教室の空気が静かになって、いつの間にかほとんどの生徒が帰ってた。
奏はまだ、席に座ったまま、教科書を閉じるタイミングを探していた。
(しゃちょー……)
目の端に映るその人の後ろ姿。
今日は帰らずに、ずっとノートとにらめっこしてる。
普段ならとっくに教室を出てる時間なのに。
(……もしかして、待ってる?)
いや、それは考えすぎだ。
しゃちょーが自分なんかを待つ理由なんて、ない。
だけど――
「ねぇ」
しゃちょーが突然、振り返った。
「奏、ちょっと話してもいい?」
一瞬、心臓が跳ねた。
「……うん」
気づいたら返事をしてた。
自分でも、驚くくらい素直な声だった。
しゃちょーは軽く頷いて、席を立つ。
そのまま教室の後ろ――窓際に近い方へ歩いていく。
奏も、そっと教科書を閉じて、後を追った。
夕焼けの光が教室に差し込んで、ふたりの影を長く伸ばす。
「今日のお昼……薫と、話してたよね」
その一言に、心臓がまた音を立てた。
「……うん」
「楽しそうだった」
しゃちょーの声は、いつもより柔らかくて、少しだけ寂しそうだった。
(しゃちょー……)
「奏、薫のこと……どう思ってる?」
真正面から聞かれて、息が止まりそうになる。
奏は少しだけ口を開いて、閉じて、また開いた。
「……好き、です」
たった一言だけど、これまでで一番勇気がいる言葉だった。
しゃちょーは、驚かなかった。
ただ、目を細めて、ふっと笑った。
「そっか。……なんとなく、そんな気がしてた」
(知ってたんだ)
しゃちょーは背を向けて、窓の外を見た。
風に揺れるカーテンが、夕陽に透けて、綺麗だった。
「薫の隣にいる奏、いい顔してたよ」
「え……」
「私、ずっと見てたから……わかる」
そう言う彼女の声が、どこか遠くに聞こえた。
「でもね、奏。――好きって気持ちは、誰かと比べて測るもんじゃない」
しゃちょーの横顔は、やっぱり大人びてて、ちょっと悔しいくらい綺麗だった。
「……うん」
「私は……まだ、薫にちゃんと伝えられてない」
そう呟いたその一言が、妙に胸に残った。
(しゃちょーも……怖いのかな)
しゃちょーほど完璧に見える人でも、揺れるんだ。
そう思ったら、少しだけ親近感が湧いた。
「……奏も、怖いかな。伝えるのが。怖くて」
「うん、それでいいと思う。ちゃんと怖がって、悩んで――それでも伝えたいって思えたら、きっとその気持ちは本物だよ」
しゃちょーはそう言って、微笑んだ。
その笑顔を見て、奏は思った。
(この人のこと、やっぱり嫌いじゃない)
むしろ、こんなに素直で、まっすぐで、少しずつ心を開いてくれるところ――
好きになってしまいそうなほど、優しい。
でも、それでも――負けたくない。
「……薫くんのこと、ちゃんと伝えたいって思ってます」
真正面から、目を見て言った。
しゃちょーは少し驚いた顔をして、それからまた、笑った。
「……うん。私も」
ふたりの間に、静かに流れる空気。
敵じゃないけど、ライバル。
不思議な感情を抱えたまま、夕焼けの中で並んで立っていた。
夕焼けに染まる教室で、しゃちょーの笑顔が頭から離れなかった。
奏はゆっくりと息をつき、バッグを肩にかけた。
「よし……」
小さな決意を胸に、奏は心の中で自分に言い聞かせる。
(これからもっと、薫くんに近づこう。ちゃんと話をして、もっと理解してもらいたい。しゃちょーにも負けたくないし、自分の気持ちも伝えたい)
教室を出ると、夕暮れの空気が少しひんやりとしていて、気持ちが引き締まる。
街灯が灯り始めた校舎の廊下を歩きながら、奏は自然と顔がにやけてしまうのを必死で抑えた。
(ああ、でも……どうやって話しかけたらいいんだろう。いつもと違う顔を見せたら、薫くん、びっくりするかな?)
ふと、昨日のしゃちょーの言葉を思い出す。
「好きって気持ちは、誰かと比べて測るもんじゃない」
奏はその意味を噛みしめるように歩いた。
恋って、競争じゃない。自分の素直な気持ちが大事なんだ――そう思うと、少し気持ちが楽になった。
校門を出て、友達と話す声が遠くから聞こえてくる。
奏は意を決して、明日、薫くんに話しかけるタイミングを探ろうと心に誓った。
(……きっと、うまくいく)
そう呟いて、奏は空を見上げた。
星はまだひとつも見えなかったけれど、確かに夜は近づいている。
そして、その夜が明ければ、きっと新しい一歩が踏み出せるはずだ。
小さく笑みを浮かべながら、奏は足早に帰路についた。