これは、少女が青春を費やすフルートとの出会いの物語である。
人生で一番輝かしい時間とはいつだろうか。その議論は人それぞれで平行線を辿るかもしれない。
でも、私が一番輝かしいと感じた瞬間はもう決まっている。たかが12歳の少女が受けるには、あまりに強い衝撃だった。
「みなさん、ご入学おめでとうございます」
今日は宇治市立南中学校の入学式。それが終われば学校案内がなされ午前中で下校となる。
その後が最も重要だった。
放課後になってほとんどの生徒が下校する中で、私はその波に逆らって音楽室へ急行した。はやる脚が抑えられない。こんなにも心が弾んだのは初めてだ。
入部届は配られたその場で書いた。
「ここが音楽室……!」
今日から始まる、私の音楽ライフ。
入部届を提出した先輩から賜った歓迎の言葉がその号砲だった。
「南中吹奏楽部へ、ようこそ」
「名前は?」
「はい! 一年、傘木希美です!」
楽器紹介の場が設けられ、フルートパートが鎮座する場所では先輩方が待ち構えていた。
「一年生が揃ったところで大事なお知らせがあります。南中には、予備のフルートがありません。従って、フルートパートの入部条件はマイ楽器所有者になります」
目の前が真っ白になった。
出鼻を挫かれたどころではない。私の待ち望んでいた瞬間が、掌からするりと抜け落ちてしまう程の絶望感だった。
「クラリネットやサックスだったら他にも予備はあるけど、傘木さんはどうする?」
他の一年生は予備楽器のあるパートへ移った。
確かにアルトサックスを吹けたら格好良いし、クラリネットなら知ってる曲もある。だけど。だけど……。
「……帰って、親に相談してみます」
まだ仮入部の身だ。正入部までの二週間。私がすることは一つだった。
「お願い! フルートを買ってください!」
中学一年生の身で縋ることができるのは親だけだ。
人生で一番のわがままだ。それでも諦めきれないほど、フルートへの想いは強かった。
定番モデルのフルートの相場は大体二十万前後。状態が良い中古品であればもう少し安いだろうが、やっぱり新品が良かった。
結果は当然、といった具合であった。
カタログに目を通した父は目を白黒させて仰天し、他の楽器で演奏しなさいと一刀両断した。
悔しかった。買ってもらえなかったことよりも、フルートの魅力がちっとも伝わらなかったことにだ。
そこからお互い平行線のまま、中学生活最初の一週間が過ぎた。
「あら、希美ちゃん。今日も来たの?」
「はい。また見せてもらっても良いですか?」
もちろん、と快諾したのは家の近くの楽器屋さん。フルートに魅了されてから、私はここに足繁く通っていた。
小学六年生の春、芸術鑑賞会という学校行事があった。地元の社会人で構成される吹奏楽団の演奏を聴くというものだった。
そこで、音楽というものの価値観が変わった。
あんなに楽しそうに合奏する大人たちが羨ましかった。
そして、楽器紹介の時に現れた奏者が手にしていたフルートがあまりにも綺麗で、その仕草、音色、すべてがお洒落だった。
「お父さんにダメって言われちゃった」
「まあ、高いもんね」
「うん。でもね、やっぱりフルートが良いんだ。先輩たちが羨ましい」
仮入部期間で一年生が出来ることは、精々見学くらいだった。先輩がフルートを奏でる度に、手を伸ばしたくなる衝動を必死に抑えなければならない。生殺しの日々にフラストレーションが溜まった。
「まだお父さんに頼んでるの?」
楽器屋さんで働くお姉さんは大学生だった。
高校では吹奏楽部でコンクールにも出てて、今はサークルというものに入ってやっぱり音楽をしているらしい。ここに通うようになってから、私の良き相談相手になっていた。
「うん。今朝もお願いしたけど買えませんって……」
成す術無く項垂れると、じゃあさ、と言って別の提案が出された。
「お手紙、書いてみたら?」
「手紙?」
「そう。フルートへの思いとか、音楽やりたいって気持ちを文字にするの。希美ちゃん、吹奏楽やりたいんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、吹けるように練習たくさん頑張るので、演奏会は絶対観に来てくださいって書くのよ。お父さんメロメロよきっと」
両手を胸の前で組んで不思議な動きをしている。思いつきすらしなかった。だって。
「えー、恥ずかしいよ」
「でも、ここで諦めちゃったら中学でフルート吹くのは難しいと思う。大体、こういうのって一年生の時に決まった楽器で三年間続けるから」
「……そっか」
「大丈夫。私も手伝ってあげる」
お姉さんはニヤニヤしながら私を誑かした。
私は羞恥で真っ赤になった。
「いい! 一人でやる!」
なけなしのお小遣いで一番安い便箋を買うと、ノートを破いて気持ちを文字にした。
フルートが吹きたい。音楽したい。吹奏楽をしたい。みんなと演奏したい。そしてちょっと恥ずかしいけど、お父さんに聴かせたいと認めた。
毎朝、出勤する父にその手紙を渡して見送った。
お母さんの家事も率先して手伝った。その姿を見せることで、私の本気を伝えたかった。
そして書いた手紙が十通を超えた頃、いよいよ仮入部期間が終わろうとしていた。仮入部期間が終われば担当楽器が決まってしまう。送る手紙は、これが最後となるだろう。
「お父さん。これ……」
玄関で靴紐を結ぶ父に手紙を手渡す。
「もう、これが最後だから……」
「そうなのか」
「うん。もう楽器、決めなきゃいけないから……」
状況は絶望的。ここまで父が手紙に対して何かしらの反応を示したことはない。この二週間が全て無駄になってしまうのかと思うと、悔しくて鼻の奥がツンと痺れた。涙は見せたくなくて、それだけ言うとすぐにリビングへ引っ込んだ。
大半の新入部員は楽器を選び終えていた。仮配属という名目で既に吹いている人もいたし、吹奏楽を勉強している人もいた。その光景が、私を焦らせていた。
「傘木さん、楽器決まった?」
「……ううん。もうちょっと悩みたいんだ」
結局、私は見栄っ張りだ。フルートを好きになったのだって、美しいと魅了されたからだ。客観的以外の何物でもない。
でも、それ以外に理由が見つからない。
まだ吹いたこともないのに、こんなにも欲しいのだから。
その夜、楽器屋で貰ったカタログを読んでいた。いずれ決めることになるフルート以外の楽器を見ていたが、正直どれでも同じような印象しか持てなかった。フルートかそれ以外。希美の中では決定的に動かない事実として認識されていた。
「……高校に上がったら、また直談判してみよう」
そうだ。今がダメでも、中学三年間で吹奏楽をやり通したら父の意識も変わるかもしれない。あり得ないことではない未来に一抹の希望を託した。
「希美、ごはんよ」
「はーい!」
リビングから漂う夕食の香りに空腹が刺激される。最後にフルートの商品ページを開いて、名残惜しさに蓋をした。
その夕食後のことであった。
「希美、部活は吹奏楽部で決定なんだな」
普段、私のことを訊かない父が珍しく興味を示した。
「うん、そのつもりだよ」
「……そうか。フルートっていうのは、どういう楽器なんだ?」
あまりに突然の出来事だった。心臓が跳ね上がって飛び出そうだった。
しかし、まだ買ってくれると決まった訳じゃない。私の答え次第では、形勢逆転もあり得るのだ。
「フルートっていうのはね———」
そこからは夢中だった。楽器屋のお姉さんや部活の先輩、カタログを読んで取り入れた知識を父に披露した。楽器の歴史的背景や吹奏楽で花形であること、シルバーメタリックだけど木管という分類に属すること。でも、一番伝えたかったことは、私がフルートを好きで、吹奏楽が好きで、音楽が好き、ということだった。
「希美の気持ちは分かった。毎朝手紙を読んだよ。昔はダンスが好きだったのに、まさか音楽をここまで好きになってたとは、父さん知らなかった」
「……フルート、買ってくれる?」
「いいよ。今度一緒に買いに行こう」
「やったー!」
喜びが爆発して、これまで抱いていた憧れや理想が感情に溢れ出た。
興奮から変なダンスを踊っている私を横目に、父は「ただし」と付け加えた。
「三年間部活はやり通しなさい。何かを継続する経験はきっと希美の為になるよ。希美が吹いてるとこ、いつか観せてほしいな」
その瞬間、手紙がちゃんと届いていたことを知って、私の頬を涙が伝った。苦労が報われた喜びか、安堵した故に思わずといった感じであった。
「……ありがとう。私、頑張るから」
「良かったわね、希美。いっぱい練習しなくちゃね」
母も祝福してくれている。温かい家族だった。
わがままを押し通した以上、後には引けない。全力で部活を頑張ろう。そして、コンクールで全国を目指すんだ。私の決意は心に深く、深く刻まれた。
数日後、新品のフルートケースが増えた荷物を意気揚々と提げて登校する。
南中への通学路の桜は既に散り、若葉が目立つようになった。木漏れ日と一緒に、希美は軽くステップを踏んだ。
フルート奏者としての日常が今日から始まる。その肩書きに恥じないくらい上手くなりたかった。
クラスでは既に何組かのグループが成立しており、私もその一員に組みしていた。それに反して、何にも属さない人も何名かいる。
だからといって、仲間はずれには絶対にしたくない。せっかくの中学校生活なのだから、みんなと仲良くしたかった。
「君、鎧塚さんって言うの?」
少し突然だったろうか。彼女もびっくりしている。
どうやら、仮入部期間にどの部活にも入らなかったようだ。せっかくだから、新しい友達が欲しかった。フルートを買ってもらったという、浮ついた感情に言い訳するようで少しだけ心苦しかったけど。
「じゃあ、吹奏楽部に入らない?」
−fin−