美濃の魔女たち   作:多治見国繁

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第15話 美夜の覚悟

西村に伝えた内容を簡潔にまとめ、改めて県庁に向かう。

 

市の防災課から預かった資料と、現地の避難状況の観察結果。

それらを手早くまとめながら、美夜はストライカーに跨がった。

 

ナツも準備を終え、美夜の隣で軽く頷く。

 

「じゃ、行こっか。今なら空もまだ穏やかだし」

 

「……うん」

 

小さく返事をして、美夜は視線を西へ向ける。

司町に立つ県庁舎が、夕暮れの光を受けて沈んだ赤色を帯びていた。

かつて県会議事堂として建てられた、古めかしい煉瓦造りの建物は、今では災害時の対策拠点として再整備されている。

 

玄関の上には、県の旗とともに「緊急災害対策本部設置中」と記された白い垂れ幕が、静かに風に揺れていた。

 

二人は裏手の中庭へと静かに着陸し、案内された応接室の一角。

そこにいたのは、眼鏡をかけた初老の男性だった。防災・危機管理課の課長だという。

 

「ご苦労さまです。……名古屋方面の状況については、ある程度情報が入ってきてはいましたが……豊橋までとは……」

 

疲れの滲む声で課長が言う。

 

「はい……。現地の被害は深刻で、避難民も多数。岐阜市では、山県方面と関ヶ原方面へのルートを中心に避難誘導を始めていました。可能であれば、県としてもそちらに人的支援と物資の再配置をお願いしたいと……」

 

緊張で喉が詰まりそうになりながらも、美夜は静かな声でしっかりと話す。

課長は頷き、広げた地図に印をつけていく。

 

「わかりました。……市の計画とも整合を取って、県からも各町村へ指示を出します」

 

「ありがとうございます。市から預かった資料も、こちらに」

 

そう言って書類を手渡すと、課長は丁寧に受け取り、部下に引き継いだ。

 

「……君たちが来てくれて、本当に助かります。……まだお若いのに、こんな危険な任務を……」

 

「……私たちは新人ですが、それでも……できることはあると思っています」

 

美夜は一歩前に出て、小さく頭を下げた。

 

「岐阜は……私たちの大切な故郷です。……だから、守りたいんです。今もここで懸命に頑張っている人たちがいる。だから……どうか、連携をお願いします」

 

その言葉に、課長の目が少しだけ柔らかくなった。

 

「……その想い、十分に伝わりました。ありがとう。……君たちも、くれぐれも無理はせずに」

 

「……はい。これから、空から避難誘導の支援にまわります。もしまた状況が動いたら、随時こちらにも伝えます」

 

美夜が丁寧に頭を下げると、課長もそれに深く礼を返した。

 

ナツが横で、そっと美夜の肩を叩く。

 

「さ、美夜。行こう。……まだやれること、あるもんね」

 

「……うん」

 

美夜は、ぎゅっと胸の奥を静かに締めながら、再び空へと飛び立つ準備を始めた。

この空の下に、まだ助けを必要とする人がいる限り——

 

自分たちの飛ぶ意味は、きっとそこにあるのだと思いながら。

 

美夜たちは、再びストライカーに跨り、ゆるやかに空へ舞い上がっていった。

 

暮れかけた空の下、岐阜市街の輪郭は橙に染まり、人々の列は長良川の堤へと連なっていた。

 

ナツがぽつりとつぶやく。

 

「これから、どうしよっか……?」

 

空気が重く、言葉も浮かびにくかった。

それでも、美夜はゆっくりと首を横に振る。

 

「……まずは、誘導しないと……」

 

言いながら、視線は地上の避難経路に向けられていた。

整然とした列もあれば、混乱の気配を孕む交差点もある。

そのすべてが、あまりにも手が届かない場所に見えた。

 

「……早く、岐阜から人を避難させないと……」

 

ぽつりと、悲しそうに言葉を落とす美夜。

 

「作戦面でも、支障が出るって……光恵さんも、言ってた……」

 

その声はどこか掠れていて、胸の奥の痛みに蓋をするように、そっと続いた。

 

ナツはその横顔をそっと見つめた。

ただ真っ直ぐなだけじゃない、今の美夜は確かに、何かを守ろうとする優しさで飛んでいる。

そんな彼女に、ナツは言葉を選ばずにはいられなかった。

 

「……美夜。大丈夫、ちゃんとやれてるよ。今までも、これからも。あたしたちで、支え合ってやろう?」

 

美夜はうなずく。

 

しかし——

空を滑るように飛ぶ美夜の横顔には、ずっと張り詰めたものがあった。

 

口は結ばれ、視線は遠くに定まらず、頬には風を受けながらもどこか青ざめた陰りが差している。

 

ナツはふと気づいた。

それは、美夜が何も言わないからこそ、逆に胸に突き刺さるような沈黙だった。

 

(……ああ……そうか)

 

その瞬間、ナツの心に何かが落ちた。

小さな納得と、抗いがたい現実へのやるせなさ。

 

——美夜は、怖いんだ。

言わないけど、ずっと、怖くてたまらないんだ。

 

ナツは、各務原基地にいるときに、避難してきた両親とほんの数分だけ会うことができた。

「お前は大丈夫だろうけど、無理すんなよ」なんて、父が照れたように笑って、母は目を赤くしながら弁当を押しつけてきた。

一瞬だったけど、それだけでどれほど安心できたか。

 

けれど、美夜には——そんな時間すら、与えられていない。

 

まだ小さな身体で、故郷が燃えるかもしれない現実の中に放り込まれ、家族の安否も、家に残した鵜たちの姿さえ、わからないまま。

それでも「岐阜を守るために来た」と言って、真っ直ぐに飛ぼうとしている。

 

その健気さが、ナツには痛いほど沁みた。

 

(ずっと、ひとりで耐えてたんだ……)

 

さっき、県庁で報告を終えたときも、美夜は震える手で書類を差し出していた。

でも誰も気づかない。

あの手がどれだけ冷たく強ばっていたかを、ナツはずっと見ていた。

 

いま、空を飛びながらも、美夜は懸命に自分を保とうとしている。

でも、足元の不安が、そのまま空を曇らせているように見えた。

 

ナツは、何か言葉をかけたくなった。

だけど、下手な優しさはきっと、この子の重荷になる。

だから、ただ隣にいることを選んだ。

 

風が吹き抜ける。

夕暮れの光が、美夜の頬に淡い影を落とす。

 

ナツは、その小さな背中を見つめながら、胸の奥でゆっくりと誓った。

 

——この子は、絶対に、ひとりにしない。

 

——何があっても、そばにいる。

 

それはただの友情ではなく、戦場に飛び立った者同士の、静かで、けれど強い絆だった。

 

「美夜、大丈夫?」

 

夕暮れの風に溶けるように、ナツの声が優しく響いた。

その一言が、張り詰めていた美夜の心の糸に、そっと触れる。

 

美夜は少しだけ視線を伏せた。

けれど、すぐには返事をしなかった。

 

ふわりと、風が頬を撫でていく。

その風に、涙が攫われそうになるのを、美夜は必死にこらえた。

 

「……大丈夫、だよ……」

 

絞り出すように、ようやく返ってきたその声は、か細く震えていた。

 

ナツは何も言わず、美夜のすぐ横を、同じ高度、同じ速さで飛び続けた。

一歩も先に出ることなく、まるでその気持ちに寄り添うように。

 

「……ほんとは、わからない……」

 

しばらくして、美夜がぽつりとこぼす。

 

「家族が、どうしてるのかも……鵜たちが、ちゃんと逃げられたのかも……

 誰にも、聞けないまま……ずっと……」

 

その目は遠く、ふるさとの町並みを映しながら、どこにも焦点が合っていなかった。

 

「でも、泣いたら、だめだって……思ってて……

 任務だし、みんな戦ってるし……

 私だけ、怖がってちゃ、いけないって……」

 

ナツは静かに首を横に振った。

 

「泣いていいんだよ。怖いって言っていいんだよ、美夜。

 子どもだから泣くんじゃなくて、ちゃんと強いから、ちゃんと優しいから、泣けるんだよ」

 

その言葉に、美夜は目を見開いた。

 

ナツの顔は真剣だった。

ふざけたような笑みは、どこにもなかった。

 

「……わたしね、美夜のそういうとこ、すごくすごく……偉いって思う。

 誰かのために動けるって、ほんとにすごいよ」

 

「……ナツちゃん……」

 

「だから、ひとりで耐えないで。

 今は、私がそばにいる。

 空は広いけど、ふたりで飛んでる空は、寂しくないでしょ?」

 

その言葉に、美夜は小さく、けれど確かに頷いた。

 

「……うん……ありがとう……」

 

声は震えていたけれど、その目には少しだけ光が戻っていた。

 

ふたりのウィッチは、夕暮れの空を再びまっすぐに飛んでいった。

 

まだ終わりの見えない戦いの中で。

それでも、誰かと一緒に飛べるという事実が、美夜の背中をそっと支えていた。

 

風が肌を冷やし始める夕暮れ時。

岐阜の空をふたりのウィッチが並んで飛ぶ。市街地の灯りがぽつぽつと瞬きはじめていた。

 

ナツは少し逡巡したあと、意を決したように口を開いた。

 

「……ねえ、美夜」

「うん……?」

 

「その……もし、よかったら、今からちょっとだけ……おうち、見に行く?」

 

ふいに差し出された優しさに、美夜の胸がぐっと詰まる。

だけど、彼女は静かに首を横に振った。

 

「……ダメだよ」

 

ナツが驚いて振り返ると、美夜は目を伏せたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「……私、お父さんとお母さんとお姉ちゃんに、

“お国のために働くなら、家族のことは二の次だ”って……そう言われてるの。

家のことは気にせず、ちゃんと前を見て戦えって……ずっと……」

 

ナツは言葉を失った。

ただ、彼女の横顔をじっと見つめるしかなかった。

 

「お姉ちゃんも……ウィッチで、今、欧州の前線にいるの。

ひとりで、遠い国で、誰にも頼らず、ずっとがんばってて……

なのに、私だけ家に戻ったり、会いに行ったりしたら……

……それって、ずるいよね」

 

そう言った美夜の声は、少し震えていた。

 

「だから……私も、ちゃんとしなきゃって……

どんなに不安でも、心配でも、泣きたくても……

お姉ちゃんみたいに、誰かを守れるウィッチに、ならなきゃって……」

 

ナツはその横顔を見つめながら、胸が締めつけられるのを感じていた。

まだこんなに小さくて、まだあどけなさの残るその少女が、

どれだけのものを一人で背負い込んでいるのか——その重さを思うと、

何も言葉にできなかった。

 

やがて、ナツはゆっくりと息を吐いて、美夜の隣に少しだけ寄る。

 

「……ずるくなんかないよ。

むしろ、そんなふうに言える美夜の方が、ずっと偉い。

私だったら……たぶん、怖くて、見に行っちゃうと思う」

 

美夜は少しだけ、唇をかんで目を伏せた。

 

ナツは続ける。

 

「でもさ……美夜が今ここにいて、誰かを守ろうとしてるってこと、

きっとお姉さんも、家族のみんなも、すごく誇りに思ってるよ。

だから、いま一番すごいことしてるよ。……美夜は、ちゃんと頑張ってる」

 

その言葉に、美夜はほんの少しだけ目を見開き——

そして、ほっとしたように、優しく微笑んだ。

 

「……ありがとう。ナツちゃん」

 

沈みゆく太陽がふたりを赤く染める中、

ふたりのウィッチは再び前を向き、空を飛び続けた。

 

それぞれの家族に、思いを馳せながら。

けれど今は、自分たちの力で支えるべき場所がある。

そう信じて、ふたりはその空を進んでいく。

 

ナツと並んで飛ぶ空。

夕暮れの光が、街並みを橙色に染めていた。

風は少し冷たくなり始めている。避難誘導に移る前の、束の間の静けさだった。

 

ふと、美夜がぽつりとつぶやいた。

 

「……私、本当は……ウィッチになんてなりたくなかったの……」

 

ナツは驚いて横を向く。

 

「え?」

 

「……気が弱いし、すぐ泣いちゃうし……こんな私がなっても、きっと、みんなに迷惑かけるって思ってた。

でも……うちの家では、魔法力を発現した女の子は、全員ウィッチになるのがしきたりで……断ることなんて、許されなかった。だから、怖かった。すごく……」

 

淡々と語るその声の奥には、どれだけの葛藤があったのかが滲んでいた。

 

ナツは言葉を挟まず、ただ耳を傾けていた。

 

「……でもね、最近、少しだけ思えるようになったの。

私、ウィッチになって……よかったって」

 

その顔が、ふっと微笑みに変わる。

 

「だって、大好きな街を……人を、守れるから。

あの時みたいに、ただ祈って待つだけじゃなくて……今は、自分で飛んで、動けるから……

だから……怖くても、不安でも……私、頑張るね」

 

「……美夜……」

 

ナツの胸の奥に、じんわりと何かが広がる。

 

――この子は、ほんとに優しい子だ。

本当は誰よりも怖くて、寂しくて、不安なはずなのに。

それでも誰かを守ろうとするこの子は、間違いなく、ウィッチだった。

 

ナツは小さく頷いて、笑った。

 

「……うん。美夜なら大丈夫。私も一緒に頑張るからさ」

 

「ありがとう……ナツちゃん……」

 

風がふたりの頬を撫でていく。

その風の中に、わずかに焦げたような、遠くの街の匂いが混じっていた。

 

ナツは顔を上げて、現実へと視線を戻す。

 

「……さ、行こっか。それぞれの持ち場へ。

一人でも多く、岐阜から逃がさないと」

 

「うん……!」

 

ふたりのウィッチは、互いに視線を交わし、力強くうなずいた。

 

そして次の瞬間、ストライカーの魔力光が閃き、

それぞれ別々の方向へと風を切って飛び立っていった。

 

――守るために。

――生き抜くために。

――そして、自分自身を信じるために。

 

その小さな背中に、夕陽が差していた。

 

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