出撃準備を終えた頃、隊員たちは食堂へと呼ばれた。
出撃前に食事を取るように、との指示が下されたのだ。
普段なら、食堂へ向かう道中には談笑の声があふれ、時には「今日の献立はなんだろう?」などという他愛もない会話が交わされるものだった。
しかし、今は違う。
廊下を進む隊員たちの足取りは重く、誰一人として口を開かない。
沈黙が支配する空間の中で、ただ靴音だけが無機質に響く。
——これが、最後の食事になるかもしれない。
そんな思いが、全員の心にのしかかっていた。
食堂の扉を開けると、そこにはいつもとは違う光景が広がっていた。
長机の上には、整然と並べられた簡素な缶詰。
それだけだった。
湯気の立つ温かい食事はどこにもない。
スープも、炊きたての米も、焼きたてのパンもない。
ただ、黙々と並べられた缶詰だけが、今の基地の状況を物語っていた。
——もはや、調理の時間すら惜しまれるほどの緊迫した状況なのだ。
それでも、誰も文句を言う者はいなかった。
不満を漏らす者も、落胆の色を見せる者もいない。
全員が理解していた。
今、自分たちが戦場に向かおうとしていることを。
そして、そこで何が待ち受けているのかを——。
「食べておけ」
静かに響いた光恵の声に、隊員たちは無言で頷いた。
「戦場に出れば、食べる暇などない。喉を通らない者もいるだろうが、無理にでも胃に流し込め」
いつもと変わらぬ、落ち着いた口調。
しかし、その言葉の持つ重みは、今までとは違っていた。
——これが、最後の食事になるかもしれないのだから。
隊員たちは黙って列を作り、光恵から缶詰を受け取る。
無言で、着席。
蓋を開ける音、スプーンや箸が缶の縁を叩く音。
それ以外に、何もない。
いつもなら、ここには賑やかな笑い声があった。
「今日はご馳走だな!」
「このスープ、最高!」
「お前、そればっかり食ってるな」
そんな何気ない会話が、食堂のあちこちで飛び交っていた。
だが、今日は違う。
誰も、口を開かない。
食堂の壁時計が、一定のリズムで秒針を刻む音だけが耳に残る。
美春は、手元の缶詰に視線を落とした。
——大和煮。
何度も食べたことがある、ありふれた缶詰料理。
指をかけて、蓋を開ける。
冷えたままの牛肉が、濃い醤油のタレに沈んでいた。
——生姜の香りが微かに鼻をくすぐる。
普段なら、食欲をそそる香りだったはずだ。
けれど、今は違う。
ただの、無機質な「食料」。
「食事」ではなく、「栄養補給」。
それが、今の状況を端的に表しているように思えた。
美春は、箸を動かし、一切れの肉を口に運ぶ。
噛みしめる。
醤油の風味が、しっかりと染み込んでいる。
生姜の香りが、鼻を抜ける。
——それなのに、何の味もしない。
まるで、すべての感覚が麻痺してしまったかのように。
喉が詰まる。
飲み込もうとするたびに、胃の奥が拒絶するような感覚に襲われる。
——これが、最後の食事になるかもしれない。
そう思うと、どんな味も、どんな香りも、ただの情報のようにしか感じられなかった。
「……美春、大丈夫か?」
ふと、目の前から声がかかった。
顔を上げると、光恵がこちらを見ていた。
変わらぬ凛とした瞳。
そこには、ただの優しさではなく、指揮官としての責任と覚悟が宿っていた。
——光恵も、分かっているのだ。
これが、最後の食事になるかもしれないことを。
しかし、それでも食べなければならないことを。
「……はい。大丈夫です」
美春は、精一杯の笑顔を作った。
——憧れていたはずだった。
戦場に立つこと。
軍人として、祖国を守ること。
けれど、今になってようやく分かる。
これは、生きるための戦いではない。
死を覚悟し、命を懸ける戦いなのだ。
美春の心が、締めつけられるように揺れる。
それでも、箸を止めるわけにはいかない。
一口、また一口と、無理にでも大和煮を喉へ押し込む。
冷えた缶詰の味は、ますます遠ざかっていく。
——戦うために食べる。生き延びるために食べる。
ただ、それだけのために。
食堂の時計が秒針を刻む音が、やけに耳に残った。
小牧への出撃の時間が、刻一刻と迫っていた。
食事を皆がなんとか終えた頃、食堂の空気を切り裂くように、鋭く光恵の声が響いた。
「命令!」
その一言で、食堂にいた隊員たちは即座に反応した。
背筋を伸ばし、動きを止め、視線を光恵へと向ける。
誰もがその言葉を待っていた。
この戦いがどれほど厳しいものになるのか、皆が理解している。
けれど、それでもこの瞬間を迎えなければならなかった。
隊員たちは息を呑む。
この命令が、次の行動を決める。
生きるか、死ぬか。
戦場で何をすべきか。
そして、何を守るのか。
光恵は食堂の中央に立ち、まっすぐに隊員たちを見据えた。
その姿は威厳に満ち、落ち着いた口調は揺るぎない自信と覚悟を感じさせる。
彼女は、指揮官としての責務を果たすべく、確かな言葉を紡いだ。
「小牧に向かい、撤退してくる友軍部隊と避難してくる市民を支援しろ!」
一瞬、場の空気が張り詰める。
誰もがその言葉の意味を理解した。
戦場はすでに地獄と化している。
彼らが向かうのは、すでに壊滅しかけた戦線の最前線——その崩壊を少しでも遅らせ、そこから撤退する者たちを守るためだった。
「同時に、上街道を確保せよ!
小牧から岐阜へ至る撤退ルートの安全を確保し、上街道上の敵ネウロイを撃滅しろ!」
その命令に、隊員たちは一斉に顔を上げた。
視線が鋭くなる。
上街道——。
それは、小牧を抜け、犬山を経由して美濃加茂や可児へと続く、重要な撤退ルート。
この道が敵に塞がれれば、小牧を守る部隊も、撤退する住民も、すべてが袋の鼠となる。
逆に、この道を確保できれば、小牧からの撤退は大きく前進し、美濃の防衛ラインと中山道の合流点へと繋がる希望の道となる。
この戦いは、ただの防衛戦ではない——
未来へ繋ぐための「生き延びるための戦い」だった。
隊員たちの間に、静かに緊張が走る。
誰も口を開かない。
だが、その目には戦う覚悟が宿りつつあった。
光恵は隊員たちの表情を一人ひとり見渡し、しっかりとその決意を確認する。
そして、静かに、しかし力強く続けた。
「この戦いは、単なる撤退支援ではない。小牧と岐阜を繋ぐ“命の道”を守る戦いだ。
私たちが道を切り拓かなければ、誰も生き残れない!」
彼女の声が、食堂の隅々まで響き渡る。
隊員たちは、己の使命を改めて認識する。
この戦いが、ただの一戦ではなく、未来へと繋ぐ戦いなのだと——。
「各自、装備を再確認し、準備が整い次第、出撃する!
目標は、小牧の防衛および上街道の確保!
敵を排除し、撤退ルートを死守せよ!」
「「了解!!」」
その瞬間、隊員たちの声が食堂に轟いた。
それは、単なる返事ではなかった。
——それは、命を賭ける覚悟の証。
光恵の視線が、全員を見渡す。
誰も怯んでいない。
誰も迷っていない。
いや、もしかすると恐怖を抱えている者もいるかもしれない。
それでも、戦うしかないのだ。
美春もまた、深く息を吸い込み、拳を握りしめる。
食事の味はまったく感じられなかった。
それでも彼女は腹に力を込める。
生きるために食べたのだ。
戦うために、食べたのだ。
もう迷いはない。
小牧へ向かい、戦い、生き延びる。
それが、今の自分にできるすべてだった。
光恵が鋭い視線で頷き、一言だけ付け加える。
「生きて、帰れ。」
その言葉は、指揮官としての命令であり、仲間への願いだった。
隊員たちは、一斉に立ち上がる。
椅子が音を立て、装備を確認するために食堂を後にしていった。
静かに、しかし確実に、彼らは戦場へ向かう準備を整えていた。
——これは、生き延びるための戦い。
——仲間を、祖国を守るための戦い。
美春もまた、立ち上がる。
視線を前へ向け、歩き出す。
目指すは、小牧——
そして、その先に続く、まだ見ぬ戦場だった。
撤退戦の幕が、今、上がる——。
皆が次々と飛び立っていく。
日が傾き始めた昼と夕方の狭間の空へと——。
空はまだ青みを帯びているが、地平線の近くには淡い橙色が滲み始めている。
太陽は西へ傾きつつあり、遠くの山々の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。
しかし、その穏やかな光景とは裏腹に、隊員たちの胸には冷たい重圧がのしかかっていた。
以前のような高揚感はどこにもない。
胸を満たしているのは、ただ冷たい恐怖だった。
死の恐怖。戦場の恐怖。
かつては、飛ぶことがただの喜びだった。
大空を駆ける爽快感、仲間たちと編隊を組み、雲の合間を縫って進む感覚——
それらは、全てが戦場の現実とはかけ離れた、少年少女の憧れのようなものだった。
だが今、その幻想は砕け散った。
目の前に広がるのは、血と硝煙、絶え間なく降り注ぐ光線、そして終わりの見えない撤退戦。
「……っ!」
美春は奥歯を噛み締め、スロットルを押し込む。
ストライカーユニットが低く唸り、彼女の身体を宙へと押し上げた。
地面が遠ざかり、滑走路の端が視界の隅へと流れていく。
眼下には、各務原基地の光景が広がっていた。
格納庫の前では整備員たちが最後の作業に追われ、指揮所には兵士たちが集まっている。
しかし、それよりも異様な光景が広がっていたのは、その外側だった。
——押し寄せる避難民。
基地のフェンスの向こう、道路の両側には、逃げてきた人々の姿があった。
子どもを抱えた母親、年老いた夫婦、背負えるだけの荷物を背負った男たち——
彼らは皆、一つの希望を求めるように、基地の方向を見つめていた。
各務原基地は、今や最後の砦だった。
ここが落ちれば、彼らにはもう行き場がない。
彼らはこの空を見上げている。
自分たちを。ウィッチを。
誰もが、助けを求めるように、戦う者たちの姿を見つめていた。
その事実が、美春の胸を鋭く貫いた。
「私たちは……」
誰かが小さく呟いた。
美春も、それに続けるように言葉を絞り出した。
「……守らなきゃ」
この空の向こうで、彼女たちを待ち受けているのは、まだ誰も知らない。
ただ、ひとつだけ分かるのは——
ここで止まるわけにはいかない。
美春は、震える指先をギュッと握りしめた。
そして、真っ直ぐに小牧の空へと向かっていった。
その時、編隊から二機が静かに分かれた。
ナツと美夜だ。
彼女たちは、小牧ではなく岐阜へ——。
「ナツ、美夜、行け! 岐阜を頼む!」
光恵の声が通信越しに響く。
「了解!」
ナツの声には、いつもの陽気な調子はなかった。
代わりに、張り詰めた緊張と、それを押し殺すような決意が滲んでいる。
「私たちも、戦います……!」
美夜の小さな声が、インカム越しに伝わる。
けれど、その言葉には、確かな意志があった。
彼女たちはただ逃げるのではない。
次の戦線を築くために、命を懸けて岐阜へ向かう。
美春は彼女たちの機影を見送りながら、そっと呟いた。
「……行ってらっしゃい」
ナツと美夜が小さく手を振り、そのまま機首を北へ向ける。
黄昏に差しかかる空の下、彼女たちの背中が遠ざかっていく。
美春はぐっと拳を握りしめる。
自分は、小牧へ。
彼女たちは、岐阜へ。
どちらの道も、命を賭けた戦いの場。
どちらの道も、生存が保証されているわけではない。
けれど——
どんな運命が待ち受けていようとも、自分たちは前へ進むしかない。
それが、戦う者の使命なのだから。
「小牧山上空へ到達したら即時報告してくれ!」
光恵の鋭い号令が、通信機越しに響き渡る。
美春は顔を上げ、仲間たちと共に加速する。
ストライカーユニットがうなりを上げ、彼女の体を空へと押し上げる。
すぐそばを飛ぶ仲間たちのシルエットが、傾きかけた太陽の光に浮かび上がる。
空は、昼と夕方の狭間にあった。
柔らかい陽の光が地平を照らし、地上に長い影を落としている。
雲一つない澄み切った空に、ただ機体の残す飛行機雲だけが、細い白線を描いていく。
美春は、わずかに目を閉じる。
この空の向こうに、何が待つのかは分からない。
それでも、自分たちは飛び続ける。
生き延びるために——。
息を整えながら、美春は眼下に視線を落とした。
そこには、昨日まで変わらず広がっていたはずの街並みがあった。
けれど、今は違う。
街は静まり返り、まるで命を失ったかのように沈黙していた。
道路には車が並んでいるが、動く気配はない。
商店のシャッターは閉ざされ、窓ガラス越しに見える室内は暗闇に包まれている。
人の気配がない。
まるで、誰もが一夜にして消えてしまったかのようだった。
——いや、違う。
彼らは「消えた」のではない。
この戦火を逃れるために、誰もが避難を余儀なくされたのだ。
昨日までは、確かにそこにいたはずなのに。
市場で声を張り上げる商人たち、通学路を駆ける子どもたち、バス停で足を止める会社員たち——
そのすべてが、たった一日で消え去った。
美春は、基地のすぐ近くにある学校を探した。
昨日までは、授業を終えた子どもたちが校門の前で友達と談笑し、見送りの教師が立っていたはずだった。
——けれど、今は違う。
運動場には誰の姿もない。
校舎の窓は閉じられ、教室の灯りもすべて消えている。
昨日、手を振ってくれた生徒たちも、どこかへ避難したのだろう。
彼らは無事に逃げられただろうか。
家族と共に安全な場所へ向かったのだろうか。
「……っ」
美春は、無意識のうちに拳を握りしめた。
避難した者たちを守れるのは、自分たちしかいない。
この撤退戦の成否に、彼らの命がかかっているのだ。
それでも、この空の向こうには、敵がいる。
次に小牧へ向かう彼女たちを待ち受けているのは、血と硝煙、絶え間なく降り注ぐ光線、そして終わりの見えない撤退戦——。
「小牧山上空へ到達したら即時報告してくれ!」
光恵の鋭い号令が、通信機越しに響き渡る。
美春は顔を上げ、仲間たちと共に加速する。
ストライカーユニットがうなりを上げ、彼女の体を空へと押し上げる。
すぐそばを飛ぶ仲間たちのシルエットが、傾きかけた太陽の光に浮かび上がる。
空は、昼と夕方の狭間にあった。
柔らかい陽の光が地平を照らし、地上に長い影を落としている。
雲一つない澄み切った空に、ただ機体の残す飛行機雲だけが、細い白線を描いていく。
美春は、わずかに目を閉じる。
この空の向こうに、何が待つのかは分からない。
それでも、自分たちは飛び続ける。
生き延びるために——。
息を整えながら、美春は眼下に視線を落とした。
そこには、昨日まで変わらず広がっていたはずの街並みがあった。
けれど、今は違う。
街は静まり返り、まるで命を失ったかのように沈黙していた。
道路には車が並んでいるが、動く気配はない。
商店のシャッターは閉ざされ、窓ガラス越しに見える室内は暗闇に包まれている。
人の気配がない。
まるで、誰もが一夜にして消えてしまったかのようだった。
——いや、違う。
彼らは「消えた」のではない。
この戦火を逃れるために、誰もが避難を余儀なくされたのだ。
昨日までは、確かにそこにいたはずなのに。
市場で声を張り上げる商人たち、通学路を駆ける子どもたち、バス停で足を止める会社員たち——
そのすべてが、たった一日で消え去った。
美春は、基地のすぐ近くにある学校を探した。
昨日までは、授業を終えた子どもたちが校門の前で友達と談笑し、見送りの教師が立っていたはずだった。
——けれど、今は違う。
運動場には誰の姿もない。
校舎の窓は閉じられ、教室の灯りもすべて消えている。
昨日、手を振ってくれた生徒たちも、どこかへ避難したのだろう。
彼らは無事に逃げられただろうか。
家族と共に安全な場所へ向かったのだろうか。
「……っ」
美春は、無意識のうちに拳を握りしめた。
避難した者たちを守れるのは、自分たちしかいない。
この撤退戦の成否に、彼らの命がかかっているのだ。
それでも、この空の向こうには、敵がいる。
次に小牧へ向かう彼女たちを待ち受けているのは、血と硝煙、絶え間なく降り注ぐ光線、そして終わりの見えない撤退戦——。
小牧の戦いは、すぐそこまで迫っていた。
美春は顔を上げ、仲間たちと共に加速する。
わずかに傾いた陽光が、雲の合間から射し込み、編隊を照らしていた。
夕焼けにはまだ早い。だが、昼の鮮やかさは薄れ、空はどこか淡い色に染まり始めている。
この空の向こうに、何が待つのかは分からない。
それでも、自分たちは飛び続ける。
生き延びるために——。
つづく
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