デスクの上に並んだ資料を整理しながら、莉々華はそわそわと落ち着かない気分だった。
(え、ちょっと待って。本当に来るの?)
いや、来るのは分かってる。薫が「行くよ」と言ったのだから、間違いなく来る。でも……。
(なんか、変に緊張するんだけど!)
自分の会社に薫がやってくる。しかも、今日は仕事の手伝い。以前、薫とそんな話をしていたら「どうせなら見習いさせろよ」と言われ、「じゃあ、一回やってみる?」と冗談半分で言ったのがきっかけだった。
でもまさか、本当に秘書見習いみたいなことをすることになるとは——。
「一条社長?」
「は、はい!?」
思わず大きな声が出た。
秘書の小山さんが、不思議そうに莉々華を見つめている。
「今日、お知り合いの方がいらっしゃる予定ですよね?」
「え、あ、うん。薫が……その、宮近薫が来るの」
「その宮近さんは、どのような関係の方ですか?」
莉々華は少し口ごもった。
(え、なんて説明すればいいの!?)
幼なじみ? 違う、幼なじみってほど小さい頃から一緒だったわけじゃない。友達? うーん、友達……まあそうだけど、なんかしっくりこない。じゃあ、ただのクラスメイト? いや、それは絶対に違う。
(どうしよう……)
しばらく悩んだ後、莉々華は無難な答えを出した。
「えっと……秘書見習い?」
「え?」
「う、嘘! 冗談!」
あまりに冷静な声で返され、思わず取り消す。
「まあ、友達……みたいな? いま、ちょっと仕事を手伝ってもらってるの」
「なるほど。では、宮近さんがいらっしゃったら、会議室にご案内しますね」
「うん、ありがとう!」
とりあえず話は終わった。
——が。
(やっぱり落ち着かない……!)
時計を見る。約束の時間まで、あと十分。
(薫、どんな顔して来るんだろ……)
普段の学校の雰囲気とは違う、この会社という場所で、薫はどうなるんだろう。ちゃんと真面目に仕事の手伝いをするのか、それとも相変わらずからかってくるのか。
(いや、あいつのことだから、からかってくるに決まってる!)
もう、想像できる。にやにやした顔で「お嬢様、今日は何をすればいいんで?」とか言ってくるに違いない。
「……ふんっ」
莉々華は気合を入れ直した。
(今日こそ、薫に一本取ってやるんだから!)
そう意気込んでいると——
「社長、宮近様がいらっしゃいました」
ついに、その時が来た。
(……っ!)
ドアの向こうから聞こえた声に、心臓が跳ねる。
莉々華はゆっくりと深呼吸をし、できるだけ落ち着いた表情を作って——
「案内して」
と、いつも通りの社長モードで答えた。
(ふふん、今日は負けないんだからね、薫!)
そして、会議室のドアが開く。
「よう、お嬢様。今日から秘書見習いの宮近薫だぞ。」
——うん、やっぱり予想通りだった。
案の定、薫はニヤニヤした顔で登場した。
(……やっぱりね!)
予想していたとはいえ、目の前でやられるとやっぱりイラッとする。
「はいはい、そんなふざけたこと言ってる余裕あるの? 今日の仕事、ちゃんとできる?」
「おっと、これは厳しい上司だな〜」
薫はおどけたように肩をすくめる。
「当たり前でしょ。ここは学校じゃなくて会社なんだから」
「はいはい、心得ました。一条社長の秘書見習い、全力で頑張らせていただきます」
ニッと笑って敬礼までしてくる。
(もう……!)
莉々華は深く息を吐き、気を取り直す。
「じゃあ、まずは簡単な資料整理から。クライアントごとに分類して、ここにまとめておいて」
「了解。……って、これ結構あるな?」
机の上に積まれた資料の山を見て、薫がちょっと眉を上げる。
「仕事なんだから当たり前でしょ?」
「まあ、そうだけど」
そう言いながらも、薫は素直に作業を始めた。
(……意外と真面目じゃん)
いつもは適当に流してるくせに、やる時はちゃんとやるんだから、ずるい。
しばらく二人で資料整理をしていると——
「なあ、これってどういう意味?」
薫がふと顔を上げた。手にはあるクライアントの契約書が握られている。
「えっと、どこ?」
「ここ。この条項の意味がよく分からないんだけど」
「ああ、それはね——」
莉々華は薫の隣に立ち、契約書を覗き込む。
「この部分は、要するに——」
説明を始めたその時だった。
(……あれ?)
気づけば、二人の距離がやたら近い。
肩が触れるくらいの距離。薫の体温が感じられる。
(な、なんでこんなに近づいてるの!?)
動揺しつつも、なんとか説明を終える。
「……っていうこと」
「あー、なるほどね。お嬢様、説明うまいな」
薫は感心したように頷く。
「当然でしょ」
「ふふ、頼もしいね」
……ちょっと、その笑顔は反則。
(もう、なんなの!)
最近、薫のこういうのに弱くなってる気がする。
莉々華は必死で動揺を押し殺しながら、仕事に集中することにした——。
だけど薫が仕事を進める様子を見ていると、意外と真面目にやっているのが分かる。
(……ちょっと意外かも)
「ん? 何か言った?」
「別に?」
じっと見つめていたのがバレたのか、薫が顔を上げる。
(しまった、無意識に見てた……!)
莉々華は慌てて視線をそらす。
「社長の視線が熱すぎて、プレッシャーで手が震えそうです」
「はいはい、余計なこと言ってないで手を動かして」
「はーい」
適当な返事をしつつも、薫は黙々と仕事を続けた。
資料整理、契約書の確認、スケジュール管理。
莉々華の会社は決して小さくない。だからこそ、やるべきことは山ほどある。でも、薫は文句も言わず、一つひとつこなしていった。
(本当に、思ったよりもちゃんとやってる……)
なんだかんだ言って、頼りになる。
それが嬉しいのか、悔しいのか、自分でもよく分からないけれど——。
「——よし、終わった!」
薫が最後の書類をまとめ、手をパンと叩く。
「お疲れ様。思ったより早かったね」
「でしょ? これなら秘書見習いじゃなくて、正社員でもいけるんじゃ?」
「……秘書見習いからやり直して?」
「厳しいなあ、社長は」
薫は苦笑しながら椅子にもたれかかった。
その瞬間——
「ふぅ〜! やっと終わったー!」
莉々華は小さく伸びをした。
「ん? 疲れた?」
「まあね。こうやって息抜きできる時間、なかなかないから」
「そっか。でも、今日は楽しかっただろ?」
「え?」
思わず薫を見つめると、彼はいたずらっぽく笑っていた。
「だって、俺と一緒に仕事できたし?」
「……なに、それ」
「いや〜、お嬢様が俺のこと見つめてたからさ? 仕事どころじゃなかったんじゃないかと思って」
「——っ!」
(ちょっと、何言ってるのこの人!?)
「み、見てないし!」
「ふーん? じゃあ、さっきの視線は気のせい?」
「き、気のせい!」
「へぇ〜、まあ、そういうことにしとくか」
ニヤニヤと笑いながら、薫は立ち上がる。
(くっ……! なんか悔しい!!)
「でも、また呼んでくれよ? 仕事、手伝ってやるから」
「……考えとく」
「おっ、ツンデレですね」
「……ほんとにもう!」
思わず頬を膨らませると、薫はますます楽しそうに笑った。
(なんなの、もう……!)
悔しいけど、こういう時間が楽しいのもまた事実で。
莉々華は小さくため息をつきながら、机の上の書類を片付け始めた。
薫が帰った後、莉々華はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(……なんなの、あいつ)
楽しかったのは事実だ。仕事を手伝ってくれるだけじゃなく、ちょっとした会話のやりとりも心地よかった。
だけど——
(いちいちからかってくるのが、ほんっとにムカつく!)
思い出すだけで、なんだか悔しくなってくる。
それに……
「……なんで、そんなに私のこと分かるの?」
つぶやいて、自分でハッとする。
最近、薫にいろいろと見抜かれている気がする。学校でも、会社でも、なんとなく莉々華の気持ちを察して先回りされてるような……。
(やっぱり、薫って、そういうの得意だったりする?)
そんなことを考えながら、机の上に視線を落とすと、整理したはずの書類の端っこに、何か書かれているのを見つけた。
小さなメモ——薫の字で。
《次の秘書見習い業務、楽しみにしてる》
「……っ!」
思わず紙を握りしめる。
(あいつ、ほんっとに……!)
悔しい。でも、次に来た時、どうやって言い返してやろうかと考えている自分がいる。
(……まあ、たまには仕事の合間の息抜きくらい、いいよね)
小さくため息をつきながら、莉々華はメモをそっと机の引き出しにしまった。