第2話 日常は消えた
美春は、どうにかここで一花咲かせようとしていた。
欧州で戦いたい——。
そうした強い思いを胸に秘めながら、今、自分にできることを必死にこなしていた。
それは、ここ扶桑の空で、新人たちを育て、鍛え、導くこと。
与えられた役割を全うしながらも、心の奥では、いつか最前線で戦う日を夢見ていた。
「今いる場所で、咲け。」
それが、光恵少佐の口癖だった。
どこにいても、どんな状況でも、自分にできることをやる。
それが戦う者の務め——そう教えられてきた。
だから美春も、与えられた環境で力を尽くし、戦うための準備を整えていた。
焦りを感じながらも、仲間と共に訓練に励む毎日。
明日も、いつもと変わらぬ朝が来るはずだった。
変わらぬ空の下で、変わらぬ日常を繰り返すはずだった。
しかし、その頃——
濃尾平野の端、名古屋港、そして四日市港では、大きな動乱が静かに始まりつつあった。
1948年12月13日 午前1時——。
その瞬間、すべてが変わった。
名古屋港、そして四日市港——。
欧州からの輸入品が積み上げられた貨物置き場で、長らく人知れず潜んでいた“何か”があった。
それは木製コンテナや荷物に擬態し、じっと機を待ち続けていた金属体。
そしてついに、その時が訪れた。
コンテナだった物体が、不気味な金属の塊へと変貌する。
滑らかな表面に禍々しい光が走り、無機質な体が軋みを上げながら姿を変えた。
次の瞬間——。
名古屋港と四日市港、それぞれの港湾施設とコンビナートが赤い閃光に貫かれた。
轟音とともに爆発が連鎖し、夜の静寂を切り裂く。
石油や天然ガスの貯蔵施設が引火し、漆黒の空を灼き尽くさんばかりの炎が吹き上がる。
警報が鳴り響き、港は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した——。
「大竹少尉! 起きてください!」
鋭い声が響き、美春の意識が揺り戻される。
「ん……うぅ……もう朝……?」
寝ぼけた頭のまま、ふと枕元の時計に目をやる。
——午前1時。
「……って、まだ夜じゃない!?」
ハッと目を見開いた瞬間、目の前には険しい表情のウィッチが立っていた。
長い髪をひとつに結び、藤色の袴に巫女服を纏った土岐頼子中尉——美春の上官であり、一つ年上の先輩だ。
「な、な、なんで中尉がここに……?」
「とにかく、すぐに起きてください」
冷静な声とは裏腹に、その目には焦りが宿っている。
美春の顔から血の気が引いていく。まさか、寝坊!?
いや、それにしては時刻が早すぎる。こんな時間に叩き起こされるなんて、ただ事ではない。
頼子は光恵や佳乃たちと同じく、欧州戦線を経験したベテランウィッチだった。
だが、現地での負傷により、現在は療養も兼ねて扶桑に戻り、一七戦隊に所属している。
室町時代から続く“戦巫女”の名門・土岐家の出身であり、家柄に違わず厳格な性格だった。
ウィッチに対しても古き伝統を重んじ、実戦経験を通じた実力主義を徹底する。
教育方針も当然ながらスパルタそのもので、新人には容赦なく鍛錬を課すことで有名だった。
むしろ、美春の指導法など甘すぎると評するほどで、彼女自身も決して人を褒めることはない。
そのため、美春とはことごとく相性が合わなかった。
「ウィッチは戦うために存在するのです。戦場に情など不要」
頼子のそんな持論に、美春は密かに反発を覚えていた。
もちろん、美春も戦うことの大切さは理解している。
だが、戦いの中にだって「仲間の絆」や「教え導くこと」の意味はあるはずなのだ。
(まぁ、私が何を言ったところで、きっと聞く耳持たないんだろうけど……)
さらに、美春が頼子に苦手意識を持つ理由がもう一つあった。
それは——胸のサイズの格差。
たった1歳違いなのに、頼子のそれは圧倒的だった。
比べるたびに悲しく、悔しくなってくる。
同期たちにこの悩みがバレたら、確実にネタにされるだろう。
ナツや美夜なんかに知られた日には、ウィッチとしての威厳が完全に崩壊する。
いや、それよりも一番の問題は光恵少佐の反応だ。
美春にとって、光恵は特別な存在——。だからこそ、彼女にはこの件だけは知られたくない。
(いいの、光恵少佐だけは特別だから……! これはもう、そういう理屈なの!)
……と、そんなことを考えている場合ではなかった。
目の前には、なおも険しい表情でこちらを見下ろす頼子がいる。
「大竹少尉、状況は緊急です。すぐに準備を——」
「す、すみません! すぐに支度します!」
美春は飛び起きると、慌てて身支度を整え始めた。
この夜、平穏な日常が音を立てて崩れ去ろうとしていることを、まだ彼女は知らなかった——。
しかし、頼子は美春の動揺など意に介さず、ベッドから引き剥がすように腕を引いた。
「緊急召集です。とにかく会議室へ!」
「え、えぇっ!? ちょっ……ま、待ってください!」
美春は寝巻きのまま頼子に引きずられるようにして廊下へ連れ出された。
そのとき——。
「ウーーーッ!!」
けたたましいサイレンが鳴り響く。
頼子も美春も、一瞬立ち止まって顔を見合わせた。
これは……空襲警報だ。
一般市民なら、生涯一度たりとも聞きたくない音。
その不吉な警報が、今この基地に響いている。
「一体、何が……!?」
美春は頼子を見上げて問いかける。だが、頼子も首を横に振った。
「私も詳しいことはわかりません。ただ、急いでください!」
美春の胸に嫌な予感が広がる。
このサイレンが鳴ったということは、何か重大な事態が発生している——。
頼子に引かれるまま、美春は会議室へと足を運んだ。
会議室にはすでに光恵をはじめ、佳乃や第一中隊の隊員たち、さらには新人隊員までが集結していた。
いつもは穏やかに微笑んでいる光恵も、今は真剣な表情を崩していない。
その空気の重さに、美春は唾を飲み込む。
「少佐、一体何が——」
美春が問いかけると、光恵ではなく佳乃が一歩前に出た。
「総員、傾注!」
ピンと背筋を伸ばし、佳乃が一同を見渡す。
「みんな、夜遅くにごめんなさい。戦隊長から急遽、重要な話があるわ。落ち着いて聞いてね」
その言葉を受け、光恵が静かに口を開いた。
「つい先ほど、東海軍管区司令部から緊急入電があった。名古屋と四日市、二か所同時にネウロイが出現したらしい」
「えっ……!?」
美春の目が見開かれる。
「そんな……!」
「うそ……でしょ……?」
「名古屋にネウロイが……?」
ざわめきが広がる中、光恵は淡々と続けた。
「詳細はまだ不明だ。しかし、確かなことは——当該ネウロイは名古屋港と四日市港の施設を攻撃しているということ。しかも、互いに連携しているらしい」
美春は息をのんだ。
「このままでは被害は拡大する一方だ。現在、桑名連隊区、津連隊区、名古屋連隊区の各部隊が対応に当たっているが、敵は手強く、苦戦しているようだ」
光恵は一旦区切り、険しい目で隊員たちを見渡した。
「そして今回は——かの扶桑海事変とは違う」
ピリ、と空気が張り詰める。
「名古屋と四日市という都市部にネウロイが出現した。つまり、市街戦に発展する可能性があるということだ」
「市街戦……」
隊員の誰かが、恐怖に満ちた声で呟いた。
欧州ではすでに幾度となく市街地での戦闘が行われている。
だが、ここ扶桑では、そんな事態は一度たりとも起きたことがない。
「現在、夜間哨戒に出ている一中隊の千代に情報収集を任せている。恐らく、私たち一七戦隊にも出撃命令が下るのは時間の問題だろう」
光恵はそう締めくくると、鋭い視線を隊員たちに向けた。
「皆、いつでも出撃できるよう準備をしておくように」
「「「「了解!!」」」」
ウィッチたちが一斉に敬礼し、鋭い返事をする。
その場の緊張感をさらに高めるように、光恵は二人の少女に視線を向けた。
「それから——美夜、ナツ」
名を呼ばれた美夜とナツが、ビクリと肩を震わせる。
「君たち新人も、今回の作戦に参加する可能性がある。いつでも出撃できるよう、装備を整えておくんだ。いいね?」
「は、はい……!」
「わかりました!」
不安そうな顔を浮かべながらも、美夜とナツはなんとか声を絞り出した。
「よし、各自準備に取り掛かれ!」
「「「「「了解!!!」」」」」
再び敬礼が響く。
だが、その場にいた全員が、この戦いがただの任務では済まされないことを、どこかで理解していた。
解散の声がかかると同時に、美夜とナツは視線を交わした。
「ねえ……何が起こってるの……?」
美夜の声が震えている。
「怖いよ……」
ナツは唇を噛みしめた。
「お父さん……お母さん……」
遠く離れた家族の顔が脳裏をよぎる。
彼女たちはまだ子供だった。
戦う覚悟はある——そう思っていた。
でも、いざ現実を突きつけられると、体が震えてしまう。
名古屋と四日市の空が燃えている。
その炎の先に、何が待っているのか——まだ誰にもわからなかった。
千歳は、不安そうな美夜とナツを一生懸命励ますように、力強く笑顔を作った。
「大丈夫よ!私がいるし、美春さんも、みんなもいるんだから!ネウロイなんて、私たちがやっつけちゃうわよ!」
ナツと美夜は、まだ不安げな表情をしていたが、それでも少しだけ顔がほころんだように見えた。
あれだけの罰を受けた千歳に対しても、今はすがるものが欲しいのだろう。
しかし、そう言う千歳の声も、かすかに震えていた。
彼女は主任教育係という肩書を持ってはいるものの、実戦経験は一度もない。
実質的には美夜やナツと変わらない立場だった。
それでも、先輩として二人を安心させようと、必死に振る舞っているのがわかった。
美春も三人のそばへ寄り、優しく声をかけた。
「千歳、美夜、ナツ。大丈夫よ。私がいる。絶対に守るから、安心して」
その言葉を聞いた千歳は、張り詰めていた糸が切れたかのように、目に涙を浮かべた。
彼女の声は震え、不安な気持ちがこぼれ落ちる。
「でも……どうしてこんなことに……?扶桑にネウロイが来るなんて……欧州とは違って、海があるのに……」
美春は静かに首を振った。
「わからないわ。でも、実際に今、名古屋と四日市でネウロイが現れている。それが現実よ」
そう言った後、美春は拳を強く握りしめ、続けた。
「扶桑でも過去に扶桑海事変があったわ。あの時は海上での戦いだった。でも、今回は本土よ。しかも名古屋と四日市という都市部……少佐は市街戦になる可能性があるとも言った……」
その言葉に、千歳の顔が強張る。
「市街戦……?」
「そう。もし長期戦になれば、130万人を超える市民を巻き込みながら、戦闘と避難を同時に進めなきゃならない。そんなこと……絶対に避けないと」
美春の拳が、さらに強く握りしめられる。
「そんな……! いやです!! 扶桑でも戦争が始まるんですか!?」
千歳は、まるで悲鳴のような声をあげた。
「落ち着いて、千歳。まだそうと決まったわけじゃないわ」
美春は千歳の肩にそっと手を置き、冷静に言った。
「とにかく、今は出撃に備えて準備をしましょう」
千歳は震える唇をぎゅっと噛みしめ、そして深く息を吐いた。
「……そうですね。すみません、取り乱しました……」
「気にしないで」
美春は千歳に微笑みかけると、ふとナツと美夜に視線を向けた。
「さて、とりあえず、千歳、私たちも格納庫へ行って出撃の準備をするわよ。ナツと美夜は部屋に戻っていていいわ。いつ、あなたたちにも出撃命令が下るかわからない。今のうちに休んでおきなさい」
美夜とナツは、少し戸惑いながらも頷いた。
「はい……」
「分かりました……」
二人は力のない声で返事をし、そのまま自室へ戻っていった。
「私も着替えたらすぐに行くわ。千歳は先に格納庫へ向かって」
「はい!」
美春が言い終わるや否や、千歳は素早く踵を返し、駆け出していった。
美春はその姿を見送ると、深く息を吸い込み、自室へと戻った。
「私も行かなきゃ……」
そう呟きながら、ハンガーにかけてあった軍服を手に取る。
一瞬だけ、光恵の顔が脳裏に浮かんだ。
——きっと、もう準備を整えているだろう。
そのまま美春は急いで部屋を出た。
格納庫に到着すると、すでに隊員たちは集結し、慌ただしく準備を進めていた。
「美春、来たわね。あなたも早く準備なさい」
落ち着いた声で迎えたのは、佳乃だった。
「はい!」
美春は急いで着替え、装備を整える。
ストライカーユニットの点検をしながら、美春は佳乃に尋ねた。
「大野大尉、状況はどうなっているのですか?」
佳乃は点検を続けながら、冷静な声で答えた。
「ええ、今、光恵が詳しい状況を確認しているわ。それと、名古屋港と四日市港に現れたネウロイの正確な位置情報も収集中よ」
佳乃の言葉に、美春は静かに頷いた。
外の冷たい風が、格納庫の中へと入り込む。
その風は、今までの日常とは違う何かを運んできているようだった。
そして、美春は改めて気を引き締めた。
この戦いは——いつもとは違う。
それだけは、誰もが感じていた。
「なにもかも後手に回っている感じなんですね……」
美春が唇を噛みながらつぶやくと、佳乃は深く息を吐いた。
「ええ、その通りよ。まったく、厄介なことになったわね。私もこればかりは予想外だった。まさか、扶桑本土にネウロイが現れるなんて……」
「それは……そうですよね。欧州ならともかく、扶桑海事変は例外として、本土にネウロイが現れたことはなかったはずなのに……どうして急に……」
「それも分からないわ。とにかく、今はできることをやるしかない。光恵や千代の情報を待つしかないわ」
「はい……」
外では不気味な空襲警報が鳴り響き、それに重なるように地鳴りが格納庫を揺らした。
皆、その意味を理解していた。しかし、直視したくない現実でもあった。
美春の隣に座っていた同期、赤井秋乃准尉が青ざめた顔で呟く。
「ねえ……このビリビリっていう音って……」
「分かってるでしょ……ネウロイの攻撃で、何かが爆発した地響きよ……」
「嘘……だよね……これって夢だよね……悪い夢だよね……」
「私も認めたくないわ……でも現実なの……」
「そんな……どうして……私は……私は……普通に平穏に過ごしたいだけなのに……」
秋乃は項垂れ、膝を抱えて震えていた。
無理もない。彼女はまだ実戦経験がないのだ。
ネウロイとの戦闘がどれほど恐ろしいものなのか、想像すらできていない。
しかし、この状況がどれほど絶望的であるかは、彼女にも理解できるようだった。
美春も同じく実戦経験はないが、士官として部下の前で弱気な態度を見せるわけにはいかなかった。
毅然とした声で、秋乃の肩に手を置く。
「大丈夫よ。ウィッチに不可能はないわ。私たちは勝てるわよ。きっと……」
その言葉がどれほどの効果を持つのかは分からない。
だが、今はただ、そう言うしかなかった。
格納庫の中は静寂に包まれ、誰もが緊張に押し潰されそうになりながら情報を待っていた。
欧州経験のない者たちは、次第に泣きそうな顔をし始める。
そんな時——。
格納庫の扉が開いた。
光恵が深刻な表情を浮かべながら、中へと足を踏み入れる。
「光恵……どうしたの?」
佳乃が心配そうに問いかけると、光恵は低い声で言った。
「……中部軍の司令部に電話が繋がらないんだ……それに千代にも通信ができない……どうなっているんだ……」
「ちょっと待って、それどういう意味!?」
佳乃が慌てて光恵に詰め寄る。
「分からない……さっきから何度もかけてるんだけど、交換手が言うんだ……繋がらないって……それに電信も通じない……」
「そんな……! だって、さっき中部軍司令部から入電があったって言ってたじゃない……!」
「ああ……でも、今は通じないんだ……」
「そんな……じゃあ、もしかして……!」
光恵は険しい顔のまま、冷静に告げる。
「ああ、最悪な事態を考えなくてはいけないかもしれない。でも、まずは現状を、そして事実を把握することが先決だ。とにかく、今はできることをしよう。千代の帰りを待つんだ」
「……そうね、私たちがしっかりしないと」
佳乃は深呼吸をして、努めて冷静に振る舞おうとしていた。
光恵は改めて全員を見渡し、指示を出す。
「よし、とにかく今はできる限りのことをするぞ」
光恵の指示に、全員が力強く頷き、それぞれの作業に取り掛かった。
ある者はストライカーの整備に没頭し、ある者は名古屋市内の地図を広げ、ネウロイの位置や狙いを分析する。
それぞれが不安を抱えながらも、今できることを精一杯こなしていた。
そんな中——。
格納庫の外からエンジン音が響いた。
皆が顔を上げる。
扉が開かれると、そこには傷だらけの小里千代の姿があった。
「千代……! 千代、大丈夫!?」
佳乃が真っ先に駆け寄る。
「……大丈夫です。大したことは……ありません……ただいま戻りました……」
「おかえりなさい……って、そういうことじゃなくて! 一体何があったの!?」
「ネウロイに襲われました……名古屋港で……なんとか逃げましたが……」
「名古屋港……!? まさか、あのネウロイが現れたっていう場所まで行ったの!?」
「はい……なるべく情報を集めようと思い、広範囲を調べていました……」
「そ、そうだったのね……ありがとう。でも、無茶はしないで……千代が怪我をしたら、私、悲しいわ……」
「ご心配をおかけして申し訳ありません……今後は気を付けます……」
千代は深々と頭を下げる。
「とにかく、無事でよかった……それで、状況は?」
「……ほかの部隊のウィッチとは合流できませんでした。私は名古屋の港区あたりまで飛びましたが……その……」
千代は言葉を詰まらせ、視線を落とす。
「どうしたの?」
「名古屋港周辺も……対岸の四日市港も……すべてが火の海でした……何もかもが燃えていて、特に港湾部の工業地帯はほとんど壊滅状態です。石油コンビナートや天然ガスの関連施設に引火して……生存者がいるかすら分からない状況でした……あまりに酷い有様で……」
その場の空気が凍りつく。
告げられた言葉の意味が、あまりにも重すぎた。
「そんな……まさか……」
「千代、ほかに何か分かったことはあった? ネウロイの数や、軍の反撃状況は?」
光恵が尋ねる。
しかし、千代は力なく首を横に振った。
「いえ……夜間ということもあり、詳しくは分かりませんでした。ただ……名古屋市内に入った途端、通信が一切入らなくなりました……」
「通信が……?」
「はい。入市前はまだ通じていたのですが、ある地点を超えた途端、完全に途絶えて……」
「そうか……とにかく、よく帰ってきてくれたね。ありがとう」
光恵は優しく微笑む。
「……あまりお役に立てなくて、すみません……」
「いや、いいんだ。今は無事に帰ってきてくれただけで十分だよ。ゆっくり休んでおいで」
「はい……失礼します……」
千代は再び深く頭を下げると、そのまま格納庫を後にした。
美春たちも彼女の背中を見送るが、誰も言葉を発せなかった。
空気は重く、絶望的な沈黙が満ちていた。
「佳乃……どう思う?」
光恵がぼそりと呟く。
佳乃は腕を組み、苦々しい表情を浮かべる。
「どうもこうも、これは最悪の事態よ。倒しに行きたくても、敵の数も位置も不明。おまけに港湾部は壊滅していて、軍の反撃状況も分からない……こんなの、ほぼ絶望的じゃない……」
「ああ……全くだ……」
光恵は、深く息を吐いた。
夜の静寂に、不気味な空襲警報の音だけが響いていた。
「あの、少しよろしいでしょうか」
頼子が手を挙げる。
その声に、全員の視線が一斉に彼女へと集まった。
頼子は普段、口数が少なく、人付き合いを好まない。しかし、仕事となれば話は別だった。
周辺部隊との情報交換を怠らず、机上演習にも積極的に取り組む研究熱心な姿勢は、光恵や佳乃からも一目置かれている。
特に、こうした緊急事態では、彼女の卓越した分析力が何よりも頼りになるのだった。
「何かな、頼子」
光恵が促すと、頼子は静かに頷き、愛知・岐阜・三重の広域地図を広げた。
その上に、名古屋港の位置にネウロイを示す赤い駒を並べ、巫女服の懐から取り出した扇で指し示す。
「憚りながら、申し上げます。まず、ここが名古屋港。そして、港湾部一帯が火の海になっているということは、港湾施設は大部分が制圧されたと考えてよいでしょう」
頼子の冷静な言葉に、場の空気が一気に重くなる。
「……続けて、最悪のケースを想定した場合、ネウロイの侵攻経路は次のようになると予想されます」
頼子は、名古屋港の赤い駒を市内中心部へと次々に移動させた。
さらに、赤い鉛筆を取り出し、その駒の周囲を塗りつぶしていく。
「まず、ネウロイは港区全域を制圧し、熱田区方面へ進行。その後、名古屋市中心部を分断し、制圧を進めます。
そして、名古屋を拠点化し、濃尾平野一帯を掌握することを目指すでしょう」
地図上で赤く染められていく区域を見て、隊員たちの顔色が変わる。
「濃尾平野か……」
「ええ……」
光恵は苦々しい表情を浮かべる。
ネウロイは山地や水場を苦手とするが、平野部ではその制約がない。
それどころか、広大な濃尾平野は、まさにネウロイにとって理想的な進軍ルートとなってしまう。
「もし名古屋を取られたら、相当まずい」
光恵は地図を睨みつけながら続ける。
「頼子の言う通り、平野続きの尾張地方では、ネウロイの侵攻を止める地形的な障害がない。
もし名古屋が落ちれば、春日井、小牧、一宮、犬山、そして岐阜まで……一気に侵攻される危険があるわね」
蘇原町にある一七戦隊の基地も、その延長線上にある。
「つまり、名古屋を突破されたら、岐阜県内の主要都市はもちろん、私たちの基地まで全てネウロイの支配下に置かれる可能性があるということね……」
光恵は拳を握りしめる。
しかし、頼子の分析はこれだけでは終わらなかった。
彼女はさらに別の赤い駒を手に取り、地図の南側へと配置しながら続ける。
「……もう一つ、懸念点があります。南区方面から鳴海町、大高町、有松町、そして豊明村へと侵攻された場合——知多半島が孤立します。
そうなれば、師崎までの制圧は時間の問題でしょう」
隊員たちは息を呑んだ。
「……つまり、名古屋が陥落した場合、濃尾平野全域がネウロイの手に落ちる可能性が極めて高い、ということね」
佳乃が低い声で呟いた。
「ええ、現状を鑑みるに、最悪のシナリオとしては十分考えられます」
頼子は、あくまで冷静に事実を述べる。
しかし、その冷徹な現実は、隊員たちに圧倒的な恐怖と焦燥感を突きつけるのだった。
頼子は、南区、鳴海町、大高町、有松町、豊明村、大府といった地域へと赤い駒を移動させる。
そのまま知多半島方面へと駒を進め、地図上で完全に知多半島を分断した。
さらに、頼子は港湾部の破壊がもたらす影響について冷静に語る。
「名古屋港の港湾施設が壊滅したということは、宮菱航空脚の名古屋航空脚製作所も破壊されたと考えるべきでしょう」
隊員たちの間に緊張が走る。
「まだ、名古屋市東区にある宮菱重工の主要工場『名古屋魔導発動機製作所』は無事かもしれません。しかし、知多半島の半田市には、扶桑のストライカー産業の片翼を担う長島飛行脚の工場があります。もし、名古屋に続いて半田までも破壊されれば、扶桑の航空脚産業は壊滅的な打撃を受けるでしょう」
扶桑軍のウィッチたちにとって、名古屋と半田の工場は生命線ともいえる重要拠点だ。
もし、この二大拠点を同時に失えば、欧州で戦う扶桑軍ウィッチにも深刻な影響が出るのは避けられない。
「さらに、知多半島が分断され、陸路の救援が不可能になった場合、残るは海上路のみ。しかし、ネウロイが制圧した海域を突破して救援を送るのは非常に困難です。
その結果、知多半島にいる部隊は孤立し、大規模な人的犠牲が発生する可能性があります」
頼子は、三河地方への侵攻ルートについても示した。
「もし、ネウロイが三河地方へ進行した場合、大高から大府を通り、刈谷、知立、安城、矢作へと進軍し、岡崎まで到達するでしょう。
また、鳴海から侵攻した場合、東郷、三好、挙母町までは、比較的短期間で制圧されると考えられます」
そして、頼子は最後にこう結論づけた。
「東三河の豊川や豊橋の制圧も視野に入れている可能性が高いです。
そうなれば、愛知県のほとんどの主要都市がネウロイに占領されることになります」
隊員たちは息を呑んだ。
「つまり……奥三河地方以外の愛知県は、全滅する可能性が高いということか……」
光恵が頭を抱えながら、低く呟いた。
「そうなれば、次に狙われるのは静岡県、特に浜松……そこまで無事で済むかどうかも、もはや瀬戸際でしょう」
次に頼子は、四日市の状況について分析を始める。
「尾山少佐。残念ながら、これは現実になる可能性が極めて高いと考えます。
そして、四日市に発生したネウロイですが、こちらはこのように動くと推測します」
頼子は、三重県の四日市港に赤い駒を置き、さらに桑名、鈴鹿、津、松阪方面へと駒を動かす。
「ネウロイは三重県下、桑名、鈴鹿、津、松阪など、伊勢平野に広がる地域を弧を描くように制圧していくでしょう。
この伊勢平野は比較的開けた地形であるため、早期に陥落する可能性が高いと試算できます」
隊員たちの表情が一気に険しくなった。
「北の養老山地、西の鈴鹿山脈、布引山地の地域、つまり上野や名張ならば、あるいは持ち堪えられるかもしれません。
しかし、三重県の主要都市のほとんどがこの伊勢平野に位置しているため、壊滅状態に陥るのは避けられないでしょう」
「名古屋港と四日市港、ほぼ同時にネウロイが出現しているわよね……この二つに関連性はないのかしら?」
佳乃がふと疑問を口にする。
頼子は難しい表情で首を横に振った。
「……わかりません。ただ、連携して動いている可能性は極めて高いです」
「三重県と愛知県の県境には、広大な木曽三川がある。
陸戦型ネウロイなら、この川が侵攻の障害になるはず……」
「しかし、航空型がいるとなると、話は別です」
「なるほど……それはまずいな……」
光恵が深刻な表情でつぶやいた。
「航空型ネウロイなら、川の影響を受けずに侵攻できる。
対して、陸戦型ネウロイなら、川を渡るのに時間がかかるから、侵攻が遅れる可能性がある……」
「ただし、航空型と陸戦型が連携していた場合、どうなるか……」
佳乃は青ざめた顔で地図を見つめた。
「……まさに最悪の状況ね」
隊員たちは言葉を失い、頼子の示した絶望的なシナリオを黙って受け入れるしかなかった——。
「はい……もし私たち扶桑軍が侵攻を防ぎ止められず、先ほど示した試算が現実になれば、東海地方のみならず扶桑全土が危機に陥るでしょう。
最悪、東海地方が陥落すれば北陸を含む中部地方全域が占領され、扶桑が南北に分断される恐れさえあります」
頼子の言葉に、隊員たちは息を飲む。
「さらに、名古屋だけでなく、周辺の地域までネウロイに侵攻されるとなれば、避難民の数は計り知れません。
避難民の救助と同時進行で戦闘を繰り広げることになれば、どれほどの犠牲が出るか……想像もつきません……」
重苦しい沈黙が流れる。
「……そうなったら、もう終わりね……」
佳乃が呟いた。
美春たちは岐阜の部隊だが、名古屋は非番の日に遊びに行く馴染みのある街だ。
栄の繁華街、名古屋駅の雑踏、馴染みの店の店主、母親と手をつなぎ歩く子どもたち。
そんな何気ない光景が、一瞬にして炎に焼かれ、黒光りした禍々しいネウロイに蹂躙される――。
ふと、そんな悪夢のような光景が隊員たちの脳裏をかすめる。
不安の渦が、まるで増殖する細菌のように隊内に広がっていく。
しかし、光恵だけは違った。
光恵は深く息を吐き、力強く言い放つ。
「まだ、そうと決まったわけじゃない。とにかく今はできることをしよう。みんな、今できる最善を尽くしてくれ」
その言葉が、隊員たちの心にわずかに希望を灯した。
「……そうね。分かったわ。私はこの地図をもとに作戦を立てるわね」
「うん、頼むよ。頼子も、佳乃を手伝ってやってくれないか?」
「わかりました」
頼子と佳乃は静かにうなずく。
「では、解散だ。私は司令部にもう一度連絡を試みる。
それでも応答がなかったら、出撃する」
「「「「了解!」」」」
こうして、ブリーフィングは終了した。
しかし、この時、誰も知る由もなかった。
最悪の事態が、すぐそこまで迫っていることを―――。
つづく
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