美濃の魔女たち   作:多治見国繁

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第14話 岐阜市役所へ

夕暮れの岐阜の空が、視界の先に広がった。

 

金華山の山頂に、西日がかかる。鈍色の光が山肌をなぞり、城跡の石垣を赤く染めていた。

 

ストライカーの翼が風を切る音だけが、空に細く、長く伸びていく。

美夜とナツの二人は、市街地の上空を静かに旋回していた。

 

眼下に広がるのは、まだ火に焼かれていない街。

けれど、その静けさは、まるで深い深い海の底にいるかのようで——美夜の胸は、ひたすらに早鐘を打ち続けていた。

 

「……警戒警報、出てるね」

 

ナツの声が、そっと重なる。

市内のあちこちに張り巡らされたスピーカーから、断続的なサイレンが響いていた。

その音が建物に反射し、風に乗って、まるで空間そのものが軋んでいるように感じられた。

 

下を見れば、家々の間を縫うように、避難する人々の姿。

 

肩に荷物を抱え、幼子を背負い、両手に包みを抱えた母親。

自転車を押しながら黙々と歩く中学生くらいの少年たち。

杖をついた祖父母が、互いを支えながら列に加わっている。

言葉も交わさず、ただ、郊外へと向かう足取りだけが、街の鼓動となっていた。

 

「……こんな風に、人が歩いてるの……見たことない……」

 

美夜の声は、風にさらわれるように、か細く滲んだ。

 

学校の運動場では、防空頭巾を被った子どもたちが、まっすぐに並んでいる。

教師たちが名簿を片手に点呼をとり、ひとりひとりに声をかけている姿も見える。

 

長良橋通りの向こう——柳ヶ瀬の百貨店。

その屋上に、望遠鏡を抱えた人影が立っていた。

まるで、見張り台からこの街を守ろうとするかのように。

 

すべてが、何かを予感していた。

いや、もうすでに始まっているという静かな合意が、この街を包み込んでいた。

 

「……いつもの岐阜じゃ、ない……」

 

美夜がぽつりと呟いた。唇がかすかに震えた。

 

見慣れた商店街。

長良川の川面に揺れる夕陽のきらめき。

金華山の稜線。

古い木造の町並み。

大正時代から続く商家の看板。

夕飯の匂いがしそうな裏通り。

そのすべてが、美夜のなかに焼きついているはずだった。

 

けれど、今目に映るそれらは、どこか薄く、透けて見えた。

まるで別の時代の絵葉書を眺めているような——現実の感触を失っていた。

 

「美夜……」

 

ナツが横目でそっと見つめてくる。

けれど美夜は、応えずに地上を見つめたままだった。

 

柳津方面へ向かう堤防沿いの道にも、ずっと続く避難の列。

川を渡って西へ向かう裏道にも、人の流れが絶えない。

路地裏や水路の脇、日頃は猫しか通らないような細い道にまで、人影があった。

 

「ここが……壊されるの……?」

 

誰に問うでもなく、ただ小さく、美夜の喉の奥から言葉が漏れた。

 

その瞬間——

風の向こうから、低く重い振動が押し寄せてきた。

 

ゴォォン……。

 

空気を撫でるような圧力。

地の底から鳴るような、不気味な共鳴音。

それは確かに、「奴ら」の気配だった。

 

ネウロイが、どこかで空を揺らした。

 

「……来てる……」

 

ナツが息を呑む。

 

空はまだ青く、夕暮れの色に染まりきってはいなかった。

西の地平線には、雲が金色に縁取られていた。

 

けれど、この静けさが——

この変わらない風景が——

 

美夜には、逆にとても恐ろしく思えた。

 

まるで、すべてが壊れる寸前にだけ訪れる、

張り詰めた透明なガラスのような、静けさだった。

 

「まずは、市役所と県庁に行こう。状況を聞かないと」

 

ナツの声が、張りつめた空気のなかに、ぽつんと落ちた。

 

風に流されかけていた思考が、その言葉で地に引き戻される。

現実が再び輪郭を持って、美夜の心の中に、具体的な「いま」が立ち現れた。

 

「……うん……ありがとう……ナツちゃん……市役所は美江寺町で、県庁は司町……だから、こっち……」

 

喉の奥で乾いた声を絞り出す。

震えてはいけないと自分に言い聞かせながら、美夜は視線を西へ向けた。

 

街の地図は、身体に染みついていた。

学校の帰り道、鵜飼の見物に連れて行ってもらった日、夕飯の買い物に母と歩いた商店街。

何度も通ったはずの道が、今はまったく違う意味を帯びていた。

 

それは、懐かしい記憶ではなく、いまを生きる人々を守るための知識だった。

 

ストライカーの進路を西へと切る。

微かに機体が傾くたび、服の裾が揺れて、足元を風が撫でていく。

 

その横を、ナツの機影が静かに並走していた。

 

いつもなら、片手で敬礼してきたり、無駄にループを描いて遊んでみたり、からかうような笑みを浮かべるはずの彼女が——

今日は、何も言わず、ただ、真っすぐ前を見ていた。

 

ちゃらんぽらんで、なんでも笑い飛ばして、人の肩に平気で抱きついてくるナツ。

「おっぱい」「おしり」「ちゅー」そんな単語ばっかり言ってたまだまだ幼い子どものようなナツ。

だけどいま、美夜の隣にいるのは——ふざけた相棒じゃない。

 

真剣なまなざしをたたえた、一人のウィッチだった。

 

「……ねえ、美夜」

 

ぽつりと、ナツが口を開く。

その声は、普段より少し低くて、風の音にすこしだけ揺れていた。

 

「もし、怖くなったら……言ってよ。ちゃんと、そばにいるから。置いてったりしない」

 

美夜は、一瞬、返す言葉が見つからなかった。

 

「ナツちゃん……」

 

目を向けると、ナツの横顔が、夕陽に染まっていた。

 

「空って広いし、逃げ場がないって思うこともある。怖いよね。どこまでも高くて、下を見たらすごく遠くてさ」

 

ナツは、笑わずに続けた。

 

「でも、美夜と一緒なら……どこまでも飛べると思う。だから、ひとりで抱えないで」

 

そう言った横顔には、もう、子どもみたいなあどけなさはなかった。

戦う覚悟を持つ者だけが見せる、静かな意志。

誰かの命を背負う責任を、冗談ではなく受け止めようとする者の、まなざし。

 

そのまなざしが、まっすぐに前を向いていたから——

 

美夜は、うつむけなかった。

 

「……うん……ありがとう、ナツちゃん……」

 

喉の奥が熱くなる。

涙が込み上げた。でも、それはこぼさなかった。

いま泣いてしまえば、前に進めない気がしたから。

 

視線をあげると、夕陽のオレンジが空を満たしはじめていた。

 

岐阜の街に、夜の帳がゆっくりと降りようとしている。

けれどその下で、確かに人々は、生きようとしていた。

逃げるでも、諦めるでもなく——歩いていた。

 

だから、私たちは——

 

飛ばなければならない。

 

守るために。支えるために。

この空を。人々の営みを。

まだ見ぬ「明日」を。

 

そして、美夜は気づいていた。

 

——もう、自分はひとりで空を飛んでいるわけじゃない。

 

市役所や県庁へと向かう間も、美夜の胸の奥はざわついていた。

飛び立つとき、何もかもを振り切ったはずなのに。

 

「……家族、無事に逃げてくれたかな……」

 

呟いた声は風にかき消された。

金華山の裏手にある自宅。母や姉たちは、もう避難しているはず。そう信じている。

でも、近所のおばさんや、いつも野菜をくれるおじいちゃんは?

通っていた学校の友達は?あの橋の向こうに住んでいる幼なじみは?

 

——気にしちゃだめ。今は任務中。

 

そう言い聞かせる。

でも、次に浮かんできたのは、家で飼っている鵜たちのことだった。

 

使い魔として契約した一羽のウミウは、今も背中にその気配を感じる。

けれど、それ以外の鵜たちは?鵜匠の家にとっては、ただの動物ではない。家族みたいな存在。

父や祖父が大切に育ててきた、大事な仲間たち。

 

「……あの子たち、どうしてるかな……」

 

水も、餌も……もう誰も世話をしていないかもしれない。

檻の中で、不安そうに鳴いていないだろうか。

地上が混乱に包まれた時、誰が彼らを守ってくれるのだろう。

 

胸の奥に、小さな棘のような痛みが残る。

——任務は命より大事。でも、想いを捨てろなんて言われていない。

 

美夜は唇をきゅっと結び、少しだけナツの背中に近づいた。

風はまだ冷たく、岐阜の空はどこか重かった。

 

やがて、市役所へとたどり着いた。

 

正面玄関は避難民でごった返し、通り沿いの歩道には長い列ができていた。掲示板の周りには人だかりができ、誰もが不安そうな面持ちで立ち止まり、職員の説明に耳を傾けている。市の制服を着た職員たちがその間を行き来し、資料を手に次々と声をかけていた。

 

ナツはその様子を上空から見下ろし、軽く眉をひそめる。

 

「正面は混雑しすぎてるね。あそこに降りたら、余計に混乱させちゃうよ」

 

「……裏手に回ろう。荷捌き口のあたりなら……」

 

美夜が小さく頷く。

胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

でも、今ここで伝えなきゃいけない。だから、飛ぶ。

 

二人は静かに市役所の裏手にストライカーを滑らせ、旧駐車場の端にある非常階段の脇にある荷捌き口へと降り立つ。ちょうど何人かの職員が資材を運び出しているところで、彼らの目がふいにこちらに向いた。

 

そのうちの一人が、手にしていた書類を落とすほど驚いた様子で、息を呑んだ。

 

「……美夜ちゃん!?」

 

顔を向けると、そこにいたのは、近所の材木屋の長男・西村さんだった。作業服は泥にまみれ、汗で前髪が額に張りついている。

 

「……西村さん……!」

 

思わず声が漏れた。

心の奥がほんの少しだけほぐれる。幼い頃、鵜の世話を手伝ってくれたこと、夏祭りで太鼓の台を組んでくれたことが、胸の中でいっぺんに蘇った。

 

西村は美夜の前に駆け寄ると、言葉を詰まらせ、でもどうしても声に出さずにはいられないというふうに叫んだ。

 

「……美夜ちゃん……ほんとに、来てくれたんだな……!」

 

その目は、驚きと安堵、そしてこらえきれない嬉しさに揺れていた。

 

「……はい。任務で、岐阜に来ました……。市の状況を確認して、警戒情報を伝えに……」

 

震える声だったが、顔を上げて、まっすぐ西村の目を見る。

 

「……名古屋は……もう、壊滅していて。豊橋も、豊川も……。軍は小牧で食い止めようとしています。でも、ここももう、安全とは言えない状況で……」

 

言葉を選びながら、美夜は静かに続ける。

 

「……なので、市内の方々には、できるだけ高山方面か、滋賀方面へ避難してもらうよう、軍から伝えるよう言われています」

 

西村は頷き、真剣な表情で耳を傾けていた。

 

「市でも、今ちょうど避難ルートを再調整してる。北の山県経由と、関ヶ原方面の線を優先してるけど、状況が変わればすぐに動けるよう準備してる」

 

「ありがとうございます。……それを、今から県庁にも伝えに行きます。市の対応も、向こうに共有しておきます。少しでも連携できるように……」

 

西村は、その言葉に静かにうなずいた。

 

「助かる。……こうして自分の目で見て、伝えてくれる人がいるだけで、どれだけ違うか……」

 

「それが終わったら、私たちも避難誘導を手伝います。少しでも、何かできたらって……」

 

その声には、芯のあるやさしさが宿っていた。

西村は、ふと目を細めて、少しだけ表情を和らげた。

 

「……あの頃のままだな。美夜ちゃんは」

 

「えっ……?」

 

「……美夜ちゃんは、昔から、ほんと優しい子だったよな。鵜の体調が悪くなっただけで、心配して夜も寝られなかったって、親御さんが話してたよ。困ってる誰かのこと、いつも一番に考えてた」

 

美夜は思わず顔を赤らめ、目を伏せた。

 

ナツが隣でくすりと笑いながら、ぽんと美夜の肩を軽く叩く。

 

「ね、美夜、やっぱり優しいじゃん」

 

「そ、そんなこと……ないです……」

 

顔を真っ赤にした美夜に、西村は真剣な顔で言葉を返した。

 

「……美夜ちゃん。絶対、生きろよ。どんなことがあっても」

 

ナツも、軽く頷く。

 

「あなたも、無事でいてください」

 

美夜も、ぎゅっと胸の内を押さえるようにして、真っ直ぐに見つめながら言った。

 

「……西村さんも……生きててください。絶対に……」

 

その言葉に、西村は黙ってうなずいた。

 

数秒の沈黙のあと、西村は一歩引いて、軽く手を挙げる。

 

「じゃあ、俺はもう一度案内所に戻る。市の中のことは任せてくれ。……気をつけてな」

 

「……はい!」

 

二人は小さく礼をし、再びストライカーに跨る。

もう一度、空へ——

 

岐阜の町が、夕焼けに包まれはじめていた。

 

 

 

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