メリー・バッド・エンド   作:宇宮 祐樹

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「ほんで寝ちゃったんかあ」

「体力も底を尽きちゃったみたいで。怪我はないので安心してください」

 

 ジェンティルの背中で寝息を立てるお孫さんを見て、店長が呟く。

 結局、二戦目も結果は変わることなく、ジェンティルの圧勝。

 ただ二回目のレースを終えた時点で、お孫さんはぱたんと倒れてしまった。

 慌てて僕が駆け寄った頃には、既にお孫さんは夢の中で。

 そんな彼女を背負いながら、僕とジェンティルはお店まで戻った。

 

「そしたら、あれか。君がこの子の言っとった友達か」

「ええ。ジェンティルドンナと申します」

「よくラジオで名前は聞いとるよ。でも、そうか。この子と君が友達なんてねえ」

「あら、意外でしたか?」

「そりゃなあ。でも、仲は良さそうでよかったわ。ありがとうね」

「構いませんわ。私も彼女とレースができたこと、光栄に思います」

 

 そこで話を終わって、眠ったままのお孫さんを店長に引き渡して。

 とりあえず彼女を駅まで送ろうと、繁華街を二人で歩き出す。

 

「……あの子は全部、知ってたのかな」

「さて。どうでしょうね」

 

 雑音に紛れた僕の呟きを拾い上げたジェンティルは、そう答えた。

 

「でも、昨日になっていきなり、絶対に来てほしいと頼まれましたわ」

「……僕が、君を担当していたことを打ち明けたからかな」

「だとしたら、彼女に感謝しなければいけませんわね。私も、貴方も」

「………………」

 

 それ以上の言葉は続かなかった。

 ただ二人で、夜の街を歩いて行く。

 十二月の冷たい風が、僕たちの間を抜けていった。

 そんな肌寒さを感じたところで、既に繁華街を抜けたことにようやく気付く。

 

「……寒くない? 何か、飲み物でも買ってあげようか」

「あら。見ないうちに甘やかすのが上手になりましたのね。あの子のお陰かしら」

「別に今までもそれくらいのことはしてたでしょ」

「そうね。貴方がいなくなってから、少し物足りなくなった気がするわ」

 

 適当な自販機の前に立って、財布を開く。

 いつも通りコーヒーとホットレモンを一つずつ買ったところで。

 

「あの子、ホットレモンが好きなの?」

 

 ……失敗した。

 

「ごめん。いつもあの子に買ってあげてるから、つい」

「そう」

 

 短く答えてから、ジェンティルはホットレモンを受け取ってくれた。

 蓋を開けて口を付ける彼女の隣で、僕も缶コーヒーを空ける。

 そうして二人してゆっくりと、どちらともなく歩き出して。

 しばらく歩いてから、ジェンティルが口を開いた。

 

「レースする前、あの子は貴方に何と?」

「自分が勝ったら、君と仲直りしてほしいって。君が、寂しそうだったから」

「……優しい子」

 

 なんて気恥ずかしそうに、ジェンティルは小さく笑う。

 

「だけど、レースに勝ったのは君だ。あの子の信念も、君が踏み潰した」

「意地悪な言い方をするのね。だったら、貴方が止めればよろしかったのに」

「……君にだって、譲れないものがあったんだろ」

 

 僕の言葉に、ジェンティルが脚を止める。

 小さな踏切の手前だった。あとすぐ歩けば、駅までたどり着くところの。

 だけど彼女は前に踏み出すこともせず、ただじっと僕のことを見つめていた。

 そして、ジェンティルは。

 

「貴方に見せたかったの。私と彼女、どちらが貴方に相応しいかを」

 

 静かにそう、打ち明けてくれた。

 

「……そのために、あの子とレースを?」

「ええ。そして私は勝った。これがどういう意味か、貴方なら分かるでしょう?」

 

 ジェンティルからの問いかけには、すぐに答えられなかった。

 あれが出来レースだったとは言わない。

 もし本当に勝つことだけが目的なら、この子は全力を出さないだろうから。

 なら、どうして彼女はお孫さんとのレースに、あそこまで全力を注いだのか。

 それは僕に相応しいのは自分だということを、僕自身に証明するため。

 そして。

 

「……そこまでして、僕を取り戻したいの?」

「そうよ」

 

 自嘲気味になった僕の言葉に、ジェンティルがはっきりと答えた。

 

「どうして?」

「……さっきも言いましたわよ。貴方に相応しいのが、私だから」

「違う。そうじゃない。どうして、僕なんだ?」

 

 それはきっと、僕がずっとジェンティルに抱いている疑問の全てだった。

「僕以外の選択肢はいくらでもあったはずだ。それこそ今の君にはセンセがいる。なのに、君はどうして……逃げ出した僕のことを、それでも選ぶんだよ?」

「………………」

「そりゃあ、昔からの付き合いがあることは認めるさ。だけどそんな馴れ合いは、もしかすると君は一番嫌いだろ? 君は目的のためなら最善の手段を取れる子だ。だけど君はあの日、僕を選んだ。……実を言うと、不思議で仕方がなかった」

 

 ジェンティルは何も答えなかった。

 ただ、僕の事を見定めるように見つめ続けるだけ。

 そんな彼女の態度が気に食わなくて、僕は立て続けに言葉を重ねた。

 

「もしかすると僕は、君に失望されたかったのかもしれないな。君が選んだ人は、こんなにも趣味が悪くて、だらしなくて、何の価値もないロクデナシだって」

「心配しなくても、その評価は出会った時からずっと変わっていませんわよ」

「なら、どうして君はそんな男を追って、ここまでやってきたんだ?」

 

 踏切の警報機から、渇いた電子音が鳴り響いて。

 

「見捨ててくれればよかった。こんな臆病者のことなんて」

「そうね。そうすれば私も、きっと楽になれたのかもしれませんわ」

「それでも君は僕を追いかけて、ここまで辿り着いた」

「ええ。様々なものを振り払って、ようやく貴方の前に立つことができました」

「……会いに来てほしくなんかなかった。その可愛い顔も、透き通るような声も、二度と思い出したくない。ずっと、君のことを忘れたまま過ごしていたかった」

「貴方の人生に、私の影はもう必要ないと?」

「ああ。だって僕と君の物語は、もうとっくに終わってるんだから」

 

 僕の言葉に、ジェンティルは深く息を吐いてから、

 

「ひどい人ですわ。初恋でしたのよ、私」

 

 ………………。

 は?

 

「なん、て……言った?」

「ですから、初恋でしたの。二度も言わせないでくださる?」

「だから、その……。えっ? だ……誰が、誰に?」

「私が、貴方に。一目惚れでしたわ」

 

 閉じた遮断機の向こうで、電車が僕たちの隣を通り過ぎていく。

 ただ、それはおそらく駅から発車したであろう、のろのろとしたもので。

 

「私との物語は、もう終わりだと仰いましたわね」

 

 踏切の警報機は、未だに煩いサイレンの音を鳴らし続けている。

 

「……私の初恋を勝手に終わらせないでくださる?」

 

 その赤い漏光が彼女の顔を照らしていた。

 ……同じ瞳だ。

 僕に契約書を渡してきた、あの時と。

 

「それで。何か、返事は?」

「え」

「乙女が想いを寄せる殿方に向けて、秘めた心情を打ち明けたのですから。何か、それ相応の言葉を期待してもよろしいのではなくて?」

 

 彼女の頬は、未だに赤く染まっていた。

 ただ、サイレンの音はもう聞こえてこない。

 

「えー……っと、いや……。急なことすぎて、何て答えればいいのか……」

「相変わらず意気地のない人。ここまで来たのだから、いい加減観念しなさい」

「告白した側が言うセリフと態度じゃないと思うよ?」

 

 呆れたような視線を送るジェンティルへ、思わずそんな言葉で返す。

 ただ、そんな振る舞いをする彼女を見ていると、少しだけ落ち着いた気がした。

 ……それで。

 

「えっと……君が本当に、僕のことを……?」

「ええ。ずっと前から、お慕いしておりました」

「……ウソじゃないよね?」

「冗談だとしたら、ここまで貴方を追いかけていませんわ」

「一目惚れって、いつから……」

「貴方と、初めて出会った時から」

 

 僕が渡す確認の言葉を、ジェンティルが一つ一つ辿っていく。

 ともすればそれは、僕の逃げ道が塞がれているようにも思えた。

 

「悪足掻きはお終いですか?」

 

 そうして、言葉を紡げなくなった僕に、ジェンティルが囁く。

 

「なら、答えてもらいましょう。貴方は私を受け入れてくださるのか、それとも」

 

 ゆっくりとこちらの顔を覗きこむ彼女に向けて、僕は。

 

「……少し、時間が欲しい」

「あら。まだ情けなく抵抗するつもりかしら」

「むしろ、僕がすぐ答えを出すような男と思っていたの?」

「……ふふっ。そうね。貴方は意気地のない臆病者ですから」

 

 僕の答えに、ジェンティルはそんな微笑みを返してくれた。

 

「なら、待ってあげます。貴方が答えを出す、その時まで」

「……待たせることになるよ」

「構いませんわ。私も、いつでも答えを聞ける場所におりますので」

 

 はじめ、彼女の放った言葉の意味が分からなかった。

 いつの間にか遮断機は上がって、あれだけ煩かった踏切も静かになっている。

 それでも彼女は、駅まで向かう踏切を越えようとはしなかった。

 確か、そろそろトレセンの学生寮の門限が近いはずなんだけど……。

 ……嫌な予感がする。

 

「一応、聞いておきたいんだけどさ」

「はい」

「この後の予定ってどういうつもりだったの?」

「貴方、知らないで私を駅まで送るつもりでしたの?」

 

 今日だけで何度目か分からない、呆れたような溜め息が返ってくる。

 

「……まさかとは思うけど、学園に外泊届とか出したりしてないよね?」

「あら、よくご存じですのね。既に提出済みです」

「泊まる場所は」

「まだ決まっていませんわ。ただ、貴方の気分次第とだけ」

 

 いやいや……!

 

「もしかして君、最初から僕の家に押しかけるつもりで……!」

「別に無理強いはしていませんのよ。ですが貴方が断ったら、私はこの寒空の元、ひどく寂しい思いをすることになるでしょうね。風邪では済まないかも」

「そんなことさせる、わけ……ってか! そもそも、親御さんの許可は!」

「……少々お待ちを」

 

 思い出したように言ったジェンティルが、携帯を操作する。

 すぐに、ぴこん、と彼女の携帯が震えた。

 

「返ってきました」

「ほら。いくらなんでもお咎めがあったでしょ?」

「スタンプでOKと」

「あの人スタンプとか使うんだ⁉」

 

 いいのかよ、というよりも先にそっちの方に驚いた。

 

「それで、どうなさいますの?」

 

 携帯をしまったジェンティルが僕にそう問いかけてくる。

 ……どうする、って言ったって。こんなの、他に選択肢なんて無いじゃないか。

 逃げ出した僕を追いかけて、初恋だった、なんて心情を打ち明けられて。

 あまつさえ自分を人質にしてまで迫られたら、断れるはずがない。

 そんな暴挙に出るまで、この子は僕の事を取り戻そうと。

 

 ………………分かったよ。

 君からは、逃げられないんだったな。

 

「……家までの道中に、スーパーがある。ちなみに二十四時間営業」

「結構。では、参りましょうか」

 

 僕の家がどこにあるかも分からないくせに、くるりとジェンティルが踵を返す。

 そんな彼女を追いかけるように、僕も隣に並ぶ。

 いつの間にか、踏切の警告音はどこか遠くに聞こえていた。

 

 

 それから予定通り、帰り道の途中にあるスーパーに二人で立ち寄った。

 値札もロクに見ないまま、ぽんぽんと買い物カゴに食材を入れるジェンティルに、何か苦言を呈そうとした僕の口が黒いカードで無理やり塞がれて。

 買い物を終えたあと、ようやく僕は自分の家に彼女を上げた。

 そのまま服とタオルを持たせてから、有無を言わせずバスルームへ閉じ込めて。

 シャワーが浴室の壁に当たる音を聞きながら、料理を始めたところで。

 

「さっぱりしましたわ」

 

 もうそろそろ出来上がるという頃合いで、彼女はバスルームから出てきた。

 

「ちゃんと暖まった?」

「ええ、おかげさまで。でも、先に私が浴びてもよろしかったの?」

「別にいいよ。それに、君に風邪なんか引かせたら後が怖いし」

「本当は私を甘やかしたいだけではなくて?」

「君が納得するなら、それでいいよ」

 

 下ろした髪をバスタオルで拭いながら、ジェンティルが答える。

 

「……………………」

「…………。何か」

「いや、髪を下ろした君を見るのは久しぶりだと思って」

「そう? ……ふふっ。もっと見惚れてしまってもよろしくてよ?」

「前も見たことあるから、別に新鮮味は感じないよ」

「それは貴方の前でしか見せない私の姿に、独占欲が湧いたということかしら」

 

 ああ言えばこう言う……。

 

「そういえば服、それでよかった?」

 

 辟易とする話題を切り替えるために、ジェンティルにそんな質問を渡す。

 すると彼女は一度、袖を余らせたパーカーの調子を確かめながら、

 

「ええ、構いませんわ。尻尾を通す穴が見当たらないこと以外は」

「ワガママ言わない。僕だってそれ着るんだから」

 

 なんて会話をしているうちに、そろそろ料理も出来上がる。

 最後の確認に鍋の中を、ジェンティルも一緒になって覗き込む。

 ……カレーなんて、久しぶりに作ったかもなあ。

 

「あら、いい具合」

「お米盛り付けてくれる? たぶんもう炊きあがってるから」

「お皿は?」

「そこの棚にあるやつ、適当に使って」

 

 なんてやり取りをしながら、二人して食卓の用意を済ませたところで、ふと。

 

「甘口じゃなくて本当によかったの?」

 

 紙コップに飲み物を注ぎながら問いかけると、ジェンティルは。

 

「前々からずっと、うっすらと思っていたことですが」

「うん」

「貴方、私をいつまで経っても子供扱いしていませんこと?」

「だって現役の女子高生だし……」

 

 もっと言うと、お孫さんとかと同じ温度感で接しているつもりではある。

 ……ワガママでお茶目なところとか、そっくりだしね。

 

「今後、その認識を改めて頂かないといけませんわね」

「いやまあ、うん……。善処はするよ」

「期待していませんので結構ですわ。私が身を以てその考えを矯正いたします」

 

 そうして飲み物とカレーを二つずつ、テーブルに並べたところで。

 

「いただきまーす」

「いただきます」

 

 なんて二人で手を合わせてから、食事を始めた。

 感想は特になかった。まあ、市販のルー使ったカレーだから当たり前だけど。

 彼女もそのことを分かっているのか、無言のまま食指を動かしている。

 何か文句を言わない辺り、合格点ではあるみたいだった。

 そうしてしばらく、部屋に食器の音だけを二人で鳴らしたところで。

 

「……テレビでも点けようか?」

「どうぞご自由に」

 

 気まずい空気を紛らわすために、リモコンの電源ボタンを押した。

 画面には丁度、有馬記念の事前特集番組が映っていて。

 

『今回の有馬記念、私としてはオルフェーヴルに注目したいですね。というより、個人的にはまたジェンティルドンナとの対決が見たいところではあります』

『前走のジャパンカップも、ジェンティルドンナに敗北してしまいましたからね。本人もリベンジに燃えているんじゃないでしょうか』

『しかしながらジェンティルドンナ、有馬記念に出走するんでしょうか』

『ジャパンカップ後の表明もありませんでしたからね。どうなるでしょう……』

 

 そんな風に、画面ではコメンテーターたちが好き放題に感想を交わしていて。

 

「言われてるよ」

「好きに言わせておけばよろしくてよ」

 

 ペットボトルから追加の水を紙コップに注ぎながら、ジェンティルが答えた。

 

「出るつもりはないの?」

「ええ」

「ふーん」

 

 短く答えるジェンティルに、そんな適当な言葉を返す。

 そうして一度話題を流してから、コップに残った水を飲み干してから。

 ペットボトルから新しく水を注ごうとしたところで、彼女が。

 

「今はまだ、全てを取り戻したとは言い難いので」

 

 どこかで聞いた事のある言葉を、ぽつりと漏らした。

 

「まさかとは思うけど、僕が戻るまで出るつもりはない、なんて言わないよね?」

「……呆れた。貴方、本当に何も分かっていなかったの?」

 

 きっと本心からの驚きなんだろう、ジェンティルは目を丸くしながら答えた。

 

「朴念仁もここまで来ると、芸術的にすら感じますわね」

「だって君にはもう、足りないものなんかないはずだろ? 優秀なトレーナーに、競い合うライバル、決着をつけるための舞台まで用意されてるじゃないか」

 

 ともすれば贅沢と言えるほど、君は友人と環境、そして才能に恵まれている。

 それなのにこれ以上、一体何を望んで……。

 

「それでは、私の勝利は誰に捧げればいいのかしら」

「……それは」

「分からないの? 私は『貴方がいい』と仰ってますの」

 

 言い淀む僕を遮るように、ジェンティルは僕の目をじっと見つめてから。

 

「この私にここまで言わせた責任、きちんと取ってもらいますわよ」

 

 いつから隠し持っていたのか、ポケットから一枚の小さな紙切れを取り出した。

 

「こちら、覚えてるかしら?」

「……? えー……。ん? ……ああ。ファン感謝祭の時の」

「そう。貴方のことを一日限り好きにできる紙切れですわ」

 

 少しぼろついたその紙切れを、ひらひらと見せつけるように彼女が揺らす。

 

「どうするの、それ」

「もちろん、今使います」

「……僕に、何をさせるつもり?」

「貴方も薄々分かっているでしょう。でも、そうね……」

 

 それからジェンティルは、少しだけ考えるような素振りを見せてから。

 

「では、こうしましょう。有馬記念当日、私からの勝利を受け取りなさい」

 

 そう言って、僕にその紙切れを渡してきた。

 

「そんな簡単なことでいいなら」

「本当に?」

「え?」

「条件には私を勝たせることも含まれていますけれど」

 

 ……そういうことか。

 僕が有馬記念の当日に、彼女が勝利する瞬間を見届けるということは、つまり。

 ジェンティルが有馬で勝てるよう、僕がトレーニングを見てやる必要があって。

 要するに、僕が彼女のトレーナーにならないといけないわけだ。

 それがたとえ形骸的なものであっても。

 

「ご理解いただけたようで何よりですわ」

「うん。……忙しく、なるな」

「ええ。逃げる暇なんてありませんわよ」

 

 口元に手を当てながら、ジェンティルが楽しそうにほほ笑んだ。

 

「……分かったよ。君の言う通りにする。前みたいにね」

「ええ。期待していますわ」

 

 会話は一度、そこで終わった。

 

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

 

 残っていたカレーを食べ終えたあと、使った食器を水に浸してから。

 洗い物の前に一服でもしようとしたところを、ジェンティルに引き止められた。

 

「どちらへ?」

「ベランダ。煙草吸ってくる」

「……………………」

 

 すると彼女は一度近寄ったかと思うと、僕の手から煙草を奪い取って。

 

「あ」

「コレ、もう止めなさい」

「なんで」

「健康に悪いから」

「今更だね」

 

 そうやって答える僕をよそに、ジェンティルが手にある煙草の箱を見つめた。

「ずっと気になっていましたの。いつからこんなものを?」

「さあね。覚えてないよ。……思い出したくないだけかもね」

「……もしかして、これも私を失望させるため?」

「どうだろう。大人になりたかったのかもしれない」

「くだらないわね」

 

 吐き捨てるように呟いて、ジェンティルが煙草を握り潰す。

 

「禁煙しなさい。ライターも没収です」

「……さすがにそれは見過ごせないよ。大体、なんで急に今になって……」

「想いを寄せる人に、少しでも長生きしてほしいと願うのはおかしいかしら?」

「………………」

 

 ほどなくして、ジェンティルは僕が渡したライターを受け取った。

 

「いい子ね」

「……僕の人生の中で、唯一の楽しみだったんだけどなあ」

「こんなくだらないものに貴方の人生を費やさないで」

「そう言われても。日課になってたんだよ」

 

 するとジェンティルは一度、僕に向き直ってから。

 

「なら、これからは代わりに私を満喫しなさい」

 

 ……というと?

 

 

「もっとそちらに寄ってくださる?」

「無茶言わないでよ……」

 

 あれから一通りの家事を終わらせたら、いつの間にか夜の九時になって。

 明日もお互い学校だのバイトだので早いから、早く床に就こうと話をしたあと。

 なぜか僕とジェンティルは、一つのベッドに並んで横になっていた。

 

「今からでも遅くないから、もう一つ布団出そうか?」

「結構です。私を満喫するのでしょう?」

 

 なんて言って、ジェンティルが布団の中で僕と指を絡ませる。

 

「……ワガママだな、君も」

「ご存じなかったのですか?」

「いや、知ってたよ。改めて思っただけ」

「そう」

 

 短く答えたジェンティルは、けれど少し嬉しそうに微笑んだ。

 

「……でも、私は貴方のことを何も知らなかった」

「知る必要なんてないよ。知ってほしくもなかったし」

「そうはいきません。だって私はこの人生を貴方と添い遂げるつもりですもの」

「まだ返事はしてないのに?」

「……貴方なら応えてくれると、信じていますもの」

 

 絡み合う指先と合わせた手から、彼女の柔らかな体温が伝わってくる。

 

「貴方の手がこんなに大きいことも、知らなかった」

「……そうだね。君に手を繋がせたことは今まで一度もなかった」

「それは、私を遠ざけたかったから?」

「君にもっと遠くへ行ってほしかったからだよ」

 

 僕の手から離れて、ずっと遠いどこかへ行ってほしかった。

 そうすることが彼女のためだと思ったし、それで僕も救われると思ったから。

 でも、そうはならなかった。彼女は今も僕の隣にいる。

 その事実は僕にどうしようもない諦めと、あるいは後悔を感じさせた。

 だけど、彼女の指先から伝わる暖かさには、どこか心地よさを感じてしまって。

 

「……ねえ」

 

 静かに問いかけるその声に、ジェンティルの方へ顔を向けると。

 

「抱きしめてはくれませんの?」

 

 ……………………。

 この子、初恋がどうとか言ってから、なりふり構わなくなってきてない?

 

「しないよ」

「どうして?」

「…………」

「……答えなさい」

「色々と言い訳を考えたけど……眠いから、パス」

「意気地のない人ね。私を満喫するのではなかったの?」

「言っとくけど今日一日だけでだいぶ胃もたれしてるからね?」

 

 平穏な日常が壊れた……なんて、酷いことを言うつもりはないけど。

 それでも、うん。とにかく今日は、どっと疲れたような気がする。

 ……それとも。

 

「満喫したいのは、もしかすると君の方だったりする?」

 返事はない。

 ただ、僕の手を握る彼女の力が、少しだけ強くなった。

 

「寂しかったの」

 

 それから彼女は、ぽつりぽつりと呟いた。

 

「僕がいなくなったから?」

「違う。貴方と出会うまで、ずっと」

「そうだね。君はずっと寂しそうだった」

「ええ。貴方は、そんな私に気づいてくれた」

「ただの気まぐれで、自分をよく見せたかっただけの行動かもしれないよ」

「貴方と出会って救われたのは、本当のことですわ」

 

 ジェンティルの瞳には、いつも通り憂鬱な表情を浮かべる僕が映っていた。

 

「貴方といれば寂しくなかった。だから、貴方と一緒にいたかった」

「……うん。僕と一緒にいる時の君は、ずっと笑ってたな」

「だって、貴方といると楽しかったから。これからも、そうしていたかった」

 

 そこで一度、彼女は息を飲み込んでから、また震えた声で。

 

「でも、貴方は私の前からいなくなった」

「そうすることが、君のためだと思ったから」

「私を悲しませることが?」

「…………ごめんね」

「いいの。だって貴方が今、ここにいるから」

 

 返せるものは、もう何もなかった。

 

「私はもう、一人になりたくない」

「……だから、僕を自分のモノにしたい?」

「ええ。それと同時に、私も貴方のモノになりたい」

 

 そしてジェンティルは、僕の手を自分の頬に添えてから。

 

「暖かい……」

 

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