メリー・バッド・エンド   作:宇宮 祐樹

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 携帯のアラームの音で、ゆっくりと意識が覚醒する。

 はじめに覚えたのは左手の不自由感だった。まるで誰かに握られているような。

 そこから指を動かすと、柔らかな肌の感覚が鮮明に伝わってきて。

 ……ああ、そうか。あの後、すぐに僕は眠っちゃったのか。

 瞼を開くと、朝焼けの青い空気に包まれた景色が視界に映る。

 そしてその中心には、こちらを見つめるジェンティルの姿が映っていた。

 

「……おはよう」

「おはようございます」

 

 どうやら少し前から起きていたらしい彼女が、はっきりとした声で答える。

 だけど彼女の眼の下には、うっすらとクマが浮かんでいて。

 

「あんまり眠れてないでしょ?」

「ええ。貴方の可愛い寝顔を見ていたら、つい時間が経ってしまって」

「じゃあ、なおさら布団敷いて、別々で寝るべきだったね」

「貴方は?」

「狭かった」

「失礼な人ね」

 

 不満そうに吐き捨ててから、ジェンティルが身体を起こす。

 

「身支度をしてきます」

「朝食、どうする?」

「頂けるのなら。簡単なもので構いませんわ」

「じゃあ適当に用意しておくね」

 

 そうやって脱衣所に向かうジェンティルを見送ってから、僕も体を起こした。

 ベッドを整えてから寝間着から簡単に着替えて、適当に冷蔵庫の中身を漁る。

 ……食パンと、卵。このハムは……いや、期限が怪しいな。やめておこう。

 野菜があったらよかったんだけど、あいにく野菜室はもぬけの殻だった。

 まあ、簡単なものでいいって言ってたし、いいか。

 フライパンにバターを敷いてから、食パンと卵を落とす。

 

「貴方の分は?」

 

 準備を進めていると、いつの間にか制服姿に着替えた彼女にそう聞かれて。

 

「僕は朝、食べられないんだよ」

「……初めて聞きましたわ」

「別に言ってなかったからね」

「そういうところよ、貴方」

「こればっかりは普通に話す機会がなかっただけだよ」

 

 汁物とか飲み物だったら、口の中に入れられるんだけどなあ。

 というか、まあ、歯磨きしてないのにモノ食べるのがイヤっていうか。

 なんて話をしようと考えた前に、いつの間にか料理も出来て。

 ちゃっかりテーブルの前に座っているジェンティルに、朝食を差し出した。

 

「先に食べてて。その間に僕も色々準備してくる。あ、ゆっくりでいいからね」

「では、お言葉に甘えて。……いただきます」

 

 そうしてジェンティルが朝食を摂っている間に、僕も身支度を済ませた。

 といっても、財布に携帯、飲み物を鞄に詰め込んで終わった。

 それと、煙草は……ああ、そうか。そういえば、そうだったな。

 

「……まあ、止めるにはいい機会だよな」

 

 何も入っていないポケットは、どこか物寂しいような気がした。

 

 

「学校、間に合うの?」

「ええ。この時間なら問題ありません」

「ならいいけど」

「それに多少遅れたところで、大した影響もありませんわ」

 

 駅までの道のりを二人で歩きながら、そんな会話を交わす。

 

「……これから、どうするつもり?」

「というと?」

「僕が君のトレーナーに戻るって話。具体的なことは何も話してなかったから」

 

 よくよく考えてみれば、かなり無茶な話だ。

 一度学園を離れたトレーナーが、おいそれと元の担当に戻れるわけもない。

 辞職願は既に提出済み。後任もセンセが担当してくれている。

 昨日は勢い任せかつ、強引に話を進められたから思わず流されちゃったけど。

 改めて、簡単に首を縦に振れるようなことじゃないよなあ。

 

「私の方から一度、トレーナーに掛け合ってみますわ」

「どんな風に?」

「学園外でのトレーニングの許可申請を」

「……そんな制度、あの学園にあったっけ?」

「特別措置にはなるでしょうね。とはいえ、前例のない話でもないでしょう」

 

 確かに無理な話ではないと思う。

 正式な手続きを踏めば、普通に受理されるはずだ。

 というより、問題はそこじゃなくて……。

 

「センセの気分次第だな」

「でしたら、問題ありませんわね」

「なに、今のセンセそんなに機嫌いいの?」

「いいえ? 貴方がいなくなってからというものの、ひどく不機嫌ですわ」

「あー……まあ、そりゃそうか」

「それに担当する生徒も二人に増えたので、大変お忙しそうにしていましたわよ。ですから、私が貴方のところに行くと知れば、喜んで送り出してくれるかと」

 

 そういう事情なら、今はだいぶ助かるけど。

 ……その後が怖いなあ。

 

「またセンセに灰皿の中身、ぶっかけられるかもね」

「痴話喧嘩は有馬記念が終わった後にしてくださいまし」

 

 白い息を吐きながら、ジェンティルはそう答えた。

 

「トレーニングコースはどこでするの?」

「あの公園、使えないかしら」

「……? あそこ使いたいの? なんで?」

「この近くで、他にいい場所があるのならそこで構いませんけれど」

「いや、そうじゃなくて……」

 

 なんて言いかけたところで、また嫌な予感がして。

 

「……怖いこと聞くんだけど」

「何でしょう」

「もしかして有馬記念までずっと、僕の家で寝泊まりするつもり?」

「そのつもりですが」

「やっぱりか……」

 

 きょとんとした顔で答える彼女に、思わず肩を落とした。

 いや、まあ、そうか。わざわざ夜になって学園に戻らせるのも危ないか。

 それならトレーニングしたあと僕の家に泊まって、今日みたいに登校した方が、まだ安全だし色々と都合もいいんだろうけどさ。

 

「何か問題がありまして?」

「いや、いいよ。ここまで来たんだ、今更何も言わないよ。ただ……」

「ただ?」

「……君、この状況を利用してない?」

「さて。どうでしょうね」

 

 相変わらず、ジェンティルは短く答えるだけだった。

 なんて会話をしているうちに、僕とジェンティルは駅まで辿り着いて。

 

「また会うのは放課後になるかしら」

「センセの機嫌が悪いままなら、そうなるのかな」

「では、今の貴方の情けない現状を事細かに伝えませんと」

「勘弁してよ……」

「それで、連絡はどちらに?」

「昼過ぎまでならあの靴屋でいいよ。昼過ぎからは家にいるから、そこで」

「分かりました。では、そのように」

 

 そうして改札へ向かおうとしたところで、ふと。

 ジェンティルが思い出したように、僕の方に振り返って。

 

「行ってきます」

 

 ……ああ、そうか。

 

「行ってらっしゃい、ジェンティル」

 

 満足そうに微笑む彼女に、手を振って送り出した。

 

 

 結局のところ、学園外でのトレーニング申請は正式に受理された。

 『戻ってきたらアンタ、覚悟しときなよ!』というセンセの言葉と共に。

 ……灰皿の中身どころか、灰皿がそのまま飛んできそうだなあ。

 とにかく、これで僕は正式にジェンティルをトレーニングできるようになった。

 全て元通りになったわけじゃないし、有馬が終わった後の問題もある。

 それでも、彼女は僕の見慣れた、いつも通りの笑顔を浮かべていた。

 

 トレーニングには、お孫さんとレースをしたあの公園を使うことにした。

 とはいえ勝手に使っていいわけもないので、街の自治体に相談してみたところ、既に話が学園から行っていたみたいで、手続きはとんとん拍子で進んだ。

 ……センセが手引きしてくれたのかな。

 いつか学園に戻った時には、改めてお礼しないと。

 

 靴屋のバイトは、店長に伝えた通り午前中だけ出勤する形で続けている。

 本当は辞めてもよかったんだけど、もうしばらくは今の家に住むわけだし。

 何よりお孫さんにはまだ、お別れの言葉も感謝の気持ちも伝えられていない。

 だってあの子は、僕とジェンティルを引き合わせてくれた恩人なんだ。

 その優しさを無碍にすることは、したくなかった。

 ……それに。

 何も言わずに誰かの元から去るのは、もうやめることにした。

 

 靴屋のバイトが終わったら、午後はジェンティルのトレーニング。

 コーナーの多い公園のコートは、幸か不幸か有馬のいい想定コースになった。

 お孫さんとレースをした時も思ったけど、やっぱりこの子はコーナーが苦手で、特に踏み込みの力加減の調整が難しいせいで、フォームが崩れがちになる。

 逆に言えば、ジェンティルドンナの欠点はそれ以外に無い。

 というかそれ以外の長所は、むしろ僕が担当していた頃より伸びている。

 ……長所を伸ばして自分の強みを押し付ける。センセらしいやり方だな。

 

「意外でしたわ。貴方、あの人の生徒だったんでしょう?」

「だから僕が、センセと同じやり方をすると思ったって?」

「そう考えた方が自然ではないかしら」

「まあ、そうだね。だけど君は僕を選んだんだろ? なら、僕のやり方でやるよ。だから君には、僕の理想とするジェンティルドンナになってもらう」

「……その理想とやらを、お聞かせ願える?」

「この世代を象徴する、完璧なウマ娘」

 

 僕の言葉に、ジェンティルはただ満足そうに頷いていた。

 トレーニングが終わってからは、二人で一緒に僕の家に帰る。

 道中で夕食の材料を買ったり、たまに少し回り道をして散歩をしたり。

 至って普通な、言ってしまえば退屈な日常を、二人で過ごしていた。

 ただ、この子とこんな風に過ごすのも悪くないな、なんて。

 買い物カゴを吊るしながら、スーパーの生鮮食品とにらめっこする彼女を見て、なんとなくそんなことを考えたりもした。

 

 家にはジェンティルの私物がどんどん増えていった。

 初日にスーツケースを持って現れたときから、既に諦めはついていたけど。

 コップや歯ブラシ、着替えに化粧品、果てには本や鉄球ケースまで。

 そもそも僕が何も持たずに越してきたってのはあるけど、今では僕の物よりも、ジェンティルの物の方がこの家には多くなる始末になっていた。

 ……まあ、別にいいんだけどさ。

 

 家についたら、先にジェンティルにシャワーを浴びさせて、僕が料理を作る。

 それから適当にお喋りしたり、テレビを何の意味もなく眺めたりして。

 眠る時間になったら、一つのベッドに二人で横たわって。

 握り合った手からお互いの体温を感じながら、眠りに就く。

 そうして朝になったら、ジェンティルと一緒に駅までついていって。

 行ってらっしゃい、なんて言葉と共に彼女を学園に送り出す。

 それが、今の僕にとっての日常になった。

 

 初めは不安があったけど、案外この生活も悪くないと思えた。

 もっと正確に言うなら、思ったよりも彼女が横暴じゃなかったというか。

 家事の手伝いとか洗濯物とか、ゴミ出しとかも積極的に手伝ってくれた。

 まあ、彼女も押しかけている身だということはさすがに弁えているみたいで。

 

「レースまで近いんだから、もっとゆっくりしてもいいのに」

「だからといって、怠惰な姿を晒すわけにはいきませんわ」

「僕しかいないよ」

「貴方しかいないからですわよ。それに……」

「……それに?」

「こうしていると、貴方と一緒の時間を過ごしている実感が湧いてきますもの」

 

 ……やっぱりこの子、この状況をうまく利用してるよなあ、って。

 鼻唄を歌いながら洗い物をしている彼女の背中を見て、そう思った。

 

 そんな生活をしばらく続けていると、いつの間にか月日も経っていて。

 そうして迎えた、有馬記念があと一週間に迫る土曜日の午前のこと。

 

「今日から入った新人のジェンティルドンナちゃんだよ」

「よろしくお願いしますわ」

「何してんの?」

 

 目の前に立つエプロン姿のジェンティルに、思わずそんな言葉が漏れた。

 

「見ての通り、アルバイトですわよ」

「そりゃ見れば分かるよ、僕と同じエプロンつけてるんだから」

 

 どちらかというと、今ここに立っている理由の方を聞いたつもりなんだけど。

 

「確か僕、今日の午前中は休養に充てるって言ったよね?」

「ええ。ですが、ただ暇を持て余すのもどうかと思いまして」

「そんな勝手なこと……ってか、そもそもいつの間に店長と?」

「昨日、孫から言われてね。まあ、ジェンティルちゃんみたく可愛い子がおれば、うちの宣伝にもなるし。それに一日くらいなら、こっちも別に構わんしなあ」

「そうですか……」

「とにかく、二人に色々と教えたってね」

「ああ、もう……。分かりましたよ。雑務だけさせときます」

 

 あまりにも大雑把に言ってくる店長に、溜息と共にそう答えたところで、ふと。

 

「……二人?」

「ええ。もうそろそろ準備も終えて来る頃かと」

 

 何やら不穏な単語に僕が聞いてみると、ジェンティルがそう答えて。

 やがて店の奥から聞こえてきた足音に振り返ると、そこには。

 

「お待たせしました、マーちゃんです」

「何で?」

 

 ここまで来ると、意味不明すぎて怖いんだけど。

 

「営業が得意とのことでしたので、連れてきましたわ」

「アレは営業じゃなくて押し売りって言うんだけど」

「むっ。今のは聞き捨てなりませんね。マーちゃん、悲しくなっちゃいますよ」

「謝りなさい」

「君らホントに仲いいね……」

 

 なんて話をしているうちに、開店時間も近づいてきて。

 午前中だけだ、と自分を無理やり納得させて、二人の面倒を見ることにした。

 とはいえ、この午前中のためだけに接客やレジ打ちを教えるのもなあ。

 だから品出しや掃除、あとは荷物運びなんかを二人にさせていたところで。

 

「こちらの山積みになっているシューズは?」

 

 バックヤードにある段ボールの山を見たジェンティルが、そう声をかけてきて。

 

「ああ、それは触んなくていいよ。てかまだだいぶ残ってるなあ、コレ」

「あまり売れ行きはよろしくないのですか?」

「僕の知る限りではいいヤツなんだけどね。まあ、客層が合ってないっていうか」

 

 店長には悪いけど、ここって商店街の小さな靴屋さんだしなあ。

 しかもだいぶ年季の入った、老舗とはいかないまでも、常連客の多いお店で。

 それこそ二人みたいな現役で走る若い子が、わざわざここに来るわけもない。

 一応うちもウマ娘用の商品は揃えてますよー、って体裁のために仕入れたけど、結局足もつかないまま、こうしてバックヤードの肥やしになっているのが現状だ。

 

「君たちだってトレーニング用品見に行くなら、都心とかネットで探すでしょ」

「はい」

「当たり前ですわ」

「容赦ないな……。でも、そういうことだよ」

 

 そんな風に伝えると、ふとジェンティルが何か思いついたような顔で。

 

「では、こちらのシューズは私たちにお任せを」

 

 なんて言い出すものだから、思わず眉間に皺が寄った。

 

「……何するつもり?」

「こちらの商品を売り捌いてこようかと」

「どうやって……」

「こんな時のための彼女ですわよ」

「なるほど、アレの出番ですね。すぐに持ってきます」

 

 そんな話をしたあと、マーちゃんが二つの段ボールを抱えながら現れて。

 

「では、こちらのちびマーちゃん人形を特典につけるのはどうでしょう」

「うわっ、出たコレ。うじゃうじゃいる……」

「虫さんみたいな扱いはやめてください」

 

 頬を膨らませるマーちゃんをよそに、もうひと箱の段ボールを見やる。

 

「……こっちの箱に入ってるのは?」

「私がこれまで圧縮してきた鉄球たちですわ」

「いつ持ってきたの、こんなの……」

「この子がここに来るとき、一緒に持ってこさせましたの」

「とっても重かったです。ムキムキマーちゃんになっちゃうところでした」

「そちらの方が可愛げがありましてよ」

「その子のトレーナー兼マネージャーさんに怒られるからやめなさい」

 

 あの人、普段は真面目なのにマーちゃんのことになると人が変わるからなあ。

 だから、できるだけ変な刺激を与えたくないって言うか。

 

「それで、どうしますの?」

「うーん……」

 

 いつも通りの距離感での会話を交わす二人をよそに、一人で考える。

 ……正直な話、このシューズも結構場所取って邪魔だったしなあ。

 特典目当てのお客さんに買ってもらえるだけでも、結構アリっちゃアリか。

 この子たちなら知名度的にも、集客はかなり期待できるだろうし。

 何よりこんなモノを持ってくるあたり、初めからそのつもりだったんだろうな。

 ……まあ、そういうことなら、やらせてみてあげてもいいか。

 

「分かったよ。任せてみる。特典付きで一旦、売り場に出してみよう」

「やりました」

「ふふっ……。ええ。私達にお任せくださいな」

 

 数分後。

 

「足枷みたいになっちゃいました」

「ほとんど脱獄犯ですわね」

「……物騒なのは困るなあ?」

「すいませんホント、今すぐやめさせます、すいません」

 

 

 結局、特典の人形と鉄球はお客さんがどちらか選ぶ形になった。

 そうして事前告知も何もなしに売り出したんだけど、結果は案外上々で。

 完売までとはいかなくとも、午前中だけでそれなりの数がハケた。

 ……まあ、店頭の掃除を二人にさせのが、一番大きそうだけど。

 とにかく今日のシフトはこれで終了。二人のお手伝いも終わり。

 

「案外、なんてことはありませんでしたわね」

「そりゃ二、三時間だけだしね」

「でも、シューズが売れてよかったです。朝っぱらからあの重たい荷物を抱えて、電車の中でかわいそうな視線を受けながら運んだ甲斐がありました」

「大変だね、君も……」

 上がる前に店頭の商品を整理しながら、そんな会話をしていたところで。

「うわっ、本当にいる……」

 

 いつか聞いたような口ぶりで言われたから、思わず振り返ると、そこには。

 僕たちを見て引きつった顔を浮かべるシーナちゃんの姿があった。

 

「シーナちゃん? 久しぶりだね」

「はい、お久しぶりです。元気そうで何よりね」

「まあね。一応なんとかやってるよ」

「遅いですわよ、ヴィルシーナさん」

「こっちにも予定というものがあるんです!」

 

 ……シーナちゃんとジェンティルのやり取りも、久しぶりな気がする。

 

「というか、あの子も呼んだんだ?」

「ええ。せめて売り上げに貢献しようと思いまして」

「そうですよ。急に連絡があったと思えば、靴屋に来いだなんて」

「それで律儀に来る君も君だね……」

「まあ、面白いもの見たさというのはありますけれど」

「でも残念です。私たち、もう上がっちゃいますよ?」

「いいのよ。ちょうど私も普段使いの靴を見ようかと思っていたから……」

 

 なんて話をしながら、シーナちゃんが売り場の商品を眺めて。

 

「え、何ですかコレ……。脱獄犯?」

「ジェンティル! マーちゃん! 片付けてきなさい!」

「あ、バレちゃいました!」

「仕方ありませんわね……」

 

 しぶしぶといった様子で、足枷付きのぬいぐるみを抱えて二人が店に戻る。

 そうしてシーナちゃんと二人になったところで、ふと彼女が口を開いて。

 

「午後からのトレーニング、私も参加していいですか?」

「え? ……ああ。あの子から聞いたんだ。別にいいけど」

「ありがとうございます」

「でも、やけに突然だね。僕があの子を独り占めしてるのが面白くなかった?」

「そんなつもりは一切ありません。ただ、久しぶりにジェンティルさんと走って、あの人が本当に元通りになったのか、この目で確かめたいだけ」

 

 ……え。

 

「ちょ……っと待って。最近、あの子と走ってなかったの?」

「走ってませんよ。貴方が学園からいなくなってから、一度も」

「……センセはそんな厳しい人じゃないと思うけど」

「知ってます。でも、ジェンティルさんが乗り気じゃなかったというか……」

 

 そうやって迷った後、少しだけ声量を抑えてシーナちゃんが話してくれた。

 

「貴方がいなくなってからのジェンティルさん、目に見えて落ち込んでましたよ」

「……そんなに?」

「私やオルフェーヴルさんが声をかけても、上の空になってることが多くて……。あの人の事だから、レースに支障が出ないようにしていたんでしょうけど。でも、誰がどう見ても明らかに不調でしたよ。見ていてこっちが痛々しくなるくらい」

「自分の事だからあまり言えないけど……よくジャパンカップ勝てたね、あの子」

「その少し前からですね。ジェンティルさんの調子が元に戻ったのは」

 

 ……ああ、そうか。その頃にはもう、お孫さんとお友だちになってたのか。

 だからその時には既に、僕の元に辿り着く算段を立てていたんだろうな。

 あの『全てを取り戻しに参ります』っていう言葉はきっと、そういうことだ。

 

「悪かったと思ってるよ。君にも迷惑をかけた」

「ホントです。でも、貴方が戻ってきてくれてよかった」

「まだ戻れるかはわからないけどね。でも、できる限りのことはしてみるよ」

「ええ、是非そうしてください」

 

 そうしてシーナちゃんは、改めて僕の方に向き直ってから。

 

「やっぱりあの人、貴方がいないと物足りないみたい」

 

 ともすれば、自分たちの姉妹に向けるものと同じ、優しい笑みを浮かべていた。

 

 

 午後のトレーニングもひと段落して、そろそろ日も暮れてきた頃。

 ジェンティルとシーナちゃん、そして何故か僕たちについてきたマーちゃんが、三人そろって汗だくになったまま疲れた顔をしているのを見て、ふと。

 

「そういえば近くに銭湯あるんだけど、今すぐサッパリしたい人っている?」

 

 無言で三人が手を挙げたので、そのままくたくたの皆を連れて銭湯まで行った。

 ついでに僕も久しぶりに湯船に浸かりたかったから、そのまま男湯に入って。

 僕が風呂から上がった時にはまだ、広間に彼女たちの姿は見えなかった。

 まあ、女の子だしなあ。お風呂が長くなっちゃうのも仕方ないか。

 だから広間で適当に髪を吹きながら、携帯を触って時間を潰していると。

 

「お待たせしました」

 

 どうやら先に上がったらしいジェンティルが、隣に座ってきた。

 

「今日、ご飯どうする?」

「鍋にしましょう。最近寒いですもの」

「あー……確かにいいね。あの子たちを送ったあと、帰り道に寄ろうか」

「それと先に聞くべきでしたが、あの家に土鍋はありますの?」

「何故かある」

「なら、決まりですわね」

 

 なんて何気のない言葉を交わしたところで、会話が一度止まる。

 そうして髪をタオルで拭うジェンティルに向き直ってから、また話を始めた。

 

「シーナちゃんと走るの、久しぶりだったみたいだね」

「ええ、まあ。忙しかったので、機会に恵まれず」

「どうだった?」

「相変わらず、私のことしか眼中にない子。久しぶりに鬱陶しく感じました」

「でも、シーナちゃんと走ってる君は楽しそうだったよ」

「そうね。あんなに心地よく走れたの、貴方がいなくなって以来ですわ」

「……悪かったよ。勝手にいなくなって」

 

 二度目の沈黙は、けれどすぐに霧散した。

 

「そういえば」

 

 思い出したような呼びかけに振り向くと、彼女は僕の目を見つめてから。

 

「まだ、貴方からの返事を聞いていませんが」

 

 ……………………。

 

「いっ……え、今? ここで聞くんだ、それ?」

「あら、いけないのかしら」

「そりゃ、だって……場所が場所だし、二人もいつ帰ってくるかわからないし」

「ですが私、ずいぶん待ったと思いませんこと?」

「いや、それは……そう、だけど」

「乙女を待たせるような男は後ろから刺されても知りませんわよ」

 

 湯船に浸かったからなのか、彼女の顔はほんのり赤く染まっていた。

 

「それで、返事は?」

 

 まっすぐとした彼女の視線と共に、またその言葉が渡される。

 ……躱しきれない。このままだと本当にここで返事を答えることになる。

 いくらなんでもそれは、ちょっと、さすがに恥ずかしいんだけど。

 

「……二人っきりの時がいいな」

「あら。それは既に答えを用意していると受け取ってよろしいのかしら」

「そう考えてくれると、すごくありがたいんだけど」

「ふふっ……。この期に及んで、まだ悪足掻きをなさるおつもりで?」

「そうなるね。ここまで来たら最後まで足掻いてみようかな」

「相変わらず意気地のない人。いい加減、見苦しくてよ」

「だけど、もう君を悲しませないことは約束する」

「……そう」

 

 シーナちゃんとマーちゃんの二人が姿を現したのは、そんな話のすぐ後だった。

 

「すいません、お待たせしてしまって……」

「ううん、大丈夫。むしろ今くらいがちょうどよかった」

「……どういうことですか?」

「こっちの話だから気にしないで」

 

 なんてシーナちゃんと僕が話をしている横で、マーちゃんがふと。

 

「ジェンティルさん? どうかしました?」

「いえ、何でもありません。お気になさらず。放っておいて」

「顔、赤いですよ? 私たちより先にあがったのに、のぼせちゃったんですか?」

「そんな生意気を言うのはこのぷにぷにの唇ですか?」

「んむー!」

 

 なんてわちゃわちゃ騒ぎ始めた二人を連れて、銭湯を出たあと。

 二人を駅まで送り届けようと、ジェンティルと一緒に歩き出したところで。

 

「あー……。そういえば、うちにまだポン酢ってあったっけ?」

「ほとんど残っていませんでしたわね」

「じゃあ、それも買い足しとこっか。あとなんかリクエストある?」

「ニンジン、白菜、長ネギ、お肉……。ああ、後はお鍋の素はどうしますの?」

「僕は結構辛いのが好きなんだけど、君が苦手だしなあ」

「ですから何度も言っていますが、別に辛いモノが苦手では……」

「今日、お鍋にするんですか?」

 

 え。

 

「……うん。さっきそういう話をジェンティルとしてたから……」

「今日、お鍋にするんですか?」

「そうだよね。ちょうどお腹も空いてくる時間だよね」

「今日、お鍋にするんですか?」

「君ってそんなに鍋好きだったっけ?」

「今日、お鍋にするんですか?」

 

 目をきらきらと輝かせながら、壊れた機械みたいにマーちゃんが聞いてくる。

 ……まあ、お腹を空かせたままこの子たちを帰らせるのも、酷か。

 それにしたって、ちゃっかりしてるなあ、この子。

 

「シーナちゃんは?」

「……そうですね。お腹も少しだけ減ってきたかもしれません」

「まったく、仕方のない子たちだこと……。食べたら早く帰るんですのよ?」

「僕が言うセリフ、盗らないでね」

 

 ただ、そんな風に彼女たちと話すジェンティルが、とても楽しそうに見えた。

 

 

 それから僕たちは結局、四人でスーパーに寄ることにして。

 あーでもないこーでもない、でもやっぱりお鍋にはシイタケが欠かせませんよ、貴女そんなに鍋奉行でしたの? なんて言いながら、材料を大量に買い漁って。

 家に着いてから、僕とジェンティルの二人で鍋を作りはじめた。

 そうして料理してる間に、よく見るとこの家にベッドが一つしかないこととか、洗面所に歯ブラシが二つ並んでいることとかを、主にシーナちゃんに詰められて。

 

「……貴方たち、これってただの同棲じゃ……」

「はい! みんな、お鍋できたよー!」

「わーい!」

 

 その先の言葉は、鍋を食べさせることで黙らせた。

 

「はい、取り皿。それと二人は割り箸ね」

「箸まで持ってきてるんですか、ジェンティルさん」

「この子、僕の家に泊まる初日にスーツケース持ってきたよ」

「ニンジンいただいてもいいですか?」

「あ、私も少し……」

「貴女たち、ニンジンばかり食べてないでお肉も食べなさい」

「ウマ娘と鍋囲んだら逆転するんだなあ、この流れ」

 

 そうやって狭い部屋の中、四人で賑やかに鍋をつついて。

 食べ終わった頃に電車の時間も迫っていたから、少しバタバタして家を出た。

 

「すいません、ご飯まで頂くことになって」

「別に気にしないでいいよ。おいしかった?」

「はい。とってもおいしかったですよ」

「貴女は結局、ニンジンばっかり食べてましたわね」

 

 なんて話をしているうちに、そろそろ時間になって。

 

「今日はありがとうございました」

「また学園で会いましょうね、二人とも」

 

 改札を通る二人を見送った後、何でもなしにお互いに見つめ合ってから。

 

「……帰ろうか」

「ええ」

 

 二人がいなくなって、どこか静かになった帰り道を並んで歩く。

 淡い街頭に照らされたジェンティルの横顔に、寂しさなんて感じなかった。

 

 

 

 きっと僕は、彼女のことが嫌いだったんだ。

 そうじゃなきゃ、嫌いになりたかった、なんて言葉は出てこない。

 ああ、そうだ。僕はジェンティルのことをずっと恨んでる。

 自分の人生や運命を全て奪っていた奴のことなんか、嫌いになって当然だ。

 ……だけど。

 僕はやっぱり、彼女のことを嫌いにはなれなかった。

 

「二人っきりね」

 

 ベッドで横たわるジェンティルが、僕にそう囁く。

 

「……気が早いよ」

「ここまできても、悪足掻きをなさるのね」

「そうまでしたいくらい、僕にとって大事なことなんだ」

「私の言葉に返事をすることが?」

「違う。君の事が」

 

 ジェンティルの手を、今一度強く握り返した。

 

「もう、君のことを傷つけたくない」

「今更ね。もうとっくに罅も入って、今にも割れてしまいそうなのに」

「なら、これ以上君を傷つけるようなことをしたくない」

「……そうやって罅をなぞることが、貴方の言う悪足掻きなの?」

 

 不安そうに揺れるジェンティルの瞳には、驚いた顔をした僕が映っていた。

 初めてだった。彼女のそんな表情を目にするのは。

 

「壊してしまうかもしれない」

「傲慢な人。私のことを砕けるとでも思ったの?」

「……寂しそうにしてただろ。ずっと」

「ええ、そうね。でも……」

 

 自らの不安をかき消すように、ジェンティルの指先が絡み合う。

 

「貴方がこれからも隣にいてくれるのなら、きっともう寂しくはならないから」

 

 ……そうだ。君はずっと、僕を自分のモノにしたかったんだよな。

 だけど僕は君のモノにはなりたくなかった。なるべきじゃないと思った。

 そうなってしまったら、僕は君に全てを捧げることになってしまって。

 僕が今まで隠してきた感情が、君を穢してしまうと思ったから。

 ……でも。

 

「悪足掻きはおしまい?」

 

 それでも君は受け止めてくれるんだな。

 薄汚れた僕の気持ちを飲み込んで、それでも僕を求めてくれるんだ。

 ……ずっと隠していた気持ちを、ジェンティルは伝えてくれた。

 それなら。

 

「君のことを、嫌いになりたかった」

 

 今度は僕が今まで君に隠してきたことを、伝える番だ。

 

「それは、どうして?」

「君が僕のほとんどを奪ったから。何もない僕は君を憎むことしかできなかった。いつか君のことを突き放して、どこか遠くに逃げてやりたかった。だけど……」

「……だけど?」

「それと同じくらい、君のことを大事にしたかった。だから嫌いになれなかった。結局、女の子の一人も嫌いになることのできない臆病者だったんだよ、僕は」

「ええ、そうね。だから私は、貴方の隣にいたくなった」

「……いい趣味してるね」

「誰のせいだと思ってますの?」

 いつしか僕の手は、君の両手に包まれていた。

「貴方はずっと、苦しそうな顔をしていましたわね」

「……そうだったな。君のそばにいると、心がぐちゃぐちゃになった」

「でも、もう大丈夫でしょう?」

 

 ジェンティルの瞳には、穏やかな表情を浮かべる男の姿が映っていて。

 

「こうして君と同じ日々を過ごしていくうちに、分かったことがあるんだ」

「……それは?」

「僕も君と同じくらい、寂しがり屋だったってこと」

 

 だって、そうだろ。

 これまで過ごした日々に、僕はどこか安らぎと優しさを感じていて。

 こうして君と繋いだ手の温もりを、二度と手放したくないと思ってるんだから。

 結局、僕たちはお互いに寂しがり屋だったんだ。

 

 ……ああ、そうか。そういうことか。

 あの時寂しそうにしていたジェンティルに、僕が寄り添った理由は。

 ジェンティルのことが誰よりも大事で、いつも笑ってほしいと思うのは。

 誰かが自分と同じ気持ちになってほしくなかったからだ。

 

「……私を自分のモノにしたい?」

「ああ。これからもずっと、僕の隣にいてほしい」

「それなら、言葉を頂きませんと」

 

 もう二度と、彼女に寂しい思いをさせないために。

 僕が伝えるべき言葉は、きっと。

 

 

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