総走行距離65000㎞、車体重量311㎏、冷水4ストローク70度V型DOHC1198ccエンジン搭載、新車販売当時のキャッチコピーは『魔神』。 作:てりのとりやき
オリジナル:現代/ノンジャンル
タグ:乗り物
走行中、突然エンジンが止まった。
「……」
そこは静岡県伊豆市のどこか。温泉と山道と美しい海岸で構成された地。伊豆半島と呼ばれる場所。
冴島冴という名の女は、自身のバイクに跨ったまま、誰一人通りがかることのないひっそりとした山道の途中で重い息を吐いた。
季節は冬の始まり。女の吐く息はただただ白い。
◇
総走行距離にして65000kmというのは、二輪車においては過走行であり、買い替えを検討すべき距離でもあった。確か納車時の総走行距離が30000km弱だったはずだ。35000kmも大した故障もなく走り続けたのはバイクとしては十分すぎるのかもしれない。
中古の、冷水4ストローク70度V型DOHC1198ccエンジンを搭載した、重くて燃費が悪くて殺人的加速を誇る国産メーカー発大型二輪車。気になって調べた新車発売当時のキャッチコピーは『魔神』だったらしい。
そんな『魔神』は車体重量300㎏超を動かすための原動力──エンジンが一切かからない状態にあった。
「……」
冴は冷静に、エンジン始動不良の原因を探っていった。
セルモーターは回るので電装系の異常ではない。バッテリーの電圧も確認したが問題なかった。スパークプラグは先日交換したばかりだから故障原因ではないはずだ。ガソリンタンクには十分な量のガソリンも入っている。もちろんチェーンの破断やタイヤのパンクなど無い。
あり得るとしたらエンジン内部かもしくはクラッチ……だとしても旅先の山道では調べるための工具など持ち合わせていない。
つまるところ現状から考えられる故障原因はエンジン関係としか言いようがなく、それ以上が分からないのであれば『原因不明』であり、なおかつ『今この場での対処は不可能』ということだ。
ロードサービスを呼ぶべきだろう。しかし冴は携帯電話の類を持っていない。
通りがかる車を呼び止めて電話を借りようか──そんなことを冴は思考の片隅にさえ浮かばせることがなかった。そもそも人気の絶えた山道ではバイクが動かなくなる前から他の車と出会っていない。
(押してくか)
冴の精神はずっと前から極限状態だった。劣悪な燃費性を誇るリッター車で、転々とガソリンスタンドがあるような山道を無計画に走る程度には。
そんな冴からすると、300㎏を越す二輪車をエンジンの力なしに押し進めるのは大して悩む必要のない選択肢だったらしい。道端に除けていたフルフェイスヘルメットをハンドルバーのヘルメットロックに固定すると、タンデムシートに取りついているバッグ類の固定が緩んでいないか確認してから、ゆっくりと登坂を歩き出した。
「……」
冴は、今年で24歳になる平凡な女、と自身を認識している。165㎝の身長は大型二輪車に乗ることを意識したトレーニングで多少の筋力を身に付けていたが、だからといって鉄塊に等しい大型バイクを押し続けるのは並大抵の所業ではない。だが冴はやった。無心のまま。時折うめいては休憩してを繰り返しながら。
そうしてバイクが故障してから小一時間ほど経っただろうか。遥かに鈍いペースで何度目かの坂道を登り切った先で、冴は思わず顔を上げた。
首を下げて踏ん張っていた視界の上端に、人の両足が映ったからだ。
「…………」
山中の、延々と繰り返す峠道の頂上部分。
道の真ん中に女がいた。長い黒髪が印象的な女。年齢は近いかもしれない程度に若く見える。
女と目が合う。冴はすぐに目を逸らした。女はにっこりと笑っていたが、冴は重く長い息切れのせいで表情筋を動かす気力さえない。
「何してんの?」
「………………」
五秒間、何を言われたのか咀嚼するのに必要だった。ゆっくりとバイクのサイドスタンドを足で広げ、自立させてから、女の言葉をようやく理解した。
行動の意味を問われている。こんな山道でバイクを押して歩く女の、行いを。
「バイク、壊れてて」
そんな細切れの単語を吐くように呟いた。
誰かと喋るのは久々で、喉の調子が気になった。
「あーそれで押してるの? ……すごいね!」
能天気な言葉の通り、女の表情は無駄に明るい。伸び伸びと生い茂る樹木で覆われた曖昧な青空よりも明るい笑顔に、冴は愛想笑いも浮かべない。
「ん? でもこの辺って電波通ってるよね。ロードサービスとか……呼んだ方がよくない?」
「…………スマホ、持ってないから」
「なるほど」
女の視線が壊れたバイクに向かう。会話の終わりを冴は感じて、だからこれ以上何かを言う気はなかった。
冴は数回の呼吸で息を落ち着けると、またバイクを押し始めた。今度は下り道。押して歩くよりも跨っていった方が楽だ。ブレーキをかけつつ慎重に下り坂を進み、上り坂の手前でまた降りて、押し歩く。これを延々と繰り返せば、そのうち公衆電話のある街中にでもたどり着くだろう。
ふと冴は同じペースで歩く誰かが後ろに居ると気づいた。思わず振り向き、尋ねてしまう。
「……付いてくる気?」
「うん」
先ほど出会った奇妙な女だった。長い黒髪の毛先は起伏の激しい道を行くせいでか、軽やかに揺れている。その身一つで歩く女は大層身軽に見える。
「なんで」
「なんでだろ?」
「……」
なんだこいつ。
冴は女の名前を聞く気すらなかった。他人と好んで触れ合う性格ではない。そんな性格ではなくなった、と言った方が正しいか。
女は、どうも害意はなさそうなので放っておくことにする。それ以上は何も言わず、尋ねず、冴は延々とバイクを押し続けた。何度も休憩を取った。
数時間が経過しても女は少し後ろを付いてくる。冷静になって考えれば異常な状態だったが、孤独に慣れすぎた冴は疲労もあってかそこまで頭が回っていない。
それどころか不意に考えてしまった。
(本当にスマホ持ってないか聞けばいい)
さすがに貸してくれるだろう。だが、聞こうとして辞めた。手ぶらだし、持っていなさそうだし、何より──何より冴には他人の手を借りることが途轍もなく大きな障壁に思える。壊れたバイクを押し歩くことよりも。全身を覆う疲労の重圧以上に。
休憩中、女は気安く話しかけてきた。
「バイク置いてった方がよくない? 故障車だし、誰も持ってったりしないと思うよ。それで助けを呼んで戻ってこればいいと思うんだけど」
「放置するのは嫌」
冴は即答した。サイドスタンドを立てて停めたバイクのすぐ隣で座り込む冴に、同じようにして座る女は目を丸くする。
畳みかけるようにもう一度冴は断言した。
「それだけは、絶対に、嫌」
へー。と女は意味もなく笑っている。屈託のないその笑顔の真意が読めず、冴は休憩を終えてまた押し歩きだす。
「これは……機械部品の塊なの」
無駄な体力を使うべきではないと分かっていたのに、何故か口から言葉が出ていた。
いつの間にか隣に並んでいる女は静かに耳を傾けている。古い道路を覆うように乱立する樹木のように黙っている。だから冴も前を向いたまま続けた。
「もちろん電装品も積んでるけど根本的な動作原理はガソリンの発火に伴う機械部品の連結で。──鉄の塊は絶対に私を裏切らないから」
簡単に裏切る人間とは違って。
「だから、それだけ」
──日が落ちていく。樹木の陰に消えていく夕焼けを見て、これ以上の無理は危険だと冴は判断した。斜角のないなだらかな道の路肩にバイクを停め、シートバッグに詰め込んでいた緊急時用のアルミシートを取り出して体を覆うとその場で腰を下ろす。
「今日はここで休むから」
「休むってこんな道の脇で?」
「どうせ誰も来ないよ」
「まあそうだろうけど……」
未だに付いてくる女に、予備のアルミシートを使うか訊くと「いらない」と首を横に振った。……疲労で凝り固まった思考が、さすがにおかしいのではないかと冴に警鐘を鳴らす。
今日、一日、車一台通りがからなかった人気のない山道だ。そんなところを何の道具も持っていない女が歩いている。しかも何故か付いてくる。更に言うなら季節は冬の始まりで、日中暖かいといっても陽が落ちる山道の気温は余裕で零下まで至る。底冷えするような寒さに冴の体は震えだしていたというのに、季節に沿った程度の厚着しかしていない隣の女は寒さを微塵も表に出さない。
「……」
「……」
ホラー映画にでもありそうな展開だな、と冴は他人事のように感じた。携帯食料としてツーリング時はいつも持ち歩いている個包装の羊羹を幾つか取り出し、無言で食べる。糖分とカロリーと水分を同時に摂取できる万能食だ。隣の女に「いる?」と聞いても返ってきたのは「いらなーい」という気の抜けた返事だけ。
あっそ。
思って、羊羹を数個食べ終えた冴は目を閉じた。登山用のガスストーブも持ち歩いているが無駄遣いはできない。さっさと眠りに着こうとしたが、整備もされていないアスファルトの地面は座り心地も悪ければただただ冷たいばかりで、少しばかりも冴を眠らせようとはしてくれなかった。
「……」
隣からはすやすやとバカみたいな寝息が聞こえるなか、冴はただただ夜が明けるのを待った。控えめに言っても二度と経験したくない地獄だった。
そうして眠ったのかどうかも分からない夜が更けた早朝。朝日が昇りだすのと同時に気温の上昇を肌で感じ、すぐさま行動を起こした。今日中に問題を──壊れたバイクを何とかしないと、本当に命に関わる。
「んむ。もう行くのー?」
「……うん」
先ほどまで元気に寝ていた女は、冴がバイクに手を触れた瞬間起きた。声を掛けようか悩んでいた冴は選択肢が自然と消滅してどこかほっとしていた。
冴はまたバイクを押し歩き始める。まともな睡眠を取れていない体は、疲労が血管の中を溶けた鉛の形をとって這い回っている気さえした。それほどに体が重く、一歩一歩がひたすらに苦渋だった。
「あとどれくらい歩くの?」
「知らない……。地図とか、持ってない」
信じられないものを見るような目で女がこちらを見つめてきた。
理由を求められている。まともに答えるのも嫌だったが、他人の無遠慮な視線を受け流し続けるのはもっと嫌だった。
「自分に関わる全般、これからどこに行くのか前もって知るのが、なんとなく嫌になっただけ」
「変わってるね」
「……そうだと思う」
「自由気ままな旅って感じすごく良いけど、今の状況はさすがにまずくない? 下手したら死ぬと思うよ?」
無責任な言葉だな。
「それで死ぬなら別に良い。不満ない」
「だからどうでもいい、って?」
「……そう」
「馬鹿じゃない?」
「そうだね」
噛み合う事のない会話に意味を見出せない。横の女に目を向けることもなく冴は黙々と道を歩き続ける。女も気にせず冴を質問攻めにし続けた。
「仕事は?」
「してない」
「お金大丈夫?」
「三回死んでも足りないくらいある」
「どこ住んでるの?」
「ここから遠いとこ」
「バイク好き?」
「……さあ」
「──そのバイク買った経緯とか教えてくれたりする?」
「……」
経緯。
そんなものあっただろうか。冴は坂道を見上げながら考えて、考えて考えて、ようやく一言だけ捻りだした。
「気づいたら納車されてた」
別段、欲しかったから買った訳でもない。使用者の名義変更は既に済んでいるが、元々は父親が購入した中古車だ。この大型二輪車に出会うまでバイクに乗ろうだなんてことは考えたことすらない。
「んへー。気づいたらってなんか……なんか凄いね!?」
「さっきからそれしか言ってない」
「そうだっけー?」
女の質問攻めはそこで終わりのようだった。無駄な体力を使わなくてほっとする。
起伏と坂だけで構成された山道は樹木の緑ばかりが占めている。道の先は折れ曲がったカーブの奥に隠れて見えない。冴には一生この道の先に抜け出ることが出来ないような気さえした。
精神力だけで300㎏超の重量物を押せるはずがない。昨日よりも如実に早いペースで重く、鈍くなる冴の進みに、女がタイミングを見計らったかのように提案する。
丁度、何度目かの坂を上り終えたところだった。
「また休憩する?」
「……そうする」
その場でバイクを停め、──停めた次の瞬間にはその場にへたり込んでいた。
「ふっ……ふっ……」
足首、脹脛、太腿、腰、背中、両肩、腕、肺、首。何から何まで重い。筋肉という筋肉が悲鳴を上げている。きっと満足に眠れていないからだ。大型バイクを押し歩くなんて狂気的行為をしているからだ。硬くて冷たいばかりのアスファルト、始まりつつある冬が奪う体温、口に出来るものは携帯食料として持ち歩いている羊羹だけ。
たった一日で肉体は限界を迎えていた。
きっと、二日目はないと冴の頭のどこかがそう結論付けるほどに。
「ねえ、もうバイク置いて行こうよ」
「……」
「明らかにそのバイク重いでしょ。重量どれくらいあるの?」
「300キロ以上……」
「そんなの今まで押してたの!? すごいね?!」
「捨てて行くくらいなら……」
今ここで死ぬ方がましだ。
冴の、黒い瞳に混じる澱んだ情に女は焦った様子で言い返す。
「わかったから少し休みなよ。酸欠でちょっとまともじゃないんだよ」
「……」
分かってる。分かっているけど、進まないといけない。
冴島冴には『これ』しか無いのだから。
「ねえ、暖かい飲み物とか食べ物ないの? 顔真っ青だよ。なにか……何かないの?」
言われて、そういえば登山用のクッカー類がシートバッグの中にあったことを冴は思い出した。
のろのろと重い腰を上げて道具を取り出す。小さなガス缶、マイクロストーブ、チタン製のカップ……。
マイクロストーブとガス缶を接続し火を熾す。高温の青い炎の上にカップを置き、ペットボトルに入れていた水を注いだ。チタン製カップはすぐにお湯を作る。おお、と冴の隣で女が色めき立った。
「あるじゃん良い感じのやつ!」
「…………姉が、キャンプ好きだったから。その時の道具が沢山あって、借りてる」
沸騰を終えたお湯を何度も口に運ぶ。体から損なわれた熱がゆっくりと戻っていく錯覚さえ感じるほどに熱く、暖かい。ただの白湯をこうまで美味しいと感じたことはきっと初めてだろう。両手の中にある、直火で複雑な色彩を身に纏うチタンのカップを見て、冴はその奥に自身の姉の笑顔を幻視した。
自慢の姉だった。行動力があって。いつも明るくて。
せっかくだしみんなで旅行に行こうよ────そう言いだしたのも姉だった。
「三年前」
そう。もう、三年も経つ。
大学生で、就職先が決まって、だから家族全員で旅行に行こうって話をしていた。
旅行初日、下宿先まで家族が車で来ることになった。
『もうすぐ着くよ』
姉のメッセージを見て、家を出た。交差点の先に居る車を、車内で手を振る母を、ハンドルを握る父を、後部座席に座る姉を──彼らに手を振って。
青。
青信号だった。
もしも冴島冴が神に匹敵する力があったなら、赤く変えたいとどれだけ願ったか分からない青が。
「家族が事故で死んだの。姉と父と母。みんな即死で、みんな人の形してなかった」
その車は、冴が待つ目の前の交差点で、搭乗者ごとひしゃげた鉄の塊になってしまった。信号無視をした大型トラックの運転手に何があったのかいまだに冴は知る勇気がない。事故の整理は気付いたら終わっていた。手元に残ったのは父親が加入していた保険金と、遺産と、そして父母姉の暮らしていた実家だけ。冴が人生を二回やり直しても足りないくらいの金銭と、家族の居た痕跡ばかり溢れる不動産だけしか残らなかった。
「実家に戻って、ずっとぼんやりしていたと思う。そしたら電話が鳴った」
無感情に受話器を取ると、バイク販売店からの電話だった。父親が死の直前に契約した中古のバイクがあるという。二人の娘がそれぞれ独り立ちして、趣味でバイクでも乗ろうとしたのだろう。今まで知らなかった冴はそのバイクを実家で受け取る事にした。
……今にして思うとバイクショップの店員は免許未所持の冴に対して納車することに、何かしらの葛藤があったのかもしれない。だが、懇切丁寧にその中古車の乗り方や起動のさせ方、状態の説明をしてくれた。
小ぢんまりした家には不似合いな、無骨なフォルムの大型二輪車。
車体重量311㎏。冷水4ストローク70度V型DOHC1198ccエンジン。
『魔神』。
機械部品の塊。
長い時間を生きたのだろう、あちこちに擦り傷があった。
「庭先に置いてもらって、一人でずっと眺めてた。父は何を思ってこのバイクを買う事にしたのか。それなりに高かったけど、母はなんて言ってそれを許したのか。大型二輪の免許持ってるなんて聞いたことないし、免許代だってかかったと思う。姉は教習所に通う父をどんな風に笑ってたのかな……」
三人が生きていた家で、一人で、ずっとそんな事だけ考えて。
「……そしたらある日突然、跨ってみたくなった」
幸いシート高は775mmで冴の両踵が地面にべったりつくくらいはあった。
正しい乗り方も分からないバイクにおっかなびっくり乗って、サイドスタンドを足で払って、自身の五倍以上はある重量物を股下に抱え込むようにして立った。
その時だ。
冴は何故か泣いてしまった。
「──泣いた? なんでまた」
「……支えてやらないとすぐに転倒してしまう重さが、すごく虚しくて、それで」
上手な言葉にはならない。決してなることは無い。
車体重量311㎏だ。そんな鉄の塊が、原動力がなければ碌にハンドルを切ることさえ難しいような物体が、その五分の一にも満たない体重の女が乗ることで支えられているという現実に──どうしようもない現実と、これからの未来を突きつけられた気がしたのだ。
「初めてこのバイクに跨ってようやく、もう私に家族はいないってことを自覚したんだと思う」
だけどそんな現実を突きつけるのが無慈悲な他人でなく、決して物言わぬ機械で良かったと冴は本気で思って、このバイクに感謝したのだ。そうしてひとしきり泣いた冴がこのバイクを運転できるようになろうと決意したのは彼女にとっては自然のことだった。
乗ろう。
この、重くて古い二輪車に。父の代わりに。
そう決意してから大型二輪車の免許はすぐ取得した。
初めて公道に出て、緊張から何度かエンストした。
危うく立ちごけしそうになったことが何回もあった。
初めて雨の中走った時は死ぬ気がして怖かった。
──だけど晴天の下、凹凸のない緩やかなカーブの道を人機一体となってバンクさせながら駆け抜けていった時、本当に……楽しかった。
「あの時……初めて気持ちよくカーブの道を走れた時、許されてる気がした」
「許される?」
「私だけが生きていることを」
「それは──誰に?」
「誰でもいい。誰でもない、何かに」
古いバイクだから何度も修理や整備に出した。その度に馴染みの店からは買い替えを勧められた。それでも冴は、新しいバイクを買うということができなかった。
この、重くて燃費が悪くて殺人的加速を誇る往年の名車は、『魔神』だなんて大層なキャッチコピーがあるけれど、父と母と姉の最後の残滓だったから。そのエンジンが生み出す排熱だけがもうここには居ない家族の熱量だったから。
「少なくとも私がまだ生きているのは、このバイクのおかげ」
だからもしこの乗り物が本当に動かなくなったのなら、自分は死ぬのだろう。
冴はいつの頃からか自然とそう考えるようになっていた。この極端に捻くれた鬱屈が家族の喪失によるショックから来るものだとは自覚している。冴はそれでも、一瞬で破断した自分の世界をもう一度構築し直そうとは思わなかった。思えなかった。
「なんか生き辛そうな生き方だね」
「……」
否定のしようがない。冴は黙ってカップの底に残った湯を飲み干す。
もう十分休憩は出来た。立ちあがった冴が片づけを始めるのを眺めながら、女は追い打ちでもかけるみたいに笑って言い募った。
「何も言い返せないくらい生き辛いなら、捨ててもよかったんだよ?」
「上手な生き方、もうできないから」
そう言うだけの冴に、女は呆れた様子で鼻を鳴らした。両肩を竦める仕草はどこか似非欧米風で、気取っているように見える。やがて、ぽつりと。
──「仕方ないなあ」。
そう、嬉しそうに呟くのを、冴は無感動に見つめた。
「私は知ってる」
何を。
冴の、暗い暗い澱みに沈んだ瞳から顔を背けて、真っ青な海と空を見つめながら女は続ける。
「私は知ってるよ。あなたがどれだけ大事に乗っていたか。どれだけの情熱をその乗り物につぎ込んだのか。遠出から帰ったら必ず洗車とチェーンの掃除を欠かさなかったことも。暇さえあればそのバイクを日がな眺めていたこととか。台風の日に倒れてないか心配になって何度も見に来たこともそう。……全部、私は覚えてる」
「……? 何を言ってるの……?」
「あともう少しだけ、真っ直ぐ行くといいよ。そしたら別れ道があるから、必ず右を行ってね。そっちの方が交通量は多いから」
「急に一体」
「私は以前この道を走ったことがある」
突然、女が何を言っているのか冴には分からなくなった。いや、そもそも女の人相さえも冴にはまともに輪郭を捉えることができない。極度の疲労……きっとそうなのだろう。
曖昧な、人の姿をしているのかも怪しい『それ』の言葉はしかし、確かに冴の耳に響き渡る。
「私は前を向くことしか出来ないけど、きっとそれは悪いことじゃないと思うな」
冴には彼女が笑っているように思えた。
「たくさんの人を乗せた中古のバイクで、たくさんの乗り方をされて、無茶な使い方をされた時もあって。……乗り物は乗り物だから。それ以上でもないし以下でもないよ。『そこ』にそれ以上の何かを感じて覚えて抱くのは、きっとあなた達の幻想だけど」
だけど、
「それでもあなたと出会えてきっと良かったんだと思う」
それは私の誇り。それだけは大事に抱えていきたい。
女の、風に混じるほど微かな囁きを冴は『感じた』。音ではない言葉のように冴は認識していた。一体自分は……何と話しているのだろう。
「じゃあね。ここから先はあなた一人だけど、でもあなたが前を向けば誰だってそこに居るよ」
「………………」
下り坂を前にしたこの道の最中が、別れの時だとそう言われている。冴は小さく頷いた。女が笑った気がして、だけどバイクに跨って坂道をそろそろと下っていった頃にはその笑顔は曖昧な記憶となって溶けていた。
坂道の終わりで首だけを巡らせ、振り返る。
ガードレールの先には青さばかりが映っていて、その頂上付近には誰も居ない。
「……」
結局、名前も聞かなかったな。
訊くべきだっただろうか。分からない。誰かとあんなに長い時間話したのは本当に久々のことだった。
一人になっても冴はバイクが壊れてから繰り返した行為をまた何度も繰り返した。そうしている内に、あの女が言った通りの分かれ道に出くわした。
地図もない。調べられる道具もない。どちらの道が正しいのか、冴には選ぶ必要がある。
「右……」
右に行けと、彼女は言った。なんの確信があったのかも分からない。それでも分かれ道は右を行った。上り坂でバイクを押し、下り坂でバイクを滑らせ、何度も何度も休憩を繰り返して。
あと少しだけ、真っすぐ行くといいよ。
ふと、気付く。女の声音はどこか姉の声質に似ていたことを。なんで今更になってそんなことに気付くのかも分からない。
ただ冴は、気付けば太い道のガードレール沿いに立っていた。路面の整備状況は明らかに以前より良い。交通量の多い道の証だ。いつの間にか、人気のない道を抜けて合流していたらしかった。
そして『────!』という音を聞いた。
二輪車特有の嘶きを。二気筒だろう断続的な低音の咆哮を。
「──」
間違いない。誰かのバイクがエンジンを唸らせ、走っているのだ。
こちらに向かって。この道を。
音源へと首を巡らせると、冴へと近づきつつあるバイクとその搭乗者が一人、少し奥にいる。
◇
冴の思考は他者の存在を認識した途端凍り付いていた。
心のどこかでこのまま誰にも出会えず終わるのだと思っていたのかもしれない。
だが現実は現実として目の前にある。
山道を気持ちよく駆け上がる二輪車、その快音。その運転者。被っているフルフェイスヘルメットのシールドはスモーク加工がされていて目線の先は分からない。だが、側道でバイクを支えたまま立つこちらを見ている気がしないでもない。
「──」
声を掛けろと心の中の誰かが言った。
冴も、ほぼ反射的にそうしようとした。
「ぅあ、……、あ」
……声が出なかった。
喉が、まったく開かない。音の出し方を忘れたみたいに。
なら代わりに腕を上げて手を振るんだ。──また誰かが心の内だけで呟く。冴もそうしようとして、だけど出来なかった。大型バイクを押し続けた両腕には欠片も力が残っていなかった。
「──。──、──」
もし。
もし……あと十秒と経たずに通り過ぎるだろうあの運転手を見過ごしたら、次に誰かと出会うことは出来るのだろうか。──きっとそんな事はないと、冴の直感が呻く。理屈なんてない本能でそう思った。
助けを求めなければならないのに。
冴の肉体は既に限界を迎えていて、自然と俯いてしまう。家族が一瞬で人の形を失った三年前のように。冴島冴の世界が破断した瞬間の、次の一秒を──それからの全てをそうやって受け入れたように。
いつもそう。俯く他を知らない。
事故の通報をしたのは自分ではなかった。
古いバイクに跨ってようやく泣くことが出来た。
それからの時間はただ道の先を見つめ続けた。
自分が生きる事に意味なんてない。今でもそう思う。
……だというのに。
でも、でも、でも、と冴の内側で吠えたてる『何か』がいる。『誰か』が唸りを上げている。
あの日。父が遺した中古のバイクに初めて跨ったあの時。あれからずっと、俯いた時に見えるのは、いつもいつもバイクのタンクカバーとメーター類だけだった。
あなたが前を向けば誰だってそこに居るよ
…………………………………………いけ。
いけ。
いけ。
い、け。
いくんだ。
声を上げ、て。
喉が潰れても構わない。
震えている手を振ろう。
困っていると全身全霊で伝えれば。きっと。
信じろ、誰もが誰しもの困難を素通りしてばかりではないと。
目の前で家族が全員死んだ。眺めてばかりだった。何も出来なかった自分だけがいつもいた。だけど居たはずだ。手を差し伸べようとしていたはずの誰かが。求めればよかった。弱さを、脆さを曝け出すことを恐れていたから、だから孤独は必然だった。友人、親戚、同僚、他人、関りのない人びと。私の世界を構成するのは私一人だけではなかったはずだ。姉が居て、父と母がいて、友人が居て同僚がいて見知らぬ他人が居て、たくさんの繋がりが構築していたはずだ。そんなことさえ忘れて孤独に酔うような真似を続けている。そんな自分にとっくの昔に気付いていたのに、嫌悪と拒絶ばかりを繰り返して。そうして何もかもが離れていった、失った。
救いは自分からは生まれない。
分かっている。
でも前を向こうとするたびに思い出す。死。生きる意志の完全な破壊。事故直後の光景がフラッシュバックされる度に胃の中身をすべて吐き出して、突然何もできなくなって、嫌なことだったからすべてから逃げた。蓋をした。それでいいと。それしかないと──その結果が今だ。孤独で、刹那的になりすぎた現状だろう。人生の展望を捨てて、他人に近寄ることさえ拒んだ極限の孤独を望み、そうして得た独りの世界に満足して納得して。
なのに助けを求めるの?
独りで生きて、独りで死ぬつもりだったのに?
このまま死ねばいいよ。何より自分自身がずっと望んでいるのでしょう。
「……っ」
喉が痛む。まるで数年ぶりに喋ろうとして使い方を必死に思い出そうとしてるみたい。事実ここ数年誰かとまともに喋ったことがあっただろうか。……分からない。先ほどまでいた奇妙な女との会話は幻覚でも見ていたのかも。だが現実の光景は、そうやって意味のない思考を回す冴の眼前で、刻々と過ぎ去っていく。二輪車に跨る人物の視線はヘルメットのスモークシールド越しには分からない。きっとこのままでは冴の側を通り過ぎていくだけだろう。
私を見てと叫ぶことが出来たら。
ここに居ると吠えられたら。
それだけで変わったかもしれないのに。
──思い出すのは顔面の形がぐちゃぐちゃになった父と母と姉。
冴島冴という女は、もう、何もかもを無理だと、
諦、
「 」
その時だ。
冴の脇にある原動力を失った機械の塊が、──バイクが、ゆらりと一度揺れた。存在を主張するかのような動きは冴の両腕が少しだけバランスを崩したからに他ならない。そのはずだ。
だが冴には動くことのない機械が囁いたような気がした。
いこうよ
……君が、いて。
君といられて。
異常な燃費の悪さに悪態をついたこと。
殺人的加速に泣きそうになったこと。
もっとうまく乗りたくなったんだ。
色んな本を読んだよ、動画を食いつくみたいに見たよ。
洗車して、チェーンの真っ黒な油汚れに手を染めて、磨いて、拭いて、壊れないかいつも心配で、走らせて、一緒に走って、それで、それで、それで。
君がいたからたくさんのことを考えられた。
死んだような時間を無理にでも進めてくれた。
「 た、 」
意識が、過去と思案にばかり向いていた魂が、瞬間ごとに流れ去る現実へと目を向けだす。
……延々と続く世界がある。
一秒だって止めることなんて絶対に出来ない現実が、ここに。この先に。
うんざりだ。もう要らない。捨ててしまいたい。だけど……。
せめて、もう一度乗りたい。
まだ君と行きたいところが沢山ある。
「たっ、 す 」
だったら!
手を振って!
「た、──たす」
声!
を!
今!
「たすけて! ください……!」
情けない声だと自分でも思うほど、か弱い叫び声。
あの女の能天気な笑い声の幻聴が耳の奥で鳴る。それくらい世界は静止していたと冴は思う。
届けと祈った時間はきっと現実通りなら3秒もない。
だけど今の冴には永遠以上に長い、3秒だった。
「──」
「……」
そして、
二輪車は、
その搭乗者は、
冴の少し先でバイクを止めて、道の脇でエンジンを切って、ヘルメットのシールドを上げて。
「どうしたの? 何かあった?」
「………………」
降りて……近寄ってきてくれて。
冴の口から、ぼろぼろの声が勝手に出ていた。
「あの、携帯電話、……借りれます、か。ば、バイク、動かなく……て、その」
「もちろん! っていうかやっぱりそうだよね? 普通そんなでっかいバイク押して歩かないし! ていうかでっかくてカッコいいバイクだね!」
止まってよかったー、とその運転者はニコニコと笑っている。
声で気づいた。同性だと。
「私も経験あるんだー。電波届かないところでバイク動かなくなっちゃったとき。焦るよねー」
スマートフォンを差し出しつつそう言う彼女に何度も頭を下げて、ロードサービスの契約を結んでいる保険会社に連絡をする。しどろもどろになりながら事情を説明すると、受付応対の者はすぐにレッカー車を手配すると約束してくれた。最寄りの営業所からおおよそ一時間程度だと言う。
通話を終えた冴がスマートフォンを返すと、いつの間にかヘルメットを脱いでいた女性が空元気に笑っていた。
「大丈夫。きっと直るよ!」
……何を言えば。何を言えばいいのだろう。ありきたりな、ありがとう、の言葉がどうしても出なかった。喉の使い方がまた分からなくなった。視界が滲む。枯れたはずの水分が目から溢れ出る。
冴は耐え切れなくなってその場に屈んで──屈もうとして、自身のバイクが倒れそうになったので慌ててサイドスタンドを広げた。そこまでしたら本当に耐え切れなかった。
「ってあれ? どうしたの? なんで泣くの!?」
「……」
対向車線から四輪車だろうか、エンジン音がもう一つ聞こえるのを音だけで冴は認識した。その車の運転者も何故だか運転を止めて近寄ってくるのが足音で分かった。
「おおいどうしたどうした。なんかあったんか」
「あ、いえ、なんかこの子のバイク故障しちゃったみたいで──」
音が遠い。
世界が遠い。
一人ぼっちの、雑音まみれの世界で、冴はいつまでも泣き続けた。
◇
付喪神という言葉がある。
長年使われた道具に魂だとか精霊が宿るとかいう迷信だ。
迷信は迷信で、きっとこの世にはいないと私は思う。
だから、あの時であった不思議な彼女のことは、きっと極度に追い詰められた私の精神が見せた都合のいい幻覚だったのだろう。後になって調べてみると、登山中に遭難した人なんかもそういった存在しない同行者の幻覚を見たりするらしい。
恐らく……。
恐らく私は、あの女性に声をかけるまで、通りがかった車に助けを求めていなかったのだろう。求めていなかったというより、他者を認識していなかった。そういう言葉が適当かもしれない。
見ようとしていないから見なかった。
欲していなかったから誰も与えなかった。
きっとそういうことなのだろう。そういうことだと私は納得している。彼女のことも含めて、それ以上でも、以下でもない。
レッカー車で運ばれたバイクはその後、馴染みの店で徹底的な点検を行ってもらった。その結果『どこも壊れていない』という意味不明な結論が出たのは少しだけ納得がいかない。あれだけうんともすんとも言わなかったバイクが、他人の手では簡単にエンジンが掛ったのだ。
中古車で、燃費が悪くて馬鹿みたいに重くて、殺人的加速を誇る冷水4ストローク70度V型DOHC1198ccエンジン搭載の『魔神』は、総走行距離70000kmを越えても元気に私の愛車でいてくれる。
『今日楽しみだね!』
買い直したスマートフォンにポップする知人からのメッセージに、準備をしていた私は小さく笑う。今日は彼女との何度目かのツーリングだ。同性で同じ趣味をしている仲間がいるのは、それだけで今の私には嬉しい。
──あの日、私を親切にも助けてくれた女性ライダーとは今でも時折連絡を取ってはツーリングに行く仲だ。明るい性格をした人で、根暗で言葉足らずな私にも優しい素敵なひとだ。本当に偶然だが住んでる地域が近かったこともあり、私は期せずして得難い絆を得た。
玄関脇に置いたヘルメットとシートバッグを手に持って。私は靴置き場の上に置いた写真立てに──そこに飾られた家族の写真に、そっと呟く。
「行ってきます」
庭先で待つ大型バイクにシートバッグを取り付ければ準備は万端だ。
ヘルメットを被る。
グローブを嵌める。
シートに跨りキーを差して、スイッチをオンに。
電装系に命が吹き込まれ、セルモーターは私の意思に従って動き出す。強烈なモーターの回転音から連続してガソリンが点火する低いいななきじみた爆発音が鳴り、4気筒リッタークラスのエンジンは唸りをあげる。
ここに居るよと、君は叫ぶ。
振動を身にまとい発進を……私を待つバイク。そのハンドルをそっと握った。クラッチレバーを握り、シフトペダルを踏む。カツ────とギアが1速に切り替わる音と感覚。
……痛みはきっとこれからも消えない。無かったことにするのは、あまりにも難しい。
死ぬまで抱える辛苦だ。だけど、死ぬその時までは生き続ける他を知らない。
いつか。
いつか私がどうしようもなくなって。どうしようもない現実に打ちのめされて、──その結果としてこの首に縄をかけ、自重で宙を揺れたとしても。
私は勝手に救われた。
勝手に死ぬのだろう。
勝手に生きて、その末に。
最後まで君と共に居たことをきっときっと誇りに思いながら家族と再会する。
だからスロットルを回しながら言った。誰にでもなく、独り言のつもりもなく。
「どこまででもいこうよ」
私には……ううん。
私達には、そう出来る幸せが許されている。