弦奏詩 作:藤倉一至
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りました。――私は部屋に戻りますから、なにかあれば部屋までお願いします」
学校から帰宅して、いつものように使用人から出迎えられた彼女は、素っ気なく返事をかえします。
青い髪をツーサイドアップのように二つ結びにしている少女――この屋敷の主のたった一人の孫娘である豊川祥子は、それから言葉どおりにまっすぐ自分の部屋に向かいました。
生まれたときから使っていた自室に逃げ込むように入ると、祥子は部屋のドアを固く閉ざしてしまいます。まるで、誰も入ってこられなくするように。
「……今日もまた、貼りつけていましたわね。本当に、よく飽きないものですわ」
制服のまま立派なクッションの載った椅子に座り、机の上に置いた鞄を開けて中から一枚の紙切れを取り出しながら、祥子がそんな呟きを漏らしました。その表情は先ほどの使用人相手のものよりも柔らかく、微笑んでいるように見えなくもありません。
祥子はそれから引き出しを開けて、中から一冊のノートを取り出します。それは小学生が使うような、一般に学習帳と呼ばれるタイプのノートでした。
ア・テンポノートと表紙に書かれたそのノートを開き、先ほど取り出した紙切れを丁寧に引き延ばしてから、大事そうに貼りつけていきます。他のページにもびっしりと貼られている色とりどりの紙切れと、同じように。
その色紙は、ある頃から学校の下駄箱に毎日貼られるようになっていました。
そこに書かれている温かい言葉とよく見知った筆跡から、かつての友人でありバンド仲間でもあった少女の仕業であることは明らかでした。
本来ならそのまま捨ててしまってもいいものを、こうして家に持ち帰ってまで保存するようになってしまったのは、祥子にとってその少女――高松燈が今でも大切な存在だからです。
とても大切で、忘れられない存在であるはずなのに、今の祥子はこうして彼女の
「CRYCHICはもう、壊れてしまいました。なのに燈、あなたはどうして私にまだ手を差し伸べようというのです……」
今にも泣き出してしまいそうな弱々しい声で呟くと、祥子はノートをそのまま引き出しの中にしまい込みます。
そうして、鞄の中身を取り出してあるべき場所へ戻し、鞄を机の上からカーペットの上に移したところで、途方に暮れたようにため息をひとつつきました。
それから、部屋の中をゆっくり見回してみます。
この身体にも心にも馴染みきっているはずなのにどこかよそよそしく感じてしまうのは、少しの間だけ――そう、ほんの数ヶ月の間だけ――とは言え、離れて暮らしていたからでしょうか。
それとも、祥子の心が変わってしまったからでしょうか。
「さて……なにをいたしましょうか」
時間は充分にあるはずなのに、すべきことがなにも思い浮かびません。
ほんの少し前までは取材、テレビ出演、打ち合わせ、曲作り、
もう、Ave Mujicaも壊れてしまったのですから――
みんなみんな、祥子の大切なものはなにもかも壊れてしまったのですから。
「お母様……私はこれから、どうすればいいのでしょう」
形見となった人形は、お母様のためにピアノの傍に置いてあります。ですから
もう他には、彼女の
そう――みんなみんな、いなくなってしまったのです。
両親も、幼馴染みも、親友と呼べるようになるはずだった少女も、運命共同体としてのバンド仲間も、もう彼女の傍にはいません。
祥子がみんな壊してしまったから。
とがわさきこ。お母様に付けてもらった大切な名前です。
けれど、気づいてしまいました。
とがわさきこという名前は、咎は先(にくる)子に繋がるということに。
お母様が亡くなりました――CRYCHICを作ってしまったから
お父様が詐欺による負債を抱えたことでCRYCHICが壊れました――Ave Mujicaを作ってしまったから
睦を壊してしまい、Ave Mujicaも壊してしまいました――わかりません。なにが罪なのかわかりません。けれど、
だとしたら――この先祥子はなにもしてはいけないのではないのでしょうか。
わかりません。もしかしたら、ただのこじつけかもしれません。
結局はただ祥子自身の未熟さが招いた結末なのですから、その未熟さを乗り越えられればもう罰を受けなくてもよくなるのかもしれません。
けれど、もしそうでなかったとしたら?
そう思ってしまうと、祥子にはとてももう一度なにかを始める勇気は持てません。
だとしたらもうこのまま仮面を付けて誰にも心を許さず、ただ豊川グループの
「……私にはお似合いの末路ですわね」
己の滑稽な未来予想図に祥子が自嘲の笑みを浮かべたところで、ノックの音がしました。
「祥子お嬢様、お客様がお見えでございます」
「――お客様が?」
祥子は首を傾げました。
今の彼女に、誰が用があるというのでしょう。
睦はありえません。彼女はまだ元に戻れたわけではないようですから。
初華にしてもこちらから連絡を取っていない以上、アポもなしにいきなり家に押しかけることは考えづらいでしょう。
では、燈でしょうか。……彼女の性格を考えたなら、こちらから誘ったわけでもないのに家に来ようとは思わないはずです。
考えられるとしたら――千早さんくらい、でしょうか。
こちらの気持ちなどお構いなしに平気で距離を詰めてくるような彼女なら、前触れもなしに家宅訪問くらいはやってしまいそうです。
「……千早さんでしたら、構わず追い返してください」
そう思い、使用人に指示を出した祥子でしたが、
「申し訳ありませんお嬢様。お客様は千早様ではございません。祐天寺様、とおっしゃいました。いかがなさいますか?」
「…………は?」
思いがけない名前を聞かされて、思わず言葉を失ってしまうのでした。
◆ ◆ ◆
「豊川祥子さんですわね。はじめまして、祐天寺にゃむと申します」
「……ふざけているのですか。今すぐお帰りいただいても構いませんわよ」
ひとまず
「なーによ、ただの冗談でしょ。あんなことがあってから久しぶりに会うんだから、少しでも緊張をほぐしてあげようかなって気遣ってみたってのに。まったく、あいかわらずさきこは固いよね」
ソファに深く腰を掛けて足を組んでいたにゃむが、サングラスをシャツの襟首にかけながらへらへらと言ってきます。それから品定めでもするように、応接室を見回し始めます。
「にしても、さっすが豊川グループ総裁のお屋敷だよね。家具どころかなにからなにまで一級品、一分の隙もないって感じ。高級ホテルも顔負けだよねー。祥子も今日はちゃんとおめかししてるしね。豊川家のご令嬢って、やっぱり普段着でもそんだけ高級品着てるんだ」
「……祐天寺さんこそ、今日はずいぶんとラフな格好ですわね。もしかしなくとも、動画配信が行き詰まっているのですか?」
にゃむの格好は、ホテルでの初対面の時よりもラフなものでした。それこそ、そこらの学生の普段着のような。少なくとも、豊川家の来客としてはふさわしくない格好のはずですが、相変わらずTPOを平気で無視できる人のようです。
「んー、ぼちぼちってところかな。バズりまくって再生数も右肩上がりってほどじゃあないけど、別に行き詰まってるわけでもないしね。……最近始まった企画ものが結構再生数稼げてるから、むしろここからが勝負って感じじゃない?」
「……そうですか。それはよろしかったですわね」
初対面時の服装をけなされたことを思い出して、わかりやすく嫌みをつけてみた祥子でしたが、にゃむはなんら気にした様子も見せてきません。
これ以上の口撃を諦めた祥子はため息をつくと、ひとまずおもてなし――こんな人でも、一応はお客様ですから――の準備を始めます。
使用人に準備をさせた台車に載せたケトルを手に取り、まずはお湯でティーカップを温めます。それからティーポットにもお湯を注いで茶葉を蒸らしている間にカップのお湯を捨て、砂糖とミルクとティースプーンを揃えました。
そうして、たっぷり蒸らしの時間を取り、頃合をはかってから静かにお茶をティーカップに注ぎます。
「生憎とお茶菓子の用意はありませんが、とりあえずお茶だけでもどうぞ」
「なんだ、一応歓迎はしてくれてるんだ。ぶぶ漬けでも出されるかと思ってたけど、普通にお茶でよかったよかったってね。……アールグレイ、かぁ。ホテルでも飲んでたけど、さきこのお気にだったりするの?」
「いいえ、特には。ただ祐天寺さんのレベルに合わせてあげただけですわ。……珍しい茶葉を出しても、お口に合いはしないでしょうから」
図星ではありましたが、素直にそれを認める気にもなれなかったので、祥子は嫌みにして答えをごまかしてみました。もっとも、それが彼女に通じたかは微妙なようでしたが。
アルカイックスマイルを浮かべたにゃむは組んでいた足を戻して姿勢を正すと、そのままティーカップを口に運びます。ラフな格好とは裏腹に、優雅な仕草でした。
「――それで、私のなんのご用がおありになるのですか? アポイントもなしに来られたのですから、さぞ重要で火急の用件なのでしょうね」
「そ、火急で重要な用件だよ。――あたしよりも、さきこにとってね」
意味ありげな目配せを祥子に送ってくると、にゃむがスマホを取り出してきます。
そのスマホでなにやら操作をしたかと思うと、そのまま祥子に向けて差し出すようにテーブルの上に置きました。
「ま、とりあえずはこの動画を見てみなよ」
「? 動画、ですか?」
にゃむの意図は掴めませんでしたが、とりあえず言われるままスマホを手に取ってみました。
画面の中央に大きく表示された再生ボタンを祥子が押すと、すぐに動画が再生されます。
それでも画面が暗いままなのは、どうやら撮影された場所が暗いからのようです。耳に入り込んでくる小さなざわめきと、手前にぼんやりと浮かび上がるいくつもの人影と。そして奥にある広々とした空間がステージのように見えることから、おそらくそこがライブハウスなのだとわかりました。
わずかに見覚えがあるような気がするそこは、もしかすると燈のバンドのライブを一度だけ見たことがあるところでしょうか。確か、RiNGという名前だった気がします。
やがてステージに演者が姿を見せました。
数は、三人のようです。
ドラムとベースが左右に散らばり、センターにはギターが立ちました。
普通のスリーピースバンドのようですが、マイクスタンドが立ってない理由はわかりません。顔もよく見えないので、どんな人たちかもよくわかりません。
なのになぜか、祥子は彼女たちをよく知っているような気がします。
その理由は、すぐにわかりました。
演奏がはじまるのと同時にスポットライトに照らし出された彼女たちは、三人とも祥子がよく見知っている顔だったのですから。
「祐天寺さん、これは――」
「いいから黙って見なよ、さきこ」
驚き問い糾そうとする祥子を、にゃむの冷ややかな声が押しとどめました。
その態度に歯噛みをしながら、視線をスマホに戻してみる祥子。
画面の中では、彼女のバンド仲間だった三人が演奏を続けています。
ボーカルもなく、ただのインストバンドのように。
けれど、だとしたら彼女たちはバンドとして失格でしょう。
にゃむのドラムと海鈴のベースは問題ありません。相変わらず正確にリズムを刻み続けるベースと、ムラはあるけれどしっかりテンポを保ってくれるドラムには。
問題があるのは、睦のギターでした。
どんなに難しいフレーズも弾きこなし、ミスのひとつも考えられなかったあの睦のギターが、見る影もありません。
コードを押さえる手つきはどうしようもなくぎこちなく、ピッキングの動きも素人同然に拙くて、簡単なフレーズさえ弾きこなすことができていないのです。
そんな子供じみたギターを懸命に弾き続けている睦の顔は、見慣れた無表情ではなくて、とても歪んでいました。その痛々しい表情を見ていられず、祥子は思わず画面から目を逸らしてしまいました。
それでも、頼りないギターの音が、彼女を追いかけるように聞こえてきます。
たまらず祥子は、叫んでしまいました。
「なんなのです――いったいなんなのです、これは!?」
目の前で優雅にお茶を飲みながら、うろたえる祥子の様子をニヤニヤ見守っているにゃむを睨みつけます。
「いったいなんのおつもりなのです、祐天寺さん。こんな睦の姿を動画に撮って、あまつさえ世間に知らしめるだなんて。私の大切な幼馴染みを辱めて、いったいどうしようというのですか?」
「大切な幼馴染み、ねぇ」
気色ばみ詰め寄ってくる祥子をあしらうように、にゃむが嘲笑じみた笑みを浮かべます。
「その大切な幼馴染みを壊したのってさきこだよね? そんなあんたが、むーこを辱めてなんのおつもりなのですって、言えた義理なわけ?」
「……っ、それ、は……」
的確に祥子の弱い部分を責めてきたにゃむに、言い返すこともできない彼女は押し黙ってしまうしかありません。
「だいたい、今のあの子はむーこじゃなくてもーこ、モーティスのままなんだけど? むーこがまだ眠ったままだから、それを起こすためにもーこは必死に頑張ってるわけ。あたしはそれに手を貸してるだけなのに、なんにもしてないあんたにどうこう言われる筋合いって、ないと思わない?」
「……、――っ」
「ほら、またそうやってすぐだんまり。都合が悪くなるとそうやって逃げるのって、あんたの悪い癖だよね。――そんなだから、お嬢様のごっこ遊びなんて言われちゃうんだよ。悔しくないわけ? 結果はああなったけど、それでもあんただって本気でやってたんでしょ? だったら、少しくらい言い返してみなよ」
意地悪い口ぶりのまま、にゃむが挑発するように祥子の顔を覗き込んできます。そんな彼女から顔を背けると、無意識のうちに左腕を右手で押さえながら、祥子は弱々しく口を開きました。
「……逃げてなにが悪いのです」
「はぁ?」
「逃げて、なにが悪いというのです! お嬢様のごっこ遊び!? ええ、そうですわね。その通りですわ。私のやったことは、結局ただのごっこ遊びしかなかったのです。それに気づいたから、私はムジカを終わらせたのです。それのどこが悪いというのです。これ以上私に、なにができるというのですか……」
「いい加減にせんかい、こん弱虫が――っっっ!!!」
いきなり、大声が響き渡りました。驚いた祥子が口を閉ざし慌ててにゃむを見やると、彼女がすごい形相で祥子のことを睨みつけています。
陰と陽。性格はまったく正反対のくせに、その顔は燈のものにとてもよく似ていました。
「さっきから言い訳ばっかりで、見苦しか! なにが、『なにが悪いというのです』ばい。ほんなこつもわからんとよ? あんたがわからん言うなら、こんあたしが今から教えてやるけんね。耳かっぽじって聞いたりや、このあほんだらが!」
「――――っ」
「あたしをムジカに誘ったとき、『残りの一生私にくださいますか』って言うたのはさきこやろが? あたしはそれに乗って、ほんまに一生捧げてもいいつもりでムジカに参加してやったと。他のみんなやってそれは同じやろ。やのに、言い出しっぺのあんたが勝手にはしごば外すのはどうなんよ。ほんなこつ、ありえへん。無責任すぎるわ」
「嘘を、つかないでくださいますか。ムジカはのし上がるための腰掛けだと、睦に言ったのは祐天寺さん、あなたでしょう?」
標準語で取り繕うことも忘れ、方言丸出しで責め立ててくるにゃむに、祥子は苦し紛れにそれだけを言い返しました。けれど、にゃむはその
「そやね、確かにむーこにそう言ったと。そのつもりがなかったとはウチもよう言わんわ。けどな、そんでもムジカに一生捧げてもいいて思うとったのもホンマや。さきこと一緒にのし上がってやろうって思うたのもな」
「…………」
「あんときのさきこは、それくらい本気に見えたとよ。やから、むーこもういこもうみこもさきこに付いていったんやろ? あんたと一緒に夢を見たいと心から思えたけんな。それが――なんやのこのふぬけっぷりは。人と目も合わせられんと言い訳ばっかりやなんて、ふざけとんのかい」
「…………」
「なにが『残りの一生私にくださいますか』や。自分が一生捧げる覚悟もなかったくせに、他人にばかり求めんなや、このヘタレが。うちらだけやない、スタッフもゲストも含めて夢を見させた責任くらい取ってみせぇて言うとるんよ。あんたの一生かけてでもな」
「…………」
次々と捲したててくるにゃむの糾弾に、祥子はなにも言い返すことができません。あるいはムジカを結成させた頃の祥子なら、堂々と言い返すこともできたでしょう。
けれど、辛いことばかりでなにもかも忘れてしまいたいと初華にすがりついて、むりやり強がりの仮面を貼りつけたままの祥子ならまだしも。仮面もなにもかも剥ぎ取られて、剥き出しの弱い心のままの祥子では、にゃむの強すぎる言葉に抗うことはとてもできないことでした。
それでも――なけなしの意地を奮い立たせて、祥子はにゃむの目を睨み返します。
「……祐天寺さんのくせに」
「は? なんか言ったと?」
「ムジカを終わらせるきっかけを作ったのは祐天寺さん、あなたでしょう。あなたが勝手に仮面を剥がして睦の顔を公衆の面前に晒さなければ、睦もああはなりませんでした。そして、モーティスが現れたときのミーティングで、我慢の限界だから脱退すると言い出したのも。すべて、祐天寺さんがしでかしたことではないのですか?」
Ave Mujica解散の一番の原因は、睦が壊れてしまいギターを弾けなくなったことにあります。そして、睦の消耗に気づかず心ない言葉でとどめを刺してしまったのは祥子自身です。ですから祥子が一番悪いのは、彼女自身よくわかっています。
それでも、もしもにゃむが勝手なことをしでかさなければ、もしかしたら事態は変わっていたのでは――と、そんな思いを捨てきれなかった祥子は、思わずにゃむのことを責める言葉を口に出してしまいました。
「あなたが終わらせたバンドではないですか。それを、なにを今更――」
「そうやね、ウチが終わらせたバンドばい」
なのに、にゃむは平然と自身の罪を受け入れてしまいます。そんな強さを見せた彼女のことを、祥子は言葉もなくしてただ呆然と見つめることしかできません。
「そんでもって、あんたが始めたバンドやろ。やったら、こんあたしら二人が責任取って、そん終わりばしゃんと見届けてあげんといかんとよ。――まだ燻ったままの、残り火を」
この上なく真剣な、けれどどこかしら優しさを内に秘めた
そんな祥子に、にゃむは最後に次のモーティスのライブの日程を告げると、メンバーとして参加するかは祥子に任せるけれど会場にだけは絶対に来るように言い含めてから、応接室を出ていきました。
後に残された祥子は、唇を噛みしめたまま、にゃむがいなくなったソファをじっと見つめていました。じっと、じっと――なにかに耐えるように。
或いは、なにかの決断を下そうとしているように。
◆ ◆ ◆
いつものようにモーティスは入り口の自動ドアを通り抜け、RiNGの中に入ります。
大事そうにギターケースを胸に抱えたまま受付の凛々子さんに挨拶をしてから、そのまま彼女に割り当てられた楽屋に向かいます。
すれ違う人たちと適当に挨拶を交わしながら廊下をてくてく歩いていき、いつもの楽屋の前に立ったところで、モーティスはふと足を止めました。
中から話し声が聞こえます。それも、二人分の。
どうやら、今日はモーティスよりも二人の方が早く来ているみたいです。
それに気づいたモーティスに、ふと悪戯心が湧いてきました。
このまま普通に楽屋に入っていくだけだとつまらないから、タイミングを計っていきなり入っていくことで二人を驚かせてみたいと、そんな風に思ったのです。
「――いいね、楽しそう」
にんまりと子供らしい無邪気な笑みを浮かべると、モーティスは足音を消してドアに近づきます。それから、息を殺して気配もできるだけ出さないようにしながらドアに耳を押し当て、楽屋の中の会話に耳を澄ませます。
「――さんの件はどうでした? 確かこの水曜日が家庭訪問の予定だったはずですが」
「ああ、それやけど。ちょーっと失敗してしもうたかもしれんのよ」
「は? どういうことですかあもこ。自分に任せて欲しいと言い出したのは、あなたのはずですが。まさか、忘れていたとかではないでしょうね」
「いや、それはないから。それはないんやけど、ちょーっとばっかしやりすぎてもうたかもって思うとるところなんよね」
「どういうことです? 詳しい説明をお願いできますか? 家には行ったのですよね? もしかして、門前払いされてしまったとかでしょうか?」
「家――つか、お屋敷には行ったと。さきこにもちゃんと会えたんは会えたんよね」
――さきこ? 今、さきこって言った?
「? でしたら、なんの問題が?」
「やから、ちーとやりすぎてもうたって言うとると。話ばちゃんとしようとは思うてたんやけど、さきこのやつがどうにもあかんたれでな。言い訳ばっかしよるけん、ウチも頭に血がのぼってしもうて――それで、ついつい言い過ぎてしもうたばってん」
「はぁ……そういうことでしたか。まったく、あれだけ偉そうに出しゃばっておいて、なにをやっているのですあもこは。ですから、私が行った方がいいとあれだけ――」
「――ちょっと待ってよ、二人とも。さっき、さきこって言ったよね? それってさきちゃんのことでしょ? さきちゃんに会ってきたの? どういうことか、教えてよ二人とも――」
こっそり出て行くことで二人を驚かせようと思っていたことも忘れて。
モーティスはぶち破るくらいの勢いで楽屋のドアを開けて、中にいる二人に向けて声を張り上げてしまいました。
二人とも、とても驚いたようでした。
アモーリスはあちゃーといった感じで顔を覆いながら天井を仰いで、ティモリスは苦虫を何百匹も飲み干したような渋い顔でモーティスに視線を向けてきます。
「モーティス、どこから聞いていました?」
「どこからって、最初から……? ねぇ、それよりも、さきちゃんに会ってきたんでしょ? 私が
ティモリスの疑問なんて聞いていられないと。それより早くさきちゃんとのことについてどうなったのか教えて欲しいと。全力でそうせがんでくるモーティスに、二人とも思いきり気まずそうな顔をしてから、仕方なくといった感じでアモーリスが事の経緯を話し始めます。
この水曜日にアモーリスがさきちゃんの家に押しかけたこと。
出迎えたさきちゃんはとりあえず元気そうではあったこと。
そんなさきちゃんにアモーリスがモーティスのライブの動画を見せたところ、激しく動揺したこと。
後ろ向きな態度ばかり見せるさきちゃんに、我慢しきれなかったアモーリスが口汚く罵ってしまったこと。
捨て台詞のようにモーティスの今日のライブのことを告げては来たけど、さきちゃんがメンバーとして参加することどころかRiNGに来てもらうことさえ約束させられなかったこと。
そして、一応指定したはずの時間になっても、さきちゃんがまだRiNGに姿を見せていないことを。
「えー、なにそれ。アモーリス、なんのためにさきちゃんに会ってきたの? そんなことしちゃったら、なんの意味もないじゃない」
「あー、うるさかうるさか。ほげんこつば言われても、やってしもうたことは仕方なかと。それもこれもさきこがヘタレすぎんのが悪かばい。もーこやって、さきこのことば脅してばっかりやったと?」
「ちょっとー、私は関係ないってば。私がさきちゃんと話したわけじゃないんだから、みーんなアモーリスのせいじゃないのー?」
「まぁ、あもこの言うとおりではあるでしょう。やってしまったことはもうどうしようもないですから。豊川さんが今日のライブに来てくれるかは残念ながら未確定ですが、我々のできることはライブに全力を尽くすことだけです。豊川さんの件については、ライブが終わってから考えることにした方がいいでしょうね」
「うっわぁ、そんなのでいいの、ティモリス? そんなので、ホントにさきちゃんが一緒にバンドやってくれるの?」
「……そう言われてしまうと、私としても答えづらいですね。正直、豊川さんのダメージの大きさを見誤っていた感がありますから。脆いところがある人だとは薄々気づいていましたが、ここまでとは思いませんでしたので」
眉間に皺を寄せてのティモリスの言葉に、モーティスも顔をしかめてしまいます。
彼女にとってさきちゃんは、自分のことばかりにかまけてむつみちゃんのことを傷つけてばかりの魔女のような女の子でしたが、それでも思い返してみればティモリスの言うように脆いところがあったような気もしてきます。
まぁ、だからといってモーティスにはなにも関係のないことですから、問題なのはその脆さのせいでさきちゃんがバンドに参加してくれなくなってしまう――かもしれない――ことだけなのですが。
「ねぇ、だったらどうするの? もし、このままさきちゃんがバンドに参加してくれなかったら。そしたら、ムジカの復活なんてできないよね?」
「……そうですね。その場合はすべて台なしになってしまいますので、そうならないよう手を尽くしたいところですが。申し訳ありません、今のところその手段が思いつきませんから、少し時間をもらえますか。なんとか考えてみますので」
「ほやな。難しいことばとりあえずティモ子に任せて、もーこはまずライブのことだけ考えとき。あんたのギターはまだまだなんやけん、余計なことば考えとる余裕はないやろ?」
難しい顔をしながら真摯に言ってくるティモリスと、そこで重くなりそうな雰囲気を混ぜっ返すように軽口を叩いてくるアモーリス。対照的な二人に視線を交互に配りながら、モーティスが口を開きかけたところで、コンコンとノックの音がしました。
「失礼しまーす。……って、えーと、もしかしてお取り込み中でしたか?」
「いえ、大丈夫です。問題ありません。それより、なにか?」
「あ、はい、えっと、時間になったのでモーティスさん準備お願いします、とだけお伝えに来ました。それじゃ、失礼しますね」
不安そうな顔を見せたスタッフさんにティモリスが如才なく言葉を返すと、ほっとした様子のスタッフさんが連絡事項だけ告げてそそくさと去っていきました。
三人はそこで顔を見合わせると、それぞれ言いたいことはいったん心にしまって、ステージへ向かう準備を整えます。モーティスもギターを抱えたまま、なにも言わずにそのままステージに向かうことにしました。
真っ暗なステージに一番に出てみると、モーティスはステージの上をぐるりと見回してみました。いつもですと下手にドラムセットが置かれる他はギターとベースのアンプくらいしかないのですが、今日は上手にキーボードが置かれているようでした。
おそらく、ティモリスとアモーリスの二人がこっそり準備をしていたのでしょう。
――それも、さきちゃんが姿を見せていない以上、無駄になってしまったわけですが。
弾き手もなくただひっそりと佇んでいるキーボードを見て、どこか物寂しい気持ちになってしまいながらモーティスはギターとアンプをシールドで繋ぎました。
それから、それぞれの配置について準備を始める二人の
アモーリスの動画の影響でしょうか。一時は半分以下に減っていた客の入りも、今日は八割以上埋まっているくらいに増えているようでした。
観客の表情も、どこか明るいものが増えてきているようでした。最初の頃のように好奇心や興味本位だけで彼女を笑いものにしに来たのではなく、純粋にライブそのものを楽しみにしてくれているような、そんな雰囲気の人たちが。
その中にいつも来てくれている栗色の長い髪の少女の姿を見つけ、モーティスはなんとなくほっとしました。彼女に対して心の中でお礼を言いながら、視線を少し横にずらします。
そこで、モーティスの動きが止まりました。
――さきが、いた。
青い髪の少女に気づいた瞬間、モーティスはなにも考えず動いていました。
手に持っていたギターを、咄嗟に近くにいてくれたティモリスに手渡します。
「ティモリス、ごめん――ギターよろしく!」
「は? ――わかりました、モーティス。いってらっしゃい」
次の瞬間には、モーティスはすでにステージから飛び降りていました。
驚きの声を上げる観客たちをむりやり掻き分けて、強引に前へ進んでいきます。彼女がしようとしていることがわかったのか、観客たちが自然と道を空けてくれたので、モーティスはそれほど苦労もなく観客席の奥へと進めました。
――まるで、あの日の不器用な少女のように。
そして、気づけば青い髪の少女はもう目の前でした。
青い髪の少女は目の前の緑の髪の少女に気づくと、咄嗟に身を翻して逃げようとします。ですが、彼女の後ろにいた栗色の髪の少女に邪魔されて、逃げ出すことができません。
そのおかげで、モーティスはさきちゃんの腕を捕まえることができました。
「さきちゃん――さきちゃんだよね。どうして逃げるの……っ?」
「離して――離してくださいっ」
それでもさきちゃんは必死にモーティスの手から逃げようとしますが、モーティスだってそうはいかないとばかりに懸命に腕に力を込めて、彼女を逃がさないように踏ん張ります。
二人の力は同じくらいなのか、綱引きは拮抗状態になっているようでした。逃げられず、捕まえきれない。そんな状態がしばらく続きます。
「もう、ムジカは終わってしまったのです。ですから、私はただ終わりを見届けに来ただけですから。お願い、睦、手を離して――」
「ヤダヤダヤダ――っ。私はむつみちゃんじゃないから、絶対に手を離さないよ。ムジカだって、まだ終わってないんだから。私が絶対に終わらせないから、だからさきちゃんも一緒に来てよ。ステージでいっしょにバンド、やろうよ――っ!」
「やめて――やめてくださいっ。お願いですから、私にもう、これ以上罪を犯させないでっ。私にもう、バンドをやる資格なんて、ありません。ですから、お願い、この手を離して……っ」
「うるさいうるさいうるさい――っ。わけのわからないこと言って、逃げたりしないでよ。資格とか、そんなのどうでもいいから、むつみちゃんのためにバンドやってよ――っ」
互いに気持ちをみんな吐き出して、本音をぶつけ合います。
そんな二人の均衡を破ったのは、不意に鳴り響いたドラムの音でした。
身体の芯まで痺れさせるような重いバスドラムの音に、さきこの動きが一瞬止まってしまいます。
その隙を突いて、モーティスは一気に青い髪の少女の身体を引き寄せると、そのままステージのへりまで引きずっていきました。
「――どうして、私まで引っ張り出そうというのです。あなたが睦ではなくてモーティスなら、私のことが嫌いなはずでしょう? それなのに、なぜ……」
「そうだよ、私はさきちゃんのことなんて大――っ嫌い」
もう諦めてくれたのでしょうか。抵抗することもしなくなったさきちゃんが、息を切らした状態でモーティスに問いかけてきました。モーティスが吐き捨てるように答えると、さきちゃんはとても傷ついたような顔をして目を伏せてしまいます。
そんな魔女をじっと哀れむように見つめると、人形の少女がどこか諦めたような笑みを口元に浮かべました。
「でも――むつみちゃんはそうじゃないみたいだから。あんなに傷つけられたのに、まださきちゃんのこと守りたいみたい。だから、むつみちゃんのためにムジカを続けるためには、さきちゃんが必要なの。『バンドは共に音楽を奏でる運命共同体』だから、かな」
「そう――ですか」
かつての自分の言葉を出されて、さきちゃんの口元にも諦めたような笑みが浮かびます。
それを見届けると、モーティスはようやくステージを見上げました。
飛び降りるのは簡単でしたが、よじ登るのは彼女たちの身長と腕力では難しそうです。どうしたものかと悩んでいると、ステージから二つの手が差し伸べられました。
ひとさし指と中指の爪が奇妙に曲がった手と、スティックだこが付きはじめた手が。
「ありがと、ティモリス、アモーリス」
二人に礼を言うと、モーティスは近くにあったティモリスの手を掴みました。
が、そのまま引き上げられる前にさきちゃんがアモーリスに引き上げられることをすごく嫌がったので、下の二人と上の二人で握りあう手を入れ替えて、ようやくモーティスとさきちゃんはステージの上に引き上げられたのでした。
◆ ◆ ◆
むりやりステージの上に引きずり出されることになった祥子は、とりあえず服装の乱れを直して息を整えました。
そんな彼女より先にステージに戻っていたモーティスは、それ以上祥子には見向きもせず海鈴からギターを受け取ると、そのままステージの中央に向かってしまいます。
「――二十分の遅刻ですね、オブリビオニス」
「八幡さん……」
久しぶりにバンドネームで呼ばれた祥子が顔を上げると、そこにはモーティスに渡したギターの代わりにベースを持った海鈴が立っていました。
「とりあえず伝手を頼ってキーボードは用意させていただきましたが、問題はありませんか」
「……音がきちんと出せるようでしたら、特に問題はありません。他人の楽器を使うのは、ピアニストならあたりまえのことですから」
持ち歩ける楽器の担当者ならともかく、持ち運ぶことが難しいピアニストにとって、現地で用意された他人のピアノを使うのは日常茶飯事ではあります。その事実を祥子が告げると、海鈴が安心したように微笑みます。
……祥子が知っている海鈴の表情に比べると、どこか少し、柔らかくなった印象を受けました。
「八幡さん、「ティモリスでお願いします、オブリビオニス。ステージ上ですからね」」
話しかけようとした祥子をむりやり遮ると、海鈴――ティモリスの方から話を続けられてしまいます。
「事情が事情ですから、今回は大目に見させていただきますが。オブリビオニスは総指揮なのですから、次から遅刻はしないよう気をつけていただけますか。――それでは、よろしくお願いします」
「え? ちょっと、八は――ティモリス!?」
言うだけ言うと、ティモリスは勝手に下手の方に行ってしまいます。
彼女に聞きたいことがあったというのに、これではどうしようもありません。
追いかけるべきか一瞬迷ってしまった祥子――オブリビオニスの下に、今度はにゃむ――アモーリスが近づいてきました。
「あーあ、ちゃんと時間どおりに楽屋に来てたら、ステージに引き上げられずに済んだのにねぇ。余計な恥かいちゃったね、オブリビオニス」
「……そうですわね。こんなことなら、いっそここに来なければ良かったと後悔していますわ」
「そしたら、別の後悔するに決まってるでしょ。だから、あんたは来てよかった。そうでしょ?」
アモーリスの軽口に負けずに言い返してみたオブリビオニスですが、さらに続けられた鋭い言葉の刃に返す言葉を失ってしまいます。
ですから、オブリビオニスは言い返すことは諦めると、代わりにティモリスに聞こうと思っていたことをアモーリスに尋ねてみます。
「それで、私をステージに引きずり上げて、なにをやろうというのです?
「ああ、なにもやらないよ」
「…………は?」
思いがけない返答に、オブリビオニスははしたなさを気にかけることもできずに、あんぐりと口を開けてしまいます。
「動画見たならわかるでしょ。今のモーティスじゃ曲なんて弾けるわけないからさ。だから、オブリビオニスはあたしらに適当に合わせてよ。ジャムセッション? みたいな感じで」
「――っ。ふざけているのですか!?」
これがジャズや曲作りのためのリズムセッションならわかりますが、曲がりなりにもロックバンドがステージ上でやることではないでしょう。そう思ったオブリビオニスが抗議の声を上げると、アモーリスは例の憎たらしい嘲笑じみた表情を浮かべてみせます。
「なーにぃ? まさか合わせる自信がないとか言わないわよねぇ? もしかしてオブリビオニス、練習が足りてないんじゃないの?」
「~~~~っっ。いいでしょう、そこまで仰るならやってあげますわ。アモーリスこそ、ちゃんと合わせてみせなさい」
いつかの彼女の苦言を反対に売り言葉にされて、オブリビオニスは買い言葉を反射的に返すと、アモーリスに背を向けてひとりキーボードに向かいます。
そうして、四人がそれぞれの位置に無事つきました。
オブリビオニスはキーボードの手触りを、少しだけ確かめます。
どうやら問題はないようだと判断すると、ティモリスの方を向いて一度頷きます。
すると、ティモリスからアモーリスにアイコンタクトが行われて、PA室に確認を取ったアモーリスがカウントを始めました。
5、4、3、2、1
カウントがゼロになった瞬間、ドラムとベースが一斉に演奏を始めます。それに一瞬遅れる形でギターが加わります。息の合った動きを見せる三人に疎外感めいたものを感じながら、オブリビオニスも演奏を始めました。
ベースとドラムの音に注意を払い、二人が作り出すリズムに合わせたメロディーを即興で作り出していきます。
――或いは、三人だけなら問題は感じられなかったかもしれません。
ティモリスとアモーリスだけが相手なら、オブリビオニスも問題なく合わせられます。それくらいのことは、朝飯前とはいかなくともどうとでもなります。それくらいの結びつきは、手に入れられていたようなのですから。
けれど、そこに
プロ同士の息の合ったセッションが、素人がひとり加わってしまったことであっさり台なしになってしまうように。
(ああ、そうですわね。……やはりAve Mujicaはもう、終わってしまっているのですね)
キーボードを弾く手はそのままに、オブリビオニスは諦めの笑みを浮かべてしまいます。
動画でとっくに確認済みでしたが、やはりモーティスのギターは使い物にならないようです。彼女なりに頑張ってはいるのでしょうが、睦の役割を背負わせるにはまだまだ未熟すぎます。
そして、睦が戻ってくることが難しい以上、どうやってもAve Mujicaの復活はありえません。
モーティスだって、それはわかっているはずでしょう。
それなのに緑の髪の人形は、必死に人間の振りをして懸命にギターを弾き続けているのです。拙いままの技術にも構わず、恥もなにもかもかなぐり捨てて。
その姿が眩しすぎて、でも睦の身体でそんな姿を晒されているのかと思うとやるせなくて、なによりも大切な幼馴染みを壊してしまった己の罪を直視できなくて。
オブリビオニスはたまらず、モーティスから視線を逸らしてしまいます。
顔を伏せて、ただ白一色の鍵盤だけを見つめるようにします。
そのせいでしょうか、うっかりミスタッチをしてしまいました。
ベースとドラムのしっかりしたリズムからは少しズレてしまった、調子外れの不協和音。
慌てて修正しようとしてみるオブリビオニスでしたが、心のどこかでそれを押しとどめようとする声がありました。
もういいでしょう。もうダメなのはわかったのですから、これ以上演奏を続けても仕方ありません。それよりも、いっそ終わらせてしまった方がいいのではないでしょうか。
そんな甘い声が聞こえてきます。毒入りの、けれどどうしようもなく魅力的な声が。
それに抗うこともできず、いっそ身を委ねてしまおうかと思いかけたオブリビオニスの耳に、モーティスのギターの音が――不意に――鮮やかに飛び込んできました。
拙さも不安定さも、なにも変わっていません。
それなのになぜ、いきなり耳に入ってきたのでしょう。
疑問に思ったオブリビオニスは、無意識にギターの音に耳を澄ませてしまいます。
やはり、その音はたどたどしく、奏でるまではたどり着いていないように聞こえました。
それなのに、どうしてその音を聞くだけでこんなに胸が騒いでしまうのか。
そういえば、このメロディーはどこかで聞き覚えがあるような気がします。
ムジカの曲ではありませんし、他のバンドの曲でもないようですが、ではいったい私はどこで聴いたことがあるのでしょう。
不思議に思ったオブリビオニスは記憶を探り始めました。
そうして記憶の箱を次々ひっくり返していくうちに、ひとつの古ぼけた箱を見つけました。とっても古ぼけていて、とっても小さくて、なのにどこかしら光って見える奇妙な箱でした。
なにかの予感に導かれるように、オブリビオニスがその箱を開けてみます。
箱の蓋を開いた瞬間、ひとつの記憶がオブリビオニスの心を照らし出しました。
――あれは子供のころのことです。
まだ小学校に入っていないころか、入りたてくらいのころでした。
幼馴染みの睦がギターを弾き始めたことを知った祥子は、彼女にせがんでギターを弾いてもらったのです。
睦の家の地下室で覚えはじめのギターを聴かせてもらった祥子は、地下室にこっそりおもちゃのピアノを持ち込みました。
同じようにピアノを習い始めたばかりの祥子は、睦と合奏をしてみたかったのです。
睦も喜んでくれたので、二人は早速合奏を始めました。
もちろん二人とも習い始めたばかりだったので、演奏は上手くいきません。息もなかなか合わなかったので、出来は本当に酷いものでした。
それでも仲の良い幼馴染みと音を合わせてみるのはとても楽しかったので、二人の合奏は何度も行われました。
まだ曲の一つも覚えていないので、睦のギターが奏でるメロディーはとても適当なものでした。祥子のピアノも似たようなものでしたが、それでも頑張って幼馴染みのギターに合わせて懸命にメロディーを紡いでいきました。
それは到底、大人の耳を楽しませられるものではありませんでしたが。
それでも生まれて初めての合奏曲は二人にはとても大切なものに思えたので、それぞれが学校や家のことで忙しくなって祥子が地下室に来られなくなるまでは、ずっと二人の秘密の合奏曲は奏で続けられたのでした。
(ああ……このメロディーは、あの時の……)
モーティスのギターが奏でているのは、あの日二人で奏でたメロディーに違いありません。ピッキングの拙さも、コードを間違える箇所も、なにもかもあの頃と同じでした。
たまらず、オブリビオニスは顔を上げて、ステージの中央に視線を向けてしまいます。
――睦が、いました。
緑色の髪、人形のように整った顔。もうすっかりあの頃のような幼さは消えてしまっていますが、それでも面影はまだ濃く残っています。
なによりも懐かしいメロディーを奏で続けるギターの音色の中に、あの日の睦の姿が隠れていました。
ああ、どうして気づかなかったのでしょう。
睦は――祥子の幼馴染みはちゃんとそこにいてくれていたのに。
祥子との思い出を、ずっと忘れずにいてくれていたというのに。
「ごめん、なさい。……ごめんなさい、睦。睦、睦、睦、本当にごめんなさい。謝ります、何度でも謝りますから。私が浅はかにあなたを傷つけてしまったことも、ちゃんと味方でいてくれていたはずなのに、気づくことができていなかったことも。睦に許されなくても、憎まれても構いませんから。ちゃんと謝りますから、どうか戻ってきて……お願い、睦。どうか私に、謝らせてください……」
次から次に。涙を両方の目から溢れさせながら、オブリビオニスは祈り続けます。
再び頭を下げて――謝罪するように――演奏を続けながら、自分が傷つけて壊してしまった幼馴染みに向けて、必死に呼びかけます。
震えた手で、懸命に鍵盤を叩き続けながら。
キーボードの音が、次第に変わっていきます。
それまでベースとドラムのリズムに合わせていたものが、ギターに合わせたメロディーを紡ぐように。
遠いあの日に、若葉家の地下室で二人で生みだしたメロディーをなぞるように。
優しく、ゆっくりと、祈りを捧げるように。
遠い日の記憶に沈み込みながら演奏を続けていたオブリビオニスは、ふとギターの音が大きくなってきていることに気づきました。
ぼんやりと頭を上げた彼女の目の前には、いつの間にかモーティスが立っていました。
観客席に背を向けて、まっすぐオブリビオニスのことを見つめています。
その左目からひとすじの涙が流れていることに気づき、オブリビオニスは全身を震わせました。これまで以上に、涙が両目から溢れ出してしまいます。
もう目の前が見えません。涙で視界を塞がれながら、オブリビオニスはそれでも演奏を続けました。
そんな彼女の目の前で、モーティスも同じように演奏を続けます。
ゆっくりとしたテンポで、同じメロディーを重ねていきます。
まるであの頃のように。
秘密の地下室で、二人だけでこっそり合奏を楽しんでいたあの日のように。
優しいメロディーを奏で続けました。
――ベースとドラムの音も、いつの間にか変わっていました。
同じメロディーを優しく奏で続けるギターとキーボードを包み込むように。
ゆったりとしたテンポで、二人だけの合奏曲を邪魔しないように。
小さくて、優しい、子供のような音に。
そのまま、四人の演奏は静かに終わりました。
思い出の残り香のような、かすかな余韻だけを残して。
それから少しだけの間を置いて、観客席から静かな拍手の音が響きました。
もう誰もいなくなった、ステージの上に向けて――