文化祭の翌日。
教室にはまだ、祭りの余韻がほんのりと残っていた。色とりどりのポスター、半端に外された飾りつけ、床に散らばる紙テープ。
俺は、いつもより少し早く教室に着いた。
けれど既に、見慣れた姿が窓際に立っていた。
「おはよ、莉々華」
声をかけると、彼女はくるりと振り向いた。
長い黒髪が、朝の光にきらりと揺れる。
「……おはよ、薫」
その表情は、どこか気まずそうで。
でも、微かに笑ってくれたのがわかった。
あれからずっと、俺は昨日のことを考えていた。
観覧車の中で聞いた、莉々華の「好きになりそう」って言葉。
冗談っぽく笑っていたけど、俺の心には深く刺さって、まだ抜けきれてない。
そして今日。
文化祭の後片付けが始まる。
時間になるとクラスメイトたちがぞろぞろと集まり始め、担任が大まかな作業分担を発表した。
体育館へ椅子を返す組、装飾を片付ける組、掃除をする組――
「宮近と一条、ちょっと職員室に備品返却してきてくれ」
「えっ……」
莉々華が一瞬、目を見開いた。
俺はちょっとだけ笑った。
「行こっか、社長さん」
「……はいはい、秘書見習い君」
――まだ、からかい合える距離でよかった。
二人で並んで廊下を歩く。俺は軽く机上に置かれていた段ボールを持ち上げた。中には使い終わった事務用品が入っている。
「重くない?」
「余裕。莉々華こそ、昨日の疲れ残ってないか?」
「平気ー。昨日より心臓がうるさいくらいかな」
「え?」
「なんでもないし」
そっぽを向く彼女の横顔が、少しだけ赤く見えた。
俺は何も言わず、その横顔の意味を考えるだけにした。
職員室へ向かう廊下は静かだった。
普段の登校中や、帰り道とは違って、今日のこの時間はなぜか特別に思える。
何かを言おうか。でも、何を言えばいいのか。
「ねぇ、薫」
「ん?」
莉々華がふいに立ち止まる。
俺も足を止めた。
「昨日の……あれ。やっぱ、冗談だと思った?」
「……正直、わからなかった。でも――本気っぽく聞こえた」
莉々華は、目をそらしたまま頷いた。
「そっか」
「莉々華は?」
「え?」
「俺のこと、好きになりそうって言ったけど――それって、“なりそう”じゃなくて、“もう好き”だったりする?」
「……なによ、その言い方」
莉々華が、ぷいと横を向く。でも――返事をしないということは、つまり、そういうことなんだろう。
俺の心が、不思議と軽くなった。
「……そっか。なんか、安心した」
「……え?」
「俺も、同じような感じだったから」
莉々華が目を見開いた。
「え、え? うそ、なにそれ……! じゃあさっきの、からかってたの!?」
「半分は。残りの半分は――照れ隠し」
「……もー!」
莉々華が頬をふくらませる。その仕草が、なんだか無性に可愛く見えて、思わず笑ってしまった。
「何笑ってんのよ!」
「いや、ごめん。やっぱ、莉々華が一番楽しい」
「……へんなの」
そう言いながらも、莉々華の口元には微かな笑みが浮かんでいた。
職員室の前に着いて、俺たちはまた元の“距離”に戻った。
まだ、はっきりと“付き合っている”わけじゃない。でも、お互いの気持ちはきっと、もう気づいている。
後片付けが終わったら、少しだけ、前に進もう。
俺は段ボールを軽く持ち直し、扉をノックした。
莉々華の足音が、すぐ隣に並んでいた。
◇◇◇
午後の陽射しが傾き始めた頃、文化祭の片付け作業はようやく一段落した。
「ふぅ、終わったぁ……」
教室に戻ってきた莉々華が、椅子にどさっと腰を下ろす。
普段は社長として凛とした佇まいなのに、今の姿はただの“ちょっと疲れた女子高生”だった。
「おつかれ」
俺も隣の席に座る。肩に溜まっていた力がふっと抜けて、体が一気に重く感じた。
でも、不思議と嫌な疲れじゃない。むしろ心地いい。
「ねぇ薫。今日、このまま帰る?」
「いや、ちょっと教室片付けてから帰る。プリントも配られてたし」
「ふぅん……」
莉々華がぼんやりと窓の外を見つめている。
オレンジ色の光が差し込み、教室の中が少しだけ映画みたいな雰囲気になる。
さっきのやりとりから、もうお互いの気持ちはある程度、伝わってる。
けど“付き合おう”って言葉はまだ出してない。タイミングを探してるようで、探してないような。そんな微妙な空気が漂っている。
その時。
「ねぇ、ちょっとだけ寄り道しない?」
「……どこに?」
「うーん、秘密」
「……えー、怖」
「怖くないって。別に変なとこ行こうってわけじゃないし」
莉々華が小さく笑った。その顔がなんだか楽しそうで、俺は断る理由を見つけられなかった。
「じゃ、ちょっとだけなら」
「よし決定。じゃあ、帰りはそっちの方向ね」
「……ま、社長命令なら従いますよ」
「うん、いい部下でよろしい」
そんなふうに言い合いながら、俺たちは鞄を持って教室を出た。
下校中の廊下、そして階段。文化祭の余韻がまだ残る校舎の空気は、どこか懐かしさすら感じる。
(この日々が、ずっと続けばいいのに)
そんな考えがふと、胸に浮かんだ。
でも続くだけじゃきっと物足りない。俺はたぶん、今、変わりたいと思っている。
正確には――莉々華と一緒に、変わっていきたいと思っている。
校門を出て、莉々華が振り返る。
「ね、今日はさ、ちょっとだけわがまま聞いて」
「……なんだよ、それ」
「いや、だから……ちょっとだけ。莉々華の隣、ちゃんと歩いて」
莉々華が言う。何気ない言葉。
でも――それは、今の彼女にとって、すごく大事な“告白”みたいに聞こえた。
俺は一歩、彼女の隣に並ぶ。
「……うん。隣、いいよ」
「じゃあ決定ね」
莉々華の笑顔が、少しだけ大人びて見えた。
秋の風が吹いた。
夕日が校舎を照らして、長い影が二人の足元に伸びていく。
もうすぐ冬が来る。
それでも、この一歩一歩が、少しずつ何かを温めていく気がした。