この空の向こうには、敵がいる。

次に小牧へ向かう彼女たちを待ち受けているのは、血と硝煙、絶え間なく降り注ぐ光線、そして終わりの見えない撤退戦——。

 

小牧の戦いは、すぐそこまで迫っていた。

 

美春は顔を上げ、仲間たちと共に加速する。

わずかに傾いた陽光が、雲の合間から射し込み、編隊を照らしていた。

夕焼けにはまだ早い。だが、昼の鮮やかさは薄れ、空はどこか淡い色に染まり始めている。

 

この空の向こうに、何が待つのかは分からない。

それでも、自分たちは飛び続ける。

生き延びるために——。

 

つづく




ここまで読んでくれてありがとうございます!お気に入りや評価、感想をもらえると励みになります✨
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。