美濃の魔女たち   作:多治見国繁

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第13話 私が飛ぶ理由

同じ頃。

濃尾平野の空を、東から西へと二つの機影が滑るように飛んでいた。

最前線ではない。だが、その空には確かに緊張の匂いが充満していた。

 

美夜とナツ。

ともにまだ若く、新人と呼ばれる立場のウィッチたちだった。

岐阜方面へ向かう任務を受け、現在は後方支援部隊として展開中。

光恵から直接命じられた任務は「前線を支えること」。決して前に出るな、無理はするな——そう、きつく念を押された。

 

けれど、それでも——。

 

空気は張り詰めていた。

爆音はまだ聞こえない。煙も、目には映らない。

けれど、風の流れに乗って届いてくるのは、明らかに“日常”とは異なる気配だった。

鉄と油、焦げた空気の残滓。戦場の風。

 

言葉が、なかなか出なかった。

風を切る音と、時折無線から漏れ聞こえる断片的な交信だけが、耳を打つ。

 

ようやく、ナツが小さく口を開いた。

 

「……美夜、緊張してる?」

 

いつものような明るさは、少しだけ抑えられていた。

けれど、それでも明るくあろうとする——ナツらしい声だった。

 

しばらくの間を置いて、美夜がぽつりと答える。

 

「……うん……してるよ……」

 

それだけだった。

けれど、美夜にとっては、それが精いっぱいの本音だった。

 

ナツは美夜の横顔をちらりと見て、小さく笑った。

 

「だよね。……わたしも、めっちゃしてる」

 

声は強がっていたわけではなかった。

けれど、その言葉の奥に、落ち着こうとする意志が感じられた。

笑っていないと、かえって怖くなる。そんな雰囲気が、ふたりの間を流れていた。

 

少しだけ時間が流れたあと、ナツがふと思い出したように尋ねた。

 

「ねえ、美夜って……岐阜だっけ?」

 

美夜はこくんと、小さく頷いた。

 

「……うん……生まれも育ちも、岐阜市……」

 

その瞳が、ゆっくりと地平線の先を見つめる。

雲の切れ間。その向こうに、微かに立ちのぼる煙の筋が見えたような気がした。

ただの気のせいかもしれない。けれど、美夜はすでに何度も夢の中でその光景を見ていた。

 

「……あの街、どうなってるんだろう……」

 

その呟きは、風にかき消されてしまいそうなほど、小さな声だった。

 

ナツは何も言わなかった。

ただ、ほんのわずかにスピードを緩めて、美夜の隣を変わらず飛び続けた。

 

「心配しすぎると、身体動かなくなるよ」

 

ぽつりと落とされたその言葉には、強さも、やさしさも、そしてほんの少しだけ怖さも滲んでいた。

ふざけているようでいて、ナツはずっと美夜のことを気にかけていた。

 

美夜は一瞬だけ横目でナツを見て——そして、小さく、だが確かに頷いた。

 

「……うん、大丈夫。飛べるよ、わたし」

 

その言葉が返った瞬間、ナツの顔にふわっと笑みが戻る。

 

「よーし! じゃあ、がんばっちゃおうか! 光恵さんの期待に応えなきゃね! まずは避難支援だよ!」

 

ナツがいつもの調子で前向きな声を上げる。

けれどその横で、美夜はぎこちなくうなずくばかりだった。手元の計器を見るふりをしながら、小さく震える指先を隠している。

 

「……うん……が、がんばる……」

 

そんな美夜を見て、ナツがふふっと悪戯っぽく笑う。

 

「でーも、ちょっと固くない? 美夜、背中も胸もカチコチだよ? えへへ! もっと力抜こう〜! ほら、えいっ!」

 

「ひゃ……っ!?」

 

不意に身体を寄せてきたナツの手が、美夜の胸元をぐにっと包む。

 

「ナ、ナツちゃん……っ!? な、なに……や、やだ……!」

 

美夜は思わず肩をすくめ、縮こまるようにして手をバタつかせる。

頬は見る間に真っ赤になり、視線は泳ぎ、声はか細く震えていた。

 

「んふふ〜、やっぱり柔らかい! 美夜らしくて、ちっちゃくて……可愛いな〜ほんとに!」

 

「や、やめて……やめて……ぇ……こ、こんな、空の上で……」

 

必死に両手で自分の胸をかばおうとするも、空中では体勢も不安定で、ナツの勢いに押されっぱなしだった。

 

「だいじょーぶだいじょーぶ、リラックス、リラックス〜! ちょっとくらいナツちゃんに揉まれたって死なないし!」

 

「し、死なないけど……ちが……そ、そんなの、やだぁ……」

 

震える声で訴える美夜。

それでもナツはケラケラと笑いながら、ようやく手を離した。

 

「うんうん、ごめんごめん、ついやっちゃった。でも美夜のその反応、ほんとかわいいよね〜!」

 

「うぅ……な、ナツちゃん、いじわる……」

 

美夜は胸元を押さえながら、そっと目を伏せた。

ストライカーの音が風にかき消されるほど、小さく、恥ずかしそうな声。

 

「でも、緊張、少しほぐれたでしょ?」

 

ナツの言葉に、美夜は驚いたように目を見開き——

そして、ほんのわずかに、ほわっと微笑んだ。

 

「……うん……ちょっとだけ、ね……」

 

美夜が小さく微笑んだ、その瞬間。

 

「うーん? ちょっと? それはダメだなぁ〜」

 

ナツがいたずらっぽく目を細め、軽やかに機体を旋回させる。ふわりと風を切る音とともに、美夜の背後をぴたりと取った。

 

「じゃあ、おしりも触っちゃおっかな〜!」

 

「え、えぇっ!? な、ナツちゃん、それはほんとに……っ」

 

ふわり。ナツの手が迷いなく伸び、美夜のお尻に軽く触れたかと思うと——そのまま、優しく撫で上げる。

 

「ひぅ……っ!?」

 

びくんと小さく跳ね上がる美夜。  

ストライカーの推力が一瞬だけ乱れ、あわてて姿勢を立て直す。

 

「な、なにしてるのぉ……や、やだ……ナツちゃんのばか……っ」

 

声は小さく、震え、頼りなかった。  

頬は真っ赤に染まり、目元には涙が滲む。視線は宙を泳ぎ、言葉も続かない。

 

けれど、その声の中に怒りはなかった。むしろ、困惑と恥じらい、そしてどこかに甘えが滲んでいた。

 

「へへっ、ちょっとだけ〜。やわらかくて、やさしくて、あったかくて……やっぱ美夜って最高だねっ!」

 

ナツは満面の笑みを浮かべながら、美夜の背中にくっつくように飛ぶ。

 

「ほらっ、もう一回! モミっと!」

 

「きゃああっ……!」

 

美夜は必死に体を縮め、両手でお尻を庇いながら空中でふらふらと逃げようとする。  

ナツに追いつかれるたび、ぴぃっと小さな悲鳴を上げて、また逃げる。

 

「や、やだ……やめてぇ……ほんとに……っ」

 

「え〜? 美夜が可愛いのが悪いんだよ〜?」

 

「か、かわいく……ないもん……」

 

「あるってば〜! 柔らかさ◎、反応◎、声も◎、ぜ〜んぶ可愛い!」

 

「うぅ……ナツちゃんのいじわる……」

 

美夜は小さく肩をすぼめ、視線を逸らしながら唇をきゅっと結ぶ。  

それでも、どこか拗ねたようにナツの方をちらりと見るその表情は、怒っているというより——照れていた。

 

ナツはそれを見逃さず、くすくすと笑った。

 

「……でもさ、美夜。今、ちゃんと飛べてるよ」

 

その言葉に、美夜の肩がぴくりと揺れる。

 

「……え……?」

 

「さっきより姿勢も安定してるし、声もちゃんと出てる。ね、やっぱりナツちゃん作戦、効いてるでしょ?」

 

「……うん……でも……こんなの、ずるい……」

 

「ずるくてもいいじゃん。ちゃんと飛べてれば!」

 

ナツがにかっと笑って手を広げる。  

その姿に、美夜はかすかに息を呑んで——それから、小さく微笑んだ。

 

「……うん……ありがと……」

 

その言葉は、風に紛れるほどの小さな声だった。  

でも、ナツにはちゃんと届いていた。

 

ふたりの機影が並び、空を裂くようにして西へ向かっていく。  

戦場の空はまだ遠い。けれどその手前には、確かな絆があった。

 

その時だった。

 

「ふふっ、美夜。緊張はほぐれたか?」

 

空気の張りつめた静寂を破るように、軽やかで涼やかな声がインカムから響いた。

 

「きゃっ……!?」

 

美夜は電流でも走ったように肩を跳ねさせ、思わず機体をふらつかせる。バランスを取り戻すのに一拍かかってしまうほど、完全に虚を突かれていた。

 

「き、聞いていたんですか……っ!?」

 

咄嗟に両手で胸元を押さえ、背筋を伸ばしながら問い返す美夜。  

けれどその姿勢は明らかに挙動不審で、顔は火がついたように真っ赤に染まっている。目元も耳の先も、すべてが真紅に染まっていく。

 

「うん、ばっちり聞いていたよ。二人の可愛い会話、しっかりとね」

 

光恵の声は、あくまでも落ち着いていて、微笑みすら感じさせるトーンだった。  

それが逆に、余計に恥ずかしさを煽る。

 

「う、うそぉ……っ」

 

美夜はストライカーの中で縮こまりそうになりながら、ナツの方をちらっと睨む。ナツはというと、けらけらと悪びれもなく笑っていた。

 

「わぁー! まさか光恵さんまで聞いてるなんてねー!」

 

「ナツちゃん……っ! も、もっと早く教えてよぉ……!」

 

「いや〜、だって、真剣だったし? あれは止めちゃダメなやつでしょ!」

 

「も、もぉ……うぅ……っ」

 

美夜はもう何も言えなくなって、顔を覆ってしまった。  

自分の体温が、ますます熱く感じられる。

 

「大丈夫、美夜。私は少し安心したよ。君がちゃんと笑えているのが分かって」

 

その一言は、からかいでも、冗談でもなかった。  

光恵の声はやさしく、芯のある響きで、美夜の胸の奥にまっすぐ届いた。

 

「……っ」

 

美夜は思わず言葉を失い、目を潤ませたまま、そっと頷く。

 

「光恵さん……ありがとうございます……」

 

「これからが本番だからね。ナツも、あまり揉みすぎないように」

 

「了解でーすっ!」

 

「な、ナツちゃんっ!!」

 

空の中、笑い声と悲鳴が交錯し、ふたりのストライカーが再び隊列を整えて飛び直す。  

その背中には、確かな信頼と、あたたかな絆が繋がっていた。

 

通信の回線がわずかに揺れ、柔らかくも芯のある声がふたりの耳に届いた。

 

「さて、ナツ、美夜」

 

呼びかけられた瞬間、ふたりはすっと表情を引き締めた。  

いつもの軽口ではない。光恵の声には、静かに熱を帯びた“本気”がこもっていた。

 

「これから君たちは、大事な任務に入る」

 

その言葉だけで、美夜の背筋にひやりとしたものが走る。  

ナツもさすがに冗談を挟むことはせず、姿勢を正した。

 

「君たちの仕事は、民間人を安全圏に逃がすことだ。現在、各地で戦闘が拡大しつつある。名古屋からの避難列、さらに小牧、犬山、美濃太田、可児……多数の市民が、戦場の縁をかろうじて逃げている」

 

地名が列挙されるたびに、美夜の胸が締め付けられる。どれも自分の知る町ばかりだった。

 

「その人々を、飛騨方面へ。そして、滋賀方面へと誘導する。峠を越え、長距離を飛ばなければならない。敵も必ずそれを狙ってくるだろう。だが、これをやらなくては私たちは戦えない」

 

光恵の声が、わずかに強くなる。

 

「私たちが全力で空を制圧し、ネウロイを叩くには、まず後ろを固めなければならない。民間人を守りながらの戦いは、非常に不利だ。大切な人がいる方向に背を向けて戦う者は、本来の力を出せない」

 

言葉は穏やかだが、一言一言に重みがあった。  

それは軍人としての戦術でもあり、人としての想いでもあった。

 

「だから——頼む」

 

その一言に、美夜の胸が高鳴った。誰かに“頼られる”ことが、こんなにも重く、そして温かく響くとは。

 

「ナツ、美夜。何としても逃がしてくれ。きみたちの手に、多くの命が託されている」

 

ナツが飛びながら手でぴしっと敬礼の姿勢をとり、笑顔を見せる。

 

「了解っ!任せてください!ナツちゃん、がんばっちゃいますよ〜!」

 

その隣で、美夜も小さく——けれど確かに頷いた。

 

「……はい……全力で……守ります……」

 

その言葉はか細いが、迷いはなかった。

空を飛ぶ理由が、確かに今、胸の中に根を下ろし始めていた。

 

すると、その静けさの中で、再び通信が入った。

 

「特に——美夜」

 

一瞬だけ、光恵の声の調子が変わった。  

穏やかではあるが、どこか芯のある響きに、美夜の心臓が一つ跳ねる。  

呼ばれた名前に、美夜はびくりと反応し、思わず姿勢を正した。  

ナツの隣で、小さく背を伸ばすようにして、受信体の方に顔を向ける。

 

「君は岐阜市の出身だったね」

 

「……はい……っ」

 

小さな声だった。だが、その声には、自分が今、注目されているのだという意識がにじんでいた。  

ストライカーの振動が足元から伝わる中、美夜は少しだけ目を伏せた。

 

「岐阜は山と川、街と郊外が混ざり合う、複雑な地形だ。戦略的に単純とは言えない、だからこそ——地元を“肌で知っている”君の存在が、大きな意味を持つ」

 

言葉は優しかった。けれどそれは、慰めではなかった。  

そこにあったのは、確かに“期待”と“信頼”だった。

 

「避難民の多くは、車や鉄道ではもう動けない。空襲こそ免れているが、交通網は遮断され、徒歩での移動を余儀なくされている。小さな子どもを連れた家族、高齢者……人々は、知っている道を頼りに歩いている」

 

美夜の喉が、かすかに鳴った。唾を飲み込んだのがナツにも聞こえたかもしれない。

 

「地図にない細道、堤防沿い、工場の裏手、河川敷のあぜ道。そういう“見えないルート”を覚えているのは、そこで暮らしてきた人間だけだ。……君の記憶が、今、命を救う鍵になる」

 

ナツが、ふっと横で笑った。

 

「美夜〜、通学路とか、よく遊んでたとこ、あるでしょ? そういうの全部、ナツちゃんに教えて〜。ガイドさん、よろしくっ!」

 

「え……う、うん……たぶん……」

 

美夜は言いながら、ゆっくりと遠くを見つめた。  

目を細めると、彼女の胸にぽつぽつと記憶の光景が浮かび上がってくる。

 

遠足で渡った長良橋。商店街の裏にある古い階段。  

線路沿いの土手。放課後によく寄った、川沿いの空き地。

 

「……北の方……長良川を越えて、高富の手前……山に入る前に、昔、おばあちゃんと通った道があって……たぶん、あそこなら……車じゃなくても歩いて登れると思います。集落の裏に抜ける細い山道で……」

 

「それで十分だ」

 

光恵の声が重なる。

 

「正確な地図や測量はいらない。君が“ここを通るかも”と思ったその感覚。それこそが、今この状況で最も重要な情報だ」

 

美夜の小さな胸が、どくん、と音を立てる。

 

「だから——頼んだぞ、美夜。ナツと一緒に、確かめてきてくれ。一人でも多く、助けてほしい」

 

「……はい……っ。わたし……やります……」

 

声はか細い。けれど、迷いはなかった。  

この街で育った自分にしかできないことがある——その事実が、怖くもあり、でも確かに力にもなっていた。

 

「ナツちゃん……よろしくね……」

 

「うんうん! 任せてよ、岐阜っ子ガイドさん!」

 

ナツが笑いながら機体を寄せ、美夜の背中に指先で「ぽん」と軽く触れる。  

そのぬくもりに、美夜は少しだけ頬を緩めた。

 

風が変わる。  

街の上空、青く広がる空の下。  

けれどその遥か下では、確かに人々が逃げている。

 

ふたりのウィッチは、その命をつなぐために、空を飛ぶ。

 

つづく




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