翌朝。文化祭の後片付けも終わり、学校は再び、いつも通りの時間を取り戻していた。
薫は通学路の交差点を渡りながら、昨日の余韻のようなものが、まるで夢だったかのように消えかけているのを感じていた。
莉々華と2人で歩いた夕暮れ。
肩が触れるほど近くて、それでもどこか遠かった距離。
あのとき、確かに心は近づいていたはずなのに。
けれど今日。
校門をくぐると同時に、現実は容赦なく“日常”の仮面をかぶせてきた。
教室に入ると、いつものざわつき。
席に着けば、時間割通りの授業。
先生の声、ノートを取る音、窓の外を舞う鳥。何もかもが、昨日とは違って見えるのに、それでも変わっていないフリをしていた。
莉々華は隣の席で、変わらず静かに教科書を開いていた。
目が合えば、小さく微笑んでくれる。だけど、それ以上の言葉はなかった。
それが、何より苦しかった。
昼休みになっても、状況は変わらない。
教室内の喧騒のなか、彼女は他の女子たちと話している。
さっきまで一緒にいた距離が、急に数メートルも遠くなったような錯覚に襲われる。
――どうして、声をかけられないんだろう。
気持ちがある。それは確かだ。
だけど、それをどう言葉にすればいいのかわからない。
文化祭という“特別な時間”が、俺たちに与えてくれたものを、今のこの普通の時間がじわじわと奪っていく。
「ねぇ、薫くん」
そのとき、不意に背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには奏が立っていた。
長い黒髪をサイドでまとめた、清楚な雰囲気の女の子。
莉々華とはまた違う、柔らかさを持ったその表情が、微笑んでいた。
「今日、お弁当一緒に食べない?」
突然の申し出に、思わず目を見開く。
奏は気負った様子もなく、まるで以前からそうするのが決まっていたかのように自然だった。
「え、あ……うん」
断る理由もなく、気まずさをごまかすように立ち上がる。
その様子を、莉々華がちらりと見た気がした。
けれど俺は、視線をそらしてしまった。
奏と並んで歩きながら、校舎の階段を登っていく。
彼女の足音は控えめで、まるで風のように静かだった。
「なんかさ、今日の薫くん、ちょっと元気ないよね〜?」
踊り場で立ち止まって、奏が俺を見る。
「……そう見えるか?」
「うん。文化祭のとき、すごく楽しそうだったのに」
言われて、昨日の光景が脳裏に蘇る。
莉々華と二人で飾り付けを片付けた教室。
誰もいない廊下で、肩を並べて歩いたあの静けさ。
「たぶん……終わっちゃったから、かな」
「文化祭?」
「うん。なんか、あの時間が特別だったんだと思う。終わって、急に戻された気がして」
「そっかぁ〜」
奏は静かに頷いて、再び歩き出した。
屋上の扉を開けると、昼の光がまぶしく差し込んだ。
風が優しく吹き抜けて、喧騒から切り離された空間がそこに広がっていた。
「たまには、こういうのもいいでしょ〜?」
「……ああ。ありがとう、誘ってくれて」
2人で腰を下ろす。
空を見上げると、雲がゆっくりと流れていた。
「……薫くんってさ」
「ん?」
「もっと、自分のこと見ていいと思う」
「どういう意味?」
「たぶん……誰かのことを考えすぎて、自分がどうしたいかがわかんなくなってる、みたいな」
その言葉に、思わず心がざわついた。
莉々華の顔が浮かぶ。文化祭の中で見せたあの笑顔。
隣にいたい、そう思った。でも、それがどうしてこんなに難しいのか。
「ねえ、またここで、一緒に食べてもいい?」
奏の問いかけに、俺はうなずいた。
その言葉が、優しすぎて。
だけど――遠くの教室の窓から、誰かがじっと見ていたことには、まだ気づいていなかった。