メリー・バッド・エンド   作:宇宮 祐樹

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 一目見た瞬間に、ビビっときた。

 ああ、この世代は彼女なんだな、って。

 まだ酒の飲み方も、煙草の吸い方も知らないようなガキでも理解できた。

 いつか彼女は頂点に立って、この長い歴史にその名を強く刻むのだろう、と。

 でも、それは憧れや期待みたいな、前向きでキラキラしたものじゃない。

 一番近い感情はたぶん、諦めだった。

 今まで積み重ねてきた時間も、抱き続けてきた感情も、全部無駄だった。

 だって、どれだけ足掻いたところで、結局は彼女に踏み潰されるんだから。

 きっと彼女は、僕を阻むために女神様が遣わせた、運命の相手なんだ、って。

 そんなことを考えないと腐ってしまうほどに、彼女は絶対的な存在だった。

 

 もしも僕の人生に、行き止まりみたいなものがあるとしたら。

 そこには、彼女が立っているんだと思う。

 

 

「あまり、嬉しそうではありませんのね」

 

 秋華賞を終え、彼女が遂に三つめのティアラを戴いた日から、しばらく。

 トレーナー室に飾ったトロフィーをなんでもなしに眺めていると、いつの間にか部屋に入ってきた彼女に、そうやって不満そうな声をかけられた。

 

「当然の結果だったからさ。これといって感慨も湧かなかった」

「でしたら、そんな辛気臭い顔をしないでくださる?」

「……悪いね。生まれつきなんだ」

「そうでしたわね。昔からずっと、貴方は退屈そうな人でしたわ」

 

 君と出会うまでは、そうじゃなかったんだけどなあ。

 

「それで。トリプルティアラを獲った担当ウマ娘に、何か仰ることは?」

「君を担当できたのは人生の誇りだよ。おめでとう、ジェンティル」

「やり直し」

「君はこの歴史上、最高のウマ娘だよ。きっと誰も敵わないな」

「もう一度」

「……君がいる時代に生まれたのは、僕の人生で一番の幸運だろうね」

「ふざけていますの?」

 

 秋華賞の直後、観客に向けて自分からそんなこと言ってなかったっけ?

 

「レディの扱いに関しては、まだまだ未熟もいいところですわね」

「残念だけど、もう無理。僕の歯はこれ以上浮かばないよ」

「情けないですわね。私を口説き落とすくらいの気概は見せてほしいものですわ」

「僕が、君を? まさか」

「あら? 私では不満だとでも?」

「……さすがの僕でも、自分の担当する生徒に手は出さないよ」

「意気地のない人だこと」

 

 これってそういう問題なのかな。

 

「次のレース目標は、依然変わりなく?」

「うん。ジャパンカップ。オルフェーヴルに君をぶつける」

「よろしい」

 

 あの三冠ウマ娘の名を前にしても、彼女は臆することなく頷いた。

 その自信に当てられたわけではないけれど、彼女が負けるとは思えなかった。

 ……どうせ彼女が勝つ。賭けたっていい。

 絶対的な勝算があるわけでも、傾倒にも似た期待をしているわけでもない。

 もしかすると、運命、という言葉が最も正しい表現なのかもしれない。

 いずれ彼女はこの世代を完全に支配して、後世にその名を刻む。

 そうして刻まれた名が僕の前に立ち塞がって、そこで僕の人生は行き止まる。

 きっとこれは、そういう話だ。

 

「次もまた、貴方に勝利を捧げてみせましょう」

 

 だから彼女のそんな言葉も、僕を追い詰めるだけのものでしかなくて。

 

「楽しみ……でも、ないな。当然のことだからね」

「ええ、ええ。そうでしょうね。ですから、貴方も準備をしておきなさいな」

「準備?」

「私を口説き落とすための、言葉を」

 

 そうしてジェンティルドンナが指先を伸ばして、僕の唇にそっと触れる。

 

 柔らかな感触の直後に、彼女のからかうような視線を感じた。

 

「でも、どうせ君は本気にしないでしょ?」

「どうでしょう。貴方の言葉次第ですわ」

「それなら、君を本気にさせるような言葉を考えておこうかな」

「おほほ。期待していますわよ」

 

 くすくすと口元に手を重ねながら、ジェンティルドンナが微笑む。

 その仕草も、目の細めかたも、昔から何一つ変わっていない。皆は妖艶だとか、魔性だとか言うけど、僕にとっては見慣れきった、可愛げのある光景の一つだった。

 つまりは、まあ、やっぱりこの子ってかわいい系の顔してるよなー、って。

 ジェンティルの笑みを眺めながら、そんなことをぼんやりと考えていると。

 急に彼女は笑うのをやめて、落ち着いた表情を取り戻してから。

「ところで、先日から貴方がやたらと粉をかけていた女性のことですが」

 

 げっ。

 

「単刀直入にお尋ねましょうか。一体どういうつもりですの?」

「いや、まあ……手癖というか、ねえ?」

「趣味の悪い癖だこと。いつになったら治すつもりなのかしら」

 

 別に治すつもりもないんだけどなあ。

 

「全く。私というものがありながら、他の女に手を出すのはいかがなものかしら」

「……まさかとは思うけど、今日ここに来たのって僕に説教するため?」

「よくご存じで。こう何度も繰り返せばさすがの貴方でも学習しますわね」

「勘弁してよ……」

「こっちのセリフでしてよ」

 

 呆れたように吐き捨ててから、ジェンティルがソファーへと腰を下ろす。

 そのまま無言でこちらを睨まれたので、観念して対面のソファーに座った。

 

「それで? まだ貴方の答えを聞いていないのですけれど?」

「……目がくりくりしてて、スタイルもよくて、年下だったから、イケるかなって」

「あら、随分と強気ですのね。まさかこの私に、こうも真っ向から挑もうなんて」

「いや別に……ケンカを売ったつもりはないんだけど……」

「私だって目がくりくりしてて、スタイルもよくて、年下ですのに」

「うん、そうだね。ジェンティルはかわいいよ。僕にはもったいないくらいだ」

「……本当に。意気地のない人」

 

 ため息交じりに呟いてから、彼女はむすっとした顔でそっぽを向いた。

 あーあ、ダメだ。完全に拗ねちゃってるなあ、これ。

 こうなったジェンティルは、僕が何を言っても聞いてくれない。

 ……ってことは、やっぱりアレ待ちってことになるのかな。

 あまり気が進まないけど、でも自業自得だし、こうなったら仕方ないか。

 

「ゴメンって、ジェンティル。機嫌治してよ。ね?」

「治しませんわ」

「そう言わずにさ。話だけでいいから、聞いてくれないかな」

 

 なんて言いながら、つーんとしたままでいるジェンティルの隣に座る。

 

「別に、君のことを蔑ろにしてるわけじゃない。誰よりも大切に思ってる」

「どうだか。浮気者の言うことなんて信じられませんわ」

「だけど、僕のことをトレーナーに選んだのは他でもない君だ」

「あら、開き直るつもりかしら。いい加減見苦しくてよ」

 

 手厳しいなあ。

 普段ならこのあたりで、だんだん許してくれる雰囲気になるんだけど。

 今日はそうもいかないみたいで、ジェンティルは未だにそっぽを向いたまま。

 

「僕をトレーナーに選んだこと、後悔してる?」

「いいえ。多少の失望はありましたが、この選択が間違いだとは思いませんわ」

「そう言ってくれて嬉しいよ。でも、それなのに僕の言葉は信じてくれないの?」

「トレーナーである貴方の言葉なら、信頼に値するかもしれませんわね」

「一人の男としては、まだ信頼できない?」

「……ええ。まだ、ね」

 

 静かに呟きながら、ゆっくりとジェンティルが僕に視線を流す。

 

「どうすれば、君に信頼されるような男になれるのかな」

 

 言葉は返ってこない。

 代わりに、彼女の手が差し出された。

 

「言葉じゃなくて、態度で示してみせろ……ってことで、いいの?」

「貴方の落とす言葉なんて、ひとつも信頼できませんもの」

「ひどいなあ。君は昔からそうだ。僕にひどい言葉ばかり浴びせてくる」

「そんなひどい女の手を取ったのは、他でもない貴方ですわよ」

 

 ……それも、そうだったな。

 差し出された手を優しく取って、静かにこちら側へ引き寄せる。

 それから、自分の指先に残した口づけを、そのまま彼女の手の甲に添えた。

 

「ふふっ……。よくできました」

 

 指先が手に触れた瞬間、彼女が小さく笑みを零す。

 

「私の機嫌を取ることに関してだけは、ずいぶんと成長しましたわね」

「君と一緒にいれば、嫌でもね」

「あら、私と一緒にいるのは嫌?」

「そういう意味じゃないよ。ただ、苦労はしたってだけの話」

「この程度で音を上げるようでは、私のトレーナーは務まりませんわよ」

 

 厳しい口調とは裏腹に、ジェンティルはとても機嫌が良さそうだった。

 

「ですが今回は貴方の口づけに免じて、許してさしあげますわ」

「どうも。君の寛大さには感謝しかないよ」

「その口づけを私の唇に落とせたのなら、今までの愚行も許すつもりでしたが」

「さすがにそこまではできないよ……」

「おほほ、かわいらしいこと」

 

 たまらず日和った声で返すと、ジェンティルがくすくすと笑う。

 

「それでは、私はこれで失礼します」

「もう行っちゃうの?」

「ええ。このままヴィルシーナさんを待たせるのも悪いので」

 

 なんだ、あの子ってまだジェンティルにちょっかい出してるんだ。

 秋華賞の後の様子を見るに、完全にツブれちゃったと思ってたんだけど。

 どうやらそれは、僕の杞憂だったみたい。

 

「あの子もあの子でよく飽きないよね。随分と君に執着してるみたいだ」

「あら。その執着心こそ、ヴィルシーナさんの良いところですのよ?」

「別に悪く言ったつもりはないよ。ただ、君に一途だなあ、って思っただけ」

「そうですわね。どこかの誰かさんと違って、彼女は私に夢中ですもの」

 

 ため息交じりに呟いてから、ジェンティルがソファーから立ち上がる。

 

「貴方も、少しはあの子のことを見習ったらどう?」

 

 なんて一言を僕に渡してから、彼女は僕の返答も待たずに部屋から出て行った。

 足音が聞こえなくなったのを確認して、真新しいトレーナー室の天井を仰ぐ。

 やることはまだ残っているけど、今はそれに手をつける気にはなれなかった。

 

 ふと、自分の手のひらへ視線を落とす。

 彼女の温もりはとうの昔に消えて、秋口の少し寒くなった空気が肌を撫でる。

 寂しいとは思わなかった。

 むしろ、これくらいの冷たさの方がいい、とすら思えた。

 

「……いっそのこと嫌いになれたら、どれだけ楽になれたんだろうな」

 

 そんな言葉が、喉の奥で腐り落ちて行った。

 

 

「相変わらず暗い顔してるじゃないか」

 

 ジャパンカップが終わってから、一週間後。

 喫煙所でいつものように時間を潰していると、先生にそんな声をかけられた。

 

「お疲れさまです」

「たまには、もっと景気のいい顔でもしてみたらどうだい?」

「それはそれで似合わないって笑うでしょ、センセ」

「違いないね。その日の晩は、それをツマミにできるよ」

 

 呆れたように吐き捨ててから、彼女はどす、と乱暴に僕の隣へ腰を下ろした。

 そのまま手をこちらに伸ばしてきたので、ポケットからライターを渡す。

 

「それにしても、すごいじゃないか。クラシック級でジャパンカップ制覇なんて」

「どうも。ジェンティルに伝えておきます。喜ぶかどうかわかりませんが」

「アンタに言ったんだけどね」

「……老眼ですか? おたよりの宛先、間違えてますよ」

「クソガキ!」

「うわあ! 痛い痛い痛い痛い!」

 

 ぐりぐりとこめかみを拳で抉られる。いつものやつだ。

 

「ま、あの子が凄いのも事実だけどね。まさかオルをホントにやっちまうなんて」

「意外ではありません。ジェンティルなら勝つって信じてました」

「諦めてた、の間違いじゃないのかい?」

「……だったら、それでいいですよ」

 

 どうせこの人に隠したって無駄だし、取り繕う意味も無いか。

 三本目の煙草を口に咥えて、火を点ける。

 

「別に負けてほしいわけじゃないんですけどね。ただ、勝っても喜べないだけです」

「よかったね、ここにいるのがアタシで。他のヤツだったらぶん殴られてたよ」

「センセくらいにしか言えないんです。付き合ってくれたっていいじゃないですか」

「アンタはいつまで生徒の気分でいるつもりだい?」

 

 でも、僕にとって恩師と呼べる人物はあなたしかいないんだよ。

 

「そりゃ、トレーナーとして担当する生徒に勝ってほしいという気持ちはあります。でも、あの子が勝つたび、僕はどんな気持ちでいればいいのか分からなくなる」

「素直に喜べばいいじゃないか」

「そうできたらよかったんですけどね。でも、どうやっても喜べませんでした」

「いっそのこと、あの子に敗けてもらった方が楽になれるんじゃないのかい?」

「ジェンティルが敗けたら、僕が今まで募らせてきた諦めはどうなるんですか」

「知るもんか。ゴミの日にでも出しときな」

 

 白い煙と共に、突き放すような言葉を吐きつけられる。

 

「結局さ」

「はい」

「アンタはあの子のこと、嫌いなのかい?」

「どうでしょうね」

「答えになってないじゃないかい」

「僕でも分からないんです。ただ、嫌いになれたらと思ったことは、何度も」

「情でも湧いたかい?」

「……そうですね。その言い方が、一番正しいのかもしれません」

 

 別に、これといって深い繋がりや関係があったわけじゃない。

 かといって、たった一度の出会いで何かが芽生えたというわけでもない。

 ただ、ずっと彼女のことを眺めていた。きっとそれは彼女も同じだったはずだ。

 他愛のない話だって何度もしたし、一緒に出掛けたのも一度や二度じゃない。

 けれど、言ってしまえばそれだけの関係だ。それ以上になるとは思えなかった。

 僕はこの先も一生、彼女を傍観するだけで終わるんだろう、って。

 彼女から担当契約の書類を渡されるまでは、そう思っていた。

 

「あの子は、僕に何を期待しているんでしょうか」

「その腑抜けたツラをどうにかしてほしいんじゃないのかい?」

 

 ……案外、そんな理由なのかもしれないな。

 煙を吸い込みながら、思考の奥深くで蠢いている悩みにそんな納得をつけた。

 

「とにかく、よくやったよ。ジャパンカップ制覇なんてやるじゃないか」

「僕は何もしていません。全て、ジェンティルの実力です」

「私としては、昔の教え子をうんと褒めてあげたいんだけどねえ」

「……ありがとうございます。センセの教えが活きましたよ」

 

 付き合ってもらったからには、僕も付き合わないと筋が通らないか。

 

「驚いたよ。アンタがトリプルティアラのトレーナーになるなんて」

「自分もまだ実感は湧いていません。これから湧くとも思えませんが」

「でも、アンタ昔っから筋はよかったからね。教えたら教えたぶんだけ覚えるし、成績の伸びも良かったし。そう考えれば、驚くことでもないのかもね」

「センセの教え方がよかったからですよ」

 

 未だに、自分に何か才能とか、光る物があるとは思っていない。

 やろうと思えば誰だって僕くらいになれると思う。相応の努力は必要だけど。

 それでも、僕がトレーナーになれたのはセンセが目をかけてくれたからだ。

 トレーナー養成校にいた僕を、トレセン学園のインターンに招待してくれた。

 憧れのトレーナーが働く現場に立ち会えるんだ。断る理由を考える方が難しい。

 そして、これからの人生に希望を抱いていた僕が出会ったのは。

 当時中等部の、ジェンティルドンナだった。

 

「でも、時々思うんです。トレーナーにならなくてもよかったんじゃないか、と」

「……さすがに初耳だね。本気かい?」

「本気にしてたら、とっくに辞めてます。ですが迷ってはいました。いっそのこと、この業界から離れて、もっと別の場所で適当に生きる方が楽なんじゃないかと」

「だけどアンタはまだトレーナーじゃないか」

「惰性で続けているだけですよ。レールは元々敷かれていましたからね。ですが、路線を切り替えるスイッチはまだ押されていない。それだけのことです」

「自分で切り替えるつもりはないのかい?」

「……未練があるんでしょうね。不甲斐ないことに」

「未練?」

「だって僕がトレーナーを辞めたら、きっとジェンティルは悲しみます」

 

 確かに僕は、彼女と出会って絶望した。過去に積み重ねた全てが無駄に思えた。

 だけど、ジェンティルに何か恨みがあるわけじゃない。

 昔からの馴染みだ。せめて、あの子が傷つくようなことはしたくない。

 だから僕は今の仕事を、ジェンティルのトレーナーを続けている。

 

 尤も。

 僕以外の誰か――それこそ、ジェンティル自身がスイッチを押してくれたのなら。

 その時は、何も言わずに彼女の元から去るつもりだ。

 

「情が湧いてるね」

「そうですね。昔からの付き合いですから。できるだけ可愛がってあげたい」

「ははっ! 今の、あの子に聞かせてやりなよ。だいぶいい顔するんじゃないかい?」

「いいですね、それ。まだ今回の言葉を用意できてないから、丁度いい」

 

 ……いや。「舐めていますの?」なんて言われてぶん殴られるのがオチだな。

 

「そろそろ行きます。トレーニングの時間ですので」

「次のレースはどうするんだい?」

「しばらくは休養を。大阪杯あたりでまた顔を出しますよ」

「そうかい。楽しみにしてるよ。アタシも、オルもね」

 

 煙草を灰皿に投げ捨てて、軽く礼をしてから喫煙所を後にする。

 今回の言葉はどうしようかな、なんて考えながら、そのままコースに向かった。

 

 

 十二月二十四日、クリスマス。某所のパーティー会場にて。

 

「姿が見えないと思ったら、こんなところにいましたのね」

 

 人気のないテラス席で煙草を吹かしていると、ふいに後ろから声をかけられる。

 振り向いた先には、真っ赤なドレスに身を包んだジェンティルの姿があった。

 

「あーあ、見つかっちゃった」

「私から逃げられると思いまして?」

「君が言うと冗談に聞こえないね」

 なんて答える僕に呆れた視線を向けながら、彼女が向かいの席に腰を下ろす。

 

「偉い人たちの相手はもうしなくていいの?」

「ええ。それに会場も暑かったので。少し、涼みにこようかと」

「それがいいよ。君の貴重な時間をあんな有象無象に割く必要なんてない」

「あら珍しい。今日はやけに強気じゃありませんこと?」

「強がってなんかないよ。ただ、君のことを誰よりも大切に思ってるだけ」

 

 そうだ。この子は特別なんだ。それは僕にとっても、この世界にとっても。

 だからこそ彼女は、この世界で最も自由な存在でなければならない、と思う。

 もしかすると僕は、彼女に対して信仰にも近しい感情があるのかもしれない。

 彼女は誰にも侵されてはならない、残酷なほどに尊いものだと思っている。

 それなのに、あまつさえ彼女の時間を奪って、擦り寄ろうとする奴らがいる。

 僕はただ、それが許せないだけ。

 

「私のことを大事にしてくださっているのね」

「もちろん。僕は君のトレーナーだから」

「貴方のそれは、トレーナーの域を超えているように見えますが」

「そうかもしれないね。気が付けば君のことをずっと目で追っていた」

 

 それは羨望とか、怨恨とか、そういった感情に依るものなんだと思う。

 ……情けないな。まだ十八にもなっていない子供に、そんなものを向けるなんて。

 どうか、この子にだけは僕の抱いている感情の正体に気づきませんように。

 

「貴方からの熱い視線は、いつも感じておりますわ」

「迷惑だったかな?」

「いいえ。むしろ、私のことだけしか考えられなくなってほしいとさえ思いますの。そうして、堪えきれなくなった劣情を私にぶつけてくださいな。そうすれば私も、貴方に応えて差し上げます。たとえそれが、どんな感情だったとしても」

「……君が応える必要なんかないよ。これは僕が勝手にやってることだから」

「あら、私からの寵愛は必要ないと?」

「君からの寵愛なんて僕には勿体ないな」

「相変わらず意気地のない人ですこと。ただ、今日の言葉には熱が……」

 

 そこで初めて、ジェンティルがテーブルの上に視線を落とす。

 そこには半分ほど空いたウイスキーのボトルと、氷の入ったグラスがあった。

 

「……まさか貴方、酔っていますの?」

「酔ってない!」

「ウソおっしゃい」

 

 ジェンティルは呆れたように息を吐いてから、ボトルを手に取った。

 

「それにしても、珍しいですわね。普段なら一滴も飲みませんのに」

「だってクリスマス返上してるんだもん。少しくらいなら、いいでしょ?」

「自暴自棄になっているとしか思えませんわ」

「ま、それもあるかな。色んな人の話に付き合ったら、疲れちゃって」

 

 でも、スタッフさんから高そうなお酒を譲ってもらったのはよかったかな。

 逆に言えば、それ以外のことは全部よくなかった。

 たかがウマ娘のトレーナーに、こんな立ち回りまで求めないでほしいなあ。

 

「私と過ごすクリスマスでは不満だとでも言いたいのかしら」

「一緒にいてくれなかった。君は、僕の知らない人と話してばっかりだった」

「ふふっ。……私がいなくて、寂しかった?」

「寂しかった。でも、君にとって必要なことだって分かってるから、我慢した」

「そうやって言う割には、随分とお飲みになっているみたいですわね」

「悔しさを紛らわせてるだけだよ。これも我慢だ」

 

 ジェンティルの言葉に答えながら、グラスを傾ける。

 琥珀色の液体が喉に焼き付いて、アルコールの香りが喉から抜けていった。

 

「そこまで我慢するくらいだったら、私を攫いにでも来ればよろしかったのに」

「僕がそこまで乱暴な男に見える?」

「どうでしょうね。ですが、自分から枷を嵌めているようにも見えますわ」

 

 するとジェンティルは僕の手を取ってから、指先をゆっくりと絡めて。

 

「貴方が攫ってくださるのなら、私は喜んでこの身体を貴方に委ねますのに」

 

 なんて。

 

「……君らしく、ないな」

「あら。乙女のようにか弱い私はお嫌いでして?」

「君を嫌いにはならない、けど……君は、誰かのモノになるような人じゃない」

「また強がり。本当は独り占めしたいくせに」

 

 指先を絡めたまま、ジェンティルがゆっくりと手を握る。

 

「私を誰にも渡したくないのでしょう?」

「……そうだね。だけど、僕のモノにしたいとも思わない」

「紳士なお方ですこと。そうしているうちに、私が他の誰かに攫われてもいいの?」

「そんな身の程知らずの腕なんて、君なら簡単に振りほどけるだろ?」

「……その時は自分が守る、なんて言葉を期待した私が愚かでしたわね」

 

 つまらなさそうに呟いてから、ジェンティルが手をほどく。

 だけど、席を立つことはなかった。

 

「まだ、ここにいてもいいの?」

「寂しいと仰ったのは貴方ですわよ」

 

 そりゃまあ、そうだけど。

 

「それに、貴方といた方が退屈しませんもの」

「嬉しいね。あのジェンティルドンナにそこまで認めて貰えているとは」

「ええ、そうですわ。私、貴方のことはずいぶんと気に入っていますの。それこそ、このまま貴方をどこかへ連れ去って、独り占めしてしまいたいくらいには」

「……じゃあ、ここで僕を攫ってみる?」

 

 僕のそんな言葉に、彼女は改めて僕へと向き直る。

 

「貴方の身体も、心も、運命さえも。その全てを私に委ねてくださるのなら」

 

 そうしてジェンティルは、僕に左手を差し出しながら。

 

「この手を取ってくだされば、今すぐに貴方を攫って私のモノにして差し上げます」

 

 ジェンティルの瞳には、呆然とした僕の姿が映っていた。

 ……ああ、そうだ。思い出した。

 僕をトレーナーとして選んだ時も、この子はこんな瞳をしていたっけ。

 

「変わらないな、君は。また、その瞳で僕のことを見つめてくる」

「ふふっ……。惚れてしまってもよろしくてよ?」

「魅入られてはいるんだろうね、多分。だから僕は君のトレーナーになった」

 

 むしろそんな誘いなんて断って、君のことを突き放してやりたかった。

 でも、僕はそうしなかった。いや、そうしたくなかったんだ。

 だって、他でもない君の頼みだったから、なあ。

 

「……それで。貴方の答えは?」

 

 その瞳に僕を映したまま、ジェンティルが問いかける。

 

「君に僕の全てを差し出すか、って?」

「退屈はさせませんわ。貴方の人生を彩って差し上げます」

「悪くない話だね」

 

 だけど。

 

「残念ながら、全部はあげられないな」

「……理由を聞いても?」

「もう、君に渡せるものは何も残っていないから」

 

 将来も尊厳も、僕の中に残った後悔も、全てを捧げてきたんだ。

 だから、これ以上はもう――。

 

「渡したくないものがあるだけではなくて?」

 

 その言葉に、傾けようとしていたグラスを思わず止める。

 何も返せなくなった僕を見て、ジェンティルはくすりと笑った。

 

「図星だったかしら」

「誰でも明かしたくないことを抱えているものだよ。君だってそうだろ?」

「もちろんですわ。ですが、だからこそ求めたくなるものでしょう?」

「……欲張りだよね、君も。僕のことをそこまで欲しがるなんて」

「ええ。私、欲しいものは手に入れないと気が済みませんの」

「知ってるよ、そんなこと。だからこそ君は今、僕の前にいるんだろ」

 

 トリプルティアラという輝かしい名誉も、切磋琢磨を続けるライバルたちも。

 自分が欲しがったものを、この子は全て自分の力で手に入れてきたんだ。

 そんな彼女が、僕の前にいるのはつまり、そういうことなんだと思う。

 僕が彼女のモノになることで、ジェンティルドンナの物語は終わりを迎えるんだ。

 今まで隠してきた感情の全ても、彼女に吐き出してしまって。

 どれだけ乱暴にその感情をぶつけても、きっと彼女は優しく受け入れてくれる。

 そうして抜け殻になった僕は、この先もずっと彼女の隣で笑っていられる。

 そんな僕たちの幕引きを、ジェンティルは望んでいるんだろう。

 

 だけど――いや、だからこそ、か。

 少なくとも僕は、これが彼女に相応しい結末だとは思えない。

 

「ごめんね」

 

 初めに言葉を落としたのは、僕からだった。

 それと同時に、グラスの中に入った氷が、からん、と音を鳴らす。

 

「僕はまだ、君のモノにはなりたくないな」

 

 そこでふと、まだ、なんて言葉を使った自分に、少しだけ驚いた。

 彼女のモノになりたくなる時なんて、来るはずもないのに。

 

「そうですか。残念ですわね」

 

 やがてジェンティルから返ってきた答えは、そんな淡泊なものだった。

 

「では、そろそろ戻りましょうか」

「僕も行かなきゃダメ?」

「当然ですわ」

「じゃあ、これで最後にしようかな」

 

 そうして、グラスに残るウイスキーを飲み干そうとしたところで。

 

「ただ、最後にもう一度だけ言っておきましょうか」

 

 ジェンティルは立ち上がると、僕のそばにそっと近づいてから、

 

「――私から逃げられると思いまして?」

 

 静かに、だけど僕にはっきりと伝わるような声色で、囁いた。

 

「それでは、先に失礼します」

 

 かつ、かつとハイヒールの音がだんだんと遠ざかっていく。

 しばらく経ったあと、グラスに残ったウイスキーを一気に喉の奥へ流し込む。

 味はよく分からなくて、ただ喉が灼け爛れるような感覚だけが残っていた。

 

 

 二月某日。世間がバレンタインで浮足ついている頃。

 

『ジェンティルドンナ様へ』

 

 手に取ったギフトボックスには、そんなカードが添えられていた。

 

「……くだらないな」

「まあ、怖い顔」

 

 ぼそりと呟いた言葉に、ジェンティルがくすくすと笑いながら答えてくる。

 テーブルの上には、まだ大量の贈り物が山のように積み上がっていた。

 

「それにしても、また数の多いこと。何なら例年よりも多いような気もしますわ」

「君じゃなくて僕に宛てたからでしょ」

 

 とはいえ、まさかここまで舐められているとは思わなかったけど。

 ジェンティルドンナには、多くの婚約希望者がいる。

 身の程知らずというか、思い上がりも甚だしいというか、とにかく家柄の関係上、そういったおかしな方向の野心に溢れる輩は際限なく湧いてくるらしい。

 だから毎年この時期になると、ジェンティルには大量の贈り物が届く。

 彼女も軽くあしらってはいるけど、完全に無下にするつもりもないみたい。

 まあ、そこは付き合いの範疇だから仕方ないのかな、とは思う。

 とはいえ今年度から彼女もレースに集中するので、こうした贈り物は控えるよう、本人の口から連中にも散々と言って良いほど周知させたはずなんだけど。

 どうにも自分は特別だと勘違いしている奴らが、一定数はいるみたいで。

 

「トレーナーの僕を通せば、君に届くとでも思ったのかな」

「浅知恵ね。貴方の言う通り、くだらない手段ですわ」

 

 まあ、それも確かにそうなんだけど。

 僕としては、こんな程度のものでジェンティルを振り向かせようと考えている、あの連中の頭の出来のことを言ったつもりだった。

 

「それで、どう処理しようね」

「受け取ってもさほど害のないものや、明らかに他意のないものは受け取ります。それ以外は名前を控えたのち、手を付けずにそのまま送り返そうかと」

「この量を選別するの? 面倒だし、全部捨てちゃってもいいんじゃない?」

「そうもいきませんわ。ここにあるものに罪はありませんもの」

 

 そういうところで変に律儀だから、こういう事態になるんじゃないのかなあ。

 なんて考えが頭を過ったけど、言葉にするのは止めた。

 

「……とは言ったものの。さすがにこの量では手間も時間もかかりますわね」

 

 彼女にしては珍しく、辟易とした様子でテーブルの上を眺めながらそう呟いた。

 例年ならてきぱきと処理を始めるのに、こうも延々と文句を垂れているあたり、今年のバレンタインにはどうやら相当ご不満らしい。

 

「……怖い顔になってるよ」

「失礼しました。貴方が軽く見られていることが気に入らなくて、つい」

 

 ああ、原因はそっちなんだ。

 

「君が気にするようなことじゃないと思うけど」

「貴方も相変わらずね。少しは憤ってくだされば、見直したのに」

「別に。こんな連中と張り合う気も起きない、ってだけだよ」

「それはつまり、私の隣を譲るつもりはないということでよろしくて?」

「曲解だなあ」

 

 否定はしないけどさ。

 

「でも、私が誰かのモノになるのは嫌なのでしょう?」

「……そうだね」

「だったら貴方も、それ相応の態度を誇示するべきだと思いますが」

「その言い方だと、君が僕との関係を皆に見せつけたがってるように聞こえるな」

「ふふっ。どうぞお好きに捉えてちょうだい」

 

 ジェンティルはそんな曖昧な言葉で答えるだけだった。

 ……確かに、舐められっぱなしってのは少しだけ癪に障る。

 そろそろちゃんと虫除けしておかないと、今後の活動にも支障が出るだろうし。

 ホントは出来るだけ事を荒立てたくなかったんだけど、仕方ない。

 後から散々言われるだろうけど、それもまあ、適当に流せばいいか。

 

「分かったよ。ジェンティル、少しだけスマホ貸してくれる?」

「構いませんわ。ほら、どうぞ」

 

 そうして差し出した手に、彼女のスマホが軽く渡される。

 

「……僕が指摘するのも何だけど、さすがに軽率すぎるんじゃない?」

「それだけ貴方を信頼しているということですわ」

「盲目だなあ」

「首ったけ、と仰ってくださいな」

 

 なぜか自慢げに胸を張るジェンティルを後目に、スマホを操作する。

 SNSのアプリを起動して、適当に文章を撃ちこんでから、そのまま送信。

 

「もうお終い?」

「こんなもんでいいでしょ。真面目にやるのも時間の無駄だよ」

 

 物足りなさそうな彼女に携帯を返して、そのままの手で贈り物の山に手を伸ばす。

 適当に取って開けた箱の中には、高そうなチョコレートが入っていたらしい。

 らしい、というのは、銘柄も何も見ないまま口の中に放り投げたから。

 

「意外とおいしいね、これ。最低限のモノは送ってくれたみたい」

「私も頂いても?」

「んー……僕から貰った、ってことにしてくれれば」

「では、貴方が食べさせてくださいな」

 

 なんて言ってから、僕の返答も聞かずにジェンティルが目を閉じる。

 ……こういう甘えたがりなところは、出会った頃から変わってないな。

 

「じゃあ、はい。あーん」

「あーん」

 

 そうして、箱の中からつまんだチョコレートを一粒、彼女の口に入れてあげた。

 

「おいしい?」

「いまいちですわね」

 

 にべもなし。

 まあ、あの連中をかわいそうだとは微塵も思わないけど。

 

「それにしても、貴方もひどい人ですのね」

 

 なんて、ふとジェンティルからそんな謂れのない言葉を浴びせられて。

 

「そうかな」

「ええ。皆さま、たいそう貴方に嫉妬しますわよ」

「別にどうでもいいよ」

 

 こんな連中にどう思われたって、何一つ気にならない。

 それに、こんなことで僕に嫉妬するような連中は、つまりその程度ってことだし。

 恨まれたり妬まれたりしたところで、思うものなんか。

 

「ふふっ……。首ったけなのは、私だけではなかったみたいですわね」

 

 口元に手を寄せながら、満足そうにジェンティルはそう微笑んで。

 

「ところで、そんな可愛い私への贈り物は、いつ渡してくださるのかしら?」

 

 …………………………。

 

「はい、ジェンティル。あーん」

「……もうっ。貴方って本当にひどい人ですわ」

 

 そうやって尖らせた彼女の口に、またチョコレートを一粒放り込んであげた。

 

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