美夜は、ナツと別れて夕暮れの岐阜の空を、一人で飛んだ。
目指すは、市街地北部にある小学校。
そこは市民たちの一時避難所に指定されており、ここからさらに飛騨方面・滋賀方面へ人々を送り出す拠点となっていた。
「……お姉ちゃん、私、ちゃんとできるかな……」
風に溶けるような小さな声で呟いた。
弱々しく聞こえたその声に反して、美夜の視線は前だけを真っ直ぐに見据えていた。
夕陽は金華山の向こうへ傾き、赤く滲んだ光が長く街に影を落としている。
その下を、美夜のストライカーは小さな光を引きながら滑るように飛んでいった。
ナツとは、先ほど打ち合わせを済ませていた。
ナツは関ヶ原を抜けて滋賀方面への避難支援へ向かう。
美夜は飛騨方面へ逃れる市民の空からの支援と誘導を担う。
「……ナツちゃんは、大丈夫かな……」
呟きながらも、自分の役割を胸に刻む。
怖さはあった。でもそれ以上に、今は守らなければいけない人たちがいる。
校庭が見えてきた。
遠目にも、避難してきた市民の群れが校庭を埋め尽くしているのが分かる。
ストライカーの音に顔を上げる人々の視線が、自分を追うのがわかる。
「杉下美夜、着陸します……」
風に乗せて小さく呟き、ストライカーの推力を絞る。
金属の羽音が消え、代わりに草と土の匂いが鼻をかすめる。
美夜は校庭の端へ静かに降り立った。
その瞬間、周囲のざわめきが一瞬止まり、次いで緊張を含んだ息遣いが戻ってきた。
防空頭巾を被った子どもを抱える母親が、美夜を見つめている。
杖をついた老夫妻が、お互いに肩を支え合いながら視線を向けていた。
若い男性たちは荷車を押しながら、列の周囲で見守るように立っていた。
警防団の腕章をつけた男性たちが、声を張り上げながら住民たちを整列させていた。
岐阜県警の制服を着た警察官、県庁や市役所の腕章をつけた職員たちが、名簿と照らし合わせながら点呼を取り続けている。
配られた紙を握りしめて順番を待つ人々の列は、夕闇の中で少しずつ前へ進んでいた。
そして、その場には扶桑陸軍・岐阜連隊の軍人たちもいた。
小銃を肩にかけ、厳しい顔で周囲を見渡しながら、時折小さな声で子どもたちに笑顔を向けていた。
校庭に集まった人々の表情は、誰も声を荒げず、しかし不安と疲労がにじんでいた。
それでも——必死に、秩序を守ろうとしていた。
美夜は胸の前で小さく手を握った。
足元から地面の温度が伝わる。空の冷たい風よりも、ずっと生きている温度だった。
「……大丈夫、大丈夫……」
自分に言い聞かせ、小さな体で一歩前に出る。
「お待たせしました!」
声は震えていたが、風を切るように響かせた。
「私は、扶桑陸軍飛行第十七戦隊所属、ウィッチの杉下美夜です!」
人々の視線が、美夜へと集まった。
「皆さんの避難が安全に進むよう、空からの誘導と支援のために来ました!」
校庭に集まった大人たちが息を飲む気配があった。
泣き止まなかった赤子の泣き声が、少しだけ弱まった。
岐阜県警の警察官が、険しい顔でこちらへ歩み寄る。
警防団の隊長らしき男性が帽子を取り、美夜に向かって頭を下げた。
「杉下軍曹!お話は聞いています!」
「……はい! 空は私に任せてください! 飛騨方面への避難誘導と周辺の警戒を行います!」
胸を張って言ったその瞬間——
胸の奥に、小さな痛みと温かさが同時に広がった。
——怖くても、私には空を飛ぶことができる。
——大好きな街と、人々を守ることができる。
その思いが、美夜の背中を支えていた。
夕闇が深まる岐阜の空を見上げると、雲の切れ間に小さな星が瞬きはじめていた。
「……飛びます!」
深呼吸をひとつ。
風が美夜の頬を撫で、次の瞬間、小さな翼が再び空を蹴った。
岐阜の街の灯りが遠ざかり、夜の空が彼女を包み込んでいく。
けれどその夜は、決して孤独な闇ではなかった。
美夜は、自分の意思で飛んでいた。
美夜は小さな胸に大きく息を吸い込むと、ストライカーから降り、夕闇迫る校庭の風の中で勇気を振り絞って声を張り上げた。
「お待たせしました! 私は、扶桑陸軍飛行第十七戦隊所属、杉下美夜です!!」
その声は、自分でも想像していたよりも大きく、校庭の空気を震わせて響いた。
不意に、多くの視線が美夜へと向けられた。
制服姿の、まだ幼い少女が、一人でそこに立っている。
その小さな体には不釣り合いなほどの使命感と決意が背負われていた。
そしてその決意が、張り詰めていた空気を一瞬だけ和らげた。
「岐阜市北部避難拠点として、ここから飛騨方面へ向かう避難誘導を支援します!
軍、県庁、市役所、警防団の皆さんと連携し、一人でも多くの市民を安全に誘導できるよう、全力を尽くします!」
その声は震えていなかった。
不安は確かに胸の奥にあった。それでも今、ここで「守る」という思いだけが、美夜の足を前に進めていた。
岐阜連隊の中尉が近づき、無言で敬礼を送る。
岐阜市役所の防災課の職員も、胸に掲げた腕章を軽く触れ、深く頭を下げた。
「こちらとしてもありがたい。北部の旧道は山県方面へ抜けるのに時間がかかる。空からの警戒と誘導は助かる」
「ありがとうございます。飛行高度を調整しながら、車列や徒歩の流れを監視します。異変があった場合はすぐに連絡します!」
美夜は資料を抱え、即座に現場の状況確認に走った。
避難経路の地図。
避難民の人数、輸送車の割り振り、運行予定。
配布予定の水、保存食、救急箱の置き場。
それらを職員と共に確認し、次々と指示を交わしていく。
周囲では子どもの泣き声が上がり、母親たちが必死にあやしていた。
老人たちは疲れ切った足取りで、互いに支え合って並んでいる。
「杉下さん……若いのに、しっかりしてるな……」
横で書類を受け取った県庁の男性職員が、思わず小さくつぶやく。
「い、いえ……そんな、私なんて……でも、頑張ります!」
顔を赤くしながらも、きゅっと唇を引き結び、胸を張る美夜。
空はすでに藍色へと変わりつつあった。
街灯の光が滲み始め、校庭に伸びる人々の影が、夜風に揺れていた。
美夜はナツの言葉を思い出す。
『ひとりで抱えなくていいんだよ、美夜』
——そうだ。私だけじゃない。
今この街を、みんなで守っている。
「……さあ、始めましょう!」
声を張り上げると、周囲の空気が変わった。
人々が小さく息を吐き、わずかに表情を引き締める。
その瞬間、美夜は再びストライカーに跨る。
魔力光が翼端に灯り、プロペラの回転が夜気を切り裂いた。
飛び立つその背を、避難民たちの視線が追った。
その背中は小さい。けれど確かに、人々の希望を空に掲げるウィッチの背中だった。
⸻
再び上空へ舞い戻ると、校庭には避難の列ができていた。
荷物を背負った父親、赤子を抱えた母親、小さな手を握る祖父母、泣きそうな顔の子どもたち。
そのすべての頭上に、美夜の影が小さく落ちた。
ストライカーのプロペラ音が、夜気を震わせながら低く響く。
美夜は地上へ向かって声を張った。
「皆さん、落ち着いてください!」
張りつめていた緊張の中で、その声は不思議と穏やかに響いた。
「ゆっくりで構いません。今、私の仲間たちが、ネウロイを押し留めてくれています!」
言葉を選びながらも、震えのない声で続ける。
「焦らず、順番に避難してください! 大丈夫です。私が空から、ずっと見守っています!」
赤子を抱く母親が、その言葉に小さく頷いた。
顔を伏せていた男の子が、そっと顔を上げた。
美夜の胸は苦しかった。
本当は怖い。だって自分もまだ子どもなのだ。
それでも、今この空を守れるのは自分しかいない。
「お父さんも、お母さんも、小さな子も、一緒に行けます。道は開いています。だから、焦らず、一歩ずつ進んでください!」
風が冷たく吹き抜ける。
夕暮れの空は藍色へと変わり、金華山の影がさらに長く伸びていく。
それでも、人々は歩き出した。
震える指先で包みを抱え、震える足で一歩ずつ進む。
それは、生きるための歩みだった。
美夜は、小さく息を吐いた。
遠くの夜空に、戦線の光が瞬き、火線が走るのが見えた。
仲間たちが前線で戦っている。
だから自分も、この街を守らなければならない。
「……行きましょう。私は空から、ずっと見守っていますから!」
プロペラの回転が高まり、魔力の光が空に舞う。
美夜の小さな背中が、再び夜空へと溶けていく。
その背を見上げる人々の胸に、小さな希望の灯がともった。
夜が始まろうとしていた。
だがその夜の中でも、岐阜の人々はまだ歩き続けていた。
その歩みを守るために——
小さなウィッチの灯が、空を飛び続けていた。
その時だった。
「美夜! 美夜!? 無事だったの!?」
空気を震わせるサイレンと人々のざわめきの合間を縫って、
その声は、美夜の胸の奥まで一瞬で届いた。
一瞬、息が止まる。
思わず顔を上げると——
校庭の人波の向こうに、母がいた。
その隣には、父の姿もあった。
「お母さん……? お母さん! お父さんも!」
声にならない声が喉から漏れた。
それは、ずっとこらえていたものが、破裂するようにあふれ出す瞬間だった。
「美夜……! 美夜……!」
母が駆け寄ろうと一歩踏み出す。
けれど、美夜はストライカーに跨ったまま、地面に降りることもできず、
ただ手を伸ばすことしかできなかった。
「無事でよかった……ほんとうに、よかった……!」
母の笑顔は泣き笑いだった。
その目には涙があふれ、頬を伝ってこぼれていた。
父も、普段はあんなに厳しくて口数の少ない人なのに、
赤くなった目で、美夜をじっと見上げていた。
「私……ずっと……お父さんとお母さんのこと……心配で……」
声が震え、視界が涙でにじむ。
だけど、美夜は泣きながらも笑顔を見せた。
「私……任務……してるんだよ……街のみんなを、守るために……」
母は何度も何度も頷いていた。
涙で濡れた目で、美夜を見つめながら。
「美夜……」
父の声は低くて、でも震えていた。
「お前は……立派だ。……ありがとうな……守ろうとしてくれて……」
「お父さん……」
涙がまた溢れそうになるのを、美夜は必死に堪えた。
——今は泣けない。
——私は、ウィッチだから。
だけど、その決意も、母の優しい笑顔を見た瞬間、少しだけほどけた。
「怪我はない? ご飯は、ちゃんと食べてる?」
母の言葉に、胸の奥があたたかくなる。
「うん……大丈夫……ちゃんと食べてるし、怪我もないよ……」
声はかすれていたけれど、笑顔で答えた。
でも、その笑顔は涙で濡れて滲んでしまっていた。
「あぁ……私の美夜……可愛い美夜……」
母は胸元で手をぎゅっと握りしめ、涙をこぼしながら笑った。
「私ね……本当は……怖かったの……ずっと、怖かったの……」
幼い声が震える。
「お父さんも、お母さんも、どうなったのか分からなくて……無事でいてくれるか、毎日心配で……怖かったの……」
視界がぼやけ、涙がストライカーのフットレストに落ちた。
「でも……でもね……私、守りたいの。お父さんとお母さんのことも、大好きな街も、みんなも……だから、私、飛ぶよ」
震える声で、それでも胸を張って言った。
「私、ウィッチだから……だから、守るよ……!」
母は泣きながら笑って頷き、父もその肩を支えながら、ゆっくりと笑った。
「行ってらっしゃい、美夜。……必ず、生きて帰ってくるんだぞ」
「……うん。絶対に帰ってくるから!」
その瞬間、美夜の頬を一筋の涙が伝った。
でも、それは悲しみの涙じゃなかった。
金色の夕陽が校庭を染める。
風が吹き、桜の葉が揺れる音がした。
「お父さん、お母さん……大好きだよ!」
最後にもう一度、大きな声で叫んだ。
ストライカーの推力が上がり、美夜の小さな体が空へと戻っていく。
見上げる両親の姿が、夕陽に照らされながら遠ざかっていった。
——でも、美夜の胸の奥は、不思議なくらい温かかった。
空は赤く、美夜の背中をやさしく押すように輝いていた。