夕暮れの岐阜の空が、視界の先に広がった。
金華山の山頂に、西日がかかる。鈍色の光が山肌をなぞり、城跡の石垣を赤く染めていた。
ストライカーの翼が風を切る音だけが、空に細く、長く伸びていく。
美夜とナツの二人は、市街地の上空を静かに旋回していた。
眼下に広がるのは、まだ火に焼かれていない街。
けれど、その静けさは、まるで深い深い海の底にいるかのようで——美夜の胸は、ひたすらに早鐘を打ち続けていた。
「……警戒警報、出てるね」
ナツの声が、そっと重なる。
市内のあちこちに張り巡らされたスピーカーから、断続的なサイレンが響いていた。
その音が建物に反射し、風に乗って、まるで空間そのものが軋んでいるように感じられた。
下を見れば、家々の間を縫うように、避難する人々の姿。
肩に荷物を抱え、幼子を背負い、両手に包みを抱えた母親。
自転車を押しながら黙々と歩く中学生くらいの少年たち。
杖をついた祖父母が、互いを支えながら列に加わっている。
言葉も交わさず、ただ、郊外へと向かう足取りだけが、街の鼓動となっていた。
「……こんな風に、人が歩いてるの……見たことない……」
美夜の声は、風にさらわれるように、か細く滲んだ。
学校の運動場では、防空頭巾を被った子どもたちが、まっすぐに並んでいる。
教師たちが名簿を片手に点呼をとり、ひとりひとりに声をかけている姿も見える。
長良橋通りの向こう——柳ヶ瀬の百貨店。
その屋上に、望遠鏡を抱えた人影が立っていた。
まるで、見張り台からこの街を守ろうとするかのように。
すべてが、何かを予感していた。
いや、もうすでに始まっているという静かな合意が、この街を包み込んでいた。
「……いつもの岐阜じゃ、ない……」
美夜がぽつりと呟いた。唇がかすかに震えた。
見慣れた商店街。
長良川の川面に揺れる夕陽のきらめき。
金華山の稜線。
古い木造の町並み。
大正時代から続く商家の看板。
夕飯の匂いがしそうな裏通り。
そのすべてが、美夜のなかに焼きついているはずだった。
けれど、今目に映るそれらは、どこか薄く、透けて見えた。
まるで別の時代の絵葉書を眺めているような——現実の感触を失っていた。
「美夜……」
ナツが横目でそっと見つめてくる。
けれど美夜は、応えずに地上を見つめたままだった。
柳津方面へ向かう堤防沿いの道にも、ずっと続く避難の列。
川を渡って西へ向かう裏道にも、人の流れが絶えない。
路地裏や水路の脇、日頃は猫しか通らないような細い道にまで、人影があった。
「ここが……壊されるの……?」
誰に問うでもなく、ただ小さく、美夜の喉の奥から言葉が漏れた。
その瞬間——
風の向こうから、低く重い振動が押し寄せてきた。
ゴォォン……。
空気を撫でるような圧力。
地の底から鳴るような、不気味な共鳴音。
それは確かに、「奴ら」の気配だった。
ネウロイが、どこかで空を揺らした。
「……来てる……」
ナツが息を呑む。
空はまだ青く、夕暮れの色に染まりきってはいなかった。
西の地平線には、雲が金色に縁取られていた。
けれど、この静けさが——
この変わらない風景が——
美夜には、逆にとても恐ろしく思えた。
まるで、すべてが壊れる寸前にだけ訪れる、
張り詰めた透明なガラスのような、静けさだった。
「まずは、市役所と県庁に行こう。状況を聞かないと」
ナツの声が、張りつめた空気のなかに、ぽつんと落ちた。
風に流されかけていた思考が、その言葉で地に引き戻される。
現実が再び輪郭を持って、美夜の心の中に、具体的な「いま」が立ち現れた。
「……うん……ありがとう……ナツちゃん……市役所は美江寺町で、県庁は司町……だから、こっち……」
喉の奥で乾いた声を絞り出す。
震えてはいけないと自分に言い聞かせながら、美夜は視線を西へ向けた。
街の地図は、身体に染みついていた。
学校の帰り道、鵜飼の見物に連れて行ってもらった日、夕飯の買い物に母と歩いた商店街。
何度も通ったはずの道が、今はまったく違う意味を帯びていた。
それは、懐かしい記憶ではなく、いまを生きる人々を守るための知識だった。
ストライカーの進路を西へと切る。
微かに機体が傾くたび、服の裾が揺れて、足元を風が撫でていく。
その横を、ナツの機影が静かに並走していた。
いつもなら、片手で敬礼してきたり、無駄にループを描いて遊んでみたり、からかうような笑みを浮かべるはずの彼女が——
今日は、何も言わず、ただ、真っすぐ前を見ていた。
ちゃらんぽらんで、なんでも笑い飛ばして、人の肩に平気で抱きついてくるナツ。
「おっぱい」「おしり」「ちゅー」そんな単語ばっかり言ってたまだまだ幼い子どものようなナツ。
だけどいま、美夜の隣にいるのは——ふざけた相棒じゃない。
真剣なまなざしをたたえた、一人のウィッチだった。
「……ねえ、美夜」
ぽつりと、ナツが口を開く。
その声は、普段より少し低くて、風の音にすこしだけ揺れていた。
「もし、怖くなったら……言ってよ。ちゃんと、そばにいるから。置いてったりしない」
美夜は、一瞬、返す言葉が見つからなかった。
「ナツちゃん……」
目を向けると、ナツの横顔が、夕陽に染まっていた。
「空って広いし、逃げ場がないって思うこともある。怖いよね。どこまでも高くて、下を見たらすごく遠くてさ」
ナツは、笑わずに続けた。
「でも、美夜と一緒なら……どこまでも飛べると思う。だから、ひとりで抱えないで」
そう言った横顔には、もう、子どもみたいなあどけなさはなかった。
戦う覚悟を持つ者だけが見せる、静かな意志。
誰かの命を背負う責任を、冗談ではなく受け止めようとする者の、まなざし。
そのまなざしが、まっすぐに前を向いていたから——
美夜は、うつむけなかった。
「……うん……ありがとう、ナツちゃん……」
喉の奥が熱くなる。
涙が込み上げた。でも、それはこぼさなかった。
いま泣いてしまえば、前に進めない気がしたから。
視線をあげると、夕陽のオレンジが空を満たしはじめていた。
岐阜の街に、夜の帳がゆっくりと降りようとしている。
けれどその下で、確かに人々は、生きようとしていた。
逃げるでも、諦めるでもなく——歩いていた。
だから、私たちは——
飛ばなければならない。
守るために。支えるために。
この空を。人々の営みを。
まだ見ぬ「明日」を。
そして、美夜は気づいていた。
——もう、自分はひとりで空を飛んでいるわけじゃない。
市役所や県庁へと向かう間も、美夜の胸の奥はざわついていた。
飛び立つとき、何もかもを振り切ったはずなのに。
「……家族、無事に逃げてくれたかな……」
呟いた声は風にかき消された。
金華山の裏手にある自宅。母や姉たちは、もう避難しているはず。そう信じている。
でも、近所のおばさんや、いつも野菜をくれるおじいちゃんは?
通っていた学校の友達は?あの橋の向こうに住んでいる幼なじみは?
——気にしちゃだめ。今は任務中。
そう言い聞かせる。
でも、次に浮かんできたのは、家で飼っている鵜たちのことだった。
使い魔として契約した一羽のウミウは、今も背中にその気配を感じる。
けれど、それ以外の鵜たちは?鵜匠の家にとっては、ただの動物ではない。家族みたいな存在。
父や祖父が大切に育ててきた、大事な仲間たち。
「……あの子たち、どうしてるかな……」
水も、餌も……もう誰も世話をしていないかもしれない。
檻の中で、不安そうに鳴いていないだろうか。
地上が混乱に包まれた時、誰が彼らを守ってくれるのだろう。
胸の奥に、小さな棘のような痛みが残る。
——任務は命より大事。でも、想いを捨てろなんて言われていない。
美夜は唇をきゅっと結び、少しだけナツの背中に近づいた。
風はまだ冷たく、岐阜の空はどこか重かった。
やがて、市役所へとたどり着いた。
正面玄関は避難民でごった返し、通り沿いの歩道には長い列ができていた。掲示板の周りには人だかりができ、誰もが不安そうな面持ちで立ち止まり、職員の説明に耳を傾けている。市の制服を着た職員たちがその間を行き来し、資料を手に次々と声をかけていた。
ナツはその様子を上空から見下ろし、軽く眉をひそめる。
「正面は混雑しすぎてるね。あそこに降りたら、余計に混乱させちゃうよ」
「……裏手に回ろう。荷捌き口のあたりなら……」
美夜が小さく頷く。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
でも、今ここで伝えなきゃいけない。だから、飛ぶ。
二人は静かに市役所の裏手にストライカーを滑らせ、旧駐車場の端にある非常階段の脇にある荷捌き口へと降り立つ。ちょうど何人かの職員が資材を運び出しているところで、彼らの目がふいにこちらに向いた。
そのうちの一人が、手にしていた書類を落とすほど驚いた様子で、息を呑んだ。
「……美夜ちゃん!?」
顔を向けると、そこにいたのは、近所の材木屋の長男・西村さんだった。作業服は泥にまみれ、汗で前髪が額に張りついている。
「……西村さん……!」
思わず声が漏れた。
心の奥がほんの少しだけほぐれる。幼い頃、鵜の世話を手伝ってくれたこと、夏祭りで太鼓の台を組んでくれたことが、胸の中でいっぺんに蘇った。
西村は美夜の前に駆け寄ると、言葉を詰まらせ、でもどうしても声に出さずにはいられないというふうに叫んだ。
「……美夜ちゃん……ほんとに、来てくれたんだな……!」
その目は、驚きと安堵、そしてこらえきれない嬉しさに揺れていた。
「……はい。任務で、岐阜に来ました……。市の状況を確認して、警戒情報を伝えに……」
震える声だったが、顔を上げて、まっすぐ西村の目を見る。
「……名古屋は……もう、壊滅していて。豊橋も、豊川も……。軍は小牧で食い止めようとしています。でも、ここももう、安全とは言えない状況で……」
言葉を選びながら、美夜は静かに続ける。
「……なので、市内の方々には、できるだけ高山方面か、滋賀方面へ避難してもらうよう、軍から伝えるよう言われています」
西村は頷き、真剣な表情で耳を傾けていた。
「市でも、今ちょうど避難ルートを再調整してる。北の山県経由と、関ヶ原方面の線を優先してるけど、状況が変わればすぐに動けるよう準備してる」
「ありがとうございます。……それを、今から県庁にも伝えに行きます。市の対応も、向こうに共有しておきます。少しでも連携できるように……」
西村は、その言葉に静かにうなずいた。
「助かる。……こうして自分の目で見て、伝えてくれる人がいるだけで、どれだけ違うか……」
「それが終わったら、私たちも避難誘導を手伝います。少しでも、何かできたらって……」
その声には、芯のあるやさしさが宿っていた。
西村は、ふと目を細めて、少しだけ表情を和らげた。
「……あの頃のままだな。美夜ちゃんは」
「えっ……?」
「……美夜ちゃんは、昔から、ほんと優しい子だったよな。鵜の体調が悪くなっただけで、心配して夜も寝られなかったって、親御さんが話してたよ。困ってる誰かのこと、いつも一番に考えてた」
美夜は思わず顔を赤らめ、目を伏せた。
ナツが隣でくすりと笑いながら、ぽんと美夜の肩を軽く叩く。
「ね、美夜、やっぱり優しいじゃん」
「そ、そんなこと……ないです……」
顔を真っ赤にした美夜に、西村は真剣な顔で言葉を返した。
「……美夜ちゃん。絶対、生きろよ。どんなことがあっても」
ナツも、軽く頷く。
「あなたも、無事でいてください」
美夜も、ぎゅっと胸の内を押さえるようにして、真っ直ぐに見つめながら言った。
「……西村さんも……生きててください。絶対に……」
その言葉に、西村は黙ってうなずいた。
数秒の沈黙のあと、西村は一歩引いて、軽く手を挙げる。
「じゃあ、俺はもう一度案内所に戻る。市の中のことは任せてくれ。……気をつけてな」
「……はい!」
二人は小さく礼をし、再びストライカーに跨る。
もう一度、空へ——
岐阜の町が、夕焼けに包まれはじめていた。