弦奏詩 作:藤倉一至
そこは、明かりもついていない真っ暗な部屋の中でした。
「ああ、もう、ぜんっぜん上手くできないんだけどっ」
いらだったように声を荒げて、手に持った楽器のボディに掌を叩きつけたのはひとりの少女でした。
背中まで伸ばした長い髪がとてもよく似合う、お人形のような綺麗な顔をした、女の子です。
「もう、いいや。やーめやーめ。こんなものできなくたって、私はなにも困らないんだから」
女の子――モーティスは抱えていたギターを適当に放り投げると、そのまま自分も床に寝っ転がりました。
もう彼女以外使わなくなったスタジオの床は、冷たくて硬くて居心地はよくありません。
それでも寝転がったまま身じろぎひとつもすることなく、モーティスはただじっと天井を見つめ続けます。
「家じゃひとりぼっちだけど、学校に行けばみんな私に夢中なんだから。ギターなんて弾けなくたって、他にできることはいっぱいあるんだから、別にどうでもいいんだもんね。……ギターが弾けなくっても……」
いつの間にか、モーティスの口から弱々しい呟きがこぼれてしまいます。
その言葉どおり、学校では彼女は人気者でした。教室では常に誰かが彼女のそばにいて、ご機嫌をうかがうようにいろいろと話しかけてくれます。それに笑顔で答えるのは、とても楽しいことでした。
楽しい、ことのはず、なのです。
けれど、モーティスだって本当は知っています。
彼女の周りに人が群がっているのは、彼女自身が好かれているからではないことを。
クラスメイトたちがモーティスに話しかけてくるのは、彼女の両親が人気者の芸能人だから、彼女が母親譲りの綺麗な顔をしているからで、みんなが彼女の話を聞いてくれるのは、父親の話術の真似が上手くいっているだけでしかないことを。
誰ひとりとして、
むつみちゃんと同じように、モーティスはなにも持っていないことを。
「…………ふん、だ」
モーティスはやおら起き上がると、床に転がしたギターをもう一度手に取ると、さっきまでのように椅子の上に座ります。すっかりぼろぼろになった、使い古された椅子の上に。
それから、ギターを弾き始めました。
途端に鮮やかな旋律が奏でられる――とはいきません。
なぜならモーティスはようやくコードを全部覚えられたくらいで、まともなピッキングのやり方もよくわかっていないからです。曲だって、一曲たりとも覚えていません。
だからモーティスのギターから聞こえてくるのは、途切れ途切れの不協和音だけでした。
睦ちゃんのあのギターとは、天と地以上に違います。
「……ホント、なんでこんな難しいこと、簡単にできちゃうのかなぁむつみちゃんは」
Fコードを押さえるだけのことに苦労しながら、モーティスはぽつりと呟きました。
むつみちゃんの部屋で見つけたぼろぼろの教本を読んで、なんとかコードだけは覚えましたが、それだけでずいぶんと時間がかかってしまいました。
それを考えると、むつみちゃんがあんな風に弾けるようになったことが、モーティスにはとても信じられません。あそこまで上達するのに、いったいどれくらいの時間をギターに捧げてきたのでしょう。
こんなにつまらなくて、単調な練習をどれだけ積み重ねてきたのでしょう。
なのに、それだけ頑張ってきたはずなのに、むつみちゃんはギターを歌わせられないからというだけで、最後まで自信を持つことはできなかったのでした。
だから、追い詰められて一度演奏を失敗してしまっただけで、壊れてしまったのです。
そうして、そんな彼女ではバンドを守ることができなくなってしまったから、代わりにモーティスが出てきてあげたのに。
まさか、モーティスがギターを弾けないから、たったそれだけのことでAve Mujicaまで壊れてしまうだなんて、モーティスには思いも寄らなかったのです。
むつみちゃんが自分を殺してまで守ろうとしたはずのバンドだったのに。
まさか自分がとどめを刺してしまうだなんて、モーティスには耐えられませんでした。
だから、みんながバラバラになってもう顔を合わせなくなっても、モーティスだけはなんとかもう一度バンドを――Ave Mujicaを元通りにしようと方法を考えてみたのですが。
結局、彼女が思いつけたやり方は、自分がギターを弾けるようになるということだけでした。
「……はーぁ。ギターなんて、簡単に弾けるようになるって思ってたんだけどなぁ」
現実は、むつみちゃんにもモーティスにも冷たいのです。
ささやかな願い事も、けして叶うことはないのですから。
このままだと、モーティスがむつみちゃんのようにギターを弾けるようになる頃には何十年も経っていて、みんなお婆ちゃんになってしまいかねません。
少なくとも、こんな単調でつまらない練習、ギターなんて全然好きじゃないモーティスにはなかなかやる気が起きなくて、全然進まないのですから。
「お婆ちゃんは、やだなぁ……」
だけど、本当の問題はそれとは別のところにあることも、モーティスはわかっていました。
そう、結局のところなにも問題は解決していません。
つまるところ、モーティスがギターを弾けるようになったところで、もう一度バンドを取り戻せるなんて、なにひとつ保証なんてないのです。
すべて、モーティスが勝手にやっていることなのですから、それが他の四人に届くかどうかなんて彼女にはわかりません。今までなにひとつ願い事が叶ったことはないのですから、むしろ届かないことの方があたりまえかもしれません。
だとしたら、モーティスはどうすれば他の四人に彼女の心を届かせられるのでしょうか?
そんなことを考えた瞬間、ふ――と彼女の頭の中にひとつのイメージが過ぎりました。
ステージの上に一人きりで立って、懸命に言葉を――詩を届かせようとしていた少女の姿が。
そういえば、彼女もモーティスと同じだったかもしれません。
大切にしたかったバンドがあっけなく壊れてしまい、それでもあきらめきれなくてたった一人で無謀な賭けに出た彼女。引っ込み思案で、大切な言葉をなにひとつ誰にも届けられなかった彼女。
それでも必死に頑張った彼女が、とうとう最後には大切なものを取り戻した光景を、むつみちゃんは見届けたはずです。その記憶が、モーティスの頭の中に蘇ってきているのですから。
その、今では少し色あせてしまった、けれど今も鮮やかな輝きを残した大切な記憶を思い出したモーティスは、ギターを抱えたまま考え込みます。
深く深く、身じろぎもすることもなく、それこそ何時間もずっとずっと。
あの少女と同じことをもしも自分ができたなら、
◆ ◆ ◆
「すいませーん、ちょっといいですか?」
受付でなにやら作業をしていた女の人に向けて、モーティスは声をかけてみます。
モーティスがいるのは、RiNGという名前のライブハウスでした。
むつみちゃんは観客として何度か訪れたことがあるところですが、モーティスは初めて来た場所なので勝手がわからず、受付を見つけるのにもまごついてしまいました。
それでもなんとか受付を見つけることができたので、思い切って声をかけてみたのです。
「はい、なんでしょうか?」
受付のお姉さんが顔を上げて、モーティスに笑顔を向けてくれます。短く髪を切り揃えた、とても優しそうなお姉さんでした。
「すみませーん。ライブの申し込みしたいんですけど、ここでできるんですよね?」
「あ、はい、ここでできますよー。……えっと、バンドで、かな?」
モーティスがライブの申し込みをお願いしようとすると、お姉さんはちょっと驚いた顔でなにやら聞いてきました。
「いえ、バンドじゃないです。私ひとりで、なんですけど。大丈夫ですよね?」
「え? ひとりで? うーん、大丈夫は大丈夫、だけど。睦ちゃん、だよね……?」
お姉さんはなぜか困った顔でモーティスの顔をしばらく見つめていましたが、やがてなにやら大きなため息をひとつついたかと思うと、またにっこりと笑顔を見せてくれます。
「それで、いつがいいかな? ひとりだとそんなに長時間は無理だろうから、今のスケジュールだと、空いてるところはこことここくらいなんだけど」
「じゃあ、とりあえずその両方でお願いします」
お姉さんが示してくれた時間帯に問題はなかったので、モーティスはその両方とも押さえることにしたのでした。
◆ ◆ ◆
そうして、その二日後がモーティスの初ライブ当日になりました。
「えーと……モーティス、さん? 次、出番だよー。準備オッケー?」
「はーい、わっかりましたー。モーティス、準備オッケーでーす」
RiNGのステージの袖に立ってギター片手に待機していたモーティスに、バタバタと忙しそうに走り回っていたスタッフらしい少女が声をかけてきました。その元気の良さそうな彼女に負けないよう明るく返事をすると、モーティスはそのままステージに出て行きます。
明かりの消えたステージは、とても冷え冷えとしていました。
モーティスはその冷たくて淋しい空間に堂々と乗り込むと、ギターのコードを適当にアンプに繋ぎます。そのままステージの中央に出て行こうとしたところに、
「あー、ちょっと待って待ってー。別のアンプに繋げちゃってるから、ちょっと待ってくれる? ……よっと、はいこれでばっちりオッケー」
さっきの少女が慌てて駆け寄ってくると、アンプとギターを正しく繋ぎ直してくれました。
どのアンプに繋いでもいっしょだと思っていたモーティスは、大変驚いてしまいます。
そんなモーティスに少女はにっこりと微笑むと、彼女の肩を優しく揉んでくれました。
「だいじょーぶだいじょーぶ。緊張するのはわかるけど、心配しないでリラックスしていこっか。衣装もバッチリ似合ってるから、後はギターでぶちまかしてくればいいからね。それじゃ、頑張って」
そんな風にモーティスに励ましの言葉をかけると、今度こそ少女はステージから離れていきました。
衣装と言われて、モーティスは自分の格好を思わず見直してしまいます。
ステージ衣装を選ぼうにもよくわからなかったので、今彼女が着ているのはいつもの普段着でした。それがステージ衣装に見えるだなんて、まるでいつものむつみちゃんがステージに立って演技をしていたみたいではありませんか。
それとも、みなみちゃん譲りの美貌が、そう見せてしまっているのでしょうか。
「……どうでもいっか。それより、ライブがんばらないと、だもんね」
よくわからないまま、モーティスは口元をどこか淋しげに歪めると、吐き捨てるように呟きました。
それから、今度こそひとりきりになったモーティスは、リラックス? するために肩を回してから、観客席の方を振り返ります。
客の入りは、そこそこと言ったところでしょうか。
半分ほどが埋め尽くされた観客席は、どこか少しざわついているようでした。
「あれって、もしかして睦ちゃん?」「モーティスってあったからまさかねーって思ってたけど、本当に睦ちゃんがRiNGに来ちゃってるよー」「ひとりってことはソロでやるんだ。生歌聴けちゃったりするの? ちょーヤバくない?」
どうやら観客の半分くらいはモーティスの登場に興奮しているようで、口々にお喋りしている声がステージの上にも届いてしまいます。
まるで熱に浮かされたような彼女たちの興奮ぶりに、モーティスの心はむしろどんどん冷えてしまいます。
彼女たちが期待しているのは、Ave Mujicaのステージでモーティスが見せたあのパフォーマンスでしょうか。
それとも、むつみちゃんが見せてくれたあのギターでしょうか。
それがどちらでも、彼女たちの期待が叶えられることはありません。
今のモーティスには、そのどちらも見せられはしないのですから。
それでは、演技もしなければギターもまともに弾けないモーティスは、果たして彼女たちに受け入れてくれるでしょうか? ――わかりません。
少しだけ怯えかけたモーティスを励ます――それとも、追い詰める?――ように、スポットライトが彼女を照らし出します。
その途端、歓声が大きくなりました。
その大歓声に促されるようにモーティスが視線を向けると、PA室にいる受付のあのお姉さんが大きく○を描いたのが見えました。
モーティスはそれを見ると、ひとつ大きく息を吐いてから、ギターを弾き始めました。
その瞬間、観客はかつて聴いたことのある鮮やかで美しい旋律の再来を期待したことでしょう。
けれど、現実はどうしようもなく残酷で、冷たいものですから。
モーティスのギターから生み出されたものは、どうしようもないガラクタでしかありませんでした。
素人同然の彼女の拙いピッキングからは、鮮やかな旋律なんて到底出てくるはずがありません。
中途半端に弾かれた七つの弦から紡ぎ出されるものは、中途半端で歪な音だけなのです。
それはただの不協和音で、音楽以前の代物で、騒音にすらなれない粗末な音の欠片でしかありませんでした。
そんなものを聴かされた観客は、一様に困惑するしかありませんでした。
はじめはなにを聴かされているのかわからないように戸惑い、やがて目の前の現実を理解しはじめるとそれぞれにざわめきはじめます。小さなざわめきは次第に大きくなり、渦を巻くように観客たちを包み込んでいくようでした。
怒りと落胆と拒絶と。
幸い嘲笑までには至っていないようでしたが、それぞれにマイナスの感情を抱えてしまった観客たちは、それぞれの行動を起こしはじめます。黙って立ち尽くして時折首を横に振って拒絶を示す観客もいれば、隣にいる仲間たちとなにやら言い合っている観客もいます。
中には、がっかりしたように外に出て行く観客たちまで、ちらほら現れだしてしまいました。
ああ、やっぱりそうなるんだね――
その哀しい光景をステージ上から見下ろしていたモーティスは、右手をぎこちなく動かし続けながらそっと淋しそうに嗤います。
若葉睦は偽物だから、なにをやっても上手くいくことはありません。それなら彼女の影であるモーティスも、やっぱりなにをやっても上手くいくことなんてないのでしょう。
それでも、そんなことくらいはじめからわかって始めたんだから――
モーティスは途中で投げ出すこともせず、ただギターを弾き続けました。与えられた演奏時間の、最後まで。
ようやくピックを動かす右手を止めて、彼女は改めて観客席に視線を向けてみます。
始まる前はあんなにざわついていた観客席も、今はそれが嘘だったように静まりかえっています。
拍手も、歓声も、どこからも聞こえてきません。
――こうして、モーティスの初ライブは、あたりまえのように大失敗に終わったのでした。