■
店内のスピーカーから、くぐもったコメンテーターの声が聞こえてくる。
『今年の秋の天皇賞は、見事にジェンティルドンナさんが制覇しましたね』
『ええ。人気通りの結果を私たちに見せてくれました』
『これで秋シニア三冠の一冠目を獲得することになりました』
『本当に強いですね、彼女。今後どこまで記録を伸ばせるか、期待が高まります』
そんな中身のないラジオの会話に耳を傾けながら、商品の品出しを続けていく。
……そういえば確か、レジ前にも同じメーカーのやつがあったっけ?
そこも確認して無かったら出そう。どうせこの時間は客もいなくてヒマだしな。
なんて考えながら手を動かしていると、いつの間にか品出しも終わっていて。
レジ前の商品状況も確認をしようと、段ボールを持ち上げようとしたところで、さっきまで聞いていたラジオの音声が止まった。
「ごめんな、気が利いとらんくって」
振り返るとそこには、ラジオに手をかけている店長の姿があって。
「別にそこまで神経質になってるわけじゃありませんよ。気にしないでください」
「いいのかい?」
「ええ。どうせこの時期のラジオはどこもあの子の話ばっかりでしょうし」
「確かにそうかもしんけどね……」
「それに、靴屋でレースの番組を流さないのも変ですよ」
心配そうな顔をする店長の隣に立って、ラジオを点ける。
『――次の出走はジャパンカップを予定しているとのことですが』
『まあ、当然でしょう。去年も同じタイトルを獲得していますから』
『トレーナーが交代したとの発表もありますが、その点についてはどうでしょう』
『おそらくジャパンカップまではその影響も少ないと思います。ただ、そこからが判断の難しいところですね。ええと、後任は確か……オルフェーヴルさんの担当も務めているトレーナーでしたよね?』
『そうみたいですね。これからは、担当が二人体制になるとのことで』
『いや、実力的には問題はないと思います。彼女も歴の長いトレーナーですから。ただ、いわゆる大人のしがらみによる、残念な結果にはならないでほしいですね。彼女の実力を考えると猶更、そうしたものとは無縁のレースを送ってほしいです』
なんて話を半分くらい聞き流していると、店長が心配そうに声をかけてくる。
「大変そうだね、その、ジェンティルちゃんも」
「みたいですね」
まあ、僕にはもう関係のない話だけど。
「そういえばこの商品、まだレジ前にありましたか?」
「ああ、確かにそろそろ少なくなっとったかな」
「じゃあ補充しときますね」
「悪いね、力仕事ばっかり任せちゃって」
「構いませんよ」
店長の言葉を受けながら、段ボールを持ち上げる。
さて、今日ものんびり仕事だ。
■
秋の天皇賞が終わった直後、僕はトレーナーを辞めた。
急な話だったから大勢に迷惑をかけることになったけど、まあ、別にどうでもよかった。
今更、何か気にしたって意味はないんだから。
結局、ジェンティルには何も話さなかった。
話すタイミングはいくらかあったし、僕の口から言うべきことなんだろうなとは思ったけど、それでもあの子に伝える気にはならなかった。お父さんが自分から伝える、と言ったのもあるけど、それ以上にあの子を悲しませたくないとうのがあった。僕の口から伝えたら、きっとあの子は泣いちゃうだろうから。
あの子は僕が辞めることを知ってたのかな。もしかすると、何となく気づいてはいたのかもしれない。だからといって、振る舞いを変えるようなことはしないか。
まあ、今更そんなことを気にしたって何の意味もないけど。
住む場所も都心から少し離れた場所に変えた。
駅前に繁華街がある以外はよく言えば落ち着いた、悪く言えば寂れた街だった。ただ交通面は割とよかったから、駅前とは言わない少し離れたアパートの一室を借りて、そこに一人でひっそりと住むことにした。
元トレーナーということは、自分から言わないようにした。
面倒ごとはできるだけ避けたかった。ただまあ、テレビやインターネットで顔は割れているし、あまり意味はないのかもしれない。引っ越した先のお隣さんに、何か気づいたような表情をされて、そう思った。
ただ、これ以上あの子の話を自分からしたくなかった。
きっと僕が話をすると、あの子の凱旋の邪魔をしてしまうだろうから。
新しい仕事は、靴屋のバイトにした。
駅前の繁華街に店を構える、個人経営の店だった。
最初はトレーナー時代の貯金を使って、外に出ない引き籠り生活を送っていた。
そこで初めて、僕は手に職が無いと自分は落ち着かないという人間だということに気が付いて、また適当な仕事を探し始めることにした。
店長はのんびりしたお爺ちゃんだった。
働く以上は仕方ないから、自分のことを少し話したけど、特に深く言及はされなかった。きっと察してくれたんだと思う。あとはまあ、なんだかんだ力仕事も多いから、若い人手が増えるなら事情も飲み込めたっていうのもあるか。
とにかく、優しい人だ。この人に拾われてよかったと思う。
ここの靴屋を選んだ理由は色々あったりする。
まず、個人経営なのは足がつかなくていい。
シンプルな小売店なのも、新しい業種としては悪くない。
自宅からまあ近い場所にあるのも、理由の一つか。
あとは……。
「手慣れとるねえ」
「一応、元トレーナーですから」
簡単に新商品の調子を確認しながら、店長の言葉にそう返す。
靴屋ということは当然、ウマ娘が使用するような商品も多く揃っている。
そういった商品の手入れや入荷は、店長はもちろんできるんだけど、やっぱり僕がやった方がよりお客さんの要望とかニーズに合わせられるみたいで。
そういった関係の仕事は、だいたい僕に任せられることになった。
「やっぱり年寄りになるといかん。すぐ忘れっぽくなってしまうわ」
「あはは。まあ、最近のクツはすごいですからね。色々と機能とかも豊富ですし、スポーツ科学がどうとかって話もありますもん。靴屋さんも大変だなあ、ってのはトレーナーやってた当時でも思ってました」
「ホントに大変だったよ。でも、君が来てくれてよかった。お客さんも心なしか増えたし。やっぱり君みたいに若くて男前な子がいると、色々と楽でいいわ」
「いやいや……。まあでも、力になれてるならこっちも嬉しいです」
なんて話をしているうちに、商品の調整も終わる。
店頭に並べに行くか。スペースも新しく作らないと。
……お店がちょっとだけ狭いのは、少し気になるかな?
まあ、今のところの不満はそれくらいしかないけど。
「いや結構ギチギチだな……」
売り場に到着したところで、所狭しと詰められた商品に思わず言葉が漏れる。
別にこのままでも詰めれば置けそうだけど……それぞれの商品をちょっとずつ裏に戻して、それで空いたスペースにおいた方が無難だよなあ、絶対。
面倒だけど、それくらいしかすることないし、そう考えれば丁度いいか。
そうやって商品を片付け始めること、しばらく。
「あ、バイトのおにーちゃん」
店先からそう声をかけられたので、作業の手を止めて振り返る。
こちらに駆け寄ってくるのは、赤いランドセルを背負った一人のウマ娘だった。
「おかえり。学校はもう終わり?」
「うん! おじーちゃんは?」
「奥でゆっくりしてるよ。呼んでこようか?」
「んーん、大丈夫! 用事があるのはおにーちゃんだから」
「また?」
「また!」
はあ……。
「……わかったよ。ただ、今はちょっと手が離せないんだ。お仕事が終わったら付き合ってあげるから、それまでお爺ちゃんと一緒にいてくれる?」
「はーい!」
店の中にとたとたと入っていく彼女を見送って、作業に戻る。
仕方ない。スペースだけ先に作っておいて、新しい商品を出すのは後にしよう。
どうせ店長も、あの子に構ってやってほしい、って言ってくるだろうし。
……仕事がどんどん後ろに押していくー……。
■
店長にはお孫さんがいる。
かわいい葦毛のウマ娘で、このお店が小学校と自宅のちょうど真ん中あたりにあるから、学校が終わった後は、ほぼ毎日のようにお店へ顔を出しにくる。僕が面接をしに行った時なんか、質問する店長の隣で宿題と悪戦苦闘していたくらいだ。
そんな少し図太いお孫さんに、僕はずいぶんと懐かれているみたいだった。
作業中に宿題について聞かれたから、適当に教えてあげたのが最初だったかな。
それを何度か繰り返していると、友達のことや学校のことを自分から話にくるようになって、いつの間にか作業をする僕のそばでうろちょろするようになった。
でも、あの子からすれば僕みたいな若者は、この繁華街だと珍しいんだろうな。
それにいつもヒマしてるから、話し相手にも丁度いいのかもしれない。
あとは、まあ。
僕が元トレーナーだということを、店長から聞いたのが一番の理由だろうなあ。
「ほら、もっとフォーム崩れないように気を付けて。特にコーナーは要注意だよ」
「はーい!」
「そうそう、そんな感じ。いいね、上手になってるよ」
「えへへー!」
街から少し離れた広い公園で、僕は彼女と軽くランニングをしていた。
時刻は夕暮れを過ぎて、そろそろ日が落ちる頃。正直、信じられないくらい寒くて凍え死にそうだけど、隣を走るお孫さんは頬を赤くして、元気に走っていた。
「よし、そろそろ休憩しよっか」
「えー? わたし、まだ走れるよ?」
「ちゃんと脚を休めることも大事だよ。ほら、好きな飲み物買ってあげるから」
「やったー!」
公園の前にある自販機で、ホットレモンと缶コーヒーをそれぞれ一つずつ。
二人でベンチに座って口をつけると、同じタイミングでほっと息が漏れる。
「おいしい?」
「うん! あったかくて、おいしい!」
そう返事してから、お孫さんはまた、んく、とホットレモンに口をつけた。
この子の走りを見るようになったのは、店長に頼まれてのことだった。
お孫さんは走り盛りのウマ娘。学校ではもちろん、学校が終わったあとでも宿題をほったらかして、公園や河川敷へ走りに行くくらいの元気な子だ。
でも、この時期は日が沈むのも早いから、子供を一人で走らせるのは危険だし、店長の歳だと子供のウマ娘についていくのは体力的に難しい。だから代わりとして、僕にお孫さんの走りを見てやってほしいと僕は店長に頭を下げられた。
まあ、僕が元トレーナーだということを見込んでのことなんだろうな。
だからこそ、初めは断ろうと思った。だって僕はもうトレーナーじゃないから。たとえそれが正式な手続きを踏まない、おままごとみたいな遊びだったとしても、二度とあんなことはやりたくなかった。
だけど、まあ。
お孫さんに、あんなかわいい目でおねだりされちゃあ、なあ。
まあ、僕からしても、運動不足の解消になるから丁度いい。それにこの時間も給料は出してくれるみたいだし。仕事がドンドン後ろに溜まっていくのは少し億劫だけど、それでもお孫さんが楽しく走ってくれるのなら、悪くないかなとは思った。
……僕が誰かの走りを見るのは、この子で最後だろうな、きっと。
「ねえねえ、おにーちゃん」
なんてことをぼんやり考えていると、ふとお孫さんからそう声をかけられて。
「うん?」
「わたし、トレセン学園に入れるかな?」
それは……。
「どうかなあ? まだまだ頑張らないといけないかもね」
「えー。でもわたし、この前お友だちとレースで一着だったよ?」
「宿題ほったらかしにして出たレースだよね?」
「うぐ」
「レースだけじゃなくて、勉強も頑張らないとダメだよ」
「はーい」
お孫さんはトレセン学園への進学を希望している。
ご家族や店長もそのことは知っているみたいで、全面的に応援しているみたい。
僕にお孫さんを任されたのにも、多分そういう背景があるんだと思う。
まあ、降って湧いてきたようなアルバイトが実は元トレーナーだったら、そりゃあ孫を預けみようって気になるのも分かる。都合よく利用されているのは何となく察しているけど、お世話になっている以上、無下にする気にもならなかった。
ただ、これで終わり。僕が誰かの走りを見るのは、この子で最後。
それだけは何があっても変えないつもりだ。
……皮肉だよな。
子供の頃からずっと抱いてきた憧れを、一瞬で彼女に踏み潰されて。
夢を叶えてトレセン学園に就職しても、結局は自分から逃げ出すことになって。
最後は、トレセン学園に進学してすらいない子供の走りを見て終わるなんて。
いったい僕は、どこで間違えたんだろう。
……いや。どこでも何もないな。
あの子と僕が出会っていなければ、そもそも間違いなんて起きなかったんだ。
「ねえねえ、おにーちゃん」
沈んでいた思考が、そんなこの子の声で引き上げられる。
「どうしたの?」
「土曜日のレース、勝てるかなあ」
「どうだろうね。相手の子を見てないから、何とも言えないかも」
「もー! そこは『大丈夫、君ならきっと勝てるよ』って言ってあげるの!」
「あはは、ごめんごめん。大丈夫。君ならきっと勝てるよ」
「それ、わたしが言ったやつだからナシだよ! カンニングしちゃダメ!」
「参ったなあ。……じゃあ、君には僕がついてる、ってのは?」
「ごーかく!」
なんてお孫さんに笑いながら、ふと。
僕がついてる、なんて言葉を使うのは初めてだな、と思った。
「今度のレース、おにーちゃんも見に来る?」
「んー、シフトと場所の都合がよかったらね。どこでやるの?」
「トレセン学園!」
「ごめん、絶対無理」
「えー? なんで?」
「いや、普通に元の職場だから行きたくない……」
「おとなってフクザツなんだね」
「それだけ大人になったら色々あるってことだよ」
適当な言葉で誤魔化すと、お孫さんはふーん、なんて相槌を返した。
というか、そうか。土曜日のレースってトレセンでやるのか。初耳だった。
確かに地元の方々との交流とかで、そういうのは何度かやってるのを見たけど。
まさかそこに、この子が出るなんて思っても無かったから。
「トレセンのお姉ちゃんたちがね、わたしたちのレース見にきてくれるんだ!」
「そうだね。もしかしたら、トレセンの子たちと一緒に走れるかもしれない」
「じゃあ、友達たくさんできちゃうね!」
「友達ってよりは、先輩だと思うけど……うん。できるかもね」
「えへへ、楽しみー!」
そうやって、お孫さんは期待を込めた満面の笑みを、僕に見せてくれた。
「じゃ、休憩終わり。あと少し走ったら帰ろうか」
「うん!」
そう声をかけて、二人でベンチから立ち上がる。
赤く染まった夕日は既に沈みかけていて、夜空が幕を降ろしていた。
■
お孫さんがくだんのレースに出てから、翌週の日曜日。
「そういえば、今日はお孫さん来てないですね」
普段の賑やかさが足りないことに気づいて、店長に話しかける。
新聞から顔をあげた店長は、意外そうに口を開いて、
「あの子から聴いとらんかったか? レース観に行っとるんだわ」
「ああ、そうだったんですね」
「何でも、この前トレセン行った時にできた友達が出るとか言うとったから」
そういえば、そうか。今日はジャパンカップ当日か。
……いや。さすがにそこに出る子たちと友達なった、とはならないか。
年齢的にもだいぶ離れてるだろうし、新しく友達を作るような時間も無いし。
大方、同日のレースのどこかに出る誰かと知り合ったんだろう。
「お孫さん、この前のレースでも一着だったみたいですね」
「あの子が勝てたのも君のお陰だなあ。いつもありがとうね」
「大げさですよ。僕はただ、お孫さんを見ていただけです。こう言うと悪いかもしれませんが、マトモな指導はしてませんから。勝てたのはあの子の実力です」
「でもな、『レースに勝ったら、バイトのおにーちゃんが褒めてくれる』ってあの子が嬉しそうに言うとったんだわ。だからあの子が頑張れたのも、君のお陰よ」
「……そうですね。そういうことなら、ありがたく受け取っておきます」
ここまで感謝されるなら、それを無碍にする方が失礼か。
鏡を見なくても分かる。自分でも曖昧な笑みを浮かべながら、店長に答えた。
「……あの子、トレセン入れるかねえ」
「レースの実力は足りてると思いますよ。問題は学力とか内申点ですかね」
「そしたら分からんね。あの子、ヤンチャだからなあ」
「まあ、トレセンも一癖二癖ある子ばかりですから。そういう意味だと、あの子には丁度いいのかもしれませんね。もし入学してもすぐに馴染めると思います」
「そうだといいんだけどねえ」
不安そうに店長がそんな声を漏らす。
実際お孫さんも、宿題サボってレースばっかりしてるからなあ。
そこさえ直してくれれば、入学試験も余裕でパスできると思うんだけど。
あの歳ごろの子に勉強しろ、って言うのも難しいだろうし。
果たしてどうなるかなあ。
『~♪』
そんな話をしていると、ふとラジオからファンファーレが鳴り始めて。
『東京レース場、第十一レース。ジャパンカップ。芝の二四〇〇です』
「おお、ちょうど始まるなあ」
「もうそんな時間だったんですね」
「あの子がいないとすぐ時間が経つなあ」
ラジオに耳を傾けながら、店長がどこか物寂しそうに呟いた。
『一番人気はやはりこの娘、ジェンティルドンナ』
『秋シニア三冠の二冠目をかけた、非常に重要なレースですね』
「ジェンティルちゃんはまた一番人気かあ」
「へえ」
店長の呟きには、それくらいの言葉しか出てこなかった。
驚きはない。だってあの子は、この時代を象徴するウマ娘だから。
当然、皆の期待を一番に背負うに決まっている。
「あの子に勝てる子っているのかね」
「いませんよ。少なくともこの時代には」
なんて店長と他愛もない会話をしながら、夕方の作業を確認する。
新しい商品も受け取ったし、在庫の整理もした。店頭の商品の確認も問題なし。
到着が遅れている商品があるけど、あのドライバーさんなら事前に電話してくれるだろうし。他に急ぎでする作業もないから、今はそれの到着待ちかな。
……さて。
「ちょっと休憩がてら、裏で吸ってきます」
「あれ。レースの実況、聞かなくていいんか?」
「聞く必要なんかありませんよ。だって、どうせ勝つのはジェンティルですから」
それだけ言い残して、僕は煙草と灰皿を持って店の裏口に出て行った。
ライターで火を点けると、白い煙が路地裏に上がっていく。
片手間で適当に携帯でも触ろうかと、もう片方の手で電源を点けた。
そうして表示されたカレンダーの日付を見て、ふと。
「……今日がジャパンカップだって、言われるまで完全に忘れてたな、僕」
いやまあ、今月だなあとは思っていたけど。
それでも誰かに言われるまで全く気づかないくらい、僕の中でレースというものは遠く離れた、どうでもいいものになってしまったみたいだった。
……いよいよ、落ちるところまで落ち切ったかな。
「どうでもいいか」
未だに燻ぶっている鬱陶しい思考を、そうやって言葉で頭の隅に追いやった。
そのままSNSを巡回して、何百回と使い回されたようなくだらない動画とか、杜撰なモザイクで誤魔化された大人向けの画像とかをぼんやり流し見る。
今日はなんか不作だなあ、とか思いながら画面をもう一度更新したところで。
「……ん?」
ホーム画面の一番上に表示されたのは、ジェンティルのアカウントだった。
「今更こんなの出してくるなよ……」
フォローもしてないどころか、レースの情報だっていつも見てないだろ。
即ブロックしようと思ったけど、どうしてか指はすぐに動いてくれなかった。
煙で少しぼやけた僕の目が、勝手に画面に映る文章を読み進めていく。
『日頃より応援してくださる皆様へ』
珍しいな。あの子が自分からSNSを更新するなんて。
いや、大きなレースの前だからそういうこともあるか。
……本当に? 僕が一緒に居る時でもそんなことしなかったぞ?
先生の指示かな。もっとファンのこと考えてやれ、とは言いそうだけど。
でも、言われてすんなり行動するほどあの子も素直じゃないだろ。
だったら、何でこのタイミングで……。
「………………」
気が付くと僕の指先は、その投稿をタップしていた。
その内容は、あの子が本当に自分で考えたのか疑うほどにマトモな文章だった。
いつも応援してくれるファンへの感謝と、今後のレースの展望、そして秋シニア三冠に対する意気込み。あの子を長く追っているファンからすれば、今更過ぎて逆に何かあるのかと無駄な勘ぐりをしてしまうようなものだった。
そして、その文章の最後に綴られていたのは。
『全てを取り戻しに参ります』
……馬鹿馬鹿しい。
「君が失ったものなんか、何もないだろ」
それだけ吐き捨てて、アカウントをブロックする。
……気分が悪い。あの子の投稿なんて見るんじゃなかった。
吸い終えた煙草を、いつもより強く灰皿に押し付ける。
それでも苛立ちが収まらなかったので、二本目へ手を付けようとしたところで、既に箱の中が空っぽになっていることに気が付いた。
「ああ、クソ……本当に、あの子が絡むといつもこうだ……!」
本人が今この場にいなくても、僕の調子を崩してくる。
……仕方がない。今日はもう諦めるか。
裏口から店内に戻ると、ラジオから流れる掠れた歓声が耳に入ってくる。
『一着はジェンティルドンナ! これでジャパンカップ二連覇を達成しました!』
……ほら、やっぱり。
「ジェンティルちゃん勝ったよ」
「でしょうね」
行きずりの店長の言葉に短く答えて、僕はゴミ箱へ煙草の空箱を投げ捨てた。
■
ジャパンカップから数日経った、ある日。
「ねえねえ、おにーちゃん。明日、お友だち呼んでもいい?」
いつも通り公園から帰る途中、お孫さんからそんなことを聞かれて。
「お友だちっていうと……この前、トレセンに行った時に出来たっていう?」
「うん! もう一回、わたしと一緒に走ってみたいって言ってたんだ! だから、レースが終わったら一緒に走ろう、って約束したの!」
「そうなんだ」
キラキラと目を輝かせながら話すお孫さんに、曖昧な言葉を返す。
すると彼女も僕の浮かない表情に気づいたのか、不安そうにまた聞いてきた。
「……ダメ?」
「うーん……あんまり乗り気にはなれないかな」
「わたしのお友だちが、トレセンの生徒だから?」
「そうだね」
別にお孫さんが悪いわけじゃない。トレセンの生徒と付き合うなとも言わない。
ただ、僕が個人的にトレセンの生徒とは顔を合わせたくないというか。
「おにーちゃんは……トレセンのひと、嫌いなの?」
「そんなことないよ。何なら、僕だって元はトレセンの人間だったし」
「なのに、どうして?」
「そりゃあ、元の職場にいた子とは顔を合わせたくないというか……」
「ううん、そうじゃなくて」
「……そうじゃなくて、って?」
「どうしておにーちゃんは、トレセンやめちゃったの?」
……ああ、そうか。そういうことか。
「残念だけど、その理由を君に話すつもりはないよ」
「それって、わたしがまだ子供だから?」
「まあ、それも理由の一つだけど……一番は、僕が誰にも話したくないからかな。そっとしておいてほしいんだ。しばらく自分で考える時間がほしいってだけ」
「……そっか。なら、しょうがないね」
さっきまでの元気が嘘みたいに、お孫さんは寂しそうに俯いてしまった。
いけないな、女の子を悲しませるなんて。こんなの僕らしくない。
でも、今更になって自分を守ったところで、何の意味もないか。
どうせ僕の中には、かつて燻ぶっていた感情の痕しか残っていないんだから。
……だけど、なあ。
誰かを悲しませるのは、あの子を最初で最後にしたい、って。
焼け跡の中から、そんなどうしようもない感情が少しだけ芽生えた。
もう誰も悲しませないとか、そんな高尚なことを言うつもりはない。
ただ、僕にとってその燃え残りは、何よりも特別なものなんだ。
「理由、話してあげてもいいよ」
僕の呟きに、お孫さんは目を丸くしながら顔を上げた。
「え?」
「僕がトレセンを辞めた理由も話すし、お友だちを連れてきてもいい」
「じゃあ……」
「ただし、僕が君の走りを見るのはそれが最後になるかもしれない」
自分の感情と、お孫さんを悲しませないための妥協点が、そこだった。
「バイトも辞めるし、僕が店に顔を出すこともなくなる。君とこうして話すのも、明日がきっと最後になる。それでもいいなら、話してあげるよ」
お孫さんはしばらく何も話さなかった。
子供には難しい選択を強いていると思う。それでも彼女に選んでほしかった。
最後を言い渡されるなら、この子がよかったから。
「話してくれる?」
長い沈黙のあと、お孫さんは僕の目を見て答えた。
「本当にいいの?」
「うん」
「これで最後になっても?」
「だいじょうぶ」
こくりと頷いたお孫さんは、僕の事を見つめたまま。
「だっておにーちゃん、わたしが誰かと走ってるところ、見たことないでしょ?」
ああ、そうか。そういえば、そうだったな。
この子がレースに出るって言っても、僕が見に行くことは一度もなかった。
だって僕はもうトレーナーじゃない。この関係もただのごっこ遊びなんだから。
そんな自意識が、僕をレースという場から遠ざけていたんだ。
でも、そうか。
この子にとっては、僕が初めてのトレーナーなのか。
「最後でもいいの。レースしてるわたしのこと、おにーちゃんに見てほしい」
そうして、僕の事をまっすぐと見つめる彼女の瞳は。
あの子がかつて僕に向けた瞳と、そっくりだった。
「……少し、寄り道しようか」
「どうして?」
「話がちょっと長くなるからね。コンビニに寄ろう。好きなもの買ってあげる」
「うん!」
それから、僕はコーヒーを、お孫さんは肉まんを買って。
はふはふと温かそうに肉まんを頬張る彼女に、話を始めた。
「担当している子とね、上手に付き合えなかったんだ」
「仲良しじゃなかったの?」
「ううん、仲良しだったよ。むしろ、僕もあの子もお互いが大好きで、いつも一緒だった。でもね、実を言うと僕は正直になれなかったんだ。あの子の前では取り繕って、本当に言いたいことをずっと隠し続けていた……」
「おにーちゃんはその子のこと、嫌いだったの?」
「嫌いになれたら、とは何度も思ったよ。だけど結局、嫌いにはなれなかったな。
昔からの付き合いでね。どうしても、あの子のことが可愛く見えて仕方なかった」
「……なのに、どうしてやめちゃったの?」
「その子のお父さんにね、あの子のトレーナーをやめてほしいって言われたんだ。もっと優秀なトレーナーに代わってほしいって。でもね、別にそれが嫌だったわけじゃないんだ。だってそれは、あの子がもっと上に行くために必要なことだって、僕も分かっていたから。あの子のためだと思えば納得できた」
「じゃあ、なんでおにーちゃんは、その子と離れ離れになっちゃったの?」
今まですらすらと言葉を紡いでいた口が、止まる。
しばらくの沈黙を置いてからようやく、僕の話は続いた。
「楽になりたかったんだろうな、きっと」
「……楽に?」
「僕はあの子に、本音を話したくなかったんだ。あの子を悲しませたくなかった。この本音を抱えたまま、あの子の前から消え去りたいってずっと思ってたんだ」
「だから、やめちゃったの?」
お孫さんの問いかけに首肯する。
「あの子が走る姿なんてもう二度と見たくなかった。あの子がレースで勝つたび、
僕の抱えていた本音はどんどん汚らわしくて、醜いものになっていくから」
結局、それが一番なんだと思う。
僕はあの子を穢したくなかったんだ。
あの夏の日の夜、僕が手を伸ばすことしかできなかった理由も、きっとそれだ。
この時代の頂点へと昇っていくあの子に、僕はもう要らない。
とても彼女には見せられない黒ずんだ感情を抱えたまま、静かに舞台を去る。
それがいちばん幸せな結末だろ?
「……話は、これで終わり」
最後にそう呟いてから、僕は口を閉じる。
するとお孫さんは、俯いた僕の顔をゆっくりと覗き込んでから、
「一つだけ、聞いてもいい?」
「うん、いいよ」
「おにーちゃんが担当してた子って、だれ?」
「それは……」
……いや。ここまで話したんだ。
それに、この子も覚悟して僕の話を聞いてくれている。
なら、その覚悟に応えてあげないといけないよな。
「ジェンティルドンナ」
「……え? それって……」
「そう。この前のジャパンカップで一着だった子だよ」
驚いた顔のお孫さんの手を引いて、歩き出す。
「さ、そろそろおじいちゃんのお店だよ。また明日ね」
「……うん」
お店の前まで着いたところで、繋いでいた手を放す。
「おにーちゃん!」
そのまま帰ろうと背中を見せると、そんな風に呼び止められて。
「明日、ぜったい来てね! わたしが走るところ、みてて!」
「もちろん。約束したからね」
「ぜったいだよ!」
「あはは、わかったって」
ひらひらと手を振りながら、今度こそお孫さんに背を向ける。
そうして一人で夜道をとぼとぼと歩いていると、だんだんと実感が湧いてきて。
「……そうか。これで、あの子とも最後か」
そして同時に、僕が誰かの走りを見るのもこれが最後になる。
後悔が無いとは言わない。だけど、これ以上を求めるのも贅沢だと思う。
だって僕はもう、何もかもを終わらせてしまった人間なんだから。
見上げた夜空には、星がひとつも出ていなくて。
真っ黒に染まった帳が、静かに幕を降ろしていた。
■
翌日。
「そうかあ。寂しくなるなあ」
昨日お孫さんとした話を伝えると、店長は困ったような顔でそう答えた。
「すいません、急な話で」
「ええよ。むしろ君は、どこかでフラっといなくなると前から思っとったからね。こうしてきちんと話をしてくれるだけでも、まだ迷惑じゃないから大丈夫だよ」
「初めはそうするつもりでした。だけど僕、店長にはとても感謝しているんです。明らかに厄介者の僕を拾ってくれましたから。その優しさを無碍にしたくなくて」
「気まぐれだよ、ただの。強いて言えば元トレーナーだから、あの子のことも見てくれるかなって思っとった。君もなんとなくそれは察しとったんじゃないの?」
「確かに、都合よく利用されてるなー、とは思ってましたね」
それでも、楽しそうに走るあの子を見て僕も嬉しかったのは事実だ。
「もう明日のうちに辞めちゃうんか?」
「さすがにそんなすぐには辞めませんよ。引き継ぎの作業だけ済ませます。ただ、
明日からは平日の午前……お孫さんがいない時だけ顔を出す形になると思います」
「律儀だねえ、君も。こんな時まで、お店のこと考えてくれるなんて」
「ここまで世話になりましたから。それに、仕事の引き継ぎには慣れてますし」
「そりゃありがたいね」
僕が辞めることについての店長との会話は、それくらいで終わった。
それからはいつもの業務。在庫の確認と商品の仕入れや品出し、売り場の整理や店頭の掃除くらい。特にこれといって変わるような作業は、何もなかった。
そうしていつの間にか、夕方になって。
「おにーちゃん!」
店先から聞こえてくるお孫さんの声で、僕はようやく作業する手を止めた。
「おかえり」
「ただいま」
短く言葉を交わすと、お孫さんはすぐにお店の中に入っていって。
「おじーちゃん、クツ貸して」
「はいはい。今日は大事な日だし、新しいのにするかい?」
「ううん、わたしがいつも使ってるやつがいい」
「そうかい。やっぱ、使い慣れてるやつが一番だもんなあ」
なんて笑いながら、店長がお孫さんに練習用シューズの入った鞄を手渡した。
使い古されてぼろぼろになった鞄を吊り下げながら、お孫さんが僕に向き直る。
「準備できたよ、おにーちゃん」
「……うん。それじゃあ、行こうか」
手を繋いで、公園までの道のりを歩きだす。
その間、僕とお孫さんは一言も会話を交わさなかった。
■
お孫さんに言うお友だちは、まだ公園に到着していないみたいだった。
まあ、そりゃそうか。トレセンの生徒なら、今はまだトレーニングの時間だ。
だから僕たちも、軽いストレッチやウォームアップで適当に時間を潰していた。
それでも来ないから、いつもみたく何週かコースの走り込みをして。
気が付けば、もうそろそろ日が落ちてしまいそうな時間になっていたけど。
それでも、お友だちは来なかった。
「はやくこないかなー」
休憩中、買ってあげたホットレモンで暖を取りながら、お孫さんがそう呟いた。
「トレーニング、長引いてそうだね」
「うん。お友だちもね、ここ最近は忙しくて大変、って言ってた」
「そうなんだ」
「でも、今日だけはぜったいに来てねってお願いしたの。だから来てくれるよ」
「……もし、その子が今日来れなくなっちゃったら?」
「来るよ、ぜったい。だって約束したもん」
頬を膨らませながら、お孫さんは僕にそう答えた。
……さすがに今のは意地悪だったかな。
「そっか。なら、もう少し待とうか」
「うん」
公園の入り口に誰かの影が見えたのは、そんな会話をした直後のことだった。
「あっ、来た!」
なんて声を上げて、お孫さんがとたとたと入口へ向かって走っていく。
その背中を目で追いかけながら、あの子の言うお友だちの方に目を向ける。
そこには。
「ごきげんよう」
………………………………。
え? な、っ……は?
「……ジェンティル?」
「おねーちゃん!」
困惑する僕をよそに、お孫さんはお友だち――ジェンティルに抱き着いた。
そんなお孫さんの頭を優しく撫でながら、ジェンティルが話しかける。
「遅れてしまって申し訳ございません。トレーニングが少し長引いてしまって」
「ぜんぜんだいじょーぶ! わたしも今、トレーニングしてたから!」
「みたいですわね。それで、あそこで私に間抜けな顔を晒しているのが?」
「うん! いつもわたしに走りを教えてくれる、おにーちゃん!」
「……へえ」
やばい。逃げないと。
だって今のジェンティル、見たことないくらい怖い目してるもん。
アレは本気だ。半殺しどころじゃ済まない。殺される一歩手前までいかれる。
「じ、っ……じゃあ、僕はこのあたりで……」
「お待ちなさい」
「待たない!」
そんな言葉を彼女に押し付けて、すぐさまベンチから立ち上がって走り出す。
数秒後、僕は彼女に首根っこを掴まれて、ベンチに座り直させられていた。
「速っ……」
「あら、ご存じでなくて? 私、ティアラを三つも戴いたウマ娘でしてよ」
「おねーちゃん、すごい!」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
お孫さんの言葉に、それはもう上機嫌な表情を浮かべてジェンティルが答えた。
「それで、貴方。また私から逃げ出そうとしましたわよね」
「だ、だって……」
「全く、懲りない人。私が言ったことを忘れてしまいましたの?」
するとジェンティルは、僕の耳元に顔を近づけてから。
「――私から逃げられると思いまして?」
茫然と彼女のことを見上げる僕を見て、ジェンティルはくすくすと笑っていた。
「おねーちゃん? 今、おにーちゃんになんて言ったの?」
「秘密ですわ。私と彼だけの、ね」
「えー! ズルいよ二人だけなんて!」
「貴女も大人になればいずれ分かりますわ」
「高校生だよ君もまだ」
「お黙りなさい」
ふふんといかにも先輩風を吹かせる彼女を見て、思わずそんな言葉を漏らした。
……というか。
「友達って……本当に? 君と、ジェンティルが?」
「ホントだよ! 一緒に走った友達だもん。ねー!」
「ねー」
お孫さんといっしょに可愛く首を傾げながら、ジェンティルが笑った。
それも。僕ですら見たことがあるか分からないくらいの、満面の笑みで。
その笑顔を見て、僕もこの二人が本当に友達なんだということは、理解できた。
……まあ、それについて言いたいことは、山ほどあるんだけど。
「やっぱり君って、年下の子には本当に甘いよな……」
「私のことを何だと思ってますの?」
思わず呟いた僕の言葉に、ジェンティルは口を尖らせながら答える。
「それにしても、どうして君はジェンティルと友達なんかに……」
「おねーちゃんがね、わたしと一緒に走りたいって言ってくれたの!」
「彼女の仰る通りですわ。トレーニングの休憩中、気まぐれにレースを覗いたら、何やら分かりやすい走りをされる方がいらっしゃったので。思わずお声がけを」
「分かりやすい走り?」
「ええ。未熟ながらも、それでいて私によく似た走り方。誰が教えたのかなんて、一目見ただけですぐに分かりました。ああ、貴方に指導されているんだな、と」
「……だから、この子に近づいたの?」
「確かに、初めはそんな打算的な考えでしたわね。でも、今は違います」
ジェンティルはそう答えると、お孫さんの手を引いて。
「さて、ウォームアップは既に済ませているみたいですわね」
「うん! 今からでもレースできるよ!」
「私もトレーニングで体は暖まっていますから。それでは、始めましょうか」
「ちょ、ちょっと待って……!」
そのまま何の躊躇いもなくレースを始めようとしたので、思わず引き留める。
「まだ何か?」
「いや、その……え? 本当にジェンティルとレースするの?」
「だって約束したもん! 一緒にレースする、って!」
それは分かってる。レースができて嬉しいのも、その顔を見ればすぐに分かる。
だけど、あのジェンティルと一対一でレースをするのは、あまりにも。
「ジェンティル、お願いだから手加減を……」
「そんな真似、私がすると思いまして? 正面からねじ伏せて差し上げますわ」
「……相手はまだ、中学生にもなってない子供なんだよ?」
「ええ、そうですわね。歳も離れていますし、レースの経験も私の方が上です」
「そこまで分かってるなら……!」
「だとしても、手加減なんて致しませんわ。全力でお相手させていただきます。私と彼女、お互いの持ちうる全てを出し切って、真っ向から勝負する……」
そうしてジェンティルは、僕に振り返ってから。
「友達というのはそういうものでしょう?」
ああ、そうだ。そういえば、そうだったよな。
君はずっと、自分と対等になってくれるライバルが欲しかったんだっけ。
「……分かったよ。好きなだけ走ればいい。ジェンティルも、君も」
「言われなくとも」
「うん! 負けないよ、おねーちゃん!」
「ええ、決着をつけましょう。私と貴女、お互いの信念を懸けて」
相対するお孫さんに、ジェンティルがそんな言葉をかけたところで。
何か思い出したような顔になったお孫さんが、一人でこちらに駆け寄ってきて、
「おにーちゃん、おにーちゃん」
「どうしたの?」
「あのね、わたしがレースに勝ったら……おねーちゃんと、仲直りしてくれる?」
なんて。
「……別に僕とジェンティルはケンカしてるわけじゃない。だから仲直りなんて、する必要も意味も無いんだ。だから残念だけど、そのお願いは聞けないな」
「でも……おねーちゃん、ずっと一人で寂しそうにしてたよ?」
「え?」
「だからおにーちゃん、わたしが勝ったら、おねーちゃんと一緒にいてあげて?」
……そうか。
それが、このレースに懸ける彼女の信念か。
「分かった、いいよ。君が勝ったら、僕はジェンティルと仲直りする。約束だ」
「やくそくだよ! ぜったい、やぶっちゃダメだからね!」
そうやって笑うお孫さんの頭を撫でて、ジェンティルの元へ送り出す。
「貴女の信念は、きちんと伝えられましたか?」
「うん、ちゃんと伝えたよ。でも、おねーちゃんは言いにいかなくていいの?」
「ええ、結構です。私にそのような時間は必要ありません。このレースに勝てば、きっと彼も私の信念は理解してくれる……いえ、せざるを得ないでしょうから」
「そっか。おねーちゃん、強いもんね。でも、わたしも負けないから!」
そうして会話を終えたジェンティルとお孫さんが、感覚を空けてコースに並ぶ。
「距離はマイルの一六〇〇。このコースを五周すると大体その距離になるからね。ゴール位置は僕が最後に立っている場所で。二人とも、それで問題ない?」
「ええ、いつでも」
「だいじょーぶだよ!」
多少変則的なレギュレーションになったけど、ジェンティルはそもそも実力が、お孫さんはこのコース自体の慣れがあるから、お互いに問題はないはず。
「じゃあ、始めようか」
言葉を落としてから僕が腕を上げると、二人はスタートの姿勢を取って。
「……スタート!」
そして、二人だけのレースが始まった。
■
結果としては当然ながら、ジェンティルの勝ちだった。
それも、二周ほどの大差をつけての、完璧なまでの圧勝。
ジェンティルがゴールしても、お孫さんはまだコースを走っているくらいだ。
そうして先にレースを終えたジェンティルが、僕の隣に近づいてきて。
「このレース……私の勝ち、ですわ……!」
「めちゃくちゃ疲れてるじゃん……」
ぜえはあと肩で息をする彼女に、思わずそう返す。
ジャパンカップ走った後でもそこまで疲れてなかったでしょ、君。
一体、このレースにどこまで全力を……。
「……少し、コーナーが……多すぎますわよ……」
「そりゃまあ、五周しないといけないからね。君にはハンデだったかな?」
「ええ、そうですわね。認めたくは、ありませんが……」
昔から力任せに走るせいで、細かいコーナリングとか不得手だったからなあ。
今は力の調節とかできるようになって、ある程度は改善できたみたいだけど。
でもやっぱり、繊細さの勝負には今でも苦戦してしまうみたいだった。
「……彼女のことは、どう思っていますの?」
なんて昔を思い出していると、ふとジェンティルからそんな質問を渡されて。
「んー……どうだろうね。同じ世代の中では、相当ポテンシャルあると思うよ」
「あら、貴方がそこまで肩入れするなんて。珍しいですわね」
「少し贔屓目になってるところはあるけどね。それでも、悪くないと思う」
「ふふっ……。将来、同じ舞台で競い合うことになるのが楽しみですわ」
なんて会話をしているうちに、お孫さんも僕の目の前を通過して、ゴール。
「つ、つかれたあ……!」
なんてへにゃへにゃな声を上げると、お孫さんはその場にぐだっと倒れ込んだ。
「お疲れ様。頑張ったね」
「うん……!」
息も乱れ切ったまま、僕の言葉に答えたお孫さんの頭を撫でる。
「でも、わたし……負けちゃった……」
「そうだね。今回のレースはジェンティルの勝ちだ」
「おにーちゃんと、やくそくしたのに……」
悔しそうに俯くお孫さんに、ジェンティルが歩み寄って。
「残念ですが、今回は私が勝って、貴女が敗けた。そういう結果です」
「……うん。そうだね」
「ですが、だとしても貴女が懸けた信念が私より劣っていたわけではありません。
私も貴女も、お互いに譲れないものがあった。……レースとはそういうものです。それぞれが懸ける、譲れないものに決着をつけるための、最後の手段。そこには、必ず一人の勝者だけが残る……今の貴女なら、お分かりですわね?」
「………………」
ジェンティルから伝えられる言葉に、お孫さんは少しだけ考えてから、
「もう、一回」
え。
「おねーちゃん、もう一回レースしよう」
「……貴女、私の伝えたことが理解できなかったの?」
「ううん、分かるよ。それでも、もう一回レースしたいの」
「どうして?」
「だって、おにーちゃんがわたしのレースを見てくれるのは、これが最後だから。わたしがレースに勝ったところ、おにーちゃんに見てほしいの」
ジェンティルの目をまっすぐと見つめながら、お孫さんが呟く。
はじめ呆気に取られていたジェンティルは、やがて小さく笑みを零して、
「ふふっ……。諦めの悪い子。いいですわ、もう一度お相手して差し上げます」
「……いいの?」
「ええ。現に、貴方も止めるつもりは無いのでしょう?」
「好きなだけ走ればいい、って僕は言っちゃったからね。止めるのも違うでしょ。それに、あそこまで言われたらね。見届けないわけにはいかないよ」
「でしたら、何も問題はありませんわ」
そう言ってジェンティルは、地面に横たわるお孫さんに手を差し伸べる。
「ほら。あんな大層なことを言った手前、動けなくては恰好もつきませんわよ」
「うん……ありがとう、おねーちゃん」
「構いません。友達の頼みですもの」
息も絶え絶えになりながら、お孫さんがジェンティルの手を引いて立ち上がる。
ジェンティルも疲労は確実に溜まっているはずなのに、あの子を思ってなのか、そんな様子も一切見せないまま、スタートラインへ立った。
お孫さんもふらふらと震える足を動かして、ジェンティルの隣に並ぶ。
二人はお互いの顔を見て頷いてから、もう一度スタートの体勢を取った。
そして。
■