一方、光恵、美夜、ナツが残る岐阜では、基地周辺が大混乱に陥っていた。
深夜に突如鳴り響いた空襲警報は、今も止むことなく響き続けている。怯えた住民たちが基地の門前に押し寄せ、周囲の市町村からも避難者が殺到していた。基地の外は避難民の叫びと混乱で騒然としている。
さらに、光恵のもとには愛知、三重、岐阜の東海三県を中心に、各連隊区の隷下部隊やウィッチ部隊からの問い合わせが次々と寄せられていた。だが、それらの情報は断片的で統制が取れていない。すべてが錯綜し、状況はまったく整理できていないのが現状だった。
戦隊長としての責務を果たすべく、光恵は大野中隊を含む大半のウィッチたちを見送って以来、電話と電鍵の前に張り付いていた。しかし――
「くそっ……! やっぱり名古屋とはまったく連絡が取れない……! 司令部はおろか、市役所も県庁も、すべてだ……! いったい何が起きているんだ……!」
光恵は拳を机に叩きつける。連絡が取れないのは名古屋だけではない。四日市とも、未だに何の通信も繋がらないままだった。これほどの大都市が、これほどの短時間で完全に沈黙することなどあり得るのか?
通常、都市がネウロイの侵攻を受けたとしても、多少なりとも抵抗は試みられる。たとえ軍が全滅しても、撤退命令や被害報告の一つは発信されるはずだった。だが、今の名古屋と四日市には、それすらない。
まるで、都市そのものが一瞬で呑み込まれたかのようだった。
「これじゃまるで……何もかもが、一瞬で消えたみたいじゃないか……」
光恵は息を詰まらせながら呟いた。言葉にすることで、それが現実として形を成してしまうような気がして、彼女はそれ以上何も言えなかった。背筋に嫌な汗が流れる。
――これは、単なる侵攻ではない。
これは、戦争の一幕ではなく、終末の始まりだ。
連絡が取れるはずの地域とも、通信は断続的にしか繋がらなかった。三重県の南部や岐阜県の一部の部隊とはかろうじて連絡が取れたが、彼らも情報を整理しきれていない様子だった。報告は断片的で、敵の規模も目的も分からない。ただ、敵は確実に進軍していることだけは明らかだった。
それでも、名古屋と四日市に関しては何も情報が入ってこない。
「戦隊長……?」
美夜が不安げに声をかけると、光恵はハッと振り返った。
「……ああ、ナツと美夜か……すまない、起こしてしまったか……?」
無理に笑顔を作る。その声は優しく、美夜とナツを安心させようとする意図が感じられた。
「いえ……その……」
美夜は言葉を詰まらせ、思わず目を逸らす。
「……すまない……怖がらせてしまったな……私は……ダメな隊長だ……もっと冷静でなくてはならないのに……」
光恵の声には、自嘲の色が滲んでいた。
「そんな……謝らないでください……! こんな事態、誰にも予想できませんでした……」
慌てて美夜が否定する。
「いや……非常時こそ冷静に行動するのが指揮官の務めだ。私はお前たちを必ず無事に帰す義務がある……それなのに、恐怖に駆られて取り乱してばかりだ……」
光恵は拳を握りしめ、悔しそうに呟いた。
「戦隊長、大丈夫だよ」
ナツがそっと光恵の肩に手を置いた。
「きっと、みんな無事だよ。今は美春さんたちを信じて待つしかないんだから」
「……そうだな……すまない、新人のお前たちに励まされるとは、我ながら情けない……私がしっかりしないとな……」
光恵は、苦笑しながらも少しだけ表情を和らげた。
「私もナツちゃんも、皆さんを信じています!」
「うん! きっと帰ってくるよ!」
二人の言葉に、光恵は目を閉じて一度深く息を吸う。そして、静かに頷いた。
「ありがとう……二人とも……さあ、もう遅い。寝なさい。何かできることがあれば指示を出す。それまではしっかり休んでおくんだ。この先、何が起こるかわからないからな……」
「わかりました……おやすみなさい」
「失礼します……」
二人は静かに部屋を出ていった。
光恵はその背中を見送り、再び電文に向かう。送信先は中部軍司令官――
この事態を放置すれば、扶桑全土が危機に陥る。
光恵は、千代からの報告をもとに名古屋の惨状をまとめ、至急救援を求める電文を打ち始めた。
「……これでよし……後は頼むぞ……」
光恵は祈るような気持ちで、電鍵を叩き続けた。
その時だった。
「戦隊長殿!」
慌ただしい足音とともに、整備兵が光恵の執務室に飛び込んできた。
「何事だ!?」
光恵は即座に立ち上がる。
「滑走路に何かが侵入してきます!」
「まさか……ネウロイか!?」
「いえ、違います! ウィッチです! 練習機を履いています!」
「なんだと!?」
光恵の表情が険しくなる。
「すぐに迎える準備を! 衛生兵も呼べ!」
「了解!」
整備兵は敬礼し、急ぎ格納庫へと走っていった。
「……嫌な予感がする……」
光恵は苦々しい表情で呟くと、すぐさま管制室へ向かった。
滑走路に目を向けると、すでにそのウィッチは着陸態勢に入っている。だが、彼女はまともに降りることができず、そのまま滑走路へ倒れ込んだ。
「くそっ!」
光恵は躊躇なく管制室を飛び出し、滑走路へ駆け寄った。
近づいて初めて、彼女の姿がはっきりと見えた。
――血だらけだ。煤と汚れで顔は真っ黒になり、制服はところどころ破れている。手足には無数の傷があり、血が滲んでいた。
「君! しっかりしろ!」
光恵は地面に倒れたウィッチを抱き起こした。しかし、彼女はぐったりとして反応がない。
「おい! 目を開けろ!」
頬を叩く。
「……っ……うぅ……」
かすかに呻き声が漏れる。
「気がついたか!? 大丈夫か? どこが痛む?」
光恵が声をかけると、ウィッチはカッと目を見開いた。
「あなたは……!? ここは……どこですか……?」
「私は飛行第一七戦隊戦隊長、尾山光恵少佐だ。ここは岐阜の各務原飛行場だ! それよりも、どこが痛む? 怪我を見せろ!」
「一七戦隊……! 岐阜……! よかった……!」
少女は安堵の表情を浮かべた。だが、次の瞬間、顔を歪める。
光恵はすぐに彼女を寝かせ、自分の上着を脱いで傷口を押さえた。幸いにも傷は浅く、出血も止まりかけているようだった。
「よかった……命に別状はなさそうだな……」
光恵がそう言うと、少女は何かを訴えようと口を開く。しかし、喉が渇いているのか、咳き込んで言葉が出ない。
「水を持ってこい!」
近くにいた衛生兵が急ぎ水を用意し、光恵はコップを差し出した。
少女はゴクゴクと勢いよく飲み干す。そして、少し呼吸が整ってきたのを確認すると、ゆっくりと起き上がった。
「助けていただいて……ありがとうございます……私は、浜松飛行学校教官、牧野孝恵中尉です。浜松飛行学校分飛行場の老津から来ました……」
「老津……?」
光恵の表情が凍りついた。
老津陸軍飛行場は、愛知県渥美郡にある陸軍の飛行場だ。
そこから、こんな状態で岐阜まで飛んできたということは――
「まさか……」
光恵の頭の中に、最悪の想像が広がる。
そんなはずはない。そんなことがあってたまるか……!
だが、現実は残酷だった。
孝恵は、震える唇を押さえながら、絞り出すように言った。
「……豊橋は……壊滅しました……」
光恵は言葉を失った。
目の前の少女の言葉が、現実味を持って押し寄せてくる。
嘘だ……こんなのは悪い夢だ……
必死に自分に言い聞かせる。だが――
孝恵の瞳に浮かぶ絶望の色が、すべてを物語っていた。
名古屋だけではない。東三河まで――
「くそっ……!」
光恵は奥歯を噛みしめた。
東海地方が、まさに崩壊しようとしている。
だが、悪夢はまだ終わらない――。
「嘘だろ……? 豊橋が……壊滅……? そんな……信じられない……だって豊橋は……軍都じゃないか……」
光恵は呆然と呟いた。
豊橋市は名古屋市に次ぐ東三河の中核都市であり、扶桑の軍都として知られる町だった。第七〇一海軍航空隊が駐屯し、強固な防衛体制を敷いていたはずだった。しかし、それが陥落したという。豊橋を失うということは、東三河全体を失うことを意味し、さらに渥美半島の玄関口であり、浜松にも隣接する戦略拠点だった。
だが、現実は非情だった。
孝恵は光恵に追い討ちをかけるように、残酷な事実を告げた。
「……残念ながら……本当です……私も突然のことで、何が起きているのかわからないうちに、豊橋にネウロイが現れて……。第七〇一海軍航空隊が迎撃しましたが、あまりに急な襲撃で対応できず、ほとんどが返り討ちにされて……散り散りに……。私たち浜松飛行学校の教官たちも、練習生を避難させてから迎撃に出ましたが……私には何もできませんでした……。私がもっとしっかりしていれば……私がもっと強ければ! 豊橋を守れたかもしれないのに……!」
孝恵は悔しそうに拳を握りしめた。
「なんてことだ……名古屋、四日市に続いて、豊橋まで……しかも完全に陥落だと……?」
「……今、なんて……? 名古屋……? 四日市……?」
孝恵は絶望の淵に叩き落とされたような顔で光恵を見つめた。
光恵は息を詰まらせながら、絞り出すように言った。
「名古屋も……四日市も……すでにネウロイに襲われている……。司令部とも連絡がつかない……」
孝恵の顔から血の気が引いていく。
「……そんな……ここまでくれば、助けてもらえると思っていたのに……」
孝恵は肩を落とし、うなだれた。その姿を見て、光恵は何もできない自分に激しい無力感を覚えた。
「すまない……私たちもどうすることもできない……。今、大阪の中部軍司令部に救援要請をしているところだ……援軍が来るまで頑張るんだ……」
なんとか励まそうとする光恵。しかし、その言葉は孝恵にとって、あまりに空虚な響きだった。
「頑張れ……? 救援要請……? そんなものを待っていたら……間に合わない……。豊橋はもう陥落したのよ!? 豊川も虫の息で、渥美半島も完全放棄……! 避難する民間人さえ守れなかった……。今この瞬間も避難民を見殺しにして、東三河のすべてが奪われつつあるのよ!? のんびり救援を待っていたら、愛知は、扶桑はもう終わりよ!」
孝恵は感情を爆発させ、叫んだ。光恵は返す言葉を持たなかった。
「だから……お願いします……どうか、助けてください……」
「それは……無理だ……」
「どうして!? どうして助けてくれないの!?」
「今は本当に無理なんだ……! 私たち一七戦隊を含め、名古屋近郊の部隊はほぼすべてが名古屋に、三重の部隊も四日市の防衛に投入されている……。豊橋を援護する余力なんて、どこにもない……」
「そんな……!」
孝恵は唇を震わせる。
「わかってくれ……私だって、すぐにでも飛んでいきたい……。だが、今、私たちが名古屋から離れたらどうなる? それこそ豊橋の二の舞だ……。頼む……耐えてくれ……」
光恵は必死に訴えかける。しかし、孝恵は納得しない。
「耐えろって!? あなた、状況がわかっているの!? あと数時間で東三河がなくなるかもしれないのよ!? それに、逃げ遅れた人たちはどうなるの!? 渥美半島の人たちは豊橋を通れないから、船がない人たちは陸の孤島になってる! このままじゃ、全滅するしかないのよ!? 私たちが何もしなかったら、もう助かる道はないのよ!?」
「っ……!」
光恵は苦渋の表情を浮かべる。
「……すまない……どうしても、無理だ……。今、基地に残っているのは新人しかいない……。新人を最前線に出しても死ぬだけだ……。非情な判断かもしれないが……陥落した豊橋より、まだ救える可能性のある名古屋を優先するしかない……。非常時には冷酷な決断も求められる……。君も軍人なら、わかるはずだ……」
光恵はそう言うと、孝恵から目を背けた。
孝恵はなおも光恵を睨みつけたが、すぐにその瞳から光が消えていった。
「……ごめんなさい……私も、わかってるの……あなたがどれだけ私たちのことを思ってくれているのか……。だから、これ以上わがままは言えないわ……」
孝恵は震える声でそう呟くと、ゆっくりと立ち上がり、ふらつく足取りで歩き出した。
「……どこへ行く気だ……?」
光恵の問いに、孝恵は迷いなく答えた。
「豊橋よ……帰るの……私はまだ戦える……」
「バカを言うな! たった一人で何ができる!? それは自殺行為だぞ! そんなこと、私が許可できるはずがない! 上官命令だ! ここに残れ!」
光恵は怒鳴りながら必死に止める。しかし、孝恵は足を止めなかった。
「……私は豊橋へ戻るわ……。豊橋に残してきた生徒や仲間がたくさんいるもの……あなたも戦隊長なら、わかるはずよ……。私は教官として、あの子たちを無事に帰す責任があるの……!」
孝恵は光恵に背を向けた。
「待て! 孝恵!」
光恵は思わず孝恵の腕を掴む。
「離して……! お願いだから、離してよ!」
「ダメだ! 今のおまえが戻ったところで、豊橋にすら辿り着けないぞ! 無理をすれば途中で力尽きて、ネウロイの餌食になるだけだ!」
「わかってる……! でも……私は帰るって約束したの!」
「ダメなものはダメだ! おまえがどうしても飛ぶというのなら……やむを得ない。しばらく営倉で過ごしてもらう!」
光恵は決断した。
「え……?」
「営倉入りだ。今のおまえは正気じゃない。だから、しばらくの間、頭を冷やしてもらうぞ! いいな!」
「い、嫌です……! 絶対に……! 豊橋に戻らないといけないんです! 私の教え子たちが待っているから! 私を信じて訓練についてきてくれた教え子たちを救いたいから! 豊橋に帰らせて!」
孝恵は泣きながら訴えた。
「ダメだ! 今のおまえが飛んだら、確実に死ぬぞ! それで本当におまえの生徒は救われるのか!?」
「でも……! でも……!」
孝恵の悲痛な叫びが響く。
光恵の脳裏には、美夜やナツの姿が浮かんだ。もし彼女たちが窮地に陥り、助けを求めてきたら――自分はどうする? ここにとどまれと言われて納得できるのか?
――できるわけがない。
それは今、孝恵が感じている焦燥と同じだった。たとえ無謀でも、自分の大切な仲間を見捨てることなどできない。それが軍人としてどれだけ愚かでも、情が理性を上回ることはある。
「……くどい!」
光恵は声を荒らげ、一喝した。
「ひっ……!」
孝恵は肩を震わせ、光恵を見上げた。
その瞳には、怯えが滲んでいた。
光恵はハッとした。孝恵を力で押さえつけようとしている――今まで自分が避けてきたはずの手段で、彼女を屈服させようとしている。
(……私は、何をやっているんだ……)
光恵は心の奥底に嫌悪感を覚えた。
一度、大きく息を吸い込む。そして、今度は穏やかに、しかし揺るぎない声で諭した。
「……いいか、孝恵。私はおまえを飛ばせない。だが、おまえは飛びたいと言う。もし今飛んだら、間違いなく死ぬ。それだけは確かだ。だから、おまえを営倉に入れて、監視をつける。体力が回復したら豊橋へ戻るかどうか、もう一度考えればいい。だが、少なくとも今は休め。おまえが空で命を落としたら、君の教え子たちだって悲しむはずだ……」
光恵は深々と頭を下げた。
「……頼む……」
光恵の言葉は心からのものだった。
彼女は欧州戦線で、何度も若いウィッチたちが命を散らすのを見てきた。孝恵の気持ちは痛いほどわかる。だが、それでも行かせるわけにはいかない。
孝恵はもう何も言えなかった。
しばらく沈黙が続き、やがて、彼女は力なく頷いた。
「……わかりました……」
その表情には、抗う力はもうなかった。
光恵はそっと微笑むと、孝恵を営倉へと案内した。
「……すまないな……」
「いえ……こちらこそ……申し訳ありません……」
孝恵は小さく頭を下げる。
「では、私は行くよ。くれぐれも安静にしているんだぞ」
光恵は営倉の鉄扉を閉め、鍵をかけると、静かに背を向けた。
「……すまない……今はこれが精一杯だ……無力な私を、許してくれ……」
そう呟きながら、光恵は歩き出す。
孝恵は、壁にもたれかかるように座り込んだ。
目を閉じると、疲労が一気に押し寄せる。
(……豊橋のみんな……どうか、無事でいて……)
そう願いながら、彼女は静かに、深い眠りへと落ちていった。
つづく
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