薄らと積もった雪と無機質なコンクリートが織りなす白と灰色の世界で、彼は屋上と外を遮るフェンスの上で今にも飛び降りようとしていた神秘的な女子高生──月影結依と出会う。
「その見る限りやる気いえ、生気すら感じられない腐った生ゴミの様な目付きをしてるのは安堂君よね?同じクラスの安堂えっと、ネクラ君?」
「……
友好的とはとても言い辛い出会いでありながらも、寧暗の本音でしか話さない在り方に興味を惹かれた月影は彼と関わる様になり……やがて二人は互いにとって掛け替えのない存在となる。
遮る先が危険な場所である為に鍵を開けてもなお、ずっしりと重い扉は俺の面倒だと思っている心を反映している様でゆっくりと錆び付いた音を立てて開いていく。
相変わらず、新品に交換する様子も油を差して動きを良くする素振りも感じられない教師達の怠慢を開け放てばもう二月だと言うのに身を刺す寒さと薄らと世界を白く染め上げる雪が降り積もった白と灰色ばかりのなんとも彩りに欠ける屋上が広がっていた。
「……さっむ」
数学の宿題の答えを全部、数字の一にした罰でこの時期に使ってる奴なんて殆どいない屋上の掃除を教師に命じられゴミなんか殆ど無いだろうから軽く見て回るだけと上着を着て来なかった事を白い息と共に反省しながら一歩踏み出せば、薄い雪と言えど軽快な音を立てるがそれに何かを思うよりも早く後ろでバタンと重い扉が五月蝿く閉まり、反射的に耳を塞いだ。
「あら、こんな時間に誰か来るなんてね。余程の暇人か同類かしら?」
「ん?」
声だけでなんとなく高慢な奴なんだろうと分かるが、下げていた頭を上げてみれば屋上と外界を遮る唯一の安全策であるフェンスの向こう側、今正しくそこへ向かおうと境目に座っている黒髪の少女と目が合った。
「その見る限りやる気いえ、生気すら感じられない腐った生ゴミの様な目付きをしてるのは安堂君よね?同じクラスの安堂えっと、ネクラ君?」
「……
「あぁ。そうだったわね。気を悪くしたのなら謝るわ」
「いや良い。同じ呼ばれ方は現在進行形で受けてるしな。というかなに危ない事をやってるんだ?
俺の記憶が正しければ年がら年中、自分の机に突っ伏して眠っている様な奴と違って高校生離れした顔付きからクラスの中心にいるタイプだった筈。
何かの間違いがあっても今、こうして眺めている間にも地面に落ちていきそうな場所に座ってる様な女じゃなかった筈だ……まぁ、人付き合いが多ければ多いほど俺には到底、理解出来ないような苦労をしてるのかもしれないが。
「見て分からない?死のうと思って」
風に流される黒髪は発言のせいか、死神の様に見えたのは俺の心が未だに厨二病から解放されていない所為なのだろうかなどと下らない事を考えながら、やっぱり視線の先にいる女を俺は理解出来ないと悟った。
「そうか。まぁ、大して関わりもない俺なんかの言葉で考え直すとは思えないし、死にたいと思ってるんなら良いんじゃねぇの?」
「ふふっ、随分と冷たいのね。美少女が死のうとしてるのよ?体張って止めるべきじゃなくて?」
「えぇ……止めて欲しいのかお前。意外と面倒臭い奴だな」
「……驚いた。貴方、本当に私を止める気がないのね」
育ちが良いのか、それとも単なる性別の差なのか良く手入れされている濡れた黒髪と同じ様な色をした瞳と初めて目が合ったがまるで猫みたいに丸くしていてちょっと面白い。
彼女がふらっと現れた俺に何を期待していたのかは分からないが、死のうとしてる奴を止めるほど俺は語彙を持ち合わせていないし俺よりもマシな人生を生きてそうな奴が、死にたいと思い詰める程の苦しみを分かってあげる事なんて出来ないのだから止めようとするだけ無駄だと思っただけだ。
「別に仲良くないだろ俺達。あぁ、でも死ぬならちょっと待ってくれ。教師達に俺が落としたと思われるのは面倒臭い」
警察とか詳しくはないが、死亡推定時刻とか目撃証言みたいなやつで俺が犯人にされたら否定してくれる彼女が死んでいる以上、恐らく面倒臭いことになるだろう。
そんな他人への無関心さと己が身の可愛さから来るロクデナシの言葉を受けて、本当に驚いたのだが視線の先にいる彼女は──笑っていた。
「ふふっ、ははっ、寧暗君って結構酷い人だったのね」
「……笑いながら言うことかそれ?」
本当に何が面白いのか笑い続ける月影。
あぁ、そう言えば教室で友人達に囲まれているところを見るがあんな感じで声を出しながら笑ってる姿を見た事はなかったなと、思い出してみれば相当レアな光景を俺は目にしているんだろうな。
「どうせならガチャからSSRのキャラを引く方が幸運だったな……」
今やってるスマホゲームちょうど、欲しいなと思っていたキャラがピックアップされているし今ここでガチャすれば良いキャラ出るんじゃないだろうか。
あぁ、でもあのゲーム起動時にタイトルコールするタイプのゲームだから、流石にこの場で突然やり出す訳にもいかないか。
「あー、面白い……今もなんか全然違う事を考えてそうだし」
「おぉ。よく分かったな。スマホゲームの事考えてた」
「ふふっ、なにそれ。私の生死より優先すること?」
「俺にとってはな……つか、もう良い?俺帰っても。見ての通り、コート着てないから寒いんだわ」
なんか話しかけてくるからついつい、応じて帰るのを忘れかけてたけどここ屋上でめっちゃ寒いし、ざっと見た限り死にたがりの女子が居るだけでゴミとかは落ちてないから帰りたいのが本音だ。
何が面白かったのか、未だに飛び降りないで涙を流す程に笑っていた彼女を相手し続けるほど暇じゃないのだがどうやら彼女は俺を解放してくれるつもりはさらさらない様で。
「よっと」
非常に軽い声と共に落ちてくる、屋上の外側ではなく、内側──つまり、俺の方へと。
しかも、全くスカートを押さえないで飛び降りるもんだから身に付けている黒い下着が俺から丸見えだった。
「……死ぬんじゃなかったのか?」
「どうせ死ぬなら綺麗に死にたいじゃない」
「は?」
綺麗に死ぬと言うのなら屋上から飛び降りるという手段は明らかに間違っているんじゃないか?
此処からグランドを見下ろせばまだ、部活動をしている生徒達が見えるが彼らがお人形に見えるぐらいにはこの屋上は高い場所にあるのだから月影が化け物レベルで頑丈じゃない限り、落下していけば出来上がるのは頭が潰れた血塗れの死体だろう。
「血塗れになりたくないとかじゃないわよ。私が死ぬ時に『あぁ、寧暗君にグチャグチャになったところ見られるんだー』って思いたくないだけ。だからそう、貴方が邪魔をしたのよ。折角、私が勇気を出した日だったのに」
理不尽、あまりに理不尽な物言いだ。
例えるならそう、ジャムを塗ったパンがほぼ必ずと言って良いほどに塗った面が下になって落ちる様な酷い理不尽を俺は今、向けられている。
「それにちょっとした心残りも出来ちゃったし」
「……死のうとしてた奴のセリフかそれ」
「あら、他人事みたいに言ってるけど私の心残りは貴方よ寧暗君」
「は?」
少し前に彼女のことを理解出来ないとなんとなく思ったが、まさかこの短い間に本当に理解出来ないと思う事になるとは。
「俺が心残り?目の前でクラスメイトが死のうとしてるのに止めもしないロクデナシの何処が気になるんだ?」
嫌だけど此処はまだビンタをされた方がまだ納得が出来る。
そもそも、俺と月影は今日に至るまで殆ど会話すらしてない様な間柄で精々、提出物とかちょっと退いて欲しい時とかそういう集団生活の中で必要となってくる最低限のやり取りをした事があるだけのクラスメイトに過ぎない。
「そういうところよ。他人に関心がない癖に自分が周りからどう思われるかは分かってる。けど、貴方はそれを改善するつもりは微塵もない……端的に言ってしまえば他人に好かれる努力をしていない」
「ん。まぁ、否定は出来ないな」
「クラスでも寝てばっかり。ネクラ君って間違われるのもある意味、当然のことかしらね」
「今度は罵倒か?」
「好きに受け取って。私は貴方に興味を持った理由を述べてるだけだから」
……不味いな、どうやら俺は関わってはいけないタイプの女と関わってしまったらしい。
さっきから肌に感じている冷たい風が齎す寒さとは違う、身体の内側くる様な寒気を感じつつ目を逸らせば良いのに俺は月影の真っ黒な瞳から逃げられずにいた。
「私って可愛いでしょ?家もお金持ちだし。だから、人間が欲深くて本心を隠す生き物だってよく知ってるし、そういうのばかり見ていたら疲れちゃって。だから死のうと思ったのだけれど」
「……」
「ふふっ、目を逸らさないのね。嬉しいわ。貴方はずっと本心を口に出していたし、今も私に怖いと思ってるのが凄く伝わってくる。正直な人なのね寧暗君」
「……捻くれてるとも言うと思うけどな」
「ふふっ、そうかも」
もう何度目か分からない何が面白いのか笑う彼女の笑顔は、本人が自身に下していた評価の通りとても綺麗で愛らしいと思える筈のものなのだが、俺はそれと同時に恐怖を感じていた。
それはきっと、暗い夜道を一人で歩んでいる時にふと照らされている道の向こう側に何処までも続く暗闇を見てしまっている時と同じタイプの恐怖だ。
「貴方をもっと知りたい。ねぇ、良いでしょう?寧暗君」
触れたところの熱が奪われる様な冷たさが彼女の両手が触れる頬から感じる。
俺が来た時にはもうちょっと、外側へと飛び降りれる程に外で過ごしていたのだから相応に冷えているのは理解出来るがゾッとする様な冷たさと共に覗き込まれる黒い瞳は絶対にこの寒さが齎す冷たさとは別のものだろう。
けど、不思議な事にこの冷たさと黒い瞳は俺に焼き付いてしまったとこの瞬間、唐突に思った。
「……否定しても勝手にするだろ月影」
「正解。少しは私の事を理解してくれた様で嬉しいわ」
「濃すぎるからな……例えるならカルピスの原液を水で割らないぐらいには濃いよ」
「カルピスの原液?」
「お前マジか」
「美味しいのなら今度、寧暗君が飲ませてくれるかしら?」
「お嬢様の口に合うかは保証しないからな」
俺と同世代でカルピスの原液を全く知らない奴が居るとは……いや、流石は金持ちの生まれなだけあるか。
「えぇ。楽しみにしてるわ」
そんな笑顔を浮かべて楽しみにするほど、良いもんじゃないとは思うがまぁ良いや面倒臭い。
口に合わないなら大変な思いをするのは月影だし、カルピスの原液を買うくらいなら別に財布に痛くもないからなと、そこまで考えて自分が当然の様にこの後も月影と関わる事をすんなり受け入れてる事に気がついた。
「ん?どうしたの不思議な顔をして」
「……なんでもない。ほら、もう帰るぞ。本当に寒い」
未だに頬を挟んでいる月影の手を取って、俺達は屋上から学校の中へと戻って行く。
「……ふふっ」
何が楽しいのか俺の手をニギニギと感触の一つ一つを覚える様にしている彼女から伝わってくるほんのりとした温かさに気が付かない様にしながら。
霧桜学園──俺が通う全日制の高校で大体、九百人ぐらいが通ってるとかなんとか。
月影との変な出会いがあったとは言え、学生である俺の毎日が著しく変わるなんて事はなく、薄手の黒いコートに両手を突っ込みながら風紀委員会の生徒と生活指導の先生が無駄に良い声で挨拶をしている校門を他の生徒に紛れ素通りする。
「おはよう!!良い朝だな!!安堂!!」
「ッッ……そんなデカい声を出さなくても聞こえてますよ大河原先生……」
あぁ、今日も出来なかった。
生徒達がコートを着ている中、半袖のジャージを着て教師に必要か?と疑問を覚えるほどの丸太みたいに太い筋肉を見せつける生活指導の大河原先生はいつの日からだったかは覚えてないが、朝の挨拶を素通りする俺を的確に見つけ出し音響兵器もかくやと言う挨拶をしてくる教師だ。
「数学の勅使瓦先生から聞いたぞ。お前、テストに適当な解答をしたらしいな」
「うげ……」
「面倒な展開になったみたいな顔をするぐらいなら真面目に受けろ。全く……お前の無気力っぷりは一年の頃から知ってるが来年には受験や就活が待ってるんだぞ。少しはやる気を出せ」
「その言葉でやる気を出せる奴だったら初めから出してるっすね」
「はぁ……」
林檎を鷲掴みにしてそのまま握力で握り潰せるんじゃないかと言う手で自分の目元を覆う大河原先生には去年の二学期ぐらいから俺の無気力っぷりを心配されているのだが、良い加減に俺がそう簡単にやる気を出すタイプではないと理解して欲しいものだ。
まぁ、何か悩みがあるんじゃないかとか嫌な経験でもしたのかと聞いてくる良い先生なのでやる気は出さないがこの人との会話からは面倒だと思っても逃げない様にだけはしている。
「夢でも好きな事でもなんでも良いから理由を見つけるんだ安堂。なんなら今日の放課後、俺と一緒にジムにでも行って汗をかくか?筋トレは良いぞ。身体を動かすとスッキリするし、苦労すればするほど筋肉が実っていくからな」
「ナルホドー、カンガエテオキマスネー」
「あ、おい!」
前言撤回、筋トレからは逃げさせて貰おう。
俺を気に掛けてくれてはいるが、特別視もしていない大河原先生は校舎の中へと生徒達の波をかき分けて入って行く俺を無理に追い掛けるなんて事はせずに、すぐに後ろから大きな挨拶が聞こえてくるのでこれでもう追いかけられる事はないだろう。
「……ふぅ。朝から少し疲れた」
少し走った程度で息が上がる程のモヤシではないが、人混みを掻き分けるのは体力とは何か違う所を消耗する気がするわ……こういう時に一年なら教室が一階にあるから楽なんだが、二年の教室は二回だし俺が所属してる二年七組は下駄箱から一番遠いんだなぁ。
「おはよう!!ねぇねぇ、昨日のドラマ見た?」
「見た見た!!めっちゃ面白かったよねー!」
「よっ!」
「うおっ!?手冷たいな!?」
「……」
いつも通り、朝から元気な教室の前を通り過ぎて行きながら階段を登り、教室へと向かう。
二階に登っても聞こえてくる元気な声の主達は、一体全体何をテンション高くなっているのかさっぱり分からないが朝の寒さに少しも怯んだ様子を見せずに友人達との賑やかな声を教室どころか廊下まで響かせる。
「っと」
「おっ、わりぃ!」
悪いと思ってんなら教室から走って飛び出してくるなとは思うが、この小さな苛立ちをぶつけるよりも早く名も知らない男子生徒は続く様に出て来たこれまた走って飛び出して来た男子生徒から逃げる為、廊下を爆走して行きあっという間に遠ざかって行くので学習能力ゼロだなと小馬鹿にする事で廊下を進む。
学校生活をしていればこんな場面は幾らでもある為、鶏の様に数歩進めば苛立ちと共に忘れ去りたどり着いた自分の教室のドアを開けて教室に入る。
「でさー、駅前に新しいクレープ屋が出来たらしいのよ。みんなで行かね?」
「えっ!良いじゃん!!私、クレープ超大好き!」
「バイト代入ったし良いぜ。あ、でも俺が奢るとかは無しな!」
「誰も頼んでないですぅ。月影さんもどう?」
おぉ……相変わらず人気だな月影の奴。
クラスメイトの男女数名、しかもクラスカーストの上位陣ばかりに囲まれてるとは俺みたいな奴にはキラキラ輝いてて眩しい空間だなって、アイツなんか俺の事を見てないか?
「そうね。とても嬉しい提案だけど辞めておくわ」
ニコリと俺を見たまま微笑んで無情にも、提案者である男子の中でイケメンと言われる江口が少し凹んでいる姿を視界内に入れない月影は腰掛けていた机から離れると話していたクラスメイト達の声を無視して真っ直ぐと俺に向かって歩いて来た。
「……嘘だろ」
幸い、席が前の方である月影と教室の後ろから入った俺との間に距離はあるし、俺の席は窓際の一番後ろだ。
このまま早足で向かって自分の席でいつもの様に寝てしまえば流石の月影と言えど諦めるはず。
「そうと決まれば……!」
クラスメイトの視線が俺に向かうより早く、自分の席へ一直線に向かい不自然じゃない程度に椅子を素早く引き鞄を枕に眠る体制を整える事に成功する。
後は月影がこの体勢の俺を見て諦め、元のグループに戻ってくれれば俺の安寧は確保されるだろう。
だが、無情にも目を閉じた事で感覚が鋭くなった耳は俺へと迫る足音がどんどん近くなっている事を教えてくるし、クラスメイトと会話している事が多いとは言え自発的に誰かへと話しかけている様な姿はない月影がクラスで浮いている俺の方へと向かって来ている事に困惑しているクラスメイトの
『え?マジ?』
みたいな声と空気感がビシビシと伝わってくる。
頼む……気のせいであってくれ……!!
「おはよう寧暗君。朝から狸寝入りとは本当に友人が居ないのね」
「……」
「まだ続ける気?大方、私に話しかけられてクラスの好奇心が自分に向くのが面倒くさいから逃げてるってところなんでしょうけど」
そうだよ、正解だからとっとと諦めて去ってくれ月影。
今ならまだお前の気紛れ程度で話が片付くから──
「ふぅぅ」
「──うおっ!?」
「ふふっ、良いリアクションよ寧暗君。今度から狸寝入りしてる時は耳に息を吹きかけてあげる」
「おまっ……はぁぁぁ……なんで俺のとこに来た月影」
外の様子を確認するために耳を出していたのがアダになった!!俺と違ってクラスに溶け込める様に過ごしていた奴だから、無理矢理はないとタカを括っていたのが間違いだったか。
だからって普通、目が合った上で狸寝入りした奴を無理矢理叩き起こすか?
「何って昨日言ったでしょ。寧暗君に興味が出たからって」
「……行動力の化身かお前」
「あら。もう忘れたの?私が昨日、何をしていたのか」
「あぁ、うん……そういう奴だったな」
自殺しようとしていた癖に碌に相手の事を心配してない俺みたいな奴に興味が出たからと自殺を辞めるぐらいには自分本位な奴のことを甘く見すぎていたか。
「ふふっ。その呆れ切った顔は思い出してくれた様ね」
「あんな濃い経験忘れるかよ。呆れてたのは月影の自分勝手振りだ」
「それはどうも。でも寧暗君の事を知るには私から動かないと知れないでしょ。君からの行動を待ってたら昨日と同じ毎日が続くだけだもの」
「……その観察力の使い方、絶対間違えてるぞ」
「そう?でもほら、これで君の逃げ道は潰せたし有効活用してるんじゃない?」
「はい?」
ニコニコ笑顔で右手を動かし、俺に周りを見ろと伝えてくる月影に誘導されて視線を教室に向けて見ればそれはもう肌に刺さるんじゃないかという圧を伴ったクラスメイト達からの好奇の目が広がっていた。
「沢山話してくれてありがとう寧暗君」
「……謀ったな月影」
「さぁ、なんのことだか」
月影から話しかけられ、狸寝入りが失敗した時点で俺の敗北は決まっていた訳か……いや、狸寝入りが成功していたとしても月影が自発的に俺に話しかけて来たという結果が残る以上、今までのクラスに居るんだから居ないんだが分からない俺という印象は壊れ、クラス……下手すりゃこの学園で一番人気の彼女から話しかけられた羨ましい奴となり、どう転んでも好奇の的になるって事かよ。
分かりやすく肩を竦めて惚けている彼女を睨み付けるが、全く気にしてない様子の微笑みで受け止められ思わず溜息が溢れた。
「はぁ……まぁ、もうなった以上は仕方ないか。色々足掻くだけ面倒なだけだな」
「あら、思っていたよりあっさり受け入れるのね。もっと睨まれるかと思ったけど」
「余計に疲れるだけだろ。例えるなら油火災に水で消火を試みるぐらい無謀で無駄な労力って訳だ。しかも油の方から注がれるんだからな」
「油に例えられたのは初めてよ私。ふふっ、やっぱり面白いわね寧暗君」
「……勘弁してくれ」
なんで嫌味すら楽しめるんだ月影は。
しかしまぁ、屋上で自殺しようとしていた時のこいつの目は冷た過ぎて恐怖すら感じたが、こうして普通の場所で話す分にはまだ人間らしい温かい目をするんだな。
「ん?なに、人の顔をじっくりと見て。私の可愛さに見惚れちゃったのかしら?」
「俺の表情見えてるか?これが見惚れてる奴の顔に見えるか?ん?」
「えぇそうね。頑張っても浜辺に打ち上がった魚かしら」
「……イケメンとは思ってないが魚面ではないだろ」
「似てるわよ?特に目が。寧ろ、目が印象に残り過ぎてもうそれにしか見えないもの」
「それは明らかに見る場所が偏ってるだろ月影」
こいつ、人を目でしか判断してないのか?確かに覇気があるとは今まで一度も言われてた事がないし、小さな子供には目が合うだけで悲鳴を上げられる程ではあるが、顔全部が死んだ魚ではないだろ……違うよな?
「ふふっ」
「……おい、此処で意味深に笑うな」
本当に俺が魚面じゃないか怖くなってきたじゃないか……
「おはよう!!SHRを始めるぞーってどうしたお前ら?」
「あら、先生が来てしまったわね。じゃあまた休み時間に話しましょうね寧暗君」
教室に入ってきた担任が驚くぐらいには変な空気になっていたクラスメイト達を微塵も気にせずに、俺に手を振って自分の席に戻って行く月影の後ろ姿を眺めながら全身の力を抜き、どっとと押し寄せる疲労とこれから待っているであろう面倒な展開にただただ溜息を溢すことしか出来なかった。
「早速だがテストも終わった事だし、今日は席替えをするぞ。くじ引きは作ってきたから窓側から順番に引いていけー」
今日は厄日か何かかもしれないな……確かにウチのクラスはテストが終わる度に席替えをしていたが散々月影に振り回され、この窓際最後尾というベストプレイスで授業中に寝て気分を回復しようと思っていたのにその権利すら奪われるとは。
こうなったら狙うは再び、この場所か次点でマシな廊下側の最後尾、最低でも最後尾の席になる事を祈るしかない。
間違っても最前列になることだけは避けなくては……!!
「次、安堂!」
「うっす」
「「「「……」」」」
「本当にどうしたお前ら?さっきまで一喜一憂していたじゃないか……」
席から立って教壇の場所まで向かう間に通り過ぎるクラスメイト一人一人からの無言の視線が背中に突き刺さるのが分かり、気分はそうまるで民衆の反乱で死刑になる中世の王族の様な感じだ。
これも全て朝から俺に絡んできた月影のせいだと睨みつけて見れば、全く気にした様子もなく俺の方を見て口を動かす。
『隣になると良いね』
「……嫌だが?」
心底嫌だという表情を浮かべた自覚はあるのだが、視線の先の月影は相も変わらずクスクスと微笑むだけで俺の本音に取り合うつもりはない様でもはや逆に安心感すら覚えてきた。
「ふぅぅ……どうかあいつが隣に来ない席を頼む。神様仏様」
無神教の俺もこの時ばかりは藁にも縋る思いで神様と仏様に祈りを捧げる事しか出来ず、そんな俺を怪訝そうな表情を浮かべながら見てくる担任の視線を無視し手作りの赤い箱へと手を突っ込み、ガサガサと中の紙を揺らしながら直感で手の中に収まったものを取り出し担任へと渡す。
「安堂の席は……10番だな。ん?移動が楽で良いな今の席の隣だ」
「惜しい。ベストプレイスとはならなかったか」
それでも最後尾である事は間違いないし、席替えを実行する時の手間も少なくて済むから一先ずは喜んでおくべきだろう。
担任が黒板に俺の名前を書くのを横目に振り返れば、案の定と言うべきか俺を真っ直ぐ見ている月影の黒い瞳と視線が合ったが今度は無視してさっさと自分の席へと戻る。
どうせ、視線や態度でこっちがなにを示したとしても月影の態度は変わらないのだから相手するだけ無駄だ無駄……決して、さっきのやり取りの時に近くにいたクラスメイトが小声で
「通じ合ってる……」
とか呟いてたのを聞いたからとかそういうのが理由ではない。
さて、そんなどうでも良い事は置いておいて自分の番が終わった以上、普段なら席を移動させるまでの間眠るだけなのだが月影が何処になるかどうかを見届けてからではないと眠る事は出来ない。
あいつの席は真ん中の列の廊下側だから、半分ちょっと超えのクラスメイトが引いてから順番が来る……つまり、あいつの番が来るまでに俺の両隣が埋まる可能性は高いし、あいつの番が来ても50%ぐらいで外れるという事だ。
「……頼む頼む」
かつてないほど真剣に黒板を見つめ、次々と埋まっていく数字を見送る。
4番……20番……12番……どんどん席は埋まって行くが俺の両隣となる5番と15番は中々に埋まらず、時は過ぎていき俺の祈りも虚しく両隣が埋まるより前に月影の番が来てしまった。
「月影!」
「はい」
「「「「……」」」」
再び、賑やかな教室がピンっと糸を張った様な緊張感に包まれるが今度は、担任も慣れたのか特に驚く素振りは見せずに箱を月影の方へと向け俺の運命を決定つける穴に月影の白魚の様な手が入る。
「……ゴクリ」
過度の緊張感から思わず、唾を飲み込んだ音が嫌に耳に響く中、ゆっくりと箱の中から月影の手が引き抜かれて彼女は折り畳まれた紙を担任へと手渡すより前に自ら開くと俺の方へと振り返った。
「……ははっ、神も仏もこの世には居ないな」
もしもそういう存在が居るのなら、そいつは人間の願いを絶対に叶えないロクデモナイ存在としか俺には思えない。
「月影の席は5番だな!」
担任の方を全く見ずに俺へと満面の笑みを向ける月影へと中指を立てたくなる衝動をグッと堪える中、担任は手渡された番号を読み上げ今俺が座っている席、つまり窓際で隣に座る存在が俺しか居ない席の番号を静まり返った教室によく響く声で読み上げるのだった。
「よろしくね寧暗君」
「……おう」
普段から──と言ってもちゃんと彼の事を見る様になったのは昨日からだけど──死んだ魚の様な目をしているのに、それ以上に目が死んでいる寧暗君はやっぱり私が隣になった事を一欠片も喜んでいない様で折角、目の保養になる私が隣に座っているのに机に突っ伏して眠るのだから面白くて仕方がない。
「ふふっ、私の前で寝るって事は耳に息を吹きかけて欲しいって事かしら」
「ちげぇよ?気が付いてるだろうけど、この教室中から突き刺さってる好奇の視線から逃げたいんだよ俺は」
そう思うなら律儀に私と話をしなければ良いのに寧暗君は気怠げにしながら、自分の腕を枕にしたまま私の方へと顔を向けそれはもう分かり易い抗議の表情を浮かべるのが楽しくて仕方がなかった。
少しも私に好かれようとしないその仕草が、私を雑に扱えばクラスメイトからの嫉妬が向けられると分かっているのに自分を貫き通そうとする在り方はとても私の好奇心を刺激して昨日、死ななくて良かったと思えてくる。
「ねぇ、寧暗君はどんな事が好きなの?」
「なんでそんな事を知りたいんだ?」
「深い理由がいる?」
「……ゲーム。最近は銃が当たり前の世界で学園生活を送るゲームや、歴史上の英雄達が出てくるゲームにハマってる」
そう言えば私が死のうとしてるのにスマホゲームの事を考えてるぐらいだったわね。
私は全然、スマホゲームとかした事が無いから彼の言ってるゲームがなにを指しているのか分からないけど今よりもっと彼の事を深く知るのなら彼がやっているゲームを始めてみようかしら。
「ふぅん。どんなタイトル?私もやってみるから教えてちょうだい」
「えぇ……」
「なにその『教えたらその話題でグイグイくるんだろ……嫌だ』みたいなリアクションは。残念だけどその通りだから早く教えなさいな。寧暗君に拒否権はないのよ」
そう、私は寧暗君の事をもっともっと知りたいの。
例え偶然であったとしても昨日、自殺現場にやってきて一言も私を止める様な発言をしないでずっと我関せずを貫き通した君にどうして私はこんなにも惹かれるのか知りたいのだから逃すつもりは毛頭ない。
「分かってるでしょ?寧暗君」
「……はぁ、このゲームとこのゲームだ」
「よく見えないからちょっと貸して」
「あ、おい」
私に盗られると思っていなかったのか寧暗君の手からスルリと黒いスマホを取り上げ、目当てのゲームアイコンを見つけストアからインストールを開始する。
そのついでに彼の電話番号と連絡用アプリ『スカイトーク』を交換してから返す。
「ありがとう。よく分かったわ」
「取る必要あったか?」
怪訝な表情を浮かべる寧暗君へ答え合わせをしてあげましょうか。
自分のスマホ画面をマジマジと見ているのを横目で見ながら、交換したばかりの彼のスカイトークに二頭身にデフォルメされた黒猫が『よろしくにゃん』と書かれた看板を持っているスタンプを送りつける。
「……月影ぇ」
「良かったわね寧暗君。これでいつでも私と連絡取り放題よ」
「ブロック──「したら私、悲しくて悲しくて毎晩、枕を濡らすほど泣いちゃうかも」……分かった。俺の負けだよ負け」
私が嘘泣きの演技をすればこのやり取りに聞き耳を立てている『親切な』クラスメイト達からの圧力が寧暗君を襲い、面倒くさがりな彼は抵抗するのを辞めて私を受け入れる。
ふふっ、どうせ受け入れる事になるのだから一回一回の抵抗を止めれば良いのに。
「はぁ、まさかたった一日でこうも立場が苦しくなるとは思わなかったよ」
「ご愁傷様ね寧暗君」
「原因がなんか言ってるわ」
「つれない人ね。もっと喜んでくれても良いのに」
その辺の男子生徒なら私の連絡先なんて泣いて喜ぶものだと思うのだけど、寧暗君くらいよ心底、面倒臭いって態度を出せるのは。
「授業を始めますよ〜前回の続きから」
そんな事を考えていると一時間目の先生が入って来たから、一旦彼の事を考える事を止めて前を見る。
授業中に堂々と話すのは流石に先生達が許してくれないから、ノートの切れ端とかで会話をしようかしらね?──なんて、これからの寧暗君とのコミュニケーションをどうしようかと考えていると日直の生徒が挨拶をする掛け声に混じって彼の小さく、か細い声が聞こえて来た。
「──よく言うよ。そんな事、望んでない癖に」
「ふふっ、ははっ」
「……急に笑うなよ怖いだろうが」
あぁ、本当に出会ってまだ一日なのにどうして寧暗君はそんなにも私の事をよく理解出来るのかしら?
席に座り、私が笑い出した事に恐怖を感じている彼の死んだ魚の様な目をじっと見つめる。
「面白い人ね。寧暗君」
「……嬉しくねぇ」
一時間目──国語。
月影に連絡先が確保されたのは非常に面倒な事になりそうな気はするが、削除をすればより面倒な展開が待っている事は確実な上、彼女の事だからその上で再び連絡先を登録させられる事は確実な為、それならこのまま受け入れる方がまだ楽だろう。
「……ん?」
国語の先生が源氏物語の内容を解説しているのを聞き流していると、月影の指が机に伸びて一枚の紙を置いてきた。
隣へと視線を向けるが、唇に人差し指を当ててウィンクされ口頭による会話ではなく紙切れを介した会話をしようという提案だと理解し、紙を見なければ無限にこれが続くだろうから取り敢えず紙を見てみる事にした。
『寧暗君の好きな食べ物は?』
見た目が良い奴は字もその例に漏れないのだろうか。
少なくとも内容は兎も角として、この字だけを見て俺の同じ高校生が書いたと思える奴は果たしているのだろうかってぐらい達筆で綺麗な字だ。
問題はそんな綺麗な字で書かれた内容がお見合いか?って言いたくなる内容かつ、俺の事を尋ねてきているという事実でこれを無視しようが結局、問題は振り出しに戻り無限に同じ事が書かれた紙が届くだろうという事だ。
「……まぁ、答えるしかないか」
好きな食べ物ね……美味いものなら大体なんでも好きだが、特に好きな物と限定するのなら鶏そぼろと大根の煮物だな。
甘塩っぱい味付けの鶏そぼろと柔らかく、味が沁みた大根の組み合わせは白米が進んで最高だと俺は思っている。
「ほらよ」
適当にノートの切れ端に答えを記入し、先生の目が黒板の方へと向いたタイミングで同じ様に月影の机の上に置き、細やかな抵抗として彼女の側に肘を立てて顎を預けながらぼーっと黒板を眺めている事、数分後にはご丁寧に俺の肘の隙間を月影の指が通り抜けポトンっと紙を置いていく。
『私は唐揚げが好きよ。私達、鶏が好きみたいね』
その共通項は果たして喜んで良い物なんだろうか?字面だけ見ると少しサイコパスな様な気がするが。
ちょっとだけ顔が引き攣るのを自覚するのと同時にまた、月影の白い指が伸びてきてポトンっと同じ様に紙が置かれる。
『動物園とか一緒に行く?』
「ぶっ!?」
「ん?どうかしましたか、安堂君?」
「い、いえなんでもありません……」
完全にサイコパスの文章突然、送りつけてくるから笑うのが我慢出来なかったじゃねぇか!!
憎々しげに視線を向ければそこには国語の先生からは見えない角度で、ピースサインを作っている月影の姿がありこの一連のサイコパステロは完全に意図的だったと理解出来たので俺も周りからは見えない角度でびっと中指を立ててやった。
「……ふふっ」
一瞬だけ目を丸くしていたが、すぐにいつもの様に微笑んだのを見て俺は無駄な抵抗だったと諦める事にした。
二時間目──英語。
うちの学園では実際に外国の先生を雇って、リアルな英会話というやつに力を入れているらしく教壇に立っているのは金髪の高身長イケメンなイギリス系の先生だ。
日本語も話せる先生なので、生徒が解答に詰まれば日本語でヒントを出してくれるのでイケメンフェイスも相まって人気が高い先生なのだが生活指導の大河原先生の入れ知恵なのか、無気力な俺をよく指名してくるので個人的には嫌いだ。
「Hey!Ando,what have you been doing recently?」
こんな感じに突然、当ててくるんだよなぁ……面倒だが、答えないと段々近づいてくるから立ち上がり先生の目を見ながら答える。
「I've been plying mobile games on my phone lately」
「OK!」
はぁ、頼むからこれ以上は俺を当てないでくれと祈りながら座るのと同時に、丸められた紙が横から飛んできてノートの隙間でピタッと止まる。
またかと思いながら手に取り、紙を開いてみる。
『英語得意なの?』
勉強出来るタイプに見えないからだろうなこの質問は。
実際、月影の考えは合っていて好きなゲーム配信者に海外の人が居るから配信を見るために聴いていたら、リスニングだけは出来る様になったのだ。
書けないし、読めないが聞き取る事と派生して簡単になら答えるぐらいの英語力はあると紙に書いて俺も指で弾いて飛ばしてやれば、彼女の頬に丸めた紙は見事にヒットした。
「ッッ、もう少し丁寧にしてくれないかしら?」
「先に投げたのはそっちだろ」
英語の先生が喋っているから出来る小声でのやり取りをしつつ、月影は紙を広げて中身を見ると納得がいった様に頷き今度はゆっくりと一時間目の様に机の上に置いてきた。
『寧暗君らしくて安心した』
一体全体、お前は俺の何を知っているのかと質問したくなったがすぐに脳裏に見透かした様な笑みを浮かべている月影の顔が浮かんだため、紙に書く事はせずこの時間は先生が中々、黒板の方を向かないのと俺をよく指名するためこれ以降のやり取りはなかった。
三時間目──数学。
昨日の全ての回答オール1問題を起こしたせいか、勅使瓦先生は教室に入って来るなり俺を見てきたので会釈だけ送ると眼鏡をクイっと直しながら授業を進めてくれた。
数学と言えば数式を黒板に書きながら、逐一先生が解説を入れていくスタイルのため当然の事だが月影から送られて来る切れ端は多くなった。
『休日もゲームをしているの?』
『外に出たりする趣味はないの?』
『好きな季節と嫌いな季節教えて』
『友達は本当に居ないの?』
『昔から無気力なの?』
こんな感じですごい勢いで俺に質問して来るので、一つ一つ真面目に答えるのもなんだか面倒だと感じ始めた辺りで再び、送られて来る切れ端。
もう雑に答えてしまおうか……なんて考えながらそれを開き一瞬だけ固まってしまった。
『一度でも何かに本気になったことある?』
……なんでこのタイミングで大河原先生みたいな事を聞いてくるかな月影は。
散々、彼女から死んだ魚の様な目と揶揄されているぐらいには日々、無気力に生きているのは重々自覚しているのでこの質問ばかりは一々、ノートの切れ端すら用意するのが面倒だと感じ、何も書かない白紙の切れ端を月影に送ってやった。
「ん?」
切れ端が真っ白なのを見て怪訝な声を漏らす月影は表裏を見てみたり、窓際なのを利用し太陽光に透かしたりしている……いや、前半の行動はともかく後半の太陽透かしはそれが正解だったら特殊行動すぎるだろ。
そんな彼女の行動を横目で眺めているとなんと、俺が渡した白紙の切れ端にそのまま文字を書き込み机の上に置いてきた。
『ないのね?』
注意深く、確認する様な文章に俺は月影の方を見て、同じく俺の方を見ていた彼女と目が合い胸の奥深くを覗き込まれている様な錯覚を覚えながら勅使瓦先生に聞かれない様な小声で返事をしてやった。
「あると思うか」
残念ながら今までもそして、これからも俺が何かに一生懸命になる事はない。
好きだと言えるゲームもあくまで、惰性で続けられる面白さが確保されているからであって真剣に取り組んだ事は一度たりともなく、そういう配信を見てもおー、頑張れーと思う程度な熱量だ。
別にこれを不幸だとかつまらないとか思った事はないし、改善しようとも思わないから俺は一生このまま日々を無気力に生きていくのだろう。
四時間目──生物。
この授業は選択科目で移動教室だった為、物理を選んだ月影と一緒になる事はなく紙でのやり取りは行える訳がなかった。
そして迎える昼休み、学生にとって勉強という怠い時間から一時解放される天国の様な時間であるこの時間も月影に邪魔されては堪らんと移動教室だったのを良い事に買っておいた菓子パンと缶コーヒーを持って移動していた俺は、教室に戻らなかったので月影と会う事はない──筈だった。
「……実はストーカーだったりする?」
「なんとなく此処に来るんじゃないかなって思っていただけよ失礼ね」
昨日に引き続き、今日も二月らしくない寒さのため多くの生徒は教室か学食に向かうだろうと思って、人が居ないと予測した屋上へと続く階段には月影が陣取っていた。
しかもその手にはピンク色のお弁当と水筒があるのだから、彼女が此処で食事を取るつもりである事は一目瞭然であった……なんで?
「友人達と食べないのか?」
「抜け出してきた。別にあのグループに依存してる訳じゃないし」
「……友達が聞いたら泣くぞ」
「そうかもね。でもどうせ、寧暗君の事を根掘り葉掘り聞かれるだけよ。好き放題言い触らして良いなら戻るけど?」
「やめてくれマジで」
月影が普段関わってる連中はスクールカーストのトップ陣っていう事もあってお喋りが大好きなのだから、好き放題有る事無い事言われたら瞬く間にそれがさも真実な様に広まって俺の肩身が更に狭くなってしまうだろうが。
人の噂も七十五日とは言うが、俺からすれば長すぎて嫌になるレベルなので御免被りたい……こうやって月影と顔を合わしてる時点で火葬済みの死体に心臓マッサージをする様な無意味さかもしれないのは分かった上でだ。
「風邪引いても責任は取らないからな」
「ふふっ、これくらいで風邪を引くほど柔じゃないわよ」
「どうだか?そういうタイプほど後で熱出したりするんだよ」
「そうしたら寧暗君にうつすから」
「何がなんでも俺を巻き込もうとするスタンスやめろ……このまま話してると食べる時間が無くなりそうだ。狭いから隣座るぞ」
「えぇ、どうぞ」
階段に腰掛けている彼女の下に座れば、スカートを覗くつもりとか弄られる気がしたから隣を選んだがやっぱり狭いな……ギリギリ肩が触れ合う事はないが何かの拍子にぶつかってしまいそうだ。
「寧暗君はいつも菓子パン?」
「まぁな。両親は揃って夜遅くまで働いて朝早くに出て行く見事なワーカーホリックだからな」
「……似てないのね」
「失礼だなおい。そういう月影は弁当、手作りか?」
男の俺からすれば物足りない量だが、色とりどりの具材達はカロリーから何まで考えられているのがよく分かる実に健康に良さそうなメニューばかりだ。
「うちのメイドが作ってくれたものよ。両親は外国だからね」
「……金持ちなのは知ってたがその次元か」
「そうよ。身分の違いってものを理解したのなら態度を改めてくれるかしら?」
「面倒だからパス。つか、よくこの学園を選んだな。所謂、お嬢様学校とか行かなくて良かったのか?」
漫画やアニメみたいにリムジンで登校とかもしてないが、良いところのお嬢様が普通校を選ぶなんてあるんだな。
それとも月影みたいなのが普通で、お嬢様学校とかに通うのは創作の世界観なのか?……いや、現実に存在してるんだから違うか。
「堅苦しいのが嫌だったのよ。どうせ、本心を隠した嘘偽りばかりの場所だろうし」
「あぁ……なるほど」
こうやって話していると至って元気というか、俺に対して些か当たりが強くないか?って思える奴だったが不意に自殺を選ぶぐらいには精神的に疲れ切ってるんだったな。
そりゃまぁ、俺からしたら想像の域を出ない世界だがこの学園に通ってる奴らよりは建前とかそういうのをしっかり使う連中が多いだろうし嫌だと思うのも当然か。
「あと一歩で自殺を選んでたところだけど、取り敢えずは正解だったわ。寧暗君という面白い人に会えたし」
「そのせいで俺の平和はあっという間に崩れ去ったんだがな」
「どうせ寝てるだけの日々でしょうに」
「それで良かったんだよ。面倒事を避けられるからな」
これからどうなるかは知らないが、月影の方から俺に積極的に絡んでくる以上かつての平穏が戻ってくる事はないのだろう。
改めてそう思うとため息しか出てこないが、残っていた焼きそばパンを一気に口に放り込みブラックコーヒーで流し込む事で一旦堪える事にした。
「んで、わざわざ俺がくる場所を考えてまで聞きたかった事はなんだ?」
「あぁそうだったわね。打てば響くのが楽しくて忘れてたわ」
「おい」
「ふふっ、別に難しい話じゃないわよ。放課後、デートしましょう寧暗君」
「は?」
予想していなかった提案に頭が固まり、普段よりも心拍数が上がっているのを自覚しながら隣に座っている月影の方へ油が切れたロボットの様な動きで顔を向ければニッコリと美少女スマイルをお見舞いされ、不覚にも階段下の教室から聞こえてくる生徒達の楽しげな声がやけに大きく聞こえてきてしまった。
「放課後、デートをしましょう寧暗君」
自慢出来る話ではないが、見た目に気を使っている訳でもなければ年がら年中無気力に生きている俺にデートという男女の煌びやかなイベントは縁遠いものであった為、この提案が例え自分の平穏を彼方に追いやった月影から発せられたものだったとしても俺の頭が真っ白になってしまうのも仕方がないと言える……俺は誰に言い訳をしているんだ?
「ふ、ふふっ!!目が点になってるわよ寧暗君。そんなに不思議な提案だったかしら?」
「い、いや……そりゃ、お前……デ、デートって言われて困惑しない訳がないだろ」
「この先の屋上で私が言った事を覚えてる?私は寧暗君をもっと知りたいと思っているのよ」
小さなお弁当を小さな一口で慎ましく食べていた月影が漸く食べ終わるのと同時に、昨日と同じく俺の頬へと手を伸ばして優しく触れる。
違うのは暖房がないと言えど、此処は室内でまだ昼間と言うこともあり肌に刺さる様な寒さをしていないお陰で彼女の暖かな体温が感じられた事だろうか。
「へぇ。寧暗君でも顔が熱くなる事があるのね。思っていたよりも純情なのかしら」
「……悪かったな!!枯れた青春を送っていて!!」
「別に貶してる訳じゃないわよ?寧ろ、分かりやすくて有難いぐらいね」
クスクスと笑う月影に若干、イラッとする気持ちが無い訳ではないが本当に言葉通り貶す意図がないのだと分かってしまうせいか文句を言ってやろうかという胸のムカつきはすぐに何処かへと消えていってしまう。
「はぁ……どうせ俺に拒否権はないんだろ。何処に行くんだ?」
「ご名答。寧暗君も少しは私の事を理解してくれている様ね」
「昨日、今日でお前の強引さはよく味わったからな。言っとくが、俺に任せるとゲーセンになるぞ」
「それはまた後日にね。今日は彼……江口君が言っていた駅前のクレープ屋さんに行きましょうか」
一瞬だけ名前を思い出す様な素振りをされる江口よ、月影は完全にお前に脈なしだ。
碌にお前との関わりはないが黙祷ぐらいはしておくぞ。
「……それ、あいつらと鉢合わせしないか?」
「ん?何か不便あるかしら?」
「ほんと無頓着だな月影」
教室でも完全にクラスメイト達を無視して俺に話し掛けに来るぐらいだから分かり切っていた事ではあるが、俺の言葉に心底理解が及んでいないと小首を傾げる月影は本当に羞恥心の類が無いんだな。
「案外、クレープが食べたいだけだったりな」
「……」
おう、マジか。
思わず漏れた小声を聞き取ったらしい月影の吸い込まれる神秘的な黒い瞳が、今までずっとどんな場面でも俺の目から逸らされる事のなかった瞳が気まずそうに逃げたのを見て確信した──クレープが食べたいだけだと。
「くっ、ふふっ!……甘いもの好きなんだな月影」
今までの神秘的で何処か怖い印象が付き纏っていた月影がたったこれだけの事で、急に身近にそして子供っぽく感じるのだから人の印象というものは分からないものである。
自殺している場面に遭遇し、急に話をする様になった間柄なのだから相手の新しい一面がそれまでの印象とは異なるのはある種、当然と言えるのだがそんな事を微塵も考えられないぐらいには月影のペースに飲み込まれていたんだな俺。
「……人の好みを笑うものじゃないわよ寧暗君」
「散々、月影に振り回されてるんだからこれぐらいは許せ。くくっ、俺に拘らなきゃクレープを食べる機会が目の前にあったってのに」
どうせ、断ってもゴリ押ししてくるのが月影だが今日に限って俺が絶対外せない用事とかあったらどうするつもりだったんだろうな。
「あのメンツとは向こうが私と関わるのを辞めない限り、勝手に来るから良いのよ。寧暗君は違うでしょ」
「人を小動物か何かみたいに……まぁ、合ってるんだが」
「小動物ならもっと可愛らしさが欲しいわね。その目をくり抜けばマシになるかしら?」
「うわぁ……」
「冗談よ冗談。分かってて身を引かないで」
鶏そぼろと唐揚げの話から鶏が好きだと結びつけ、そのすぐに動物園に行くと提案してくるサイコパス女が言うと言葉の説得力が違うんだよ。
唇を小さく尖らせ、不満がありますと態度で知らせてくる月影をどうしたものかと思っていると昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。
「「あっ」」
食べる物は食べ終わっているとは言え、悠長に教室に戻ったら授業に遅れるぐらいには教室から離れておりしかも記憶が確かなら五時間目の授業は世界史でクラス担任の先生の授業だ。
俺は昨日の数学の一件があるからこの授業に遅れれば、間違いなくそれも含めて叱られるのは目に見えているがこのまま月影と一緒に戻れば唯でさえ、俺達に関して興味津々のクラスメイト達が一気に燃え上がる燃料を投下する様なものだ……よし、叱られる方を──
「何をぼーっとしてるのかしら寧暗君。行くわよ」
「あっ、おい!?」
──月影に手を取られて勢いそのままに走り出す。
握られた手は意外と力強く、振り解くにしてももうすでに走り出している以上余計な被害を月影に与える可能性が高いな……階段を駆け降りる音と一緒にまた俺の日常が音を立てて崩れていく音が俺の中で聞こえ出すのだった。
授業も全てが終わり──結局全ての授業で隣に座っている月影とのノートの切れ端による会話は行ったのだが──放課後、月影の方へと向かって歩いてくる江口達のグループを見つけ、此処は逃げ出す好機だと席を立つ。
「あの月「寧暗君、何を逃げようとしているのかしら?」──かげ、さん……」
「ありゃー、どんまいだね江口君」
グイッと左手を引かれ、俺の横に並ぶ月影の有無を言わせぬ笑顔に全てを諦める。
気まずさもあるが手を引かれた拍子にチラリと見えてしまった江口の、ガックリと肩を落とし同じグループのチャラそうな女子に背中をボンボン叩かれている姿は哀愁が漂っていて、なんとも言えたい気持ちになる。
「少しは相手をしてやれよ……」
「その間に逃げるでしょ?以前なら兎も角、今は相手をしている余裕ないもの」
俺への興味関心を失ったら、こいつぼっちルートまっしぐらな選択を取っているんだが良いのか?
そんならしくない心配と共に隣を見るが、彼女は変わらず堂々とした歩きで俺の手を引いたまま廊下を歩んでおり、クラスメイト以外からの視線もやはりと言うべきか、全く気に留めていないことが分かった。
「……お前、苦労しそうだな」
「何がかしら?」
一階へと降りれば、学年問わず多くの生徒が集まる下駄箱が近いせいか、周囲から聞こえてくる生徒達の声の騒がしさは二階よりも大きく隣に居るとはいえ、会話をするには少しばかり声を張らなくてはならずボソッと呟いた俺の声は聞き取るのが難しい筈なのだが、月影はしっかりと聞き取ったな。
「俺もお前のせいで平穏が崩された訳だが」
「朝も言っていたわね」
「今も朝も他人事みたいに言いやがって……まぁ良い。俺は元々、クラスでもボッチで碌な友人も居ないが月影は違うだろ」
下駄箱から下履きを取り出し、履き替え月影と共に外に出れば外気が頬を撫でる。
乾燥しきった風はその冷たさと共に喉に張り付く様な嫌な感覚を伝えてきて、話そうとしていた内容がほんの少しだけ突っかかるのが気になるがそんなものは無視して続きを話す。
「俺への興味関心を失ったらどうするんだお前。もう友人達のグループには戻れないだろ」
こうやって月影が俺の隣に居るのは俺に好意があるからとかではなく、何が琴線に触れたのかさっぱり分からないが自殺しようとしているクラスメイトを全く止めない俺のロクデナシっぷりに興味を抱いたからであって、例えるなら蟻の巣を観察している様なものだ。
小学生ぐらいの時の自由研究で蟻の巣観察キットを使った事があるのだが、アレは巣が作られて行く過程を観察するのが面白のであって完成した後の蟻の細々とした生活を見ていても何も楽しくない──それと同じだ。
「今、月影は俺を観察して楽しんでいるんだろうが碌な人生経験を積んでない俺の観察なんかすぐに底を突く。そんな俺を見るために今までの交友関係を壊しまくって、はい戻りますは無理だろ」
月影に好意を抱いてそうな江口だって、今はまだ彼女にアプローチをするだろうがそれを全て冷たくあしらうどころか無視されるのが続けば彼女を諦めるだろう。
寧ろそれだけで済めば優しいレベルで好意が反転し憎しみに変われば、俺を利用した月影の悪評を流すかもしれない。
「なに、心配してくれるの?」
前を向き続ける俺の顔を覗き込んでくる月影の目はやはりと言うべきか、吸い込まれる何処までも黒い瞳であんな出会いやこんな話をしていなければきっと綺麗だと感じられるのだろうなと思いつつ、歩くのに邪魔な彼女の顔を握られている手とは逆の手で押し上げる。
「少しでも早くお前を遠ざける為だ。関わってる時間が長ければ長い程、俺の日常は帰って来なくなる」
「ふぅん?でもまぁ、私の今後に関して寧暗君が心配する事は何もないわよ」
「いやだから心配じゃなくてだな……」
「だって君の観察が終わったら今度こそ、私は死ぬもの。だから今の人間関係がどうなろうが知った事ではないのよ」
駅前という交通の要所に向かって歩いているのだから当然な事ではあるのだが、整備の行き届いた綺麗で広々とした道はファミレスや大型ショッピングモールなどに繋がっている為、人通りも多く今が下校時刻という事も相まって俺達と同じ学生の姿を多い。
そんな場所では何処からも日常のどうでも良い会話が聞こえてくる中、握られた手の先にいる月影から発せられた言葉は周囲の温かさとは真反対の冷え切った諦観からくる言葉で幸運だったのはこの厨二病もかくやという痛々しい言葉が周囲の誰にも聞かれなかった事だろう。
「寧暗君への興味が私をほんの少しだけ死から遠ざける理由になっているだけで、別に私から死にたいという願望が無くなった訳じゃない。そうね、言ってしまえばただの優先順位の問題よ」
「……そうかよ。んじゃあ、とっとと俺の観察が終わってくれる事を祈るか」
「ふふっ、そうね。寧暗君ならそう言ってくれると思っていたわ」
彼女に何かを言い聞かすのが無駄な事ぐらいはこの二日間でしっかりと学んだし、ちょっと付き合いが出来たからと言って俺が彼女に死ぬのを止めるように説得するような熱血漢に生まれ変わる訳でもない。
周りからどんな風に見られているかは大凡、予想出来るが真実はこの乾き切った冷たい風と同じ冷え切った間柄に過ぎない。
「だけど少し意外だったわ。私と江口君達のグループがそんなに仲良く見えていたの?」
「そういう訳じゃないが、アイツらはカーストトップの意地なのかなんなのかは分からないが遠巻きにされる事が多い月影にも関わっていただろ。まぁ、お前からすればなんか周りにいる程度だったとしても、側から眺めている分には仲の良い友人だと思っていたからな」
「なるほどね。確かに江口君や宮入さん、郷田君、鈴木さん、森さん達はよく私に話しかけていたけれど友人だったかと言われれば怪しいわね」
「そうなのか?」
「えぇ。郷田君は江口君の友人だからで宮入さん達は良くも悪くも顔が良い江口君に釣られている感じで、その江口君が私によく関わろうとしてくるから自然とあのグループになっていた……本人達がどう思っていたかは興味なかったから分からないけど少なくとも私から見た感じはこうね」
友人の友人って感じが強いって訳ね。
俺とは色々と正反対の江口だからこその人徳と言うべきか、ツラの良さと言うべきかは分からないがああいうタイプは無自覚の内に人を惹きつけるからな。
そんな奴に好意を持たれていたとなると、月影の性格からして友人の友人という関係性が構築されていたとしても何も不思議じゃないだろう……言われてみれば放課後に月影へと積極的に話しかけて来たのは江口だけだったな。
「やっぱり人と関わるのは面倒だな……」
「ふふっ、そうね」
そんな話をしていれば視界が大きく広がり、多くのバスやタクシーが見え今まで以上に人が多くいる駅前へと到着する。
霧桜学園からそこまで離れていないとは言え、普段ゲームをしにこの辺のゲーセンに来る時はまだ着かないのかぐらいの感覚を覚えるが今日はなかったな。
「目的地のクレープ屋ってのは何処だ?」
「私も詳しい場所は知らないのよね。江口君が話していただけだし」
「……おい、当然だが俺も知らないぞ」
「最初から期待してないわよ。でもまぁこういうのは大抵、人の流れを読めば良いのよ」
信号のある横断歩道で立ち止まった際に、月影は両目を動かし周囲をよく観察する。
「こっちかしらね」
そのまま彼女に手を引かれるままに歩いて行くと、そこには多くの女子学生とカップル達が並んでいるクレープ屋があった。
「……よく分かったな。迷いのない足取りだったぞ」
「ふふっ。人が多く集まる場所は目的の場所を探すのが一見、大変そうに思えるけど実は違うのよ」
「そうなのか?」
「えぇ。ちょうど並ぶ待ち時間もあるし教えてあげるわ。寧暗君は化粧品に興味があったりするかしら?」
「いやないな。多くの男は興味ないんじゃないか?」
見た目に気を使う男も増えて来ていると最近、聞くがそれでも化粧をしてまでってのはそんなに多くないだろう多分。
「ならゲームに興味は?」
「当然ある」
「そう。これだけ多くの人が集まればそれぞれの目的があるのが当然よね。そして、この付近には大型ショッピングモールがある。簡単な買い物ぐらいなら駅前に来るよりも其方で済ませた方が簡単よ。となると、ここら辺に来るのは明確な目的がある人達が多い」
ふむ、なんとなくだが月影の言いたい事が掴めてきたぞ。
「今回で言うなら新しいクレープ屋ね。出来たばかりのお店と言うのはそれだけで人を集める。そして、クレープ屋となると独り身の男性よりも女性やカップル、学生が多く利用するわよね。なら、そう言った人達が多く向かっている方向に行けば辿り着けると踏んだ訳」
「なるほどな。大凡の方向が分かれば違っていたとしても、その近隣にある可能性は高いって訳か」
「えぇ。一回で通じてくれるなんてやっぱり頭は良いわよね寧暗君」
「テストの話か?やる気がなかったからな」
「ふふっ、私よりも寧暗君の未来を心配した方が良いんじゃないかしら?成績は良い方が選択肢多いわよ?」
「月影は俺の親か?それとも生活指導の大河原先生だったりするか?」
そりゃ、この先の進路の事を考えれば高い方が良いに越した事はない事ぐらいは分かっているがやる気が出ないんだから仕方がないだろ。
よく大学には行って選択肢を広げておけとは言われるが、よくもまぁ夢も何もなく勉強をする気になるなと俺からすれば思うよ。
「……夢も何もないからな。頑張る原動力ってのがないんだよ。放っておけ」
「変なところが私達似てるわね」
「はい?」
俺と月影が似てる?おいおい、意味が分からないことを言うなよ。
「鳩が豆鉄砲喰らった様な顔をしないでよ。だってほら、どうせ死ぬからって今の交友関係を考えてない私とやる気が出ないからと勉強をしない寧暗君。ほら、どっちも未来の事を考えてないもの」
「……なんだそのスケールがマイナス方向に振り切ってるどうしようもない共通点は」
俺だって別に未来の事を何を考えていない訳ではないぞ。
このまま、山も谷もなくただ枯れた様に日々を生きて一人死んでいくんだろうなぐらいの考えはあるのだから、横の死にたがりと同じにして欲しくはないな。
……まぁ、だからって月影の言葉を強く否定する様なものは何もないのだが。
「あら、寧暗君にまとも側である自覚があったなんて驚きね」
「少なくともお前よりはまともだと思うが」
「……井の中の蛙って哀れよね」
「勝手に蔑まないでくれるか?」
「ふふっ、ほら、順番が来たわよ蛙君」
「蛙じゃねぇ!」
クスクスと俺を揶揄って満足げに笑う月影に青筋を立てながら前に進めば、作られたばかりとよく分かる色褪せていないメニュー表と綺麗な店構えに迎えられ、少しばかり緊張した様子の店員の元気な挨拶が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ!ラッキーハウスです。ご注文は何にしますか?」
クレープ屋なんて恐らく、小学生の頃に親に連れ来られた以来だが凄い品揃えだな……どれも色鮮やかでちょっと目が痛くなる。
後ろが居る以上、長く悩む訳にはいかないだろう。
「この『生チョコストロベリー』を」
「なら私は『キャラメルホイップ』にしようかしら」
「はい!畏まりました。別々の会計にしますか?」
「えぇそう「いや、一括でお願いします」……寧暗君?」
「財布の中を見たらデカいのしかなくてな」
五千円を取り出して店員に手渡すと、なんだか生暖かい視線を向けられた気がするが別にこれは見栄を張ってとかそういう訳じゃない。
本当に財布の中に細かいのがなかったから、俺が纏めて払った方が早いと思っただけだ。
「はい。こちらお釣りになります!少々、お待ちくださいね」
お釣りを受け取り、財布に閉まっている間に店員が奥へと消える。
「……寧暗君、私の分払うわよ」
「別に良い。どうせ、一人じゃクレープ屋になんか来なかったからお礼みたいなもんだ」
「……本当に不思議な人ね。普通の人なら見栄を張ってたりするのに本心で言ってるのね」
「相変わらずよく分かる奴だな。読心術でも学んでるのか?」
「嘘を吐く人を見慣れていると言ったでしょ……何かでお礼をしなくてはならないかしら」
「いや、いらないが」
何を恩義に感じているのか分からないが、俺が不必要だと言ってるんだから下がってくれ月影。
この不毛なやり取り飽きてくるから。
「はい!お待たせしました。此方が『キャラメルホイップ』になります」
「月影、お前のきたぞ」
「えぇ」
先に出来上がったキャラメルホイップを月影が受け取り一歩下がる。
一先ず、これで物理的にではあるが不毛なやり取りを続ける必要は無くなったと考えて良いな。
「そして此方が『生チョコストロベリー』になります」
「はい」
「……ふふっ、頑張れ少年」
この店員、何かを勘違いしている気がするがせっかく後ろを気にして手早く終わらせたのだからこの人と話をする時間が無駄だろう……それにこの先も別に関わる相手じゃないし勘違いを訂正する労力が面倒だ。
「月影、何処で食べる?」
「そうね……あ、あそこが空いてるわよ」
想像していたよりもお持ち帰りが多いのか、店の外に並べられている飲食スペースは埋まってはいるが端の方とかは空いており、そこを月影がしっかりと見つけたらしい。
彼女と向き合う様に座り、クレープを一口齧ると一気に広がる生チョコの甘みが一瞬、くどいと思ったがすぐにイチゴの爽やかな酸味がやってきて生チョコの甘さに深みを与えてくる。
「おぉ、美味いな」
「えぇ。これは予想以上だったわ」
月影が食べているキャラメルホイップも美味しかった様で、ニコニコと微笑む月影の姿はしっかりと美少女だ。
マイナス面がとことん、突き抜けているのを知らなきゃこれはこれで目の保養というやつになるんだろうな。
「……ん、バニラアイスが入っていたのか」
「こっちも入っていたわ」
バニラアイスは割とすぐに飽きてしまうタイプだが、そこは生チョコとストロベリーが良い刺激になってくれるし、バニラアイスが現れたことで今までの味変となり美味しく食べ進める事が出来る。
「……ねぇ、寧暗君の一口貰えないかしら?」
「別に構わないが……食べたかったのか?」
「寧暗君が美味しそうに食べてるから気になって。ほら、私のも一口あげるから」
そう言って自分が食べていたキャラメルホイップをグイッと差し出してくる月影。
まぁ、俺も彼女が食べている味は気になってはいたから構わないのだが……いや、間接キスとかの概念を気にする奴じゃないわな。
「ほらよ」
互いに自分のクレープを相手に向けている形となり、ほぼ同時にお互いのクレープを齧る俺達。
……うん、キャラメルは普段、あまり食べなかったがこれはこれで美味しいな。
「んー、寧暗君のも美味しいわね」
「そっちのも美味いが俺にはちょっと甘すぎるな」
「そう?まぁ、確かにそっちにあるストロベリーの酸味とかはないからね」
「そういう事」
単に甘い物を食べるのも好きだが、俺は今回のみたいにちょっとした味変がある方が好きだな。
この後、月影が齧った部分を食べるのがなんとなく躊躇われたのだが目の前の彼女が全く気にしてない様子を再度見て、俺も気にせずに自身のクレープを食べ切る事に成功した。
「……ただいま」
月影とクレープを食べ、金持ちらしい門限がある彼女と早々に別れ家へと戻って来たが習慣的に発した言葉は案の定真っ暗闇の家の中へと消えていく。
いつもならこの暗闇に何かを思う事はないのだが、月影と話しながら帰って来たせいだろうかほんの少しだけ本当に胸の奥底に物足りなさを感じてしまった。
「いやいや、何を思ってるんだが……さっさと着替えてゲームでもするか」
制服を脱ぎ捨て部屋着に着替える事で、物理的にでも先程までの自分と別人になったと錯覚する事で先程の気の迷いを忘れる事にし普段やっているスマホゲームから据え置きのコンシューマーゲームを起動させる。
「……あぁ。そういや明日は体育があったな」
流れてくる銃弾とミサイルの音の中、操作する軽快に動き回る二足歩行ロボットでやけに下方への攻撃手段に偏っている戦艦を沈めつつ干して置いた運動着を見る。
男女混合でやる時もあるが、明日の授業はバスケで男女分けて行うスポーツだから月影の奴に振り回される事もないだろう。
「その分、もしかしたら同じ男子からの妬みが飛んでくるかもしれないが……まぁ、適当に去なすか」
なんとなく感じる面倒くさそうな気配に辟易としながら、日中、月影と関わった事で溜めまくったストレスをぶつける様にほぼ無心で敵を殲滅していき、作中人類の多くを滅ぼすエンディングを迎えてから夕飯を食べてこの日は眠りについた……結局、両親のどちらも帰ってくる事はなかった。
「おーい、安堂!!」
「んあ?」
翌日の朝、霧桜学園への登校途中によく聞くされど、自分の名前を呼ばれる事はごく稀な声が聞こえて振り返ると聞き間違えていなかった様で朝から無駄にキラキラと輝いているイケメルの江口の姿があった。
「うおっ……」
「お前から呼んでおいてそのリアクションはないと思うぞ」
「あっ、いやごめん。そのあまりにも目が死んでいたから」
「……お前もそう言うのか」
自覚はあるがほぼ初対面の相手の第一声に言われるとは、本当に酷いらしいな俺の目は。
俺の返事を怒っていると思ったのか、江口の目は慌ただしく泳ぎ始めなんだが身体の落ち着きも無くなってくる。
「その、気を悪くしたのなら「別に気にしてないぞ。散々、言われてきた事だからな」ッッ、そ、そう?そのそれは月影さんからも?」
「ん?あぁ。思いっきり腐った生ゴミの様な目と言われたぞ。なんならそれで俺と認識された」
改めて口に出すと酷いなこの確認方法……いやまぁ、別に傷つく心は持ち合わせてないから良いんだけど。
んで、この俺の目の前でモゾモゾしてる怪しいイケメンに俺はどうしろと?
「……俺も目を死なせた方が良いのかな……」
「おーい、江口?何もないなら置いて行って良いか?」
「あっ!ごめん!!その、話をしたいのは月影さんの事なんだ」
まぁ、そうだろうなとは思っていた。
今なら学園からそれなりに離れているお陰で登校途中だと思われる生徒達は疎らで、奇妙な組み合わせとなっている俺達を気にしている人らはそこまで多くない。
だからこそ、人が増えるより前にとっとと本題に入ってほしくて急かした。
「……その君達二人は付き合っているのか?昨日からいきなり距離感が近くなったけど」
思いっきり顔に自分の予想が合って欲しくないと出ているぞ江口。
全くもって月影への好意を隠せていない訳だが、こんなんでも本命の月影には微塵も通じていないのだから人の感情というのは分からないものだ。
「付き合ってると思うか?」
「だってほら……クレープ屋に居たし、食べさせ合いもしてたから」
「……見てたのか。まぁ、客観的に見て俺と月影がそういう関係に見えるであろう事は否定出来ないが、安心しろ江口。事実として俺と月影は男女の付き合いに無い。俺がモルモット扱いされてる程度だ」
「モ、モルモット?」
一方的に観察されて興味関心がなくなったらポイっと捨てられるのが俺だ。
この関係性が江口に通じるとは思えないというか現に目の前でモルモットと復唱し続けているのを見ると考えは間違っていなかったな。
「……じゃあ良いか。もう先に行くぞ」
「あっ、うん。ありがとう」
江口との会話を終わらせ、歩行スピードを速める……後ろから歩いて来ている月影の姿が見たからではあるが。
今日も今日とて教室に入れば好奇の視線に晒されはするが、月影を振り切って入った為にその視線の圧は弱くすぐに霧散した為、さっさと自分の席に座り眠ろうとして──昨日、耳に息を吹きかけられたのを思い出し姿勢を正す。
「……ゲームでもするか」
小音モードになっているのを確認してからゲームを起動し、キャラの育成素材をかき集める周回作業に入る。
無心でポチポチとしているとガラッと教室のドアが響く音が聞こえ、顔をスマホから音のした方へと視線を向けるとそこには月影が立っており、俺と目が合うと笑顔を浮かべながらやって来て隣の自分の席に荷物を置いた。
「おはよう。寧暗君」
「おう。おはよう」
「今日は寝てないのね。残念」
「お前に息を吹きかけられたく無いからな」
「ふふっ。あぁ、そのゲーム、私も始めてみたわよ。ガチャを引いてみたけどこれってどうなのかしら?」
差し出されたスマホを横目で見て、表示された最高レアのキャラクターの数々に頭が真っ白になる……え?これが始めたばかりの奴のデータだと?
確かに今は周年で確率が上がっているとは言え、チュートリアル後に引けるガチャは多くても五十連……それなのに所持列の一列以上、最高レアのしかも人権と呼ばれるキャラで埋まるとか。
「……運良すぎだろお前」
「そう?」
「あぁ。まぁ、当面はこのキャラを育てておけば良いと思うぞ。広範囲攻撃だからストーリー攻略や育成素材集めのクエストの周回が捗る」
格好としては比較的、アウトに分類されるキャラで作中も強さとは無縁の筈なのだが、運営の趣味とプレイヤーの好感度が高いせいか明らかに頭一つ飛び抜けているキャラを教える。
何処まで月影がこのゲームを真面目にやるかは分からないからこれだけは損ないという事柄を教えておく。
「全キャラを育てる事はオススメしない。最初は素材が余ってはいるが、育つほどに要求量が上がるからな」
「ふんふん。あ、この子は強いの?見た目が結構好きなんだけど」
「ん?あぁ。強いぞ」
「じゃあこの子も育てようかしら」
頭が良い月影は理解力も高い様で水を吸うスポンジの様に知識を付けていくのが俺としても面白く、ついつい熱が入って教えてしまったがその間も全く月影は嫌な顔をしないどころか、担任がやって来て中断された後も昨日の様にノートの切れ端で会話をするぐらいには彼女にゲームの事を教えるのは楽しかった。
なんて事をしていれば昼飯前の四時間目、体育とかいう空腹感が苦しい地獄の時間がやってくる。
「一緒のチームだな。よろしく安堂」
「……おう」
そして、何の因果か俺と江口は同じチームとなり、なんなら江口の友人である郷田とも同じチームとなった。
男子の人数は偶数だからグッとパーで別れた結果なのだが、まさかこんな結果になるとはな……
「ふふっ」
ネットで半分に分けたコートの向こう側で、このチームを見ながら笑ってる月影に呆れ顔を返しておく。
お前のせいだからな?この気まずさは。
まぁ、今朝に話をしたから江口からそんなに悪感情を向けられていないのが一先ずの救いとは言えるか。
「……まぁ、だからって真面目にやる訳じゃないんだが」
コート全体を見渡し、的確に味方陣地の無意味なエリアに陣取る事でボールが来ない環境を維持し、ただ攻撃に合わせて緩く走るだけの必要最低限の運動で済む調整をする。
俺がこんな手抜きをしていても江口を筆頭にしたメンツが、指揮能力まで併せ持ってる彼の指示に従いどんどん点数を取っていくから何も問題はない。
「よっと!!」
「「「きゃー!!格好良い!」」」
江口がダンクシュートを決めると女子側のコートから甲高い歓声が上がる。
すぐに体育教師に注意され、女子側も動き出すがその視線の多くは汗を流しながら良い笑顔を浮かべる江口に向けられていた。
「……で、なんでお前はこっちを見てるんだ?」
『真面目にやったら?』
女子達が動き出す中、視線が合う月影。
こんな時でも俺の観察かと感心するが、俺の疑問をしっかりと口パクで聞き取って返された言葉に肩を竦める事でやる気はないと示す。
別に頑張ったところで何か良い結果が待ってる訳じゃないし、露骨過ぎない程度に手を抜いておけば普通評価が約束されているのだから江口達の様に動き回る必要はない。
『ふぅん?』
──そんな俺の消極的な姿勢が気に障ったのか、相手のパスに月影は割り込みボールを奪うと見事な動きとボール捌きで守備の殆どを抜き去り、綺麗なシュートを決める月影。
『私でもこれくらいは出来るわよ?』
「……なんで勝ち誇ってるんだ月影」
別にお前が凄い事をしようが俺にやる気が出る訳ではないのだが──
「安堂!」
──なんて事を考えていると月影を目で追っていたせいか、立ち止まっていたせいで俺の立っている位置が攻めてる俺達のチーム側に有利な場所になっておりぼーっと立っていた俺へと江口の綺麗なパスが飛んできた。
「ッッ、マジかよ」
反射的にボールを受け取り、周囲にパスを出せる相手が居ないことも俺のすぐ後ろに守備側の相手が迫って来ているのも足音で分かってしまった。
此処であっさりとボールを奪われるのが俺にとって一番楽なのは、分かっているのだがこの絶好のポジションで受け取った以上、失敗すれば江口は兎も角他のメンツに文句を言われるのは確実……あー、クソッ!!月影に刺激された様で癪だな!!
「おぉ!?」
振り返りながらダンっとドリブルするのと同じタイミングで、後ろに下がる事で俺が前に出ると思っていた相手の不意を突き、ボールを頭上に掲げてシュートを放つ。
綺麗な放物線を描き飛んでいくボールは、クルクルと回転しながらゴールネットを揺らす。
「3ポイントシュート!!やるなネクラ!!」
「グエッ!……寧暗な」
駆け寄って来た郷田が見た目通りの凄い力で背中を叩くもんだから、盛大に咽せてしまい訂正するが、次々とやってくる味方達が郷田の真似をする様にネクラと呼びながら背中をドンドン叩いていくから呼吸は落ち着かないし、訂正も殆ど出来なかった。
『ふふっ、やるじゃない』
囲まれた先で俺に親指を立てる月影へと中指を立てればクスクスと笑われるのだった──あぁクソッ、これだから目立つのは嫌なんだよ。
──あぁ、本当に彼の事を知っていくのが楽しい。
来る日も来る日も、私がする事、話す事に一々丁寧に反応を返す彼は自他共に認める無気力な人間だけれど、周囲の人間から向けられる感情には意外と聡く、私が内心で思っている事を見抜くのも上手い。
普通ならそれだけ他人を知る事が出来るのなら他者の感情に振り回される筈なのに、持ち前の無関心さのせいか積極的に他人に関わらないせいか他者に染まる事を良しとせず、何処までも一人であり続けるのだから面白い。
「寧暗君って何か嫌な経験でもあったの?目立つのを嫌がるけど」
彼と知り合った新しい毎日の中で、ふとそんな事を尋ねた。
今日は金曜日で、彼と出会ってから五日が経過したぐらいの日だった気がする。
いつもの様に屋上へと繋がる階段に腰掛けながら、菓子パンを食べている彼は私の質問に眉を顰めながらも答えてくれた。
「これで俺に嫌な経験があったら空気が終わるぞ月影」
素直に答えれば良いのに遠回しに伝えてくる彼のいつも通りな反抗心に笑いつつ、お弁当のおかずを口に運ぶ。
「つまり無いのね」
「面倒だと思った経験は数多くあるがな。そういうのは寧ろ、お前の方が多いだろ」
突き放す様な言葉遣いと冷たさで話す彼だが、本当に私への関心がなければ出てこない言葉は彼なりに私の胸の内を考えてくれていると分かる。
なんともまぁ、わかり辛い優しさだろうか……きってこういうのをツンデレと言うのかしら?
「そうね」
人は誰でも本心を隠す生き物。
集団で生活をする生き物だから荒波を起こさない様に人は相手にとって、都合の良い相手を演出する。
別にただこれだけなら私だって、寧暗君と知り合う前はやっていた事だから別になんとも思わないけれど、私にとってそれこそ死を厭わない程に嫌なのは誰かもが本心を覆い隠すのを良い事に、下卑た欲望すらも都合の良い仮面で覆い隠してしまう事。
聖人を偽り、私腹を肥やす者達や真っ当な大人を偽り、本能のままに欲望を解消する機会を伺う者達、家柄なんて関係ない友人と偽り、ただ私の財力に縋りたい者達……今も昔もそういう人間達ばかりを見ていたからかしらね。
『そうか。まぁ、大して関わりもない俺なんかの言葉で考え直すとは思えないし、死にたいと思ってるんなら良いんじゃねぇの?』
私の事なんて全然、気にもしていない剥き出しの無関心から告げられる言葉がこんなにも私の心を揺さぶったのは。
「人は皆、自分ではない誰かに好かれたい生き物だと思っていたわ。だからこそ、本心を偽るし善い人であろうとするのだと。寧暗君は違ったみたいだけど」
「まぁ、嫌われてるよりは好かれてる方が生きやすいとは思うぞ俺だって」
「その割には噂を聞きつけた運動部からの勧誘を手酷く断ってるわね」
無気力が形を成している様な寧暗君だけど、あの体育の日以降、真面目に取り組めば出来る奴だとすっかりバレたみたいで私と一緒に帰る時に良く下駄箱で運動部の出待ちに遭遇している。
彼らの思惑の中には寧暗君を引き込めばマネージャーとして私が来る事もあるみたいだけど、その度に私の手を掴んで振り切って逃げるかそれが無理な状況なら簡易的な試合をして勝つ事で諦める事を条件に試合して、見事に勝ってるのだけどそんな事をすれば余計に勧誘がしつこくなるって分かってるのかしらね彼。
「面倒だからな……疲れるし、体育会系のノリって苦手だしな。根性で実力差がひっくり返るなら練習なんていらないだろ」
「ふふっ、寧暗君らしいわね」
「それに俺が万が一でも引き込まれれば次は月影だろ。俺のせいで巻き込まれる奴が出るとか責任重過ぎるわ」
あぁ、なんで私の手を掴んで逃げるんだろう?って思っていたけれど、彼なりに私の事を気遣ってくれていたのね。
口に出している通り、自分の責任になるのが嫌だからって言うのが本心の殆どを占めているから今の今まで気がつけなかったわ。
「……本当に面白い人」
「今の何処に面白いところがあったんだよ……」
他人にはとても無関心な癖に自分の行動が相手にどんな影響を与えるのか分かってしまうから、それを避ける為に動くけど誰かを助けるつもりとかではなく、本心からその結果になるのが自分にとって嫌だからという酷く歪曲した自分本位からくる結果となり誰かを助けていたとしても、寧暗君には一切そのつもりがないという愉快な事になるのよね。
「明後日の日曜日、朝から暇だったりするかしら?」
もっと隣に座っている彼の事を知りたいという欲求が勝手に口を動かしていた。
いつも通り、死んだ魚の様な目を猫みたいに丸くしながら驚いた表情で私の顔をマジマジと見てくる寧暗君に微笑みかければ、彼は少しだけ目を逸らし頬を人差し指で掻いた後、ゲームをしていたスマホでカレンダーを見ると綺麗に真っ白な画面を向けてきた。
「……見ての通り暇だ。しかし、朝から何をするんだ?」
「それは秘密よ。詳しい事はスカイトークでしましょうか。学校で話すと何処に聞き耳を立てられているのか分からないし」
「流石にそこまでの悪趣味な奴は居ないとは思うが、まぁ分かった」
「あら、別に私は良いのよ?これまで以上に寧暗君が好奇の的になっても」
「……やめてください」
大方、スカイトークの方になるとゲームする時間が減るから嫌だなとか思っていたのでしょうけどそれくらいは我慢してくれるかしら寧暗君。
何処までも面倒くさがり屋で目立ちたくない彼だけど、そのお陰で此方の要求の通し方も簡単で助かるわ。
「それじゃあまた夜にね……こういう言い回しって少しエッチかしら」
「知らん」
「ふふっ」
『起きてるかしら寧暗君?』
人を小学生か何かかと勘違いしてないだろうか月影は。
ベッドの上で横になっているとは言え時刻はまだ20:00、クソ真面目な高校生だったとしても起きてる時間帯だろう。
『起きてるぞ』
『それは良かったわ。日曜日の件だけれど、私の方で車を用意するから遠出しましょうか』
「は?」
スカイトークで送られてくる文章を見て、思わず声を漏らしてしまった。
あの月影がわざわざ、スカイトークで話を詰めようと提案してきたから何かしらはあるのだと思っていたが、まさか遠出……しかも言い回し的に県外に出るって事だとは流石に予想していなかった。
『何処まで行くつもりだ?』
『それは内緒。朝の八時ぐらいに寧暗君の家に迎えに行くわね』
『ほぼ学校と変わらねぇ……というか俺の家の場所知ってたのか』
『ふふっ』
いつもの笑い声を連想させる文章の後に黒猫がグラサンを着け、意味深に悪い笑顔を浮かべているスタンプが送られてくる。
「いや、怖いわ」
一度も連れて来てないし、口頭でも住所を伝えた覚えはないんだがな……月影の奴、家の財力の使い方を間違えてないか?
「……まぁ、月影が何か悪用するとは思えないし良いか」
悪用するつもりがあるのなら幾らでも出来るタイプだとは思うが、あの死にたがりがわざわざ遺恨を残す様な事はしないだろう。
恐らくそれは綺麗に死にたいという願いに反するだろうし。
『まぁ、分かった。寝てたら通話でもスタ爆でもしてくれ』
『じゃあ十分過ぎる事に江口君達とのグループに君とのアレコレを話すわね』
『や め ろ』
何よりも嫌な脅しをしてきやがって……月影はやると言ったらやるからな……土曜日は深夜までゲームしないで寝るか。
「それにしても県外とは何処まで行くつもりなんだか」
月影の無駄に高い行動力に関して推測するだけ無駄なのは分かっているが、どうにも気になってスカイトークでのやり取りが終わった後にゲームをせずに車で行ける範囲の観光地とかを調べて、そのまま寝落ちする事になるとはこの時の俺は全く考えていなかった。
「……旅行が楽しみで眠れない餓鬼かよ俺は」
そのせいで土曜の朝から羞恥心に悶える事になった……これも全て月影が悪い。
「……嘘だろおい」
「ふふっ。私の家がお金持ちだって忘れていたのかしら?」
一般庶民が暮らす閑静な住宅街に佇むこれと言って特徴のない我が家の前に、黒くて長い車──リムジン──が止まっている光景の違和感凄まじいな。
当然と言えば当然なのだが月影がコレを運転している訳ではないから運転手と思われる白髪オールバックで執事服を着ている爺さんがドヤ顔の月影の隣に立って客人認定の俺なんかに頭を下げているのが凄い心苦しい。
「それにしても残念ね。寧暗君の事だから寝過ごしてくれると思ったのだけれど」
「あんな脅しされれば起きるさ」
「黙っていれば良かったかしらね。ところでご両親はご在宅かしら?今日一日、君を借りて行くからご挨拶ぐらいはしておきたいのだけど」
「……車庫に隠れてるぞ」
「ちょ!……あはは、えっと寧暗と仲良くしてくれてありがとうね。まさかこんな凄い子だとは思わなかったけど」
前日に月影が来ると話したら俺が友人と遊びにしかも休日に出掛けるなんて、初めてだとウキウキで挨拶すると言っていた癖に案の定、仕事で朝帰りとなったこの母親はリムジンと紙一重のタイミングで帰宅したせいですっかり出るタイミングを失って車庫の柱に隠れてチラチラこっちを見る不審者になっていた。
「いえ、私の方も寧暗君は色々と面白い方でとても楽しい日々を送らせて貰っています。お母様」
「あら、あらあら……私達が仕事ばかりで相手をしてやれなかったせいか、内気で自分の世界で完結しちゃう子だけど貴女みたいな子に好かれてるのなら良かった」
俺よりは幾分か生きてる目に薄らと涙を浮かべる母さんを見ると、特に直すつもりはない自分の性というものを反省する気は起きてくる。
両親揃って仕事ばかりの日々であり、碌に食卓を囲んで同じ飯を食べた記憶もないがそれでも親というものは確かに子を愛しているのだと分かれば余計な心配はかけたくないと思う。
「これなら孫の顔を見れる日も早いわね!」
「……そういうところだぞ母さん」
浮かべていた涙は何処へと呆気からんとした笑みを浮かべる母親のデリカシー皆無な言葉に芽生えた反省が一気に消し飛ぶ。
「気を悪くさせたらすまん。月影」
「大丈夫よ。寧暗君、ふふっお義母様のご期待に応えないとね」
「んんっ!じゃあ、俺達はもう行くから。しっかり休めよ母さん!!」
この状況で悪ノリされ続けたら絶対に俺だけじゃ収拾が付かないし、どう足掻いても俺が一番面倒な立場になるのは確実だ。
背後から感じる生暖かい視線と、前から感じる楽しんでる視線を無視し月影の背中を押してリムジンの中へと入るとそこはもう、完全に別世界だった。
一面、ベージュ色で車とは思えないまるでソファの様な椅子達に加え、俺達二人分にしては量の多いドリンクが並べられており勢いよく月影の背中を押したは良いが、車内で完全にフリーズしてしまう。
「驚いた?」
此方に振り返った彼女は悪戯が成功した子供の様なあどけない笑顔を浮かべながら、俺の手をゆっくりと引きソファへと共に座る。
「すぐ終わるでしょうけど大人達の話が終わるまで待ちましょうか」
「……ん、あぁ。そうだな」
何かがあれば責任問題だもんな、子供達の手前そういうのは隠したけど保護者だけとなれば変わってくるか。
互いに頭を下げ合ってる大人達を横目に月影が何処からどう見ても、シャンパングラスにしか見えない器にこれまた赤ワインみたいな色をした葡萄ジュースを注いだのを確認する。
「なにこれ」
「私の好きなブドウジュースよ。間違ってもお酒じゃないから安心して」
「そこは疑ってねぇよ?」
「なら頼んでもないのにってことかしら?あのね、寧暗君。流石の私も自分一人で飲み物を独占するほど我が儘じゃないわよ」
「月影が我が儘じゃない……?お前、一度鏡を見てきたらどうだ?」
「なるほどね。これは道中、たっぷりと話し合いが必要かしら」
いやいや、お前ここ数日の自分の行動を鑑みてみろ?俺がどんなに断ろうとしても押し切ってくる様は何処からどう見ても単なる我が儘でって、待て待て性格は兎も角、面が良いお前が無言で凄むと圧が凄いんだって!?
「ごっ!?」
「……全く」
後にも先にもブドウジュースで溺れかけた経験をした事がある人類は俺だけだろう……
「おぉ……」
車で揺られ続ける事、二時間程度で辿り着いたのは澄んだ青色が何処までも広がる海岸であった。
シーズンを過ぎているのもあって、人は少なく居たとしても静かに散歩をしている程度で普段、賑やかな人混みの中にいるせいか心が落ち着くのを感じるな。
「じゃあ、後はよろしく」
「はい。お嬢様」
降りた俺と月影の二人を置いて、乗って来たリムジンは何処かへと走り去ってしまった……え?置き去り?
「月影?」
「心配しなくても大丈夫よ。折角のデートなのに邪魔されたくなかっただけ。それに目立つしねあの車」
「じゃあなんでリムジンにしたんだよ」
「あら。寧暗君の驚く表情が見たかったからに決まってるじゃない。変に事を聞くのね」
その為だけにリムジンを手配するとか……やっぱり月影の感性はズレてんな。
だがまぁ、乗せられて来た以上我が儘を言う事も出来ないから此処は黙って受け入れるが。
「……」
「ふふっ、それじゃ観光をしましょうか。目的のものは夕方ぐらいだしね」
俺の手を取り歩き出す月影の後姿はいつもの見慣れた光景ではあるが、普段感じることのない潮の香りと頬を撫でる海風が彼女の黒くて長い髪を微かに持ち上げ、弾ませているせいだろうかなんだかとても楽しげにしている様に見え、妙なこそばゆさを感じた俺はほんの少しだけ歩く速度を上げて隣に並ぶと視線を向けられた。
「そんなに急がなくても街は逃げないわよ寧暗君」
「別に良いだろ。アレだ、少し歩きたくなっただけだ」
「ふふっ、変な寧暗君。これからたくさん歩けるわよ」
隣に並んだというのにこそばゆさは消えること無く、繋いだ右手からゆっくりと伝わってくる冷たい風に負ける事のない暖かさが何故か無性に胸の奥を騒がしくする。
歩きたくなったというのは別に嘘ではないが、月影に誤魔化す言葉を発したのは初めてで俺自身でも何故、誤魔化したのかはさっぱり分からない。
ただ、本当になんとなく俺なんかの手を引っ張って、心底楽しそうに歩く月影の後ろ姿をこれ以上見ていたら何かが保たない様なそんな気がしたかららしくない誤魔化しを口走ったのだろう。
「……貴方もそういう一面があるのね」
高鳴る心臓の音が五月蝿すぎて、小さく呟かれた言葉は聞き取る事が出来なかった。
「んー、出来立てのパンって美味しいわね」
「……クリームパンってこんなにも味が変わるんだな」
アテもなく取り敢えず街を目指しているのかと漠然に思っていたが、どうやら違った様で街に入った後確かな足取りで月影が俺を連れて来たのはパン屋、それもクリームパンが一番人気という店だった。
正直、一口食べるまではクリームパンなんて大差ないだろうと思っていたのだが、パンの生地からして違うのは当然としてふわふわとした食感の奥から訪れるクリームのしっかりとした甘さは市販で売られている砂糖たっぷりの甘さとは違い、しつこくなく舌触りも滑らかでコクがしっかりとある、もう正直市販のクリームパンが食べられないんじゃないかと思う味があった。
「面白いわよね料理って。同じ名前であっても作る人が違えば味が全然変わるもの」
「舐めてたわクリームパン」
「舌に合った様なら調べた甲斐があったものだわ」
この味なら到着してすぐに人が並び出したのも納得が出来る。
月影が調べてくれたお陰で俺達は早めに買えたが、少しでも遅ければ長蛇の列に巻き込まれて長い間拘束されていただろうから月影には感謝しないとな。
「良い天気だし、こうして美味いもんを食いながら歩くのも悪くないな」
「誘ってあげた私に感謝しなさい寧暗君。どうせ、休日は家に篭ってゲーム三昧でしょ」
「ゲーム三昧の何が悪い。まぁ、偶にはこういう日も良いなとは思う」
「まだ今日という日は続くわよ。ほら、行きましょ」
手を引っ張り人混みを進む月影は普段よりもお洒落な黒く透け感のある長いスカートに黒いジャケットを羽織る存在感増し増しのコーデなのも相まってすれ違う人らの視線は彼女に注がれ、その次いでと言わんばかりに俺へ視線が集まる……どうせ、月影が連れている相手には相応しくない目が死んだ奴だと思われてるんだろうな。
特にお洒落もしていない白いシャツに黒いズボン、上に黒いトレンチコートを羽織っているだけなのも原因だろうか。
「……まっ、別に良いけど」
注目されるのは面倒ではあるが、俺への評価が低いのはいつもの事だし視線が集まるのこの一週間ぐらいずっと月影と一緒にいたせいで気に留めなくなってきたしな。
あくまで注目されてるのは月影のツラの良さってのもあるだろうけど。
「次は何処へ行くんだ?」
「道中、色んな場所を見て行くつもりではあるけど目的地はしっかりと決めているから安心して」
「あいよ」
「……今日はやけに素直ね?もっと捻くれてるのが寧暗君じゃなかったかしら?」
いやまぁ、事実そうだから何も否定しないがそんなキョトンっとした表情をこのタイミングで浮かべなくても良いんじゃないか月影よ。
「お前が今日の為にしっかり調べて来ているのは分かったからな。邪魔するのは違うだろ」
月影の両親がどんな人物かは知らないが、外国で働いているという事はドライバーをしてくれたあの爺さんを手配したりこの場所を彼女に教えたりってのは出来ないのだろう。
となれば、彼女一人で準備をしたわけで……まぁ、浮かれまくって寝付けない程に調べた経験が大きいのはあるがこれを話す必要はない。
「まぁ、アレだ。お前が思ってるより、俺も楽しみだったんだよ」
「……ふっ、ふふっ!!この後は雨でも降るのかしらね。面倒くさがり屋な君が私とのデートを楽しみにしてくれていたなんて」
一瞬、固まった後すぐにお腹を抱えて笑いだす月影の笑顔は何かを取り繕っている様に少しだけ、影があるものに見えたがすぐにその笑い声は大きくなり否応にも周囲の視線を集めてしまうほど、大きくて綺麗な笑顔となる。
「くっ、ははっ、そんなに笑う事かよ」
「笑うわよ。君、普段の自分ってのを鏡で見た方が良いわよ?あー、でも……そっか。楽しみにしてくれていたんだね」
そんな彼女につられて笑えばより彼女の笑みは大きくなり、微笑ましいものを見る様な生暖かい視線が俺達に向けられる中、なんだかもう互いの反応一つ一つが面白くて俺達は暫くの間、笑い続けるのだった。
「ちょっとだけ予想外があったけれど此処が次の目的地よ。どう?良い景色でしょ」
崖に作られた観音堂は私が事前に調べたのと同じで、何処までも続く青空と海岸線、そして人の営みが作り出した街並みを一望出来る場所。
日頃の行いがあまり良くない私だけど、今日だけは晴れて欲しいなと願って小さな子供の時みたいにてるてる坊主を作って願掛けをしてみたけど、願い通じて此処まで良い天気で助かったわ。
「おぉ……」
もしも曇っていたら折角、このデートを楽しみにしてくれたもの好きな寧暗君がこうして隣で子供みたいに目をキラキラさせてる姿なんて見れなかったでしょうから。
まぁ、普段から死んだ魚の様な目をしているせいで、彼の目がキラキラしていると分かるのは私ぐらいなものでしょうけどね。
「私達には少し縁遠いけど、海上安全と豊漁に相応しい景色よね」
「だな。ゲーム脳の俺的には海からくる敵との対決シーンとかに映えそうだなとか思ってたりするが」
「罰当たりね寧暗君」
「しょうがないだろ」
安全の為に祈る場所に来てゲームの戦闘シーンの事を考えて、テンション高くなってるのなんて寧暗君ぐらいじゃないかしらね。
本当に普段の捻くれた言動からは比べものにならないくらい子供っぽいところあるんだから……まぁ、私含めて高校生だから当然と言えば当然か。
「この景色を見せたかったのか?」
「えぇ。そうよ」
「まぁ、神様仏様ってタイプじゃないもんなお前」
「助けを乞うて本当に助けてくれるのなら幾らでも。でも、神様も仏様も助けてはくれないでしょう」
自殺を実行しようと思う前は、この現実を変えてくれないかなって祈る事もあったけど幾ら祈ったところで私の目の前に広がる現実が、嘘に満ちている事に変わりはなくていつの日か、私は神様にも仏様にも祈る事を辞めてしまった。
「だからもしかしたら私、今此処にいる仏様に祟られるかもね」
例えばこうして寄りかかっている柵がバキッと壊れたりして落下するとか……あぁ、それで私の苦痛が取り払われるのなら仏様も案外──
「助けなかったのに祟るとか。月影の中の神仏ってのは随分と器が小さいんだな」
「──え?」
「不思議な顔すんなよ。だって、手を差し伸ばすつもりはない癖に叩き落とす事はするとか完全に器小さいだろ。仮にそんなしょうもない奴が何かしたって月影の怖い顔一つで逃げ去るんじゃねぇの」
いつもの様に真面目なトーンで人を馬鹿にする余計な一言を付け足す寧暗君。
まるで私の胸の内を透かした様な言葉を投げかけておきながら、何処までも自分本位なその言葉は初めて出会ったあの日の様に胸の内に広がりつつあった暗い考えを忘れ去る程にこの胸の奥に届く。
「……失礼ね。こんなに可愛い私の顔を怖いなんて……あぁ、なるほどね。死んだ魚の様な目をしている寧暗君には私は眩しすぎて正しく見えていないのね。可哀想に」
「いつも以上に辛辣な言葉だなおい」
呆れた様な引き攣った様な、それでも何処か安心している様なとても言語化に難しい表情を浮かべている寧暗君は小さく溜息を溢すと私から視線を逸らし、綺麗な景色へ向ける。
「まっ、でもその方が月影らしいな」
私らしいか……目の前の現実が嫌で死のうと思い続けている私と今こうやって、寧暗君と一緒に過ごす時間を楽しんでいる私、このどちらが本当の私なんでしょうね。
きっと貴方に問い掛ければいつもの様に自分の言葉が相手にどんな影響を与えるのか、微塵も考えてない他人事全開な『知らん』とか言うのでしょうね。
「寧暗君」
「ん?」
「──少し遅くなったけどお昼ご飯を食べに行きましょうか。お腹空いてしまったわ」
「そうだな。店も何処か決めてあるのか?」
「いえ、何処か目についたところにしようと思ってる。ほら、何を食べたくなるか当日まで分からないでしょ」
「なるほどな。んじゃあ……来る途中にあったカフェなんてどうだ?」
「えぇ、良いわよ。私もそこが良いと思っていたから」
それでも本当に口に出して聞いてみれば予想とは違う返事が聞けるかもしれない……けど、そうね今はいい。
話すのならこのデートの終わりにしましょうか。
お昼の時間を少しだけ過ぎた午後二時頃にも関わらず、俺と月影が目をつけたカフェはそれなりに混んでいて待ちこそ無かったものの暖かな室内の席は埋まっており、外のテラス席へと案内された。
「寒くないか?」
「えぇ。ちゃんと防寒はしているし、今日は良い天気だもの。寧暗君の方こそ平気?」
「あぁ。昔から寒さには割と強いからな。なにせ、雪が降ってるにも関わらず半袖で動き回ってる写真があるぐらいだ」
小さい時ってなんであんなに雪が降ってるだけでテンション上がるんだろうな。
我ながら不思議だが、写真に写っていた俺はこの例に漏れず半袖で飛び出し家の前を走り回っていて朝から仕事に行く準備をしていた母親がスーツを半分だけ着て俺を追いかけている瞬間が父さんによって撮られていたらしく今でも雪が降る季節になると弄られるネタになっている。
「へぇ、無邪気な時もあったのね。今の君からじゃ想像もつかない」
「逆に言えばそれくらいだけどな俺がテンション高めで写ってる写真。基本的にはボケーっと座ってる写真ばっかりだ」
「ふふっ、そっちは想像つくわね。だって教室での寧暗君だもの」
「最近はお前に付き合ってるせいで起きてるけどな」
席替えで隣になってからというもの、月影の奴は毎回の授業で欠かさずにノートの切れ端雑談を送ってくるもんだからすっかり、寝てサボる習慣は何処かへ消えてしまっている。
俺への興味があるってのは分かるが、『朝起きたら先ず何をするのか』とか『カレーの付け合わせ』とか『チェス駒で何が好きか』とか……段々とその質問の意味が分からなくなってきてるんだよな……
「あら、律儀に全て答えてくれるからてっきり構って貰えて嬉しいのかと思っていたわ」
「……俺の今後の安寧を握り締めておきながら言うセリフかそれ?」
「さて何の事だか」
分かりやすく戯けやがって全く。
クラスメイト達も完全に俺と月影のやり取りに見慣れてしまったのか、好奇の視線が向けられる頻度は下がったがその代わり生暖かい視線と嫉妬に満ちた視線が増えてるんだよな。
そんな状況で月影を無碍にして有る事無い事吹き込まれたら、俺は一瞬で学校での社会的死を迎えるだろうからなんであれ彼女に付き合うしか選択肢がない……楽しんでないと言えば嘘だが。
「私はブラックコーヒーとボロネーゼにするけど寧暗君は?」
「ん?あぁそうだな……俺もブラックコーヒーで……このシェフお手製のカツサンドにするか」
「男子が好きそうなボリュームありそうだものね」
月影が手を挙げ店員を呼び、やってきた店員にお互いの品を注文し暫くの間、取るに足らない雑談をしていると注文していた品が届いた。
俺の目の前には写真で見た通り、焼き目があり半分になったトーストパンにかなり分厚いカツが挟まれたものが四つ皿に置かれ月影の前には平たい麺のボロネーゼが置かれた。
「なぁ、月影」
「ねぇ、寧暗君」
「「……ふっ、ははっ!!」」
互いの名を呼ぶ声が全く同時になるとかお笑いか何かか?
一頻り笑い合った後、俺達は互いに視線を合わせて相手もこれから言う言葉が予想出来てるんだろうなという確信に満ちたまま口を開く。
「「それ、一口くれるか?(ちょうだい?)」」
カツサンドの方は一口食べるだけで感じるしっかりとしたカツの味と、溢れ出す肉汁とタレがトーストされたパンの香ばしさとサクッとした食感に合う味で、油もしつこくなく俺の手から直に齧って食べた月影も満足そうに頷いた完成度の高さでボロネーゼの方も幅広の麺に肉のソースがしっかりと絡み、噛み締める度に広がる肉の旨みと香味野菜の甘味がとても美味かったが、月影に『あーん』っと差し出され彼女の後ろの席に座っていた女子高生達に興味津々な目で見られていたのが恥ずかしかった。
「「ごちそうさまでした」」
このカフェが車がないと来れない距離にあるのが残念と思えるぐらいには美味かったな……ブラックコーヒーもしっかりとした苦味で食後にゆっくりと飲むのにちょうど良いし、何より店主が気を利かせてくれたのか寒さに負けない暖かさを保っているのが最高だ。
「美味かったな」
「えぇ。普段行ける場所にもあれば良いのにね」
「分かるっと、月影デザートは食べるか?」
「んー……いえ、良いわ。結構、お腹いっぱい」
「そうか。んじゃ、月影はゆっくり飲んでてくれ。ちょっとトイレに行ってくる」
カツサンドを食べてたから月影よりも食事中にコーヒーを飲んでいたから、俺の方が少なく残りを飲み干してから立ち上がりあるものをそっと取ってから店の中にあるトイレへと向かった。
トイレに行くと言って空席になった向かい側をじっと眺め思い出すのは、私の方からカツサンドを食べに行った時は無反応だった癖に私がボロネーゼを食べさせようとしたら耳を赤くするというなんとも可愛らしい反応をした寧暗君の姿。
死んだ魚のような目と表現するのが正しい目と無気力で面倒くさがり屋な性格からして、女性経験が少ないであろう事はあの反応も相まって分かるけどその割には変なところ手慣れているのよね。
「……ふふっ、スマホで勉強でもしたのかしらね」
今日のデートの為に自室でスマホ片手に恋愛指南を調べている寧暗君を想像し、そのシュールさに一人笑う──けど、そんな楽しい時間は一瞬で崩れ去ることになった。
「君、可愛いね。良かったら俺達と一緒に何処か行かない?」
無遠慮にもさっきまで彼が座っていた椅子の背もたれに手を置き、私の大嫌いな下卑た欲望を取り繕った形だけの優しげで耳障りな声に視線を向ければそこにはチャラいと表現するしかない面白みのない男が二人立っていた。
「……人を待っているので」
「おー、怖い顔!!でもそんな顔も良いね。さっきから見てたけど、あんな地味で暗い男、君みたいな可愛い子には釣り合ってないって!」
「そうそう。俺達、大学生で金もあるし色々と楽しい事を教えちゃうよ?」
あぁ……気持ち悪い。
寧暗君の雰囲気が暗い事は何も否定しないけど、勝手に私を高く見積もって釣り合わないだのその辺で買えるような安いネックレスや腕輪を見せつけて金あるアピールとか心底、どうでも良いしどれだけ着飾っても内面の醜さを隠せていないのよ。
「必要ありません」
自分の表情が能面のようになっていくのが分かる。
さっきまでの私を見て興味がそそられたのなら、今の私を見て大人しく去れば良いのに目の前の男達は一向に去る素振りを見せない。
「酷いなぁ。君だってあの地味な男を財布か何かとして使ってるんでしょ?ならさ、俺達の方が良い思いさせてあげられるって」
「後で適当な言い訳を言えばどうせ、あんな奴反論も何も出来ないって。なっ?良いだろぶあっ!?!?」
──あまりに腹立たしいものだから、つい最初に貰った水を男の一人に向かって放ってしまった。
椅子には寧暗君のコートが置いてあるから濡れてなければ良いんだけど。
「……しつこい男は嫌われるわよ。あぁ、それとも蔑まされて冷水を浴びるのが趣味の変態だったのかしら。それならそういうお店にでも行って欲望を吐き捨ててくれるかしらお猿さん?」
ナンパをされるのは初めてではないけどなんでかしらね。
普段なら適当に遇らうか、空気を読んだお店の人が助けに来るまで耐えられるのに寧暗君を馬鹿にされたのが心底、腹にきて火に油を注ぐような罵倒が自然と口から出てしまったわ。
「ッッ、この下手に出てれば調子に乗りやがって!!」
貴方達の何処が下手だったのか問い正したいところだけど、これは完全に私のミスね対応を間違えたわ。
水をかけた男が怒り心頭と言った様子で拳を振り上げるのが見え、反射的に目を閉じ殴られる衝撃に備える──ガンっと殴られる音が聞こえるが私の頬には全く痛みが来ない。
「ッッ」
ゆっくりと目を開けた先、そこには彼の背中が広がっていて──私の代わりに彼が殴られたのだと理解するのにそう時間は掛からなかった。
「ね、寧暗君……」
「悪い。ちょっとトイレが混んでてな……もう会計はしてあるから行こうぜ月影」
そう言って彼は私を男達から庇う立ち位置のまま、私の手を取り自分のコートへと手を伸ばすが突然の乱入に呆気を取られていたもののすぐに気を取り直した男が伸ばされた寧暗君の手を掴み取ろうとし、スルリと避けられる。
「あぁ!?」
「……とっととこの場を離れた方が得だと思いますよ。このご時世、何処に目があるか分かりませんから」
コートを掴み取った寧暗君は私を庇ったまま、手を大きく動かし視線を周囲に向けるように誘導すると男達の顔色が一気に悪くなる。
「大学生って言ってたっけ」
「うわぁ……見るからにって感じだな」
「男の子の方、殴られてたよね。頬赤くなってるし」
「綺麗な女の子が怒ってたし、余程の事をしたんじゃないか?」
耳を澄ませば聞こえてくる周囲の人達の話し声と向けられた無数のスマホ。
あぁ……常日頃から他人がどうのって言ってる寧暗君らしいわね。
「に、逃げるぞ!!」
「くっ、クソッ!!」
私達より年上とは言え、大学生ともなればスマホ一つで無数の情報が拡散される世の中を生きている為、向けられたスマホがどんな結果を齎すのかよく知っているから通用する脅しよね。
慌てた様子で立ち去っていく彼らを見送り、この騒ぎに気がついてやって来た店員に事情の説明と水で床を汚してしまった事を謝罪すると店員は悪くないのに此方の不手際だと頭を下げ、話し合いと簡単な事情聴取は終わった。
「変な拡散されて店が潰れなきゃ良いんだが……」
運良く濡れなかったコートをしっかりと着て、私の手を取る寧暗君の右頬は応急手当てをしたけれど少しだけ腫れてしまっていた。
「……心配することそれ?」
「ん?まぁ美味かったからな。こんなつまらない事で潰れて欲しくない。月影、悪かったな俺が離れちまったから面倒なのに絡まれて」
「……寧暗君が気にする事ではないわ。寧ろ謝るのは私のほうよ、ごめんなさい。対処を間違えなきゃ寧暗君が殴られる事はなかったと思うわ」
普段のように遇らえていれば……それが無理でも水をかけるなんて暴挙に出なければ寧暗君が戻って来てもう少し穏便に話が終わったかもしれないのに。
「どうだろうな。ああいうのはゲームでもすぐに手が出るのがお約束だ。スマホにビビって逃げてくれただけ楽に済んだって喜ぼうぜ……ッッ」
私を安心させようと微笑もうとし、腫れている頬の痛みで変な表情になる寧暗君。
彼はもう過ぎた事として受け入れてしまっている……こうなると、自分本位な彼の意見を変えるのは無理だし、彼も気にするなと返すだけの不毛なやり取りに嫌気が刺すだろうからもうこれ以上、この件に関して私で方から何かを言うのは逆効果なのでしょうね。
「……そうね。でも、これだけはもう一度言わせて。庇ってくれてありがとう寧暗君」
「おう」
照れくさそうに笑い、また頬の痛みに悶える彼を見てじんわりと胸の奥が暖かくなるのが分かる。
「海に戻りましょうか」
「そうだな。もう時期、夕方になるしな」
「それもあるけど言ったでしょ。目的は夕方だって」
「あぁそうだったな。あの海岸線で何かあるのか?」
「えぇ」
この暖かさの正体が何かは分からないけど、一つだけ確かな事がある。
彼には私の事を話しても良いと思える──自殺したいと思うほどに私を苦しめている呪いの始まりのことを。
空がオレンジ色に染まり、これから訪れる夜の暗闇がゆっくりと迫る時間。
ピークである夏を過ぎ、海から流れてくる風は熱を奪い去る冷たさとなっているとは言え澄んだ空気を求めて本来であれば人が居るはずの海岸線を白い砂浜に二人だけの足跡を刻み、互いの手から感じられる熱だけを頼りに目的地へと歩を進める二人。
「……」
寧暗はもう何度目か分からない彼女の案内に従っているが、手を繋いでいるのだから起き得る筈がないのに名字のように月が照らし出した影の如き、瞬きの間には消えてしまうじゃないかと錯覚を起こす月影の憂いがある神秘的な横顔を見失わぬ様に眺め、何か空気を変えられないかと話題を探るが碌な友人経験がない彼では何も言葉を紡げない。
(屋上で出会った時みたいだな)
まるで彼女だけがこの世界から浮いた存在なんじゃないかと錯覚する雰囲気に、寧暗は初めて出会った自殺未遂を行った時の彼女を思い出す。
自分を取り巻く周囲の世界が一変する事になる始まりの日にして、クラスメイトの自殺未遂現場──彼の介入で結果的に未遂になっただけではあるが──に遭遇した日の光景は他人に無関心で、これから死のうとしていた月影を見てもなおなんとも思わなかった彼であっても深く印象付けられていた。
「……無理心中は嫌だぞ」
だからだろうか、何かを話さなければならないという思いと合わさった結果、彼はあまりにも突拍子もない事を口に出しており他ならぬ彼自身も自分の馬鹿さ加減に呆れるレベルの行動だった。
故にすぐに訂正しようとするが、すぐに小さな笑い声が聞こえて来た事で彼は手遅れを悟る。
「まだ死なないわよ。それに仮に死ぬとしても寧暗君と一緒ってのは嫌ね」
「だろうな」
気恥ずかしさから視線を逸らす寧暗とそんな分かりやすい反応を見せる彼に微笑む月影は、先程までの妙な空気感こそ無くなったもののやはり依然として強く残る神秘性がこれからの不安を彼の中で大きくさせる。
波の静かな音だけが聞こえる海岸線に、小さく二人分の足音を馴染ませる彼等はやがて海に向かって伸びる桟橋へと辿り着く。
「……此処が私の来たかったところよ寧暗君」
「なんつうか、幻想的だな」
先程よりも少しだけ夜の闇に染まった空と何処までも広がる海の遥か向こう側には、影しか分からないが大きな山が見える。
過度な装飾が一切ない必要最低限と言った感じの桟橋も相まって、今、彼等が見ている光景を切り取れば物語の中にのみ出てくる様な幻想的な光景と言っても差し支えないだろう。
「一番先頭まで行ってみましょうか」
海岸線を歩いていた時の同じ様にゆっくりと、互いに何かを話すこともなく彼等は桟橋を進んでいきあと数歩進めば、海へと飛び込む事が出来る桟橋の先頭までやって来た。
陸地から離れ、見渡す限りの海という景色は人に本能的な恐怖を呼び起こすが確かに繋がれた手がそれを打ち消す。
「ねぇ、寧暗君。君はご両親から『良い子でいなさい』って言われた事はある?」
「……急だな。お前も見た通り、ああいう親だからな。悪い事をすれば叱られたが、別に『良い子でいろ』と言われた記憶はないな」
何か明確な夢がある訳じゃないし、友人も作ろうとしない。
授業に出席しているだけで眠っていたり、テストを適当に受けても寧暗の両親はその事に多少、怒るだけで総じて彼の好きな様に人生を送る事を良しとしていた為、良い子でいなさいと言われた経験はない。
「そっか」
「……月影?」
そんな彼を羨ましそうに見る彼女は儚げな笑みを浮かべると口を開いた。
「私にとって『良い子でいなさい』という言葉は呪いだったの」
彼女はゆっくりと話し始める。
空と海と陸、それら全てが曖昧となるこの場所で──月影 結衣という少女が形成されるきっかけを。
『良い子でいなさい』
物覚えがつく頃には耳に残って消え去らない程に事ある毎に言われ続けてきた言葉だった。
私の家は父が一代で大企業の仲間入りを果たす程にのし上がった所謂、成金と言われても仕方のない家なのだけど特にそれを気にしているのが母で何をするにも優れた結果を求められたし、振る舞い一つ一つに格式を求めてきて口癖の様に発してきた。
「貴女はいずれ、何処かの御曹司のところにお嫁に行って更なる発展を齎すのよ。だから良い子でいなさい」
小さい時は分からなかったけどね、私の母親は子供である私を都合の良い道具としか見ていなかったの。
母は結構、苦労したらしいから娘である私には楽をさせたかったのかもしれないけど習い事と勉強以外には何一つとして、時間を使えない窮屈な生活はとても息苦しくて、それでも母が望む私で居ないと言葉の暴力が飛んでくるから望み通りの良い子で居続けた。
「結衣、貴女は本当に良い子ね」
「結衣ちゃんはとても賢いお子様ですよ。どの教科も満点ばかり!!流石は月影家のご令嬢、これからの将来が楽しみですね」
そんな事を続けていると幼いながらに周囲の大人達が私に何を求めているのか拙いながらにも分かる様になってきてね、ずっと周囲が求めるままに振る舞って努力して……そうしたら気がついてしまったの。
「ここまで教育するの大変だったでしょうお母様!」
「お母様が優れているから娘さんもこんなに素晴らしいのでしょうね」
「素晴らしいですよお母様!」
「いえいえ、これも全て結衣の努力の成果ですよ」
周囲の人達に私が褒められる度に、それと同じくらい或いはそれ以上に賞賛される母が私を褒められた時よりも、自分が賞賛された時の方がとても
初めからそうだったのか、それとも私と過ごした月日が母を変えてしまったのかは分からないけど少なくとも私が他人の感情を読める様になってからのあの人はもう、私なんかよりも私を通じて称賛される自分に酔っていたの。
……私が悪い訳じゃないって?ふふっ、珍しいわね慰めてくれるの?
話を戻すけどそんな母に気がついてしまったのをきっかけに私は自分に向けられる言葉や表情の全てが酷く空虚なものに思えてしまって、日を追う毎にちゃんと人間だと認識していた人達が都合の良い仮面を付けたお人形に見える様になってきて──気持ち悪く思う様になった。
けどね、身に付けてしまった生き方というのはそう簡単に変えられるものじゃなくて気持ち悪いと思う様になっても私はずっと、誰かの期待に沿う形でしか生きる事が出来ず、称賛される度に好意を向けられる度に吐きたくなる衝動に駆られて過ごしていたの。
……前に屋上へと続く階段で話した事を覚えてる?……どの話だって?ふふっ、確かにそうね。沢山の話をあの場所でしたものね。
私の両親が外国にいるという話よ。
アレね、実は少しだけ間違っている事があって正しくは父だけが外国に行っているの。
母は……私を苦しめるだけ苦しめてあの人はあっさりと事故で死んでしまったわ。
中学に上がって少し経ったぐらいだったかしらね?私をピアノ教室に送り届けた後に、ピアノ教室でも家の近くでもない……なんなら乗ってる車も母のものではない男の車で事故に遭ったの。
笑えるでしょ?散々、私に良い子でいなさいと言い続けたあの人は仕事ばかりで自分を構ってくれない父を裏切って外に男を作っていたの。
真実を知った時は思わず、胃の中のものを全て吐くほどの気持ち悪さに襲われたけど、そのせいか母の葬儀が行われる間もずっと私は涙を流す事がなくて、周りの大人はそんな私を『気丈な娘』だと褒めて……きっとあの日に私は他人が本当の意味でどうでも良くなった。
「……結衣、本当に大丈夫か?」
「大丈夫ですわお父様」
そんな私を父は心配してくれたけど、『良い子』な私は善意を振り払って、母が居た時と同じ様に過ごし続け誰もが取り繕った『良い子』の私を見て褒めてくる中、益々精錬されていった察する力はやがて建前に隠された下卑た欲望を見透かす事が出来るようになってどんどん人が嫌いになっていったの。
「……お父様、我が儘なのは自覚しております。ですが、高校は一般の方々も通える場所にして頂けませんか?」
藁にもすがる思いで吐き出した逃げ道の先でも結局、私を取り巻く環境は何一つとして変わらなくて……心が折れてしまった。
『別に仲良くないだろ俺達。あぁ、でも死ぬならちょっと待ってくれ。教師達に俺が落としたと思われるのは面倒臭い』
だからね、寧暗君。
君と出会ったあの日、私は心の底から死のうと思ってあの屋上から飛び降りようとしていたのに、君が……君だけが私の人生で出会った事のない嘘偽りのない本心からの言葉を届けてくれたのよ。
「ふふっ、改めて思い出しても酷いわね寧暗君の言葉。目の前で死のうとしている人が居るのに発する言葉が自己保身で、挙げ句の果てにその理由が面倒臭いって言うんだもの」
もしも私がもっと真っ当な理由で死を選ぼうとしていた人だったら、トドメになったであろう言葉を平然と言う君を死ぬ前にどうしても知りたくなって私は自殺を辞めて君と一緒に過ごす時間を過ごした。
「ねぇ、寧暗君。もしかしたら私の世界で唯一、人間かもしれない君に一つだけ聞きたい事があるの」
「……あまり重い質問はしないでくれよ」
「ふふっ、それは君がどう受け取るか次第ね」
桟橋の一番先端、今この場所で最も死に近い場所まで私は駆けて振り返る。
もう殆ど、沈んでしまって夜の暗闇が広がった先で私をじっと見ている寧暗君の真剣な目を見つめていつもの様に笑いながら問い掛ける。
「──君は私に生きていて欲しい?」
そうして太陽が完全に沈んだ。
「──君は私に生きていて欲しい?」
想像の何倍も重い話だな……金持ちとかそういうのは一旦置いておいて、普段から月影の雰囲気は浮世離れしていて常人とは明らかに違うとは思っていたがその原因が実の母親にあったとはな。
月影の表情を伺おうにも、質問と同時に日が沈んだせいで問い掛けられた瞬間は笑顔を浮かべていたのは分かるが今はすっかりと影になってしまってよく分からんな。
「……はぁ、ふぅ」
腕を組み夜空を見上げる。
日が落ちたばかりだというのに夜空にはすっかりと、輝く星々が煌いて今、俺達がいるこの桟橋と月影が纏う神秘的な空気感をより一層に引き立てており、吸い込んだ息と共に肺へと流れ込んでくる冷たい空気は衝撃的な内容で混乱しつつあった俺の頭を冷やすにはもってこいであった。
「……知るかそんなもんってお前と出会ったばかりの俺だったら言うんだろうな」
返事はなく、表情も見えないがなんとなく月影は続きを待っているのだろうと分かる。
繋いでいた手は解かれ、隣り合っていた彼女は桟橋の先端に立っており距離は開いているが俺の方から近づこうとすれば簡単に詰められる程の距離でしかない。
けど、今この距離感に俺の方から踏み込むのは違う気がした。
「正直に言えば今だってそういう思いがゼロかと言われれば嘘だ。とんでもない重たい話題をしてきやがってと心のどこかでは思っているだろうよ」
我ながら自分の心の傷を教えてきた同年の異性に言うセリフじゃねぇな。
だが、下手な嘘や誤魔化しをする方が今の月影にはトドメになると一週間程ではあるが、毎日ずっと話をしてきた経験が告げていた。
「俺はずっと無気力で他人の期待に応えない生き方をしてきたから、月影の様に努力し続け他人の期待に応え続けて裏切られた奴の気持ちを本当の意味で理解する事は出来ない……ある程度は察する事が出来るが俺はお前じゃないからその痛みを本当に知る事は出来ない」
よく人は目の前で泣いている人間に同情し、同じ涙を流す事で痛みを共有した様な素振りを見せるが俺からすればどれだけ他人に共感したところで同一人物ではない以上、過ごした時間や経験、味わった苦労が違うのだからそんな理解してあげたという驕りをよく平然と出来るものだとすら思う。
「……その上で言うぞ月影。俺はお前と……いや、月影結衣という一人の女の子と過ごす時間が悪くなかったと思っている」
「ッッ」
「俺から見た月影結衣って女の子は俺がどれだけ遠ざけようとしても、グイグイと自分からやって来て周囲の視線なんか知った事かとこんな面白みのもない男に絡んでくる厄介で自己中心的でよく分からん奴だ」
本当に月影と関わる様になって俺の閉じ切っていた必要最低限としか周囲と関わっていなかった世界はいとも簡単に崩れ去ったよなぁ。
あの日、数学のテストを雑に受けた罰で屋上に行かなければ自殺しようとしている月影に会う事はなく、俺は普段通りの日常を送っていただろうし俺がもっと適当な物言いをする奴だったら月影に興味を持たれる事もなかっただろう。
そう考えるとアレだな、俺と月影には死というものが色濃く関わっているんだな。
「……それでも月影結衣によって塗り替えられていく日常を俺は何だかんだと楽しんでいたよ。だからきっとお前が死を選ぶのなら──」
漸く暗闇にも目が慣れて視線の先にいる月影の顔がよく見える様になって言葉が途切れてしまう。
その表情だけは予想していなかった。
月影はいつも俺を小馬鹿にした様な笑みを浮かべるか、憂いを帯びた影のある表情を浮かべている奴でそこに拍車をかける彼女自身の神秘性が高校生らしくない余裕を感じさせていたから──涙を流しているとは到底、思えなかったのだ。
「続けて欲しいな」
その言葉で俺は彼女の放つ空気に呑まれて、呼吸する事すら忘れていた事に気がついた。
酸素の供給が途絶えた事で脈拍が上がったのとはまた違う心臓の高鳴りを感じつつ、俺はもう一度自分を冷ますために大きく息を吸ってから口を開く。
「止めるぞ。例えお前が心の底から死にたいと思っていても、あの日の様に屋上から飛び降りるのなら今度はその手を掴みに走ってやる。練炭で窒息死するって言うならそれより前に練炭を買い占めてやる」
「……じゃあ、私が首を吊ったら?」
「綺麗に死にたいんだろ。首吊りは結構、凄惨らしいぞ」
「……らしくないね寧暗君。君はもっと他人に無関心じゃなかった?」
「あぁ。今だって然程変わってない。月影以外の奴が目の前で自殺を選んでも俺には知った事じゃない」
月影の瞳から流れ落ちる涙が海風に攫われ、暗い夜の海に小さなとても小さな波紋を作り上げる。
一週間を人は短いと言うのだろうけど、俺にとって月影と過ごしたこの一週間はとても色濃くて思い出すだけで繋がれていた手の熱を思い出せる程に長い時間であの波紋よりも大きなものが残っている。
「この感情が明確になんなのかは今の俺には分からない。けど、月影。俺はお前に生きて欲しいと心の底から思っている」
ゆっくりと彼女の方へ自身の右手を差し出し、濡れた黒い瞳をじっと見つめる。
「帰ろう。月影」
今言える言葉は全て伝えた。
これが彼女の期待した通りの言葉なのかは全く分からないが、嘘偽りはないと胸を張って言えるのは確かだ。
「……不器用ね寧暗君」
「お前ほどじゃない」
「ふふっ、確かにそうかもね。でも、もう少し女の子に向ける言葉は優しい方が良いわよ」
「そんな取り繕った言葉でお前が立ち止まるのなら幾らでも」
「……」
目を大きく見開き、やがてゆっくりと困った様に微笑みながら月影は流れていた自身の涙を拭い先程の俺と同じ様に空を見上げる。
輝く星々の先に彼女が何を見出したのかは分からないが、少しの間空を見上げてから俺の方へ向けられた月影の表情はいつも通りの綺麗なものになっていて、そんな彼女は少しだけ躊躇いながらもゆっくりと俺の手を掴んだ。
「お互い、すっかり冷えてしまったわね」
「こんな場所で話していればそりゃな」
「そうね」
互いの冷え切った指がその奥の熱を求める様に絡み合い、自然と距離が近くなった俺達は今までの様に隣り合う。
「寧暗君」
「なんだ?」
「生きていて欲しいと言われて嬉しかったわ。自分を曝け出すのは初めてだからどんな言葉が返ってくるのか凄く怖かったから」
陸地へと戻る為に桟橋を進みながら月影の話を聞く。
「……そのせいかしらね。私の中にも言語化に難しい感情がある事に気がついたの。君への興味関心も潰えていない事だし、あと少し私みたいな面倒臭い女に付き合って貰うけど良いかしら?」
砂浜に足をつけるのと同時に、俺は彼女から言われた言葉に今更だろうと云う意味も込めて肩を竦めるリアクションを取る。
あと少しという言葉が気にはなったが、俺と月影が互いに抱く名前の分からないこの感情に答えが出れば否応にも今のままではいられないと分かっているからの表現なのだろうな。
「ふふっ、じゃあ帰りましょうか寧暗君」
あれから俺と月影の関係が変わる……なんて事は特になく、相変わらず彼女は授業中も休み時間も俺に構うし、聞こえ様に言ってはもはや暴言では?と小首を傾げたくなる弄りもしてくる。
ただ、我ながら単純と言うべきか月影の過去を知った今、俺がトイレとかで離席している時にクラスメイト達に話しかけられている彼女を見ると僅かだが、浮かべている表情に影を感じてしまいどうしたものかとは思ったりする。
「安堂。ありがとう。わざわざ残ってくれて」
「……月影が側に居ないタイミングにしたかったんだろうけど、男子トイレで手紙を渡すのはビックリするからやめてくれ。ケツの心配をしただろ」
「ケツ?」
「あぁ、うん。通じないなら俺が悪い」
二月十二日の水曜日の放課後、男子トイレで横にやって来た江口が俺の目の前に手紙を置いた時は、月影への好意が反転してそういう趣味に目覚めたんじゃないかと思ったがどうやらそういう訳ではないらしい。
手紙には『放課後、皆が帰るまで教室に残っていて欲しい』と男にしては少し丸みを帯びた綺麗な字で書かれていて、余計にビビったし俺と一緒に帰りたがる月影を先に帰らせるのに苦労したから何か有意義な話だと良いんだが。
「……もう一度聞くけどさ。安堂と月影さんは付き合っていないんだよな?」
「あぁ。まぁ、そういう関係ではないな」
二人きりのデートを重ねてはいるし、俺にだけ打ち明けられた月影の過去を知っているが俺と月影は男女としての好意を重ね合った間柄ではない……未だに結論が出ていない感情が異性へと向ける好意であったとしてもだ。
しかし、俺の返事を聞いた正面に立っている江口は以前と違って、何処か歯切れが悪い納得の言っていない表情を浮かべている。
「……まだ何かあるって顔だな」
「あぁ……うん。その……なんというか……」
視線があっちこっちに彷徨い、左手で首の後ろ辺りを摩りながらなんとか言葉を発している江口はこの教室に差し込む夕日の明るさと俺とは違う顔の良さが相まってまるでドラマのワンシーンかと錯覚する様な雰囲気を醸し出している。
正直、さっさと帰りたいのだが此処で帰るとまた後日にこんな光景を見せられる羽目になるだろうから我慢する事、数十秒、漸く江口が口を開いた。
「俺、月影さんの事が好きなんだ!」
「おう」
「んんっ、俺ってさ結構昔から女子にモテてさ」
仕切り直しみたいな咳払いをしたと思ったら今度は自慢が始まったぞこの野郎。
まぁ、俺とは違って外見にも気をつけているから小耳に挟んだ程度の知識だが、生まれつきの茶髪を少し丸みをつける感じで纏めて少々、童顔の優しい顔つきのイケメンだからそりゃ、モテるだろうけど。
「ただそのせいか結構、周りから要求される事も多くって」
「要求?」
「女子の方からすれば本当に大変なのかもしれないからあんまり言葉にはしなかったんだけど、例えば授業の時とかに先生から重い物を運ばされる時ってあるだろ。ああいう時に俺に持って欲しいとか頼まれたり、ちょっとした揉め事があったら俺が味方した方が勝ちとかさそういうの」
「あぁ、まぁなんとなく分かるぞ」
「別に男女に力の差があるのは分かっているから良いんだけど、俺だって疲れてたり体調が良くなかったりする時もある。そういう時にも要求されると流石に疲れるんだよね」
愛想笑いを浮かべる江口を見ているとモテる奴はモテる奴で苦労してるんだなと思うな。
確かに男女の生物学的な差は仕方がないとは言え、学校で持つことになる重い物などたかが知れているしこっちから気を利かせて持つなら兎も角、毎回持って欲しいと頼まれるとなると、気分次第によってはあまり良い感情を抱けないわな……後者に関しては俺は揉め事に介入しないし、巻き込まれた事もないから知らん。
「でも、月影さんは違ったんだ」
愛想笑いから一転、極めて真剣な顔つきになる江口。
「彼女だけは俺に特別何かを期待する事はなかった。どんな場面でも彼女は自分で出来る事はしていたし、俺が横から何かをしようとしても『君は君のやる事があるでしょ』って……初めて異性から言われたんだ」
「……まぁ、月影はそういうタイプだな」
江口は口振りや何処か喜んでいる様な表情からして、月影の行動に今までは感じる事がなかった優しさを感じ取っているみたいだが、月影のそれは他人に対する無関心からくる行動だぞ。
他人にどう思われるかなんて関係なく、端から見返りを期待していないから出来る行動であってそこに江口を気遣ってとかの感情は一切ない……俺より社会性がある奴だから言い回しがキツくないだけとも言える。
「それから……友人達と一緒に月影さんと関わる様になって俺は余計に彼女に惹かれていったんだ」
「そうか。それで何が言いたいんだ?」
「……ずっと見ていたから分かるんだ。俺がどれだけ月影さんと仲良くなろうとしても越えられなかった何かを安堂は超えてるって。前にモルモットみたいって言っていたけど、本当にそれだけの一方的な関係ならあんなに月影さんは楽しそうに笑わないと思うんだ。だから教えて欲しい。一体、君の何処に月影さんが惹かれているのか」
真剣、なんだろうな。
あぁ、いや自分が好きで仲良くなろうとしている異性にぽっと出の俺の様な男が纏わりついているから焦りもあるのか?
「……それを知ってどうするつもりだ?」
「え?」
「俺が知る月影をお前に教えるのは別に難しい事じゃない。だが、それを知ってお前はどうするつもりなんだ?」
自分で発した声に僅かばかりの苛立ちが乗っていることに、発した後から驚く。
俺が知る月影を教えて、江口が何かを見出し振る舞いを変えたとしても結局のところそれは、月影は最も嫌う嘘偽りに過ぎない。
「好かれようとする努力を否定する訳じゃないが、好きな相手が何を望んでるかぐらいは自分で考えたらどうだ?」
「ッッ……あー、効くなぁその言葉……」
「……俺には出来ない事を平然と出来る江口は凄いと思う。他人に好かれようとするってのは難しいだろうからな」
思わず口から出た言葉に頭を抱えてしゃがみ込む江口にフォローという訳じゃないが、常々俺が思っている事を伝える。
俺は面倒くさがり屋だし、相手から求められている事が分かってもその労力が見合ってないと思えば相手が誰であろうと断るしその結果、嫌われる事になろうとも気にも留めない。
だが、月影は過去の経験のせいで自分を偽る奴には全く、関心を向けないから江口みたいなタイプは箸にも棒にも触れなかったんだろうな。
「フォロー下手でしょ安堂……」
「生憎と必要になる友人がほぼ居ないもんでな」
「……好かれようと思って行動した事が全部裏目だったとはなぁ」
「十人中九人はお前を選ぶと思うぞ」
「その一人が駄目なら意味ないって」
どんどん落ち込んでいく江口へと向ける言葉を失う。
元々、碌な対人経験を積んでいないせいで他人を気に掛けるってのは苦手だから圧倒的に手札が少ないんだよ。
ただまぁ、江口がこいやって心底落ち込むのも仕方がないだろうな……相手が月影じゃなきゃ、イケメンで性格も良い江口なんて超有料物件の方からグイグイ来られればコロッと行くもんだ。
「……今からじゃ遅いよなぁ」
「そうとは限らないと思うが」
「限るさ!」
「うおっ!?」
落ち込んでいたと思ったら急に立ち上がって大声を出す元気があるとは、浮き沈みの激しい奴だな江口って、なんでそんな覚悟を決めた顔をしてるんだこいつは?
「彼女が以前と全く同じ孤高なら俺にもまだチャンスはあったかもしれないけど、今は隣に安堂がいる。だからもう俺の立つ場所はないって今日の話で理解したよ」
「……頭でもぶつけたか?俺と月影はそういう関係じゃ」
「言葉にしていないだけだろ。だって、このクラス全員に聞いたって月影の事を安堂ほど理解してる奴は居ないし、この一週間とちょっとで今まで見た事もない月影の色んな表情がお前の隣で見えたんだ。俺じゃなくなって勝ち目がないって分かる」
そう言うと江口は一瞬、何かを堪える様な表情を浮かべた後、俺の胸にトンっと握り拳をぶつけてきた。
「……気がついてないだろうから言ってあげるけど、俺が月影さんの事を教えて欲しいって言った時、お前すごいつまんないって顔してたんだぞ。素直になれよ。月影さんを泣かしたら俺が許さないからな!」
言うだけ言って江口は自分の鞄を掴むと走って教室から出て行った──夕日にキラリと反射するものが見えた気がするのは何も言わないでおくのが男同士ってものだろう。
しかしまぁ……あれだな、人は鏡とはよく言ったものだな。
自分の鞄を取るついでに椅子に座り、隣に視線を向けて見ればいつもの様に此方を揶揄う様に見ている月影の姿が見え、瞬きした次の瞬間には俺をジトーっと睨みつける彼女の姿が、微笑む姿が、苛立ちを向ける姿が……あの日見た涙を流す彼女の姿が瞬きをする度に浮かんでは切り替わっていく。
「……鮮明に思い出せるほど俺の中に居るじゃねぇか」
顔が熱いのはきっと、差し込む夕日に照らされただけじゃない事ぐらいはもう、今の俺には分かってしまった。
「……江口君となんの話をしているのかしらね」
珍しく先に帰る様に促していた寧暗君はきっと、気がついていないのでしょうけど明らかに視線を江口君の方へ向けていたし、江口君もそんな彼の方を見て少しだけ申し訳なさそうにしていたから放課後の話し相手はきっと江口君なのでしょうね。
まぁ、別に付き合っている間柄ではないから私を優先しなくても良いのだけど、ほんの少しだけ……本当に少しだけ気に食わないという思いがある。
「ん?」
季節柄と言うべきか、人通りの多い街並みには何処か浮ついた空気が流れていて、なんとなく人の流れを目で追うとその先には赤いテロップで彩れられたチョコレートの広告──即ち、バレンタインだ。
今まで縁遠い生活を送っていたから忘れていたけど、そう言えば今週の金曜日はバレンタインデー……平日、しかも次の日が休みなのもあって想いを伝えない女性にとっては色々と都合が良い日程かもしれないわね。
「……ちゃんとお礼、してなかったわね」
自然と足取りが大々的なチョコレートの広告を出しているバレンタイン一色に染まっているお店の方へと向かっていく。
ずっと寧暗君を振り回し続けていたお詫びとか、デートをした日にナンパしてきた男達から助けてくれたお礼と彼、無言でお店の代金を支払ってくれていたからそれもお返ししなくちゃいけないからであって、彼の事が好きとかそういう訳ではない……筈。
「分からないのよ。分からないの……誰かを特別大切に思う感情が」
だって、私が知る愛は裏切られたものだもの。
微かな記憶となってはいるけど、まだ父と母が一緒に居た時の光景を覚えている。
『いってらっしゃい貴方』
『あぁ。行ってくるよ桔梗』
なんでも出来る癖に結構、手先が不器用な父の乱れたネクタイを慣れた手つきで直す母の目はとても優しいもので、その視線が向けられている父も同じ様な目をしていた。
そんな二人の空気に混ざっちゃ駄目な気がして、廊下の曲がり角に隠れていたけど子供ながらの好奇心を抑える事は出来なくてこっそりと覗いていた先で二人の唇が重なる光景はとても愛に満ちていたと思う。
「……」
それなのに母は父を裏切って男を作り、事故でその男の一緒に死んだ。
あの光景が嘘だとすれば一体、何が愛と呼ぶ感情なのだろうか……私には分からない。
「他の人には一度も抱いた事のない感情を私は寧暗君に抱いているのは分かる」
これから向かう場所には相応しくない暗い感情が胸の中を占めていく中、止まる事のなかった足によってお店へと到着する。
そこには可愛らしいポップで『異性に想いを伝えよう!』と書かれていて、集まっている人達はキラキラとした笑顔や真剣な表情を浮かべながらチョコを吟味していてこんな気分の私は似合わないわね。
「……帰ろうかしらね」
「あれー?月影さんじゃん!!えっ、珍しいところで会うじゃん!!」
「あらほんと。こういうイベントとは縁遠いものかと」
「宮入さんに鈴木さん?」
快活さがよく表に出ている笑顔と、ツインテールが特徴的な宮入さんと、少し気怠げにスマホ弄ってるボブカットの鈴木さんが揃って手にバレンタインチョコを持っていた。
「そうだよ!明乃ちゃんがどうしてもって言うから来たんだよ。かれこれ三十分以上悩んでるけどね!」
「幼馴染の郷田に告るらしいから真剣なのは分かるんだけど。私ら呼んだ意味ないよね」
明乃ちゃん……あぁ、森さんの名前だったわね。
確かに彼女達が指し示す先には両手に可愛らしいラッピングのチョコを持って真剣な表情で吟味してるのが窺えるわ。
「……そんなに悩むものなのかしら」
「それはそうだよ!!だってバレンタインだよ?恋する女の子が勝負する日じゃん!」
「そういう桜は今年も彼氏どころか好きな人もいないけど」
「良い人いないんだもん。はぁ、何処かに白馬の似合う素敵なおじ様いないかなぁ……」
「出たよ枯れ専」
賑やかねこの二人。
このまま私が静かに帰ってもバレないんじゃないかしら……
「別良いでしょ!!そ ん な 事よりも!!ねぇねぇ、月影さんはネクラ君にチョコをあげるの?」
「……ん?彼の名前は寧暗よ。ねあんって、なんでそんな事を聞くのかしら宮入さん」
人のパーソナルスペースなんて全く気にしていないのかしらね……勢いよく迫ってくるのは良いけれど加減をしないと顔と顔がくっついてしまいそうなのだけれど。
寧暗君とは比べ物にならない程にキラキラと輝く純粋無垢な瞳を押し除けつつ、二人から距離を取る。
「だってだって此処に居るって事は誰かにチョコをあげたいからでしょ?で、月影さんがそこまで入れ込んでる人なんて私の知る限りたった一人!そう、ネクラ君!!」
「宮入さんと私って交友関係が全部把握されるほど仲良かったかしら」
「酷っ!!……なーんてね、まぁ月影さんから距離を取られてるなーとは感じてたから全然これくらいノーダメージですし」
「おー、よしよし。少しは涙目を隠してからそういう事を言うんだぞ」
急に賑やかになったと思ったら鈴木さんに頭を撫でられて慰められるなんて、喜怒哀楽が激しいわね宮入さん。
「まぁ、私らの友情とかは置いといて。実際、月影があげる相手なんて安堂ぐらいでしょ。万が一ぐらいには江口の可能性もあるけど」
「なんでそこで江口君が出てくるのかしら?」
「……合唱ナーム」
今度はお坊さんの真似かしら?
困ったわね……普段からノリが分かる訳ではないけど、今は特に分からないわ。
「……多分、貴女達が想像しているのとは違うけど寧暗君にあげようと思って足を運んだのは間違いないわ」
このままだと話が全く、前に進まず私が帰る選択肢を取れなさそうな気がしたからこっちから話を進めてみたけど間違いだったかしらね……二人の目がなんだか怖いわ。
「ほうほう」
「なるほどなる」
「……な、なに」
二人の放つ異様な気配に思わず後退りをした瞬間、ガシッと二人の手が伸びてきたかと思えば両手を掴まれ、凄い力で逃げられなくなる。
「選ぶの手伝ってあげる!」
「あのネクラが月影を堕とすとはね……世界は広いわ」
勝手に納得した様な口振りで話す二人は私が反論するよりも早く、私を引き摺るようにあんなにも場違いだと思ってたチョコレート売り場へと私を連行して行き、真剣な表情でチョコレートを見比べていた森さんのところへと連れて来る。
「……んー、どっちもアイツが好きそう……味ならこっちのチョコミントだけど、デザインはこっちの宇宙の方が……ん?」
「やぁやぁ!恋する明乃ちゃん!!迷える子羊ちゃんに導きの手を差し伸べるのだよ!」
「私らより適任でしょ」
「え、いやいきなりなに……って、月影じゃん。どしたの?桜、早織」
「かくしか!」
「それで通じる訳……」
「なるほどね。月影がチョコレート選びに難儀してるみたいだから手伝えと」
「……通じるのね」
明らかに何処の国の言語にも適していないやり取りだったと思うのだけど、言った宮入さんも理解した森さんも平然とした表情をしているし私が知らないだけで何かの暗号だったりするのかしら……って、私を連れて来るだけ連れてきてあの二人、去って行ってしまったわ。
「相手の好みは分かる?甘いのが好きとか嫌いとか」
「え?えっと……彼は結構、甘いの好きだと思うわ。以前、生チョコストロベリーのクレープを美味しそうに食べていたし」
「あぁ、駅前のクレープ屋?」
「えぇ」
「なるほどね。なら結構、甘いものでも良さそう……このガトーショコラとか良いんじゃない?」
森さんが混乱の中にいる私を他所に選んだのは、一口で食べれる大きさのガトーショコラが四個入っているものでこれも数ある商品の例に漏れず、可愛らしいラッピングが施されているものだった。
「……」
「しっくりきてない感じ?」
「……私が彼をどう思っているのか分からないもの。だからバレンタインなんて──」
「別に良いんじゃない?」
「え?」
参加する資格ないと続けようとしたタイミングで森さんから言われた言葉に驚いて、彼女の顔を見れば横目で少しだけ呆れた表情を浮かべているのが分かった。
「確かにバレンタインは告白の意味も大きいけど、何か贈りたいと思ったから来たんでしょ?ならとりあえずその気持ちを大事にして、実際に渡す時に自分の感情に聞いたら良いんじゃない?私も幼馴染に向ける友情と愛情、どっちなのか分からなかったんだけどさ」
そう言って彼女は決心がついた表情でチョコミントのチョコレートを手に取ると、真っ直ぐに私と向き合う。
「あいつが喜んでくれる顔が頭から離れなくて、何かをされるよりもしてあげたいって思ったが最後、あぁ、好きなんだって気がついたから……チョコミント味、私がバレンタインに初めてあいつにあげたやつなんだ。ありがとね、月影を見てたら選ぶことが出来たよ」
そう言い残し、森さんはレジの方へと歩いて行き、そこへ宮入さんと鈴木さんが何処からともなく現れ合流し私へと手を振りながら去って行く。
時間にすれば決して長いと言える時間、話していた訳ではないのになんだか凄く疲れた気がするわね。
「……お礼がしたいのは本当だものね」
そう、疲れたから今日はもう早く帰ることにしよう──このガトーショコラを買って。
二月十四日、思春期真っ盛りな高校生達にとってはその日学校に居る間は落ち着きがなくなり、多くの者達がソワソワとした時間を過ごす事になるある種のお祭りのような日。
此処、霧桜学園もその例には漏れず、学園へと登校してくる生徒達は完全に浮き足立っていた。
「なぁなぁ!放課後は勝負しようぜ!勿論、どんな勝負か分かるよな?」
「おう。どっちがより多く手に入れられるかだよな!」
己のプライドを賭けて、仲の良い者達と獲得数を競おうとする男子達。
「……ふっ、今更焦ったところで結果は変わらない。全ては人事を尽くした者に授けられるのですよ」
ズレた眼鏡を直しながら若干、痛いセリフを吐きながら下駄箱の前で二秒ほど、立ち尽くしてから絶望の顔で崩れ落ちる者。
「はい。これバレンタインね」
「ありがとうな。来月は楽しみにしててくれ」
「うん」
「「「「いいなぁ……!!」」」」
「はいこれあげるー!」
「ウチもー!」
飢えた男達など全く、眼中にないと言った様子で友達と交換していく者達。
いくつもの思惑と愛情が交差していく一種のカオスの中、今日で二週間を迎える付き合いとなり相手の同い年とは思えない美貌のせいで学園中にその仲を噂され、あらゆる予測が叫ばれている男が歩いてくる。
「ふわぁぁ……」
最近、僅かばかり改善されたがそれでも常人より光を宿していない死んだ魚のような黒い瞳が特徴的で、逆にそれ以外にパッと目を引く様な要素は見受けられない男子生徒──安堂 寧暗──が気怠そうに大口の欠伸と共にカオスな空気を醸し出している霧桜学園の校門へと足を踏み込むと自身に向けられた好奇の視線に気が付き、頬を引き攣らせる。
「……何この空気」
霧桜学園は男女共に同数程度の人数が通っている学園ではあるが、それが即ちカップルの数に比例するかと言えば当然、そんな訳もない。
思春期という自身の考えや心の整理が最も難しいこの時期に、明確な異性への好みを持つ者は少なく運動部のエースや皆が噂する可愛い子などに好意が移ろい易く結果的にある種の足の引っ張り合いが起きるのも学生というものだ。
故に、『霧桜学園に通う男子生徒ならば一度は異性として強く意識する』少女との深い仲が囁かれている安堂 寧暗に男子達の嫉妬が一身に注がれてしまうのも仕方がないのだろう。
「さっさと教室に逃げるか」
堪らずといった様子でこの場からの逃走を図る彼であったが、今日は二月十四日のバレンタイン。
何処へ行こうとも浮ついた空気は変わる事がなく、寧ろ彼と彼女が同じ場所で会う事が約束されている教室など注目の場となって当然であった。
「……」
元々、他人の視線には敏感な安堂 寧暗は自身の教室近くで屯している者達の殆どが雑談している風に見せて、自分の動向を窺っている事を理解するのは容易く、そして生粋の面倒臭がり屋である彼が無駄な抵抗を辞めるのもまた、当然の事であった。
全てを諦めもはやある種の堂々とした足取りで、自身の教室へと向かい扉を開ける安堂 寧暗。
既に教室に到着していたクラスメイト達の視線が一気に注がれ、ビクッと肩を震わせる彼であったがすぐにその理由に気が付きとある一点に視線を固定する。
「……」
普段なら自分が居なければクラスメイト達の誰か──殆どが江口達のグループ──と会話をしている彼女が静かに頬杖を突きながら、窓の外を眺めているその姿は物鬱げな表情を浮かべているのも相まって、切り取られた絵画の様な芸術性を感じさせていた。
クラスメイト、そして廊下から注がれる視線をなんとも思っていない彼女はしかし、自身を見る視線に気がついたのだろう。
ずっと外を眺めていた彼女の顔が動き、未だに入り口で立ったまま自分を見ている彼の方を向く。
「ふふっ、なに借りてきた猫みたいな顔してるのよ寧暗君。そこで立っていても寒いだけでしょう?」
「──いや、悪い。珍しい物を見たもんでな」
綺麗でよく通る声を聞き、我を取り戻した彼はゆっくりと歩き出しふとクラスメイト達の方へ視線を向けると、そこには小さな笑みを浮かべている江口の姿があり彼も目が合った事に気がつくと周囲には聞こえない様に口だけを動かす。
『がんばって』
恋敵の応援をする江口の姿に安堂 寧暗はほんの少しだけ呆れつつも、返事をする様に小さく頷くと彼の浮かべている笑顔が更に深まる。
そんな友情のやり取りをしていれば、決して広くない教室で彼が彼女の元に到着するのには十分すぎる時間で、ほぼ置き勉をしているせいで平らな鞄を自身の机の上に置くと彼女──月影 結衣の方を見る。
「おはよう月影」
「えぇ。おはよう寧暗君──それとはい、諸々のお礼を兼ねたバレンタインよ」
そう言って彼女は可愛らしくラッピングされた小さな袋に入った
「お礼?俺の方からする内容はなんとなく思い浮かぶが月影の方から何かあったか?」
なんだか響めいている周囲を無視しつつ、手渡されたクッキーを手に席に座る。
中身が少しだけ透けて見える赤い色の袋に入っているクッキーは、ぱっと見ただのクッキーでチョコレートが使われている様な物には見えない。
まぁ、教室に入った瞬間、これ見よがしに置いてあるから月影がバレンタインだと?って驚いたが、なるほどそういう訳ね。
「色々とね。ほら、奢ってくれたり厄介なのから助けてくれたり……ね?」
一拍置いて伏せたかった内容は恐らく、あの桟橋で話した月影の過去のことだろうな。
あんな話はこんな色んな連中に聞かれている環境で話題に出す様な物じゃないからな……とは言え、この状態だと中身を確認するのは授業中にやらないと駄目か。
「別に俺が勝手にした事だからって言いたいところだが」
「えぇ。もう渡した以上、変に掘り返さないでくれると助かるわ」
「分かったよ。
お礼として受け取った物に礼をするのは少し変だろうから、まぁ会釈程度にしておけば良いか。
「それにしても凄いわねバレンタインって。そこら中で浮き足立ってるわ」
「特別な日に騒ぐのは学生の特権だろ」
「あら、まるで自分が学生じゃないみたいな物の言い方。老けるわよ?ただでさえ、目が死んでいるのに」
「余計なお世話だ。つか、俺がバレンタインだってはしゃいでたらお前、どう思う?」
「そうね……ゾンビが小躍りしていて気持ち悪いかしら」
「だろ。いや、お前の俺に対する認識には一言物申したいが」
目が死んでるのは事実だが、ゾンビはないだろゾンビは。
何処まで俺は祭り事を楽しむのに不向きな奴だと思ってるんだこいつ……とまぁ、こんな感じで俺達からすればいつもの下らないやり取りなのだが、このバレンタイン特有の物を期待した連中にとってはつまらないものだったのか少しずつ俺に向けられた嫉妬共に視線の圧が減少していく。
「……授業中にコレ開けるぐらいのフォローはしてくれよ?」
「……えぇ。と言ってもそんなに音が鳴らない素材を選んだから大丈夫な筈よ」
「なら良いんだが」
SHRの始まりを告げる鐘の音共に教室に入って来た先生の声に掻き消されるぐらいの小さい声で、俺達は互いの認識を擦り合わせた。
木を隠すなら森の中とは言うが……コレ、俺が気が付かなかったら月影の奴どうするつもりだったんだ?
「……なるほどね」
クッキーが入っている袋を開け、中から折り畳まれた紙を取り出して開くとそこには『放課後、屋上で』と書かれていた。
どうやって先回りしたのかは分からないが、このバレンタインというイベントは数少ない使い道となる筈の屋上へと向かう階段の先には『清掃中』という立て看板とご丁寧に三角コーンと侵入禁止のテープが貼られておりこの先に誰も入れない様にされていた。
あいつの事だから先生か清掃業者に伝手があってってのも考えられるが、まぁ、放課後にこの先を指定したのだから無視して入って問題ないだろう……念の為、付近に人が居ないことは確認したしな。
以前と同様に油が差されていないせいで煩く、重い扉を開ければ冷たいけれど不思議と何処か暖かいと錯覚する風が俺の頬を撫でる。
薄らと積もっていた雪は当然だが、溶けており今では陽の当たらない場所に微かに名残を見せるだけで無機質な灰色が一面に広がる中、まるで鏡写しの様に曇天の空の下──月影は居た。
「おいおい、人を呼び出しておいて随分と危ないところに立っているじゃねぇか」
「──見て分からない?死のうと思って」
あの日の焼き回しなのか同じ言葉を吐く月影は俺と対極の位置で、安全の為に設けられた薄緑色のフェンスの先に立っており、何かの間違いで足を滑らせば地面に真っ赤な花を咲かせる事は間違いない場所に堂々と立っている。
幸い、今日は風がそんなに強くないとは言え月影の黒い髪が靡く程度には吹いているし、フェンスの向こう側は立つ様に設計されてないだろうから不安定な足場で凡ミスをしないとも限らねぇ……
「そこで待ってろ。俺もそっちに行く」
「……あら、説得はしないのね」
「説得はする。が、俺の知る月影って女は人の話を聞かないからな。言葉だけで止まってくれる様な半端な奴じゃねぇんだよ」
本当にそうだ。
月影の奴が言葉だけで止まってくれる奴なら、俺の平穏はこんなにもあっさり崩れ去る事はなかった。
授業中に下らない内容をノートの切れ端で送りあったり、昼休みには一緒に飯食って、放課後には駅前に出来たばかりの店に行ってクレープを食ったり、休日にわざわざ出掛けて目に入るもの一つ一つに騒いだりだとか、ただ一緒に過ごすだけの時間があんなにも楽しいものだと俺は知る事はなかった。
「……人は変わるものね寧暗君。君が体を張って止めに来るなんて」
フェンスに指をと足を乗せ、登り始めると同時に言われた月影の言葉に出会ったばかりの事を思い出す。
『ふふっ、随分と冷たいのね。美少女が死のうとしているのよ?体張って止めるべきではなくて?』
『えぇ……止めて欲しいのかお前。意外と面倒臭い奴だな』
発している言葉とは裏腹に何処までも無関心で冷め切っていた俺の返事に、嬉しそうな表情を浮かべていた月影。
だと言うのに、今の俺の対応の方がだいぶ人としては当たり前の行動だと思うのだが迷子になっている幼な子みたいな困った表情で今にも泣き出しそうにしている彼女の横に降り立つ……狭いなおい、足先が外に出てるじゃねぇか。
「よく言うぜ。誰が俺を此処に招待したんだよ。たくっ、面倒臭い奴だなお前」
チラリと下を見れば思わず、ヒュッと息を呑む程に高く、先程までとは違った死の恐怖で心臓が高鳴る。
チラホラと見える下校途中の生徒達は、皆、バレンタインの成果を友人達と話しているせいか上を見上げる奴は居ないがもしも、気まぐれで上を見上げる奴が居て俺と月影に気がつけば一瞬で騒ぎになるだろうな。
「……で、なんでこんな事をしてるんだ?」
「私が死のうとしている事がそんなに不思議?」
「今が不思議な訳じゃねぇよ。過程が意味わかんねぇんだ。月影が死のうとすれば俺は止めるが、現実的な話、ひっそりとお前が死ぬならエスパーでもなんでもない俺には止められない」
真正面から月影を見つめる。
足元の恐怖から逃げる為ではなく、真っ直ぐに他人と関わるのが面倒だと思っていた俺らしくない彼女と向き合う為に。
「お前の行動力がぶっ飛んでるのはよく知ってるから不思議なんだよ。なんで、わざわざ俺に知らせてこの状況を作ったのか」
「……初めは普通にバレンタインの贈り物をするつもりだったわ。偶然とは言え、森さんに選ぶのを手伝って貰ったし」
「なんだちゃんと友人やってるんじゃねぇか」
「偶然って言ったでしょ?……まぁ、私が思っていたよりも彼女達は私の事を気にしてくれているのは分かったわ」
どんなやり取りがあったのかは分からないが、良くて友人と友人程度だと評していた相手から友情を向けられていた事に困惑しつつも喜んでいる様に雰囲気を漂わせる月影に少しだけ安心する。
俺との関係がまともかは諸説だが、死にたがりの月影に繋がりが増えるというのはそれだけで彼女が死を選ぶ可能性を下げてくれるものだ。
「それは良かったが余計に疑問が強くなったな」
「……自分でもどうかしているという自覚はあるわ寧暗君。私はきっと君と出会ったこの場所でこの選択を取らなければ、君を信用する事も……自分の感情に答えを見出す事も出来ないの」
俺の質問に答えているんだか、はぐらかしているのか分からない言葉と共に月影はまるでダンスでも踊るのかという軽い足取りのまま、真っ直ぐに俺を見つめ最も簡単に死へと向かって飛び降りた。
──本当に素直に森さんが選んでくれたガトーショコラを渡すつもりで彼を屋上に呼んだ。
なんで屋上を選んだのかと言えば、私と寧暗君が互いを認識し相手に強く興味を抱いた始まりの場所であり此処で出会っていなければ、母が残した呪いに負けた私はもう生きてはいないという運命の分岐点だったからだろう。
命を賭けているせいか、何倍にも引き延ばされた世界で落ちていく私に向かってらしくない必死の形相で私へと手を伸ばす寧暗君が見える。
あぁ、もしもこんな偽りだらけの世界に神様というものが居たとして、今この瞬間を無遠慮に覗き見ているとして、私の胸の内を理解しているのなら罵ってくれても構わないと思える程に歪んだ心を私は持っている。
自分を偽る事が苦手でいつも涼しい顔をしている面倒臭がり屋な彼が、目を大きく見開いて冷静さなんて一欠片も感じられない表情を浮かべている姿を見て私は──心の底から喜んでいるのだから。
「月影ッッ!!」
一度も聞いた事がない荒々しい声が私の鼓膜と共に強く心を揺さぶる。
不安定な足場を明らかに冷静さを欠いた様子で踏み外さない様に走り、彼は後ろのフェンスを左手で鷲掴みにすると精一杯、落ちていく私に向け手を伸ばすその姿は彼が外との繋がりを作ろうとしないだけで、当たり前の優しさを持つ善人である証で……だからこそ、その優しさに私の様な面倒な女が甘えてはいけないのだと悟り、この世で魅せる最期の綺麗な笑顔を浮かべ──
「ッッ!!俺と一緒に生きてくれ!!月影!!」
「!!」
──死のうとしたのに、裏返る程に力強く発せられた言葉で私は伸ばされていた彼の手を掴んでいた。
自分も大きく不安定な足場から身体を伸ばしていて、既にかなりの負荷がフェンスを掴む左手にかかっているというのに彼は苦悶の声を小さく漏らすだけで私を支えきってしまう。
死のうとした。
彼の目の前で自殺を選べば、こうやって必死になって私を助けようとするのが分かりきっていたのに我が儘でどうしようもなく壊れて、愛に飢えていた私は自分が愛されているという確証を抱いたまま、寧暗君の傷になろうとしたのに。
「……私は酷い女よ」
「あぁ。知ってるよ」
幾度となく繋がれてきた手が、今まで以上に強く握り締められる。
「けどな……俺はそんなお前が好きになっちまったんだ」
苦悶の声が一つ漏れるごとに私の身体はゆっくりと持ち上げられ、飛び降りた屋上へと戻って行く。
そんな中で不意に告げられた告白に私は愚かにも心臓が高鳴るのを感じた。
「ぐっ……」
少しだけ大きな声が漏れるのと同時に私はフェンスを掴む彼の左手が、二人分の体重を支えているせいで出血している事に気がついた。
「寧暗君……」
「手を離してとかふざけた事を言うなよ……お前が俺を信じられないと言うならそれでも構わねぇ!!」
グンっと今までより強く身体が引っ張られる感覚と共に私は彼に引き上げられたのだと理解し、微かな足場へとどうにか足を乗せ、その代わりに私なんかを死ぬ気で引き上げたせいで倒れそうになっている彼を抱き止める。
「……いつの日か胸を張って俺を好きだと言えるまで、俺がお前の隣でずっと好きだと伝え続ける。月影がこの世界の誰よりも自分の事が嫌いだって言うならそんなもの感じさせない程に俺がお前を愛す。だから死なないでくれ……俺の世界から消えないでくれ」
本当に目の前で私が死ぬと思って、感じた喪失感からくる恐怖と私を救える事が出来た安心感でボロボロと大粒の涙を流しながら告白してくる寧暗君の姿は側から見れば、とても不恰好に見えるのかもしれない。
けど、私にはこの姿が堪らなく格好良くて──愛おしいと感じたんだ。
「あっ」
最後の最後までみっともなく自分の感情から逃げ続けた私は此処までして漸く、逃げ道を失って素直に自分の感情を飲み込む事が出来るのね。
「たくっ……死のうとして泣いてんじゃねぇよ……本当に面倒臭い奴だな」
「え、ええっ……そうねッ!ほんとうに……私ってば面倒な女ね……ッッ!!」
もう逃げる事は出来ない事を告げる涙は止まることはなくて、抱き止めている寧暗君への愛しさが溢れてくる。
そうして互いに──主に私だけど──落ち着くまで、不安定な足場で器用に過ごした私達はゆっくりと屋上に戻り、そこで張り詰めていた緊張の糸がプツンっと切れたとか、二人揃って座り込む。
「……左手、大丈夫かしら?」
「まぁ、暫くは何かを握ったりすれば痛いだろうな。けど、お前を助けられた名誉の負傷みたいなもんだ」
「……改めてごめんなさい。こんな真似をして。そしてありがとう、こんな私を好きだと愛してくれると言ってくれて」
相変わらず自分が傷つく事には無頓着な寧暗君だけど、私が迷惑をかけてしまったのは事実だし一度しっかりと謝っておきたかった。
「……改めて口に出されると恥ずかしいな」
「ふ、ふふっ!今更ね。あれほど熱く言われれば、流石の私も認めるしかないわ。自分の本当の気持ちに」
「それって……」
「ちょっと待っていて」
寧暗君は気が付いていなかった様だけど、私が飛び降りようとしたすぐ側にあったバレンタインの袋を手に取り彼の元へと戻る。
「こんな形になってしまったけれど、これが私から君に贈る本当のバレンタインよ」
「……随分と重いもんだな」
生き死にがかかったバレンタインを過ごすなんて、確かに私達ぐらいでしょうし重いと言っても正しいかもしれないわね。
彼が袋を開けて中身を見る。
「ガトーショコラか」
「えぇ。今年は市販の物になってしまったけど、来年は手作りを贈るわ。料理は殆どした事がないから美味しくないかもしれないけど」
「メイドが居る家だもんな。けどまぁ、良いんじゃねぇの?そっちの方が上達していく味を楽しめて」
「……ふふっ、本当に敵わないなぁ寧暗君」
ほんの少しだけ揶揄うつもりを込めたのに全く、動じないところかそれ以上に真っ直ぐな想いを込められた返事を返されてしまった。
これから先も、何年も何十年もきっと最期を看取る事になるまで側に居てくれる寧暗君の言葉に自然と頬が緩んでしまうのが分かる。
「ねぇ、寧暗君」
「ん?」
「好きよ。大好き、安っぽい言葉だけど私は本当に君のことが大好きよ」
「……直球ストレート過ぎだろ……」
「ふふっ、照れてる顔もとても可愛いわね」
私の中にあった自殺願望を綺麗さっぱりと消してしまったのだから、寧暗君にはこれから先もずっとずっと責任を取ってもらうのだからこれくらいは序の口よ?
曇天の空はいつの間にか陽が差し込み、温かな光が私達を照らすのだった。
「んんっ、さぁ帰るぞ月影」
「……ねぇ、名前で呼んで欲しいな」
「なっ!?……あー……結依」
「ふふっ!」
願わくばこの暖かさが何処までもずっと続きます様に。
良ければ感想をいただけると幸いです。