■
そんなバレンタインでの一件からしばらく経った、ある日。
「あれ、シーナちゃん」
「うわっ」
学園の資料室に向かう途中、偶然見かけたヴィルシーナちゃんに声をかけると、彼女はあからさまに引きつったような表情のまま、そんな風に返してきて。
「妖怪マウント男……」
「え、何ソレ」
いつの間にか、だいぶ不名誉なあだ名が増えてるんだけど。
「見ましたよ、この前の投稿」
「ああ、それであんな風に呼ばれたんだ、僕」
「あんな内容じゃ、誰だってそう思います」
そう言われて、改めてジェンティルのSNSに上げた投稿を思い返す。
いやあ、まさか僕にこれだけのファンがいるなんて思ってもなかったなあ。
口紅とか花束とか、アツアツなものまで届いちゃって困っちゃうよ。
送られてきた品物はどれもこれも女の子が喜びそうな高級品ばっかりだったし、メッセージカードにはジェンティルドンナ様へ、ってちゃんと書かれていたけど、全部僕宛てに届いたものだし、たぶんこれは表記ミスだよね。
だけどこの量を一人で処理するのは、さすがに難しくなっちゃうかも。
だから、みんなが送ってくれたものは生徒たちにおすそ分けすることにしたよ。
もちろん、生徒たちにはみんなからの贈り物って説明しておくから大丈夫。
特にジェンティルには、僕が選んだお気に入りのやつだけ渡してあげようかな。
改めて僕のファンのみんな、今後とも応援よろしくね。
……という旨の内容を、丁寧に書き直してからSNSに投稿した。
その結果は、目の前のシーナちゃんを見れば分かる通り。
「貴方がジェンティルさんを囲っているようにしか受け取りませんよ、あんなの」
「それが狙いだから大丈夫。正しく伝わってるようで何よりだよ」
「……いつか、果たし状でも送り付けられそうですね」
「もし本当にそんなのが届いたら、メモ用紙にでも使おうかな」
まあ、そんなものを送りつける度胸があの連中にあれば、の話だけど。
「まったく……貴方って、ジェンティルさんのことになると見境がなくなりますね」
「そうだね。あの子のことがどうしても可愛いんだよ」
「私の見る限りでは、それ以上の感情が向いているように思いますけど?」
「気のせいじゃないかな」
じとっとしたシーナちゃんの視線に、そうやって答えた。
「それで、私に何の用ですか?」
「別に用事があるわけじゃないよ。ただ、コレを資料室に置いておこうかな、って」
「それは……もしかして、貴方宛てに届いたチョコレートですか?」
「資料室なら人の出入りも多いだろうし、ついでに貰ってくれる人もいると思って。あ、そうだ。せっかくだし、シーナちゃんもおひとつどうぞ」
「結構です。間食は控えるようトレーナーから言われているので」
「一口くらいなら大丈夫だって。今ならあ~ん、もしてあげるよ?」
「それで私が喜ぶと本気で思ったんですか?」
「あの子は喜んでくれたんだけどなあ」
「はあ……ジェンティルさんは、どうしてこんな人のことを……」
呆れたように、シーナちゃんが溜め息を一つ。
「隙あり。あ~ん」
「近づかないでください」
せっかく空いた口にチョコレートを入れようと思ったら、鬱陶しそうに弾かれた。
「あーあ。いつもあの子と仲良くしてくれてるお礼に、って思ったのになあ」
「誰が仲良しですか」
「え、違うの?」
「邪険にしているつもりはありませんが、仲良くしているわけでもありません」
あんなにジェンティルにちょっかい出して、一緒に過ごしてるのに?
なんて言おうと思ったけど、これ以上は本当に怒られそうなのでやめた。
難儀な性格だよなあ、この子も。僕が言えることじゃないけどさ。
……いや。何度も諦めずあの子へ挑戦してる時点で、僕なんかよりずっといいか。
「でも、感謝してるのは本当だよ? あの子と一緒に走ってくれてありがとう」
「何ですか、急に律儀になって……」
「日頃の労い、ってわけじゃないけどね。でもティアラ路線が終わってから改めて、こうして君と二人だけで話すのは、もしかするとこれが初めてなんじゃない?」
「……………………」
シーナちゃんは口を噤んだまま、沈黙だけで僕に答えた。
ジェンティルにトリプルティアラを奪われた、あの時みたいに。
「別に勝ち誇ろうとは思ってないよ。そこまで僕もイジワルじゃないし」
「……なら、貴方は私にどんな言葉をかけてくれるんですか」
「期待を裏切るようで悪いけど、特にこれといって意味のあるものは渡せないな。ただ、さっきも言ったように、君には感謝してるって伝えたいだけで」
「私を倒して、彼女が最強であることが証明できたから?」
「卑屈になるのはやめた方がいいよ」
「貴方にだけは言われたくありませんね」
……それも、そうか。
「じゃあ、チョコレートの代わりに一つだけ話を聞いてくれない?」
「話……ですか?」
「そう。ジェンティルドンナと僕の、昔の話」
彼女は何も言わずに、僕の言葉を待ってくれた。
「あの子ね、ずっと一人だったんだよ。友達って呼べるような子もいなかったし、一緒に競い合うライバルもできなかった。理由は……君なら、分かるよね?」
「……強かったからですか?」
「そうだね。みんな、諦めちゃうんだよ。あの子には勝てない、どうしようもない、って。そりゃまあ、自分は食らいついてやる! って子もいたけど……あの子は、全て自分の糧にしてきた。それを続けたら、いつか周りに誰もいなくなった」
「……厳しいことを言いますけど。それは自分が望んだことじゃないんですか? 強さを求めた結果として孤独になったのを嘆くのは、幼稚にも思います」
「うん、シーナちゃんの言う通りだね。だからあの子は弱音も一切吐かなかった。我慢、ってよりは受け入れる、って言い方の方が正しいのかな。あの子もあの子で、どこかに諦めがあったんだろうね。強さを手に入れるなら他は望めない、ってさ」
「……不器用な人」
「ホントだよね。いっそのこと、誰かに泣きついちゃえばよかったのに」
でも、あの子にそんなことはできないんだろうなあ。
だってそれは、誰かに自分の弱さを見せるのと同じだから。
それを許せるほど、あの子は自分に甘くない。
「それで、貴方はどうしてジェンティルさんと?」
「学生だった僕の面倒を見てくれた当時の先生が、あの子を受け持ってたんだよ。ただ、先生もジェンティルにはかなり手を焼いてたらしくってさ。ダメ元だろうね。よりにもよって、学生の僕にあの子のお目付け役を押し付けてきたの」
「……でも、その先生は貴方を選んで正解でしたね」
「最初はどうなることかと思ったよ。僕もあんなおっかない子は趣味じゃないしさ。それにあの子もあの子で、僕の事を好き勝手に振り回してくるし、大変だった」
今となっては、それもいい思い出だけど。
「しばらくすると、僕とジェンティルはお互いに遠慮しないようになった。まあ、懐かれたって言い方が一番それっぽいかな。何をするにも僕を呼びつけてきてさ。僕もまあ、この子の面倒を見るのも悪くないな、って思うようになった」
「可愛がるようになった、の間違いじゃないですか?」
「あはは、確かに! あの頃から、ジェンティルのことが可愛くて仕方なかったよ」
「貴方のそういうとこ、昔からそのままなんですね」
思わず噴き出した僕に、シーナちゃんは呆れたような息を吐いた。
「……でも、貴方の気持ちも分かります」
「そう?」
「だってあの人、たまにすごく寂しそうな顔をするんですもの」
するとシーナちゃんは優しい表情になってから、くすりと小さく微笑んで、
「それで、貴方や私を見つけた途端に、嬉しそうに尻尾まで振り出すんですから。それを見ると、おかしくって。あの人のことが少しだけ、可愛く見えるんです」
ああ、そうか。シーナちゃんはとっくに気づいてたんだ。
あの子が本当は、誰よりも寂しがりなことに。
「ジェンティルは強い子だよ。まさに孤高の存在、って言葉が似合うくらいにはね。だからみんな、あの子の背中を遠くから眺めることしかできなかった。だけど……」
「だけど?」
「僕には、その背中が少しだけ寂しそうに見えた」
孤高と孤独の違いが分かるほど、僕は頭の出来がいいわけじゃない。
ただ、それでも、あの子が寂しそうにしていたことだけは理解できた。
それは多分、僕じゃないと理解してあげられなかったからだ。
「だから貴方は、ジェンティルさんのトレーナーになったんですか?」
「違うよ」
「……え?」
「僕はジェンティルのトレーナーになるつもりなんてなかった」
きょとんとした表情を浮かべるシーナちゃんに、僕はようやく打ち明けた。
「本当はね、シーナちゃん。君の担当トレーナーになりたかったんだ」
「……それは、どうしてですか?」
「君ならジェンティルに勝てると思ったから」
口を噤んだシーナちゃんに、僕は話を続けた。
どうしてか、思っているよりすらすらと言葉が紡がれていった。
「あの子のために僕ができるのは、対等に競い合えるライバルを作ることだった。ジェンティルを前にしても絶対に折れることのない、諦めの悪いライバルを」
「それが、私ですか?」
「実を言うと、君のことは前から知ってたんだ。やけに自分に構ってくる子がいる、ってジェンティルから話をされてね。最初は他の子と同じように、諦めると思った。でも、君は諦めずに何度もジェンティルに立ち向かっていった」
「そうですね。自分でも鬱陶しかったとは思います」
「だけど、君のことを話すジェンティルはすごく嬉しそうだったよ」
あの子があんな表情を浮かべたのは、もしかすると始めてだったかもしれない。
「君なら、ジェンティルにとって最高のライバルになってくれると思った。だから、僕は君の担当トレーナーになろうとした。それがあの子のためだと思ったから」
そしてそれは同時に、僕のためでもあった。
シーナちゃんをあの子に勝たせることが、僕ができる最後の抵抗だった。
この子ならきっと、ジェンティルに奪われた僕の全てを取り戻してくれる。
彼女の手のひらで転がされた運命も、今まで積み重ねた諦めも、全て。
そして僕は、この復讐とすら呼べない独りよがりな感情からようやく解放される。
ヴィルシーナというウマ娘は、僕とジェンティルにとっての希望だったんだ。
……だけど。
「現実はそうならなかった。僕はジェンティルドンナの担当トレーナーになった」
「ジェンティルさんは、貴方を選んだんですね」
「実は今でも分からないんだ。どうしてあの子が、僕のことを選んだのか。だって、他に選択肢はいくらでもあった。なのに、ジェンティルは僕にその手を差し出した」
ジェンティルが契約書を渡してきた日のことを思い出す。
僕に向けられたあの瞳には、いったいどんな感情が宿っていたんだろう。
「断ることもできた。でも、他でもないあの子の頼みだったから」
「そうして、貴方はジェンティルドンナのトレーナーになった……」
「それからはシーナちゃんの知ってる通り。ジェンティルはティアラ路線を進んで、トリプルティアラを戴いた。君というライバルを倒して、あの子は最強になった」
結局、僕の人生も運命も全て、あの子の手のひらに残ったままで。
僕に残されたのは、未だに燻ぶり続けているこのどうしようもない感情だけ。
そこからうっすらと立ち昇る煙のような何かが、今でもずっと僕を蝕んでいた。
「……僕とジェンティルの話は、これでおしまい」
そうして僕が口を閉じると、真っ先に彼女が聞いてきたのは、
「後悔……してるんですか?」
「まさか。あの子のために最善を尽くせたと思ってるよ」
それだけは嘘じゃない。それこそ、ジェンティルに誓ったっていい。
あの子が望むものは何でも与えてきたし、願うことは全て叶えてあげた。
ああ、そうだよ。僕はジェンティルのことがどうしようもなく大好きなんだ。
たとえ僕の全てを奪った本人だとしても、あの子のことは可愛くて仕方がない。
だってジェンティルは、僕の人生の全てになってしまったんだから。
「それなら、どうして貴方は苦しそうな顔をしているんですか?」
渡された問いかけに、言葉が詰まる。
別に回答に困ったわけじゃない。こんなの、いくらでも取り繕える。
ただ、彼女がこんなにも鋭い子だとは思っていなかったから、少し驚いただけ。
……だけど、僕とあの子を一番近くで見ていたのは、他でもないこの子か。
そう考えれば、自ずと納得できた。
「そうだね。君の担当トレーナーになれなかったことは、少しだけ後悔してる」
「私が、ジェンティルさんにとっての対等な存在になれなかったから、ですか?」
「うん」
今更こんなことを打ち明けたって、何にもならないことは分かってる。
ただ、僕たちにここまで付き合ってくれた彼女には、伝えるべきだと思った。
それが、今の僕にできる最大限の誠意だから。
「だけど君は、自分の力でジェンティルにとって最高のライバルになってくれた。
だから、君には感謝してるんだ。ここまであの子と一緒に走ってくれてありがとう。よければこれからも、あの子の隣にいてあげてね」
「……貴方に言われなくたって、私はあの人を追いかけ続けます。そしていつか、私は彼女を追い越して頂点に昇ってみせる。隣に並んであげるのは、その後です」
「あはは、いいね。シーナちゃんのそういうとこ、僕は好きだよ」
「私は貴方のそういった軽薄なところ、大嫌いです」
言葉は厳しかったけど、シーナちゃんが浮かべた表情はどこか優しかった。
「……ごめんね、長くなって。時間、大丈夫だった?」
「構いません。こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました」
「お礼なんていいよ。僕が勝手に話したことだし。あ、でも……できれば今の話、あの子には内緒にしておいてくれないかな。君の担当トレーナーになりたかった、ってところは特に。あの子が聴いたら、きっと拗ねちゃうだろうからさ」
「ええ、いいですよ」
そうやって言いながら、シーナちゃんが指先を口に添える。
「この話は私と貴方、二人だけの秘密です」
なんて仕草を見せるシーナちゃんを眺めてふと、ああそっか、この子は長女で、ジェンティルは次女だったっけ、なんてことを思い出した。
■
大阪杯もジェンティルが一着だった。
やっぱり、これといって感慨は湧かなかった。まあ、ジェンティルなら当然か、としか思えなかった。ジャパンカップ以来のオルフェーヴルとの再戦になったけど、それでもあの子が敗北を喫するなんて考えられなかった。
次の目標レースは宝塚記念に決めた。
というのも、オルフェーヴルとの連戦は流石のあの子もかなり消耗したみたいで、春から初夏の間はトレーニングも控えめに、休養を最優先することになった。
思えば、ティアラ路線に突入してからここまで休みなしで走り続けていたから、あの子にとっても丁度いい休憩期間になるかもしれない。
そうしてのんびりとしながら迎えた四月冒頭、ファン感謝祭当日。
前日に残った仕事を片付けてからイベントスペースへ来ると、そこでは。
「ふん!」
「ぐわあ!」
おそらくファンであろう男の手を、ジェンティルが机に叩きつける。
敗北した彼とジェンティルが一言二言会話をして、次の挑戦者が現れる。
そこでまた短く言葉を交わしたあと、両者共に机に肘をついて互いの手を握る。
「では、よーい……スタートです!」
そして何故かジェンティルの隣にいるアストンマーチャンの言葉で、試合開始。
「ふん!」
「きゃー!」
二秒と経たず試合終了。
女性のファンを降したジェンティルは、再び静かに挑戦者が現れるのを待つ。
…………………………………………。
「え、何してんの?」
「あら、ようやくいらっしゃったのね」
「こんにちは、ジェンティルさんのトレーナーさん」
「うん、マーちゃんもこんにちは……?」
あまりにも意味不明な光景に思わず固まっていると、二人は至って普通な調子で、僕にそうやって挨拶してくれた。
「それで、えっと……ジェンティル? これは……その、何?」
「貴方に言われた通り、ファンの方々との交流の場を設けただけですわ」
「名付けて『目指せ百人斬り! ジェンティルさんの腕相撲大会』です!」
何が?
「ちなみに現在の記録は六十七人ですよ」
「え、まだ午前なのに? もう達成しそうじゃん。企画倒れだよ、これ」
「あら、私が百人斬りを達成したら満足するとでも?」
「まさか今日一日、ファンの人たち相手にずっと腕相撲し続けるつもり……?」
「もちろんですわ」
自信満々の返答に思わず頭を抱える。
確かに、ジェンティルに感謝祭のことを任せっきりにしたのは僕だけど。
それにしたって、もっとこう、握手会とかマトモなことをやると思ってたのに。
そりゃここまで忙しくなかったら、僕がちゃんとした企画を考えてたよ。
というか大体、新学期の準備だったり諸々の記名登録の更新だったりが必要で、ただでさえクソ忙しいこの時期にファン感謝祭の企画案まで出せってのが……。
……いや、やめよう。ここで文句を垂れたって仕方ない。
「お待たせして申し訳ございません。さあ、次の方。かかってきなさい」
「よっしゃ! 俺、俺行きます!」
そんなことを考えているうちに、ジェンティルは次の挑戦者の相手をし始めた。
「ちなみにジェンティルさんに勝った人には、特別景品もありますよ」
「あの子が敗けるなんて考えられないけど……ちなみに何なの?」
「ジェンティルさん一日貸し切り券です」
「それ、罰ゲームじゃなくて?」
「聞こえていましてよ」
「ぎゃー!」
ばったばったとファンの方々をなぎ倒しながら、ジェンティルが口を挟んでくる。
何も知らない人から見たら恩を仇で返してるように捉えかねない光景だけど、続々と嬉しい悲鳴が上がっているあたり、一応は満足して貰えているらしい。
まあ、アトラクションみたいな感じで楽しんでくれてるなら、それでもいいか。
改めて思うけど、この子のファンってたくましい人が多い気がする。
……ところで。
「では、参加賞にこちらのマーちゃん人形をどうぞ」
「え? あ、かわいい! ありがとうございます!」
「さっきからやってるアレ、いいの? 思いっきり販促に利用されてるけど」
「構いませんわ。好きにさせておけばよろしくてよ」
あっけからんとした様子で、ジェンティルはそう答えた。
まあ、元々あの子と仲がいいことは、なんとなく知ってたけど。
……シーナちゃんといい、自分より下の子には大概甘いよなあ、この子。
「とにかく、ファンの人たちにケガだけさせないようにね……」
「私を何だと思っているのかしら」
なんて僕の心配は杞憂だったみたいで、企画は驚くほど順調に進んでいった。
まあ、やることは腕相撲っていう単純なことだから、それも当然っちゃ当然か。
そうして、ジェンティルがファンの人たちを次から次へと投げていくと同時に、マーちゃん人形もどんどん新しい持ち主の元へと出荷されて行って。
連勝記録が九十九勝に届いたところでふと、ジェンティルが手を止めてから。
「では、記念すべき百人目の挑戦者に登場していただきましょうか」
なんてあの子の言葉に、ファンたちからも歓声が上がる。
誰か特別なゲストでも呼んだのかな、僕は当然何も聞かされてないけど。
そんな風に考えていると、ふと、こちらを見つめるジェンティルと目が合った。
「…………? え? まさか、僕?」
「他に誰がいますの?」
「今、君の目の前にたくさん集まってくれてるじゃん……」
そうだよ。今日は年に一回だけのファン感謝祭なんだ。
この日のためにスケジュールを調整した人たちだって、何人もいるんだし。
そんな中で、いつも顔を合わせてるトレーナーの僕が出しゃばるのも、なあ。
だからここは遠慮して、他の人に譲ろうかなって思うんだけど。
「あら失礼。皆さま、彼のために道を空けなさい。英雄の凱旋ですわ」
「あっ、こら!」
いつも応援してくれる人たちにそんな言い方しない!
あとファンの皆さんもそんなノリノリで道を空けないでください!
マーちゃんもシレっと僕の背中をぐいぐい押さないで!
「勘弁してよ……」
「さあ、こちらへどうぞ。捻り潰して差し上げます」
そうやって促されるまま、机を挟んでジェンティルの前に立つ。
ファンの皆さんからの歓声や拍手も相まって、どうにも逃げづらい。
というかファンの人たちは本当にこれでいいんですか。
……仕方ない。ここは観念してあげるか。
「一応聞いてみるんだけど、手加減はしてくれるの?」
「あら、そこまでして私を独り占めしたいのかしら」
「穏便に済ませたいだけだよ。別に君に勝ちたいわけじゃない」
「あれ? ジェンティルさん一日貸し切り券、いらないんですか?」
別に、なあ。
「僕が頼めば、一日くらい普通に付き合ってくれるし……」
「わあ! この人、無自覚でマウント取るのってホントだったんですね」
「いいでしょう? 教育の賜物ですわ」
「……早く始めよう?」
なぜか満足気に胸を張るジェンティルに、そう声をかける。
ここまでにしておかないと、あの不名誉なあだ名がまた広まりかねない。
「では、参りますわよ」
「お手柔らかにね」
そうやってお互いに差し出した手を握る。
組み合った時点で既にジェンティルの手からものすごい重圧を感じていたけど、それを指摘する前にマーちゃんが無慈悲にも試合開始の合図を送ってきた。
「それでは、よーい……スタートです!」
三分後。
「ふぬぬぬぬぬぬ……!」
「あらまあひどい顔」
当然、僕はジェンティルの前で無様な姿を晒すことになっていた。
「はあ……え? あれ……? 僕、ダンプカーと戦ってる……?」
「レディに対する物言いではありませんわね。マイナス十点」
「うおおおおおおおお」
僕の抵抗を嘲笑うかのように、ジェンティルが軽く僕の手を捻る。
「ほら、もっと頑張りなさい。まだ私の腕は一ミリも傾いていませんわよ」
「そんなこと言われた、ってぇ……! そもそも君に力勝負で勝てるやつなんか、この世にいるわけないだろ! 僕が保証する、君に敵う奴なんか絶対いない……!」
「……今のは少し気に入りましたわ。プラス二十点」
「いつの間にポイント制になったのこの勝負!」
なんて僕の文句を聞き流しながら、ジェンティルが少しだけ自分の手を引いた。
「ぬおおおお」
「あのー……まだかかりそうですか?」
「ええ。見た目の割に意外と根性ありますのよ、この人」
「確かに、ジェンティルさんのトレーナーをここまで続けている人ですもんね」
「それは褒め言葉と受け取っていいのかなぁ⁉」
「見る目がありますのね。では彼女に免じてプラス四十点」
「めちゃくちゃだ……!」
更に腕を自分の方に引き寄せるジェンティルに、思わずそんな声が漏れる。
「でも、このままだと埒があきませんよ?」
「言われていますわよ。ほら、もっと私から点数を稼いでみなさい」
「だったら、君がさっさと僕を負かしてくれないかな……!」
「う~ん……」
僕たちのやり取りに呆れたのか、マーちゃんがそんな呆れた声を漏らす。
このままファンの人たちを待たせるのも、確かによくない。
かといって、僕もジェンティルも既に引き返せないところまで来てる。
そんな僕たちを見兼ねたのか、マーちゃんがぽん、と手を叩いて。
「そうです。ジェンティルさんに百連勝のご褒美を用意しましょう」
「あら、いい提案ですわね。一体何をくださるのかしら」
「例えばの話ですけど、トレーナーさん一日貸し切り券とかどうですか?」
「いや、そんなの勝手に決められても……!」
「ふん!」
「あっ」
え。
「うわあ!?」
ジェンティルがいきなり力を込めて、僕の腕を思いっきり机に叩きつける。
気がつくと僕は、仰向けになったまま彼女の顔を見上げることになっていて。
「百連勝、達成ですわ!」
『うおおおおーーーー!!!!』
腕を掲げて高らかに宣言するジェンティルに、ファンからの歓声が送られる。
「え、あれ……? ポイント制は……?」
「いつからそんな生ぬるい勝負だと思っていましたの?」
「君から言い出したんだろ!」
久しぶりに、この子に対してこんなに怒鳴り声をあげたかもしれない。
……いや、そんな浅い感傷に浸ってる場合じゃなくて!
「では早速、百連勝の記念品を頂きましょうか」
「あ、ちょっと待ってください。……誰か、マーカーとか持ってないですか?」
「どうせこの人が持ってますわ。ほら、出しなさい」
「ちょちょちょちょ!」
しゃーっ、しゃっしゃっ。きゅきゅっ、きゅっ。
「お待たせしました。こちら『トレーナーさん一日貸し切り券』です」
「ありがとうございます。確かに受け取りましたわ」
「それと残念なお知らせです。特別景品の『ジェンティルさん一日貸し切り券』はいろいろな都合でなくなっちゃいました。ファンの皆さん、ごめんなさい」
「絶対今渡したのがソレだったでしょ」
めちゃくちゃ黒で塗り潰した上に「トレーナーさん」って書いてあるし。
「改めてジェンティルさん、百連勝を達成したご感想は?」
「こんな紙切れ一枚で彼を好きにできると思うと、たまりませんわね」
『うおおおーーー!!!!』
なんでこんな性格の悪い言葉にそこまで盛り上がれるの?
「百連勝は達成しましたが、まだまだ腕相撲の挑戦は募集していますので。皆さん、引き続きジェンティルさんにドンドン挑戦してくださいね」
「複数人での挑戦でも構いませんわ。全員、私の糧にして差し上げます」
そうして、ジェンティルがファンの方々を次から次へと投げ飛ばす作業に戻る。
先の闘いで体力を使い果たした僕は、その凄惨な光景を遠巻きに眺めていた。
……まあ、ジェンティルもファンの人たちも楽しんでくれてるなら、何よりか。
なんて考えていると、ふとマーちゃんがこちらにとたとたと駆け寄ってきて。
「そういえば、忘れていました」
「何を?」
「こちら、参加賞のマーちゃん人形です」
「いらない……」
「え。……最後の一つですよ?」
「いや、別に……」
「……じーっ」
「そんなに見つめられても」
「受け取りなさい」
「はい……」
「やりました。かわいがってあげてくださいね」
僕の手に無理やり人形を握らせてから、マーちゃんが戻っていく。
……こういうちゃっかりしてるところが気に入ったのかな?
思いのほかぽやぽやした表情の人形に目を落としながら、そんなことを思った。
■
宝塚記念を終えてから、一週間も経たないうち。
僕はジェンティルの実家で、彼女のお父さんとテーブルを挟んで座っていた。
「すまないな、こんな忙しい時期に呼び出して」
「事前に話はされていたので。スケジュール的には問題ありませんよ」
もう見慣れたどころか、一周回って奇妙な落ち着きすら感じる客室に通されて、お父さんとそんな当たり障りのない恒例のやり取りをいくつか交わす。
「……そちらでのジェンティルは、どうだ?」
「普段通りです。僕をからかって、後輩をかわいがって、ライバルと競い合って……まあ、元気に青春してますよ。毎日、楽しそうに過ごしています」
「みたいだな。改めて、君にジェンティルを任せて正解だった」
「どうも」
使い回されて手垢塗れになった言葉に、そんな適当な返事を投げておいた。
「レースの成績も、順調に伸びているようだな」
「ここ一年のG1レースぶっ通しで一着通過って、もはや異常ですけどね」
「だが、君もこうなることは予見していたんじゃないのか?」
「……そーですね」
鬱屈とした感情を押し殺した結果、そんなやる気のない答えが漏れた。
「君も知っての通り、あの娘は特別だ。故にこの結果も必然と言えよう。しかし、こうしてジェンティルがトリプルティアラを獲れたのも君の力があってこそだ」
「どうでしょうね。僕はただセンセにジェンティル押し付けられただけですから。案外、僕がいてもいなくても何も変わらないと思いますよ」
「そう言うな。ジェンティルも君がトレーナーで満足しているはずだ」
「まあ、それはそうかもしれませんけど」
なんて会話をしていると、ふと部屋の扉がノックされて。
「失礼します。紅茶が入りました」
「ああ、有難う」
「どうも」
お父さんの専属執事さんが、僕の前に湯気の立つ白いカップを置いた。
「それと、こちらもどうぞ」
「え? ああ……」
それを手にしようとしたところで、執事さんがお菓子を紅茶の隣に添える。
どこかで見覚えのあるやつだな、と思っていると、お父さんが声をかけてきた。
「君、それ好きだったろう。特別に用意させた」
「………………」
なんて、小分けにされた袋を開けようとするお父さんに声をかける。
「……また、僕に何か頼むつもりですね?」
そうやって言葉をかけると、お父さんの動きが、ぴたり、と止まった。
「……相変わらず鋭いな、君は……」
「いや、実はお父さんが結構分かりやすいタイプだったりします」
「う、む……。そうなのか?」
「あと、僕はもう食べ物で釣られるような年齢じゃありませんよ」
「……そうだったな」
複雑な顔をしながら、お父さんが改めて僕の方に向き直った。
「改めて、君に頼みたいことがある」
「わざわざジェンティルを抜きにして、僕個人に対してですか」
「ああ、そうだ。というよりは、既に決まっていることを伝えるだけだが」
そうしてお父さんは、一つ息をついてから、僕の目を見て。
「端的に話そうか。君にはジェンティルのトレーナーを降りてもらおう」
「……………………………………」
その言葉を渡されてからしばらくの間、僕は何も答えることができなかった。
ただ、今ここに流れている沈黙は、どこか少し心地よく感じられた。
きっと僕の言葉を堰き止めているのは、悲観じゃなくて安堵なんだと思う。
ああ、ようやく終わるんだ。やっと僕は、彼女の元から離れられる。
そう考えると、心なしか肩がすっと軽くなったような気がした。
「いいですよ、僕は降りても」
「……話が早いな」
「ええ。僕も実力不足は感じていたので」
おそらく僕の反応は、お父さんの想定していたそれとは違ったんだろう。
訝し気な表情を浮かべたまま、建前めいた言葉を続けた。
「君の功績を低く見ている訳ではない。あの娘をここまで連れてきてくれたこと、感謝している。ジェンティルが楽しそうに走っているのを見て、私も嬉しかった。君がジェンティルのトレーナーになってくれたこと、本当に嬉しく思う」
「どうも」
「しかし、それもここまでだ。あの娘にはより優秀なトレーナーについてもらう。君も新しい生徒を見つけるといい。君ほどのトレーナーなら、困らないだろう」
「…………あー……」
それについていくらか言い訳とか、建前を話そうと思ったけど、やめた。
今更この人に何かを取り繕ったって、意味は無いか。
だから、もう、後のことは何も考えずに言った。
「この際ですから、トレーナーも辞めようと思います」
するとお父さんは、いよいよ焦ったような表情に眉をひそめてから、
「いや、待て。勘違いしないでくれ。何もそこまでのことを強いるつもりはない。君のことを汚点だと思ったことは今まで一度もない。君はよくやってくれた」
「ありがとうございます。ですが、僕にとってこの三年間は人生の汚点でした」
「……君は、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「ええ」
だってこの三年間、僕はずっと彼女の強さを一番近くで見せられてきたんだ。
あの子が勝利を重ねるたびに、僕の中に諦めと後悔が重なっていった。
……たとえ爪を剥がされたって、充実した時間だった、なんて言うもんか。
「本当に……いいんだな?」
「はい。今まで、お世話になりました」
会話は一度、そこで止まる。
残念そうにこちらを見つめるお父さんに、少しだけ申し訳ない気持ちになった。
……まあ、でも、今更この人の顔色を伺う必要もないか。
どうせこの家との縁も、レース業界との繋がりも、もうすぐ消えるんだから。
「引き継ぎはいつ頃にしましょう?」
「……今年度のジャパンカップが終わった後に、と考えていたが」
「そんなに待たなくてもいいですよ。秋天が終わったら、僕もいなくなります」
どうせ去年も勝ったんだ。ジャパンカップまであの子の面倒を見る必要はない。
「後任は誰に?」
「君の言う、先生……オルフェーヴルのトレーナーに頼んだよ」
「そうですか。センセには悪いですけど、それなら安心できます」
「ひどく嫌そうな顔はされたがね」
「でしょうね」
そりゃまあ、自分が他人に押し付けた生徒を、また押し付け返されたらなあ。
きっと今ごろ、ぐだぐだ文句を垂れながら喫煙所に籠ってるだろうな。
「ジェンティルにはいつごろ伝えましょうか」
「……それについては、私の方から」
「貧乏クジはお父さんが引いてくれるんですね」
「君には無理を強いている立場だからな。そこは私が引き受ける」
「ありがとうございます」
なんて到底、あの子には聞かせられないようなやり取りが、最後だった。
「話は以上だ」
「みたいですね。じゃあ、自分はこれで」
「……ああ。今まで本当に、ご苦労だった」
そんな労いの言葉をかけながら、僕に頭を下げるお父さんの姿を見て。
ああ、僕と彼女の繋がりはこんなにもあっけなく終わるんだな、なんて思った。
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「どうやら、お父様からジェンティルの件を伝えられたらしいですね」
お父さんとの話も終わらせて、屋敷を後にしようと玄関ホールに出たところで。
何やら僕のことを待ち伏せしていたらしい弟さんに、そんな声をかけられた。
「話が早いね。もしかして盗み聞きでもしてた?」
「僕がそんな姑息な真似をすると思いますか?」
「うん」
「どこまでも失礼な人ですね……! 事前にお父様から話を聞いていたんです!」
「ああ、そう」
別にどうでもいいんだけどさ。
「それで、僕に何か話でもあるの?」
「いえ。ただ、お父様の話を聞いた貴方がどんな顔をするのか興味があったので」
「見ての通りだよ。悪いね、何の面白みもない顔で」
「みたいですね」
僕の顔をまじまじと眺めたあとに、弟さんは溜息をひとつ吐いた。
「話は終わり? じゃあ、僕はもう行くから」
「……待ってください」
「何?」
そうして隣を通り過ぎようとしたところで、すれ違い様に服の袖を掴まれる。
振り返って見やった弟さんの顔は、僕の事を深刻な表情で睨みつけていて。
「どうして貴方は、何も反論しなかったんですか?」
……何を聞いてくるかと思えば、そんなことか。
つーか、やっぱり盗み聞きしてたんじゃん。
「別に、それでいいと思ったから」
「ジェンティルと離れることになるのに?」
「そうだね」
「貴方がここまで積み上げてきたモノも、全てなくなるんですよ」
「案外あっけないな、とは思ったかな」
「……ジェンティルはきっと、ひどく落ち込みますよ」
「だろうね」
「お前……っ! いい加減にしろよ!」
激昂した弟さんがそのまま胸倉を掴み上げて、僕を壁に強く押し付ける。
そうして彼は荒く息を立てたまま、だけど静かに糾弾の言葉を僕へ紡いだ。
「……貴方のことが、ずっと嫌いでした」
「そんなの見てりゃ分かるよ」
「だけど、ジェンティルを悲しませることだけはしないって信じていました」
「そうなんだ。じゃあ、君を裏切ることになるんだね。悪かったよ」
「悪かった、で済むことですか……!」
「でも、これは君のお父さんが決めたことだよ。それに、君も何も言わなかった。つまり僕がこうなることも、君の望み通りなんじゃないの?」
「…………っ……!」
成形される前の金属みたいな、言葉にならないどろどろとした呻き声。
それを最後に、弟さんは僕のことを乱暴に突き放した。
「……貴方なら、最後まで足掻くと思っていたんです。どんな手段を使ってでも、ジェンティルの隣に居続けると。それだけは貴方でも譲らないと……!」
「そんなことするわけないじゃん。今まで僕の何を見てきたのさ」
「この期に及んで、開き直るつもりですか……!」
「まあ、人間として腐るには丁度いい機会だし」
自暴自棄になっている自覚はある。それが正しくないことも理解している。
だけど、今になって正しくあろうという気にもなれなかった。
……いや、違うな。
そもそもジェンティルが僕を選んだこと、それ自体が間違いだったんだ。
「でも、意外だったな。君がジェンティルを気に懸けてるなんて」
「家族が悲しむことになるのを見過ごせるほど、僕はまだ腐っていません」
「へえ」
立派だなあ、と思った。
それだけ。
「ジェンティルのことが、誰よりも大事じゃなかったんですか?」
「うん。大事だよ。それは今でも変わってない」
「だったら、どうしてそんな簡単に彼女を手放せるんですか」
「初めから僕のモノじゃない。あの子は誰のモノにもならない」
「……そこまで彼女を想っているのに、なぜ隣にいてあげないんですか」
「きっとそういう運命だったんだよ。僕とジェンティルは、ここで終わりなんだ」
もう弟さんと会話するのも面倒になって、投げやりにそう返すと。
「何が運命だ。そうやって、自分が怠惰なことを許しているだけじゃないですか」
……どうだろうね。
自分を許しているのか、それとも殺してやりたいくらいに恨んでいるのか。
結局、最後になっても自分がどんな感情を抱えているのかは分からなかった。
ただ確かなのは、いずれ僕の隣からジェンティルがいなくなるということ。
その事実だけが、僕の中で燻ぶっている何かを優しく踏み消してくれた。
「貴方には失望しました。ここまで幼稚な人間だとは思っていなかった」
「あっそう。……話は終わりでいい?」
「ええ。どうぞ、お帰りください」
弟さんはそのまま振り返って、玄関ホールを後にする。
そして僕も、二度とくぐることは無いだろう扉を開けた。
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月明かりに照らされた砂浜に、僕たちは足跡を残していた。
「…………♪」
彼女が口ずさんだ名前も知らない曲が、押しては寄せる波の合間を流れていく。
ダンスフロアを照らすライトも、舞台を包むオーケストラの演奏もない。
それでも彼女は、まるでこの世界の主役は自分だと言わんばかりに歌っている。
その歌に耳を傾ける観客は、僕だけしかいないのにも関わらずに。
「いい、曲だね」
そうして、観客としての使命を全うする僕に、ジェンティルは振り返った。
「あら、貴方もご存じでして?」
「ううん、全然。でも、君に似合うと思う」
「オペラから、勝利の凱歌をほんの少し。今の私たちに相応しい曲ですもの」
「……そうだね」
勝利の凱歌。
オルフェーヴルを降し、ジェンティルドンナはこの世界の頂点に君臨した。
そんな彼女が謳うとすれば、きっとそれが相応しい。
投げやりになった僕の思考は、そう結論をつけた。
「退屈そうな顔」
なんて僕の内心を表情から読み取ったのか、ジェンティルが問いかけてくる。
「私とこうした時間を過ごすのはお嫌いでして?」
「まさか。むしろ、君と同じ時間を過ごすことができて光栄だよ」
「月並みね」
「なら良かった。だって今日の月はとても綺麗だから」
見上げた夜空には淡い光を降らせる月が、ともすれば寂しそうに浮かんでいた。
「それは……プロポーズの言葉と受け取ってもよろしくて?」
「好きにしてくれていいよ。要らなかったら、そこらへんに投げ捨てたっていい」
「あら、私のことをそんな冷たい女だと思ってるのね」
「どうだろうね。必要なものと不必要なものの判別は、しっかりしてると思うよ」
「……そこまで冷酷な振る舞いをしているつもりはないわよ?」
「そうは言ってないよ。むしろ、君の可愛いところだと思ってる」
「貴方がそう仰るのなら、そうなのでしょうね」
よく分からないといった表情で、彼女はそう言った。
「本当に私のことが好きなのね、貴方って」
「うん。君のことは、誰よりも大事にしたいと思ってる」
「それなら」
するとジェンティルは、僕の方に振り返ってから。
「もし私が全てを投げ捨てて、貴方と二人でどこか遠くへ逃げたいと言ったら?」
「それ、は……」
渡された言葉に、少しだけ言い淀んだ。
「……ありえないな、そんなこと」
「あら、そうなの?」
「だって君は、自分のものを手放すような子じゃないでしょ?」
「ええ。貴方と違って、途中で逃げ出したりなんかしないわ」
見透かされるようなジェンティルの瞳に、曖昧な表情を浮かべる僕が映る。
いつも退屈そうな顔を吊り下げる男は、何も言わないまま。
さざ波の音が、ジェンティルとの間に流れる沈黙をまばらに埋める。
そして再び、僕は砂浜に残るジェンティルの足跡を辿りはじめた。
「♪……」
透き通るような彼女の歌声に、ただ耳を傾けていた。
月明かりが照らすこの静謐な場で、それ以外は許されないように思えたから。
「らら、ら……」
そうして、ふと。
彼女の歩みが、まるで誘われるように、ふらふらと海の方へと向かって行って、
「ジェンティル――」
彼女に向かって、手を伸ばす。
僕ができたことは、それだけだった。
「追いかけては、くださらないのね?」
「…………」
「そう。残念」
波打ち際の優しい風に吹かれたジェンティルが、そう呟く。
靡く彼女の髪を眺めながら、伸ばした手をゆっくりと戻した。
「……ごめんね」
「いいの。貴方はそういう人だって、ずっと前から知っていたから」
「でも、君を大切に思っていることは本当だよ」
「それも、分かってるわ。だから、私は――」
ジェンティルの言葉はそこで止まる。
こちらを見つめる瞳には、言葉の続きが込められていた気がしたけど。
「そろそろ、戻りましょうか。明日も早いことですし」
「……そうだね」
ついに僕がその意味を理解することは、なかった。
そして。
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開催:東京レース場
番号:第十一レース
レース名:天皇賞・秋(GⅠ)
コース内容:芝二〇〇〇メートル、左
天候:晴
バ場状態:良
出走人数:一六人
発走時刻:一五:四五分
勝ちウマ:ジェンティルドンナ(九番)
備考:なし。
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