弦奏詩 作:藤倉一至
「それじゃあ、また来週のこの時間にお会いしましょう」
「金曜日のパーソナリティーはsumimiの純田まなと」
「三角初華でした」
「「おやsumimi~♪」」
いつもの締めの挨拶と共に、定番のジングルが流れ始めました。
収録終了の合図となるその曲で、スタジオの空気がそれまでの張り詰めたものから一気に弛緩したものに変わります。
「はい、みんなお疲れ様~。また来週よろしくねー」
「お疲れ様でーす」
チーフディレクターのねぎらいの言葉に、スタッフがそれぞれの位置で一斉に返事をかえします。
それから、この後の作業が本番のADやミキサーを除いたスタッフたちは、各自の行動を取り始めました。
携帯を取り出してどこかに連絡を取る者。目の前の机にだらしなく突っ伏して休憩を取る者。さっさと荷物をまとめて帰宅しようという者。
そんなスタッフたちに紛れて、sumimiの二人もスタジオを後にします。
今をときめくアイドルユニットで、番組の主役でもある彼女たちに向けては、当然のようにすれ違うスタッフたちからその都度温かい声がかかります。
「二人ともお疲れ様~。今日も大変だったんじゃない。これ、プロデューサーからの差し入れだから、二人も飲んでパワー充電しといて」
「あ、はい、ありがとうございま~す。これで百人力、ですねー。それじゃあ、わたしたちは失礼しますね~。お疲れ様でした~♪」
「……おつかれ、さまでした」
栄養ドリンクを差し出してきたスタッフに、黒髪の女の子の方が
それからラジオ局の狭い廊下を並んで歩きながら、黒髪の女の子――純田まなが隣を疲れ切った様子で歩く金髪の女の子――三角初華に、渡されたばかりの栄養ドリンクを手渡します。
「はい、ういちゃん。わたしの分もあげるから、ちゃんと飲んでパワー補充しないと、ね」
「え? あ、うん……ありがとう、まなちゃん。……ゴメン、ね」
初華はまなにお礼こそ言いましたが、渡された栄養ドリンクに手を付けることもなく、ぼんやりと歩き続けています。……まるで、さまよい歩く幽霊のように。
そんな相方の悄然とした様子を横目に見るまなは、少しだけ躊躇ってしまいますが、やがて意を決したように口を開きかけました。
と、ちょうどそのタイミングで二人が通り過ぎかけた倉庫の中から、ドアが開いていたせいで誰かの話し声が聞こえてきます。
「そういや、今日sumimi収録に来てるんだっけ。レギュラーのラジオの」
「そうそう、たまたますれ違ったけど、やっぱ二人ともオーラマジ半端ないわ。売れっ子は違うよね」
「もう毎日テレビやラジオに引っ張りだこだもんな。――まぁ、半分くらいはどっかのバンドの穴埋めだけどさ」
「ムジカかー。あれ、ホント迷惑だったよな。お嬢様のごっこ遊びはいいけど、中途半端なところで放り出さないでくれーっての。おかげでsumimiのスケジュールめちゃくちゃじゃん。まなちゃんはまだ元気にやれてるみたいだけど、ういかちゃんそろそろキツそうだもんな」
「カンペキとばっちりだもんなー。……なんだっけ、解散の理由。オブリビオニスとアモーリスがやり合ってたんだっけ」
「そうそう、仙台のライブ――マスカレードだっけ。終わった後に駅で派手にやり合ってたんだとさ。おまけにミュージックフェアでもバチバチだったとか、噂になってるぜ」
「あー、やだやだ。そりゃあ睦ちゃんがあんなに叫んじゃうわけだよ。可哀想になー」
部外者たちの身勝手な会話は、いつまでも続けられそうでした。
気づけば初華の足は止まり、立ち尽くしてしまったようにその場から動く気配がありません。
まなはそんな彼女の様子を痛ましそうに見つめると、意を決したように咳払いをしてみせました。ゴホンゴホンと、わざとらしく。
まなのもくろみどおり、それで余計な会話は止まってくれたようでした。唐突な沈黙が漂う空間で、それまで固まっていた初華の身体がピクリと動きました。
その肩に優しく手をやって、まなは初華をそっと促します。
それで――ようやく初華は動いてくれました。
まるでロボットのようにぎこちなくですが、前に進んでくれています。
そんな初華を支えるように寄り添いながら、まなはなにも言えませんでした。
相方で友人でもあるはずの彼女が今にも壊れそうだというのに、かけるべき言葉がどこにも見当たらないのです。なにを言っても初華の心には届かないような、そんな気がして。
だから、最寄り駅について初華が彼女と別の電車に乗る姿を見送ってしまっても、まなは結局なにも言えないままだったのです――
◆ ◆ ◆
疲労は、汚泥のように彼女の身体にまとわりついていました。
このまま泥のように眠ってしまいたい――電車のシートにもたれながら、初華はぼんやりと思います。
ここ二ヶ月ほど、sumimiとしての初華は多忙を極めきっていました。
ラジオや歌番組だけでなく、CM撮影やインタビュー、雑誌の表紙や宣材の撮影など本当に仕事でいっぱいで、学校に行く暇も眠る暇もどこにもなかったのです。
けれど、今初華がどうしようもなく疲れているのは、それだけが原因ではありませんでした。
「……なにも知らないくせに、勝手なこと言わないでよ……」
耳にこびりついて離れてくれないのは、ついさっきラジオ局の中で聞かされた会話でした。
彼らが話していることはただの噂でしたが、基本的にそこに間違いはありません。
ムジカがいきなり解散してしまったことも、その原因のひとつに
みんな間違いではありません。
でも――それがすべてなわけでもありません。
「お嬢様のごっこあそびなんて、そんなこと言わないであげてよ。……さきちゃんのことなんて、なにも知らないくせに、ひどいこと言わないで……言わないでよ……」
さきちゃんがAve Mujicaを始めた理由をすべて知っているわけではありません。
それでも初華は、彼女が「すべて忘れさせて」と自分に頼んで来たことがはじまりだと知っていますし、さきちゃんがその後は文字通り寝食を忘れるほどにムジカに打ち込んできたことも知っています。
彼女のその必死な姿を一度も見たことがないくせに無責任なことを言ってくる人たちが、初華には許せませんでした。だけど、当事者でありながらただの傍観者でしかなかった初華には、そんな人たちになにか言い返す資格なんてないのです。
――ですから、結局のところ。ムジカの突然の解散とそれによるさきちゃんとの別離、そして周囲の勝手な噂話が初華を追い詰めて、苦しめてしまっているのでした。
その鬱憤を我知らず吐き出しかけた初華でしたが、そんな彼女に向けられる好奇の視線を感じ取ると慌てて口を閉じて、帽子も目深に被って誰からも顔が見えないように隠してしまいます。
そのまま亀のように自分の殻に閉じこもって視線をやり過ごすと、初華はいつもの駅で電車を降りました。
疲れ切った身体をひきずって、とぼとぼとした足取りでようやく家に帰り着きます。
マンションのオートロックをカードで解除し、空っぽの部屋に入ったところで初華は魂ごと抜けていきそうなため息を吐き出すと、靴を履いたままよろよろとドアにもたれかかりました。
もう動きたくないと訴えているのは身体でしょうか、それとも心でしょうか。或いは、その両方でしょうか。
――それでも、しばらくしてから初華は身体を起こすと、のろのろと靴を脱いで、ちゃんと中に上がります。
ぼんやりと半ば自動的にお湯を沸かして、コーヒーを作ります。
できあがったコーヒーをそのまま二つのマグカップに注ぐと、自分の分のマグカップを手に取って、地獄のように熱くて苦いだけのコーヒーをゆっくり胃の中に流し込んでいきました。
「……ひどい味」
感情がひとつもこもっていない呟きをこぼすと、初華はリビングのテーブルの傍にある椅子のひとつに腰を下ろしました。
それから、今はもう彼女以外に誰の姿もない部屋の中を、ぼんやりと見回します。
ムジカが――裏では軋みを上げながらも――続けられていた二ヶ月前は、この部屋にひとりではありませんでした。
ひょんなことからさきちゃんがスタジオに寝泊まりしていたことを知った初華は、行き場のない友人を自分の家に招き入れたのです。
下心があったことは、否定しません。さきちゃんと一緒の時間が欲しかったのは事実です。
だけど、なによりも彼女のことを守ってあげたかったのも、真実には違いありません。それだけは胸を張って言い切れます。
そんなかりそめの同棲生活は、けれどムジカの解散と共にあっけなく終わりを告げてしまいました。
結果として初華の元に残されたのは、さきちゃんの分のマグカップと、たった一行だけの書き置きと、もう既読さえつけられなくなったLINEのやり取りだけでした。
「さきちゃん……今、どうしてるのかな……元気だと、いいんだけど……」
LINEでのやり取りができなくなってしまうと、初華にはもうさきちゃんと連絡を取る手段がありません。
或いは家に押しかけてみるなり、羽丘の校門で待ち伏せでもしてみればどうにかできるかもしれませんが、そこまでやって拒絶されたらと思うと、どうしても勇気が出てきません。
海鈴ちゃんならもしかしたら連絡を取れるかもしれませんが、週に一、二度授業に出るだけが精一杯で、休み時間は別のクラスの子も含めてファンの子に取り囲まれてしまう状況では、そもそも彼女に話しかけることすら難しいのが現実でした。
せめて、LINEのやり取りだけでも復活できたら、初華の心も少しは楽になれそうなのですが――
一縷の希望と、それをみんな塗り潰してしまうような諦観を抱えながら、初華はスマホをショルダーバッグから取り出して画面を眺めます。最後に初華のメッセージだけを残して、既読表示さえされなくなってしまった、さきちゃんとのトーク画面を。
いったいなにが悪かったのか。どうすれば、あのさきちゃんと一緒の時間取り戻せるのかを考えながら、初華はぼんやりと画面を眺め続けて――その変化に、気づきました。
「……ぇ?」
今、既読が、ついた?
信じられず、見間違いかと思って、目を擦り、それからもう一度画面をしっかり見直します。
それでも、既読はついたままでした。最後に初華が送ったメッセージに、ちゃんと既読がついています。
信じられない思いで、喜ぶことさえ忘れたままスマホを凝視し続ける初華の目の前で、さらに画面が変化しました。
さきちゃんからのメッセージが、送られてきたのです。
『お久しぶりです、初華』
『こんなにも長い間ほったらかしにして申し訳ありませんでした』
『その謝罪も兼ねて、初華に頼みたいことがあるのですが、構いませんか?』
『もしまだ初華が私のお願いを聞いてくれるのでしたら、一度どこかで会いたいので初華の都合の良い日時を教えてくださいますか』
『連絡、お待ちしております』
「さきちゃん? さきちゃん!? ホントにさきちゃんだ――っ! さきちゃんさきちゃんさきちゃん、わっ、どうしよ、どうしよっ。いつ、いつが空いてたっけ。待って待って、ちょっと待っててさきちゃん!? 今、今すぐ返事するから、お願い、待ってて――っっっ!!!」
マシンガンのように歓喜の言葉を吐き出し続け、スマホをあたふたと手の中で持て余しながら、スケジュールの確かめ方も頭の中から吹き飛ばしてしまった状態で、初華はひたすらに騒ぎ続けてしまいます。
一旦落ち着くためになにも考えずマグカップを煽ってしまい、口の中を思いきり火傷させてしまったりしながら、なんとか初華がスケジュールを確かめて都合の良い日時をさきちゃんに送ることができたのは、それから二十分後のことでした。
◆ ◆ ◆
ビニールの屋根越しに射し込んでくる太陽の光が、色とりどりに咲き誇る草花たちを照らしています。
同じようにその陽光を浴びながら、初華はスマホを片手に物憂げなため息をひとつついてしまいます。
ちらちらとスマホの時間を確かめても、さきちゃんとの約束の時間まではまだ三十分ほど残っているのは変わりありません。何度も確かめているというのに懲りもせずまたすぐ確かめてしまうのは、それだけ初華が不安を抱えているからでした。
――さきちゃんから会いたいと連絡が来てくれたのは、もう一週間ほど前になります。
返事はすぐにしたのに会う日がこんなに遅れてしまったのは、単に初華のスケジュールの都合が合わなかっただけの話でした。本当ならすぐにでも会いたかったのに一週間も待たされるのは、初華にとっては拷問以外のなにものでもありません。
その、せいでしょうか。
さきちゃんから連絡が来たときにはあんなに興奮して喜んでいたのに、時間が経つにつれて彼女の中にはどんどん不安が溢れてしまったのです。
お願いってなんだろう? もう一度ムジカを……ううん、ムジカじゃなくても、もう一度さきちゃんと音楽ができるならなんでもいいけれど。もしも、そうじゃなかったら?
別の誰か――それこそ、
ありえない想像さえ、頭の中を勝手に駆け巡ってしまいます。
そんな不安を紛らわせるために、初華はスマホから周囲の植物に視線を向けてみました。
適当に散策するように、あちこちぶらついてみながら。
もう秋が来ていますが、温室になっているせいか季節外れの花もちょくちょく咲いている光景が見られます。
ハイビスカス、サルビア、ダリア、オシロイバナ、そして――蓮の花。
モネの睡蓮のように、水面を埋め尽くすように蓮の葉が漂っている中、一本だけピンクの花が咲いていました。
その光景を見て、初華は苦しげに顔を歪めると、花から視線を逸らしてしまいます。
ちょうど、そのタイミングで――
「……初華?」
声がかけられました。驚きが少し混じった、初華のとても大好きな声が。
「さきちゃん……?」
思いがけないタイミングでの再会に、初華も驚きの声をあげることしかできません。
しばらく、お互いの顔を見つめ合ったまま、二人とも呆然と立ち尽くしてしまいます。
「――お久しぶりですわね、初華。約束の時間までは、まだ時間はあるようですけれど」
「うん、久しぶり、さきちゃん。ちょっと早く来過ぎちゃったから、適当に見回ってたんだけど。そう言うさきちゃんだって、約束の時間までずいぶんあるんじゃないの?」
お互いに相手が約束の時間よりもずいぶん早く来てしまっていることに言及すると、二人は申し合わせたように視線を合わせて笑い合いました。
それだけで空白の時間が一気に埋められたような、そんな感覚さえ覚えてしまうほどに、息が合ったやり取りでしたから。
その変わらないやり取りに、初華が心の中でさきちゃんが変わっていなかったことと再会の喜びを噛みしめていると、不意に改まった様子でさきちゃんが頭を下げてきます。
「――今日は時間を取っていただきありがとうございます。sumimiは大忙しのようですから、オフを取るのも難しかったでしょうに。……それもこれも、ムジカの穴埋めを押しつけてしまったせいですわね。本当に、申し訳ございませんでした」
「そんな――謝らないでよ。そんなの、さきちゃんのせいじゃないんだから。私だってムジカの解散を止められなかったんだから、同罪なんだし。……だから、さきちゃんは謝らないで。私は別に、大丈夫だから。ね?」
申し訳なさそうに謝罪を口にするさきちゃんに、初華は慌てて軽薄な言葉を連ねてしまいます。
初華がぜんぜん大丈夫じゃなかったことも、ムジカ解散が睦ちゃんがギターを弾けなくなったせいだと思ってることなんて、さきちゃんに言うわけにはいきませんから。
言ってしまったらそこでおしまいなのは、初華にもわかっているのですから。
「そう、でしょうか。初華の顔を見ていると、とてもそうは思えませんわ。頬もこけていますし、顔色も悪くなっているの、ご自分で気づいておりませんの? 忙しいのはわかりますが、睡眠と食事はしっかりと取っておかないといけませんわよ。睡眠不足は健康によくない! なのでしょう?」
左右の人差し指で×を作るあのポーズを真似して、さきちゃんが可愛らしく言ってきます。
喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないまま、初華は曖昧な笑みを浮かべてさきちゃんの言葉に頷きました。
「そっか、さきちゃんにはわかっちゃうんだね。うん、ごめん。確かに最近は寝る時間もなかなか取れなかったから、健康には良くなかったかも。でも、大丈夫だよ。そろそろ事務所も仕事も減らしてくれるはずだから、これからはたっぷり睡眠時間も取れちゃうはずだしね」
少なくとも、ムジカの穴埋めの分は終わったはずですから。その分の仕事が減るのは間違いないはずです。
「でしたら、よろしいのですが……」
初華の言葉が信じられないのか、さきちゃんがまだ少し疑わしそうに彼女を見つめてきます。
疑われているのは悲しいけれど、心配されているのは嬉しいことなので、差し引きプラマイゼロでしょうか。
さきちゃんは憂い顔のまま少し思案していたようですが、やがて考えが固まったのかきっと表情を引き締めて初華のことを見つめてきます。
「そんな初華にこれ以上負担をかけることになるのは心苦しいのですが、初華でないとできないことがございますので、今日はそのお願いをしに参りましたの」
言いながら、さきちゃんはスマホを持ち出してくると、初華に向けて画面を見せてきます。
「ですが、そのお願いをする前に、まずはこの動画を見ていただけます?」
「あ、うん。これ、このまま再生すればいいの?」
画面に映っているのは、なにかの動画のようでした。言われるまま再生ボタンを押してみた初華は、そのタイミングでその動画がにゃむちチャンネルのものだと気づきました。
あんなにさきちゃんとやり合っていたはずなのに、もしかして初華が知らない間ににゃむちゃんとさきちゃんの関係は修復できてしまったのでしょうか。……そう思うと、胸がなんだかむかむかしてきます。
ああ、まただ――
お馴染みのドロドロとした感情を、むりやり押さえ込みます。嫉妬ばかりの自分の心になんとか蓋をして、初華は動画の方に意識を集中させました。
動画は、ライブハウスで撮られたようでした。
スポットライトが当てられた狭いステージの上に、四人の少女の姿が見えます。
初華のよく見知った、
初華一人だけがいないステージで、四人が演奏をしています。
ただ、決まった曲を弾いているのではなく、どうやらジャムセッションをしているようです。その理由は、動画を見ればすぐにわかりました。
他の三人はちゃんとした演奏ができているのに、睦ちゃんのギターだけが一人どうしようもなく下手くそだったからです。それなのに、他の三人はそんな彼女を支えるための演奏をしているようでした。
やがて、
四人が奏でているのは、とても優しい曲でした。いつの間にか全員の息が合っていたおかげなのか、とても美しく聴こえてきます。
――まるで、そこに初華が入り込む隙間なんてないみたいに。
「これって、どういう、ことなの? 睦ちゃん――ううん、モーティスってギター弾けない、はずだよね。睦ちゃんが、戻ってこれたって、こと……?」
「いいえ、睦はまだ眠ったままですわ」
さきちゃんはそう言って、悲しげに目を伏せました。
「ですから、睦を起こすためにモーティスがギターを弾き始めステージに出るようになって、いつの間にかそれに周囲も引きずり込まれていった、ということになるでしょうか。私も、アモーリスにむりやり引きずり込まれた口ですけれど」
「アモ……? えっと、にゃむちゃんのこと、だよね」
さきちゃんの言ってることも、にゃむちゃんにムジカの頃の呼び方をしていることもよくわかりません。わかるのは、自分がずっと蚊帳の外のままだったと言うことだけです。
「呼び方は、ひとまず気にしないでいただけますか。……とりあえず、そういった事情ですので、暫定的ではありますがAve Mujicaを復活させる方向になりましたの。もちろん本当に復活させるには睦の件以外にもいろいろ解決しなければならない問題が山積みですから、一筋縄ではいきませんけれど」
「…………」
「ですから、初華にお願いしたいのはそういうことです。もう一度ドロリスとして、私と共にステージに立っていただけますか?」
畏まった風に姿勢を正すと、さきちゃんが頭を下げてお願いしてきました。
初華は――それに咄嗟に答えることができませんでした。
どうしてなのでしょう。
Ave Mujicaの復活は、むしろ初華こそ望んでいたことなのに。さきちゃんともう一度音楽ができる絶好のチャンスのはず、なのに。初華はすぐに頷くことができません。
それはきっと――一人だけ蚊帳の外にされてしまっていた事実と。結局、睦ちゃんのためにバンドを復活させたいだけのさきちゃんの態度が、初華の心に楔を打ち込んでしまったのです。
ああ、結局私はいつまでたっても、さきちゃんの一番になれないのかなぁ、と。
そんな諦めにも似た悲しみが、初華の心を満たしてしまったせいで。
「どう、でしょうか。sumimiの活動もありますし、私の身勝手で初華には迷惑をかけてしまったわけですから、無理にとは言えませんが。それでも――」
「うん、いいよ」
それでも、初華は最後にはそう言ってしまいます。
さきちゃんの悲しい顔なんて、もう二度と見たくありませんから。
自分の醜い心なんて蓋をして閉じ込めて、笑顔の仮面を被ることでごまかしてしまえばいいのですから。
「私の残りの人生は、もうさきちゃんに捧げちゃってるから。だから、さきちゃんの好きにしていいよ。さきちゃんが望むなら、なんだってしてあげるから」
「初華……そう言っていただけるのは、本当にありがたいのですが。なんだってしてあげるは、さすがに言い過ぎですわよ。いくら私が残りの人生をすべてくださいと言ってしまったからとは言え、もう少し自分を大事にした方がよろしいかと」
呆れたように言ってくるさきちゃんでしたが、それでも初華の言葉にほっとしたのは表情からもわかりました。
それなら、初華にはなんの問題もありません。
適当に笑顔でごまかしますと、さきちゃんもそれ以上は言ってきませんでした。
「――初華はこの後、時間はありますの? もし良かったら、せっかくですので一緒に見て回りませんか」
「うん、大丈夫だよ。今日は一日オフだから。私も、さきちゃんと一緒にデートしたい、かな」
話し合いがすんなり進んだからでしょうか。一緒の観覧を提案してくるさきちゃんに、初華は一も二もなく頷きました。
元々顔が売れすぎている初華が、誰にも邪魔されずにさきちゃんと二人きりで話すためだけに提案した植物園での会合でしたが、思わぬ副産物があったようです。
デートという単語に一瞬頬を染めた(可愛い)さきちゃんでしたが、咳払いでそれをごまかすと、ふと初華の背後に視線を向けます。
そして、見て回ると言ったくせにその場から動かないまま、ぽつりと呟きました。
「――咲き遅れの蓮ですわね。一輪だけというのが少し淋しい気もしますが、その分美しさも際だって見えますから、良かれ悪しかれと言ったところでしょうか」
その一言で、また初華の心に泥が湧き出してしまいます。
それ以上泥が溢れ出してこないよう後ろは振り向かずに、初華は震える声でさきちゃんに聞いてみました。
「さきちゃん、蓮の花好きなんだ?」
「……どうでしょう。少なくとも嫌いではありませんが、好きかと言われますと躊躇ってしまいますわね」
そう、私は嫌いだよ蓮の花なんて。まるで、自分を見てるみたいで――
ぐちょぐちょに汚れきった泥の塊の中から、綺麗な花を咲かせる蓮の花。
それって、嫉妬や悲しみを抱え込んでぐちゃぐちゃに汚れきった心を抱えてるくせに、仮面でごまかして綺麗に笑ってる振りをしている
だけど、無視することもできないから、聞いてしまうんだ。余計なことなのにね。
「そっか。……じゃあ、蓮の花と百合の花だったら、どっちが好き?」
「蓮と百合、どっちが好きか、ですの? 聞かれる意図がよくわかりませんけれど、そうですわね。どちらも、同じくらいでしょうか。甲乙、とは言えませんけれど、正直差をつけがたいとは感じてしまいますから」
「ふぅん、そうなんだ」
百合が本当に睦ちゃんに似合ってるかはわからないけれど。そう思ってしまったからには、初華の中では睦ちゃん=百合となってしまったので聞いてみたのですが、さきちゃんの答えは初華の期待通りではありませんでした。
ねぇ、さきちゃん、本当にそう思ってる? 私と睦ちゃん、どっちも同じくらいだって。
だったら、どうして私にドロリスなんて名前をつけたのかな? 教えてよさきちゃん。
心の中でそうさきちゃんに問いかけてみます。
もちろん答えは返ってきませんが、それで構いはしません。
迂闊にそんなことを尋ねてみて関係が壊れてしまうことこそ、初華には一番悲しいことなのですから――
◆ ◆ ◆
一人で過ごす楽屋はとても淋しいものでしたが、五人も入ってしまうと淋しくなくなるのはいいとしても、なんだか窮屈に感じてしまうのがモーティスには少しばかり問題でした。
「どうしましたの、むつ――モーティス。なんだか落ち着かない様子ですけれど」
「んー、なんだかここちょっと狭くない? 前のツアーの時とか、他にスタッフがいても広々ーって感じだったのに、ここだと窮屈な気がしてなんかやだなーって。もう少し広い楽屋ってないの?」
「ライブハウスですから、ホールの楽屋よりも狭いのは当然かと。
「……モーティスは、狭いところに大勢でいるのは慣れてない、ということですわね。普段は大勢で集まることはありませんし、大勢で集まるとしたら家でのパーティとかですから。充分なスペースがありますもの」
「さきちゃ――ごほっ、オブリビオニスがそういうこと言っちゃうと、嫌みに聞こえかねないから、あんまり言わない方がいいんじゃないかなぁ」
「あー、ドロ子のありがたい忠告は、ちょーっと遅すぎかなぁ。残念ながらオブ子は天然だもんね、ナチュラルにお嬢様発言しちゃうのはしょーがないしょーがない。うちら庶民は諦めて聞き流すした方がいいってことでしょ。ね、ティモ子?」
「オブ、子!? ――私が天然でしたら、アモーリスはセンスがなさ過ぎですわね。他人に気安くあだ名をつけたがるのは今更ですけれど、もう少し気品というものを保っていただけませんの? いくらなんでも、オブ子もドロ子もティモ子もありえませんわ」
「えー、オブ子にそんなこと言われてもねぇ。仮面つけてマスカレードとか、それこそセンス古すぎでしょ。平成じゃなくて令和なんだから、もう少しアップデートした方がいいんじゃない? この衣装にしてもさぁ――」
「二人とも、ケンカはダメ! ダメったらダメ! もう、ちゃんと仲良くしてよ、二人とも。私たちは共に音楽を奏でる運命共同体なんだから、仲良くしないといけないんだよ!?」
ですが、五人もいるととっても賑やかで、みんなと喋っているうちにそんな窮屈さも忘れてしまうくらい忙しいので、モーティスはいつの間にかそんなことなんて忘れてしまいます。
モーティスの仲裁に気勢が削がれたのか、もう少しで一触触発状態だったオブリビオニスとアモーリスも大人しくなってくれました。
立ち上がったオブリビオニスがティモリスとなにやら打ち合わせをはじめると、アモーリスはソファにふんぞり返ってケータリングのドーナツを手に取って美味しそうにパクつきます。
モーティスはそんな彼女たちを横目に見ながら、自分も立ち上がってドロリスの元に向かいます。
ドロリスはちょっと難しい顔で、ひとりギターの調整をしているようでした。
そんな彼女のすぐ傍に立って、モーティスが話しかけます。
「ありがと、ドロリス。
「ううん、そんなことないよモーティスちゃん。私もムジカのことはずっと心残りになってたから、こうしてまたみんなで集まれてとっても嬉しいから。私の方こそありがとう、モーティスちゃん」
うっすらと笑みを浮かべて、首を横に振りながらモーティスにお礼を言い返してくるドロリス。彼女はそれから少し声を潜めると、
「それより、ギターの方は大丈夫? 私も最大限フォローはするつもりだけど、曲の見せ場はモーティスのギターの方だから、リハの出来だと正直キツい感じだと思うんだよね。みんなは――オブリビオニスもそれで仕方ないって感じだったけど、モーティスちゃんはどう? やっていけそう?」
少し不安そうな声でそう聞いてきました。
二十分ほど前に行われたリハーサルでモーティスは無事醜態を晒してしまったので、ドロリスが心配するのも当然のことではあります。……もっとも、彼女の言葉には別の感情も含まれているようでしたが。
「うん、大丈夫、だと思う。私だとむつみちゃんのように上手くは弾けないけど、それでもできる限りは頑張ってみるから。だから、ドロリスは私のフォローよりも、自分のことの方に集中して欲しいかな」
だからモーティスは人形のように無表情のままそれだけ答えると、そのままドロリスの耳に顔を寄せてそっと囁きました。他の誰にも聞こえないような小さな声で。
「……ういかちゃんがさきちゃんしか大事に思ってないのはわかってるから。だから、ういかちゃんはそのままでいいよ。バンドに戻ってきてくれただけで充分だから。さきちゃんのために、みんなを――むつみちゃんを大事にしてくれたら、それで構わないから」
「――――っ!?」
驚いた顔でドロリスが目を瞠りますが、モーティスはそんな彼女には構うこともなくそのまま離れていきます。遠ざかっていく緑の髪の人形のその背中に、金色の髪の少女が声をかけようかと一瞬口を開きかけますが、それが形になる前にノックの音がして、スタッフが開演時間が迫ってきたことを告げてしまいました。
「――それでは皆様。ステージに出る前に、仮面を忘れずにお願いいたします」
それで一斉にステージの準備を整え出したメンバーに向けて、オブリビオニスが厳かとも言える口調で言ってきます。
アモーリスがそれを聞いて、やはり不満そうに口を尖らせました。
「仮面、ねぇ。もう顔出しもしちゃってテレビにも素顔で出てたのに、今更つけ直しちゃうわけ? それってどうなのよ」
「だからこそ、ですわ。――これで本当に終わってしまうにせよ、復活が叶うにしても。いずれにしろ一度終わってしまったものをやり直そうというわけですもの。それなりのけじめが必要ではありませんか?」
堂々と言い返してきたオブリビオニスに、アモーリスは両手を挙げて降参を伝えると、そのまま自分の仮面を素直に身につけます。
そんな彼女にならって、ティモリスもドロリスもモーティスも、もちろんオブリビオニスも仮面を身につけました。
メンバー全員が仮面を身につけてくれたことを確認すると、オブリビオニスが満足そうにひとつ頷きます。
それから、少しだけ躊躇いを見せてから、それを振り払うようにわざとらしく咳払いをしてみせます。
「――みなさん、円陣を組んでいただけますか」
一人取り残されたモーティスは、なにも理解できないままとりあえず他の三人と同じように、五人で円を作るような位置に移動しました。……オブリビオニスは、いったい、なにをするつもりなのでしょうか。
「我、忘却を恐れる勿れ」
五人が円陣を組めたことを確認すると、オブリビオニスが彼女の台詞を口にしながら手を前に差し出します。
すると、彼女の手の上に重ねるように手を突き出しながら、ティモリスも同じように台詞を口にしました。
「我、恐れる事を恐れる勿れ」
「我、悲しみを恐れる勿れ」
「我、愛を恐れる勿れ」
続いて、他の二人も同じように台詞を口にしながら手を重ねていきます。
それを見て、モーティスもようやくオブリビオニスがなにをしようとしているのか理解できました。
「――我、死を恐れる勿れ」
四人を真似て、自分の分の台詞を口にしながらモーティスも彼女たちの手の上に自分の手を重ねます。
そうして五人の手が重なったのを見て、オブリビオニスが口元にかすかな笑みを浮かべると、最後にこう告げました。
「それでは、これより今宵のマスカレードを始めましょう」
◆ ◆ ◆
ステージの袖からそっと覗き見てみると、観客席はもういっぱいのようでした。
ぎゅうぎゅうにすし詰め寸前になる寸前のように見えますが、それでも一定の隙間は空けられるよう配慮はされているようです。もしかしたら、入場制限もかけられているかもしれません。
――一応混乱は避けるために――RiNGに迷惑をかけないためにも――バンド名は伏せて、ただ仮面のバンドとしか告知していないはずですが、あまり意味はなかったようです。
「……すごい。いっぱいになってる。最初は、あんなに少なくなってたのに……」
同じように観客席を眺めていたモーティスがポツリと呟くのを聞いて、ドロリスは首を傾げました。
にゃむちチャンネルの動画を見る限りは、ここまでではなくてもそれなりに観客は入っていたようでしたが、最初の頃はもっと少なかったということでしょうか。
「これもあたしの動画のおかげってことやろうね。……こん人らの期待ば応えてあげるのが、プロの仕事ばい。そうやろ、オブリビオニス」
「当然ですわ。……ですが、モーティス。それは私たちの役割ですから。あなたは余計なことは考えず、ただ自分のできることだけに集中するようお願いいたしますわ」
モーティスに優しい言葉をかけると、オブリビオニスが真っ先にステージに出て行きます。そのすぐ後にアモーリスが、それを追うようにモーティスが続いていきました。
そんな三人を目を細めて見送っていたティモリスも、無言のまま出て行きます。
一人残される形になったドロリスは、ギターを抱えたまま少しだけ逡巡してしまいます。まだ暗闇に包まれているはずのステージがなぜだか眩しすぎて、自分もそこに飛び出していくのが怖く感じられてしまったせいで。
「……我、悲しみを恐れる勿れ」
その恐怖をはねのけようと、ドロリスは目を閉じて台詞をもう一度口にしました。さきちゃんに与えられた、彼女だけの呪文を。
そうして、なけなしの勇気を振り絞ると、ドロリスも他の四人と同じようにステージに出て行きます。
その瞬間、いっそう大きくなった歓声が彼女たちに浴びせかけられました。
大歓声の渦の中、メンバーがそれぞれの定位置に付いたのを確認すると、オブリビオニスがドロリスにアイコンタクトを送ってきます。その宝石みたいに美しい瞳が自分に向けられている喜びを感じながら、ドロリスは唇を噛みしめ頷き返しました。
今はもう一度彼女と音楽ができる喜びだけを考えようと、自分に言い聞かせながら。
やがて警告音にも似た電子音が、会場内に響き始めます。
そこにキーボードのメロディとドラムのリズムが入り込んできました。
『Ave Mujica』のイントロが始まったのに気づいた観客が、一斉に悲鳴のような歓声を上げたのが聞こえてきました。
そこにベースの低音も加わりますが、ギターは入ってきません。
いえ、入ってきてはいるのですが、途切れ途切れの上に音も小さいためにほとんど聞こえてこないのです。
そのことに全員気づいているはずですが、誰も演奏を止めようとはしません。
ですから、ドロリスもあたりまえのように曲を続けるしかありませんでした。
「――ようこそ、Ave Mujicaの世界へ」
いつもの口上を述べると同時に、自分のギターをかき鳴らします。
モーティスに与えられたフレーズではなく、ドロリスに与えられたフレーズだけを。
――そうして、ドロリスがあっという間に一つ目のサビを歌い終えても、モーティスのギターの調子は変わらないようでした。
聴かせどころのはずのギターがまともに響かなくても、バンドとしての演奏が一応成立しているのは、ある意味奇跡と言っていいでしょう。リズム隊として曲を支える二人と、モーティスの分のメロディーを少しでも補おうと頑張っているオブリビオニスのおかげなのは間違いありません。
ドロリスもどうにかしたくはありますが、自分のパートの歌とギターだけで精一杯ですから、それ以上のことができるはずもないのです。それでもせめて足を引っ張らないようギターをかき鳴らし、声を張り上げます。
――そんなドロリスの心の隙間に、ふと冷たい闇が忍び込んできてしまいます。まるで蓮の葉を覆い隠す泥のように。
こんなもの、さきちゃんが創りたかった音楽なんかじゃない。できるだけ頑張るって偉そうに言ってたけど、結局全然できてないじゃない。さきちゃんにあんなに大事にしてもらえてるのに、足引っ張らないでよ。邪魔するだけなら、どうしてしゃしゃりでてきたの?
責める言葉がどんどん溢れ出してきてしまいます。心がドロドロに濁りはじめてきました。
そんな情けない自分が許せなくなりそうで、ドロリスは思わずオブリビオニスから視線を外してしまいます。
それから、視線を逆にして、モーティスの方に向けてみました。
立ち位置的にフロントに立っているドロリスからすれば、オブリビオニスとモーティスはちょうど左右に分かれているため、どちらかに視線を向けてしまうともう一方には視線を向けられません。
ですから、ずっとオブリビオニスの方ばかり見ていたドロリスがモーティスを見るのは、演奏が始まってからはじめてのことになります。
――だから、気づかなかったのです。
モーティスが懸命にギターに食らいついている姿に。
仮面に覆われているから表情は読み取れませんが、それでも雰囲気から彼女が必死に頑張っていることは、その姿を見ればドロリスにもわかります。
弾けないなら弾けないなりに、少しでもマシな演奏をしようと力を振り絞っていることが。
――でもいくら頑張ってみても、弾けないままなら結局意味ないんじゃない?
そう否定することは簡単です。そう思ってしまう自分がいるのも事実です。
けれど、どうしてでしょう。そう否定してしまいそうになる自分こそ、否定したくなってしまうのは。
無様でもあがき続けるその姿から、目を離すことができないでいるのは。
(……ああ、ホント私ってバカだよね。なにが、いつまで経ってもさきちゃんの一番にはなれないのかなぁ、なんだか。そんなの、私がなにもしてないからに決まってるじゃない――)
そんな
自分がさきちゃんの一番になれないことをずっと嘆いていたけれど、そんなのはあたりまえのことだったのだと。
だって、
本当に欲しいものがあるなら、それを手に入れるためにもっと必死になってみる必要があったはずなのに。
それに、さきちゃん以外に欲しいものなんてなかったから、さきちゃん以外のものを大切にしてこなかったけれど。それじゃあ、さきちゃんに本当に大切にしてもらえるわけなんてないよね。だって、そうするってことは、さきちゃんのことなんて全然わかっていないってことなんだから。
さきちゃんが大切にしているものを見ようともせず、ただ嫉妬するばかりでさきちゃんの心を大切に扱ってこなかったんだから。そんな私がさきちゃんに本当に大切にされるわけがないんだって、そんなの決まっているよね。
あーあ、本当、バカみたいだなぁ私。
愚かな自分の滑稽さに、ドロリスはたまらず苦笑を浮かべてしまいます。
このままみんな放り出してしまいたくもまりましたが、さすがにそれをやってしまうと本当の愚か者になってしまいます。
それなら愚か者にならないためには、今の自分はどうすればいいのでしょうか。
自分にそう問いかけてみたところで、ドロリスはふととある記憶を思い浮かべました。
途方に暮れていた少女に向けて、自分が言ってみた言葉を。
『歌って、届く気がするよね』
それは半ば自分に言い聞かせるための言葉でしたが、それでもあの少女はそんな頼りない自分の言葉を信じてくれたようでした。
あの少女がその後どうなったかは知りません。初華の言葉が役に立ったのかどうかも。
けれど、もしもあの言葉が真実であるならば。本当に、自分の歌が誰かに届くことがあるとしたら。
今この瞬間こそ、それを証明するときではないでしょうか。
「――っ」
自分に与えられたフレーズを無意識に弾き終えたところで、ドロリスは息を呑みました。
曲はいつの間にか、もう中盤に入っています。ちょうど二回目のサビに入ろうとしているところでした。
それに気づいたドロリスは最後にモーティスを一度だけ睨みつけると、意識を曲だけに集中させます。
クライマックスに突き進む曲に合わせて。
Ave Mujica...仮面の民は誘う(Fortuna)
この歌声がもしも誰かに届けられるなら、どうか睦ちゃんの元へ届きますように。
Ave Mujica...安らかな世界へ(Lacrima)
このまま睦ちゃんが起きてこないなら、さきちゃんは私だけのものにしてあげるから。
だから、それがイヤなら今すぐちゃんと起きて来ないとダメだよ。
あなたの過去を差し出すのなら(必ず)
ちゃんと起きてこられたら、その時は私と勝負しようよ。
どっちがさきちゃんの一番になれるのかのね。
いかなる(願いも)いかなる(望みも)
だから睦ちゃん早く起きてよ。
さきちゃんを一人にさせないで、お願いだから――
Sic...叶えてあげる