挨拶には辟易しているが、果々子はこの寮で大好きになった物がある。
寮食堂のご飯だ。
入寮してすぐ、最初の食事で心が跳ね上がった。
(なにこれ美味しい!)
そもそも果々子が『寮食堂あり』に飛び付いたのは、実家で家族のご飯を作り続けていたので、他人様の作った物を食べる生活をしたかったからだ。
そんなに大きな期待はしていなかったのだが、一口含んだ味噌汁に目玉が飛び出た。
作っているのは寮母さんと、二人のパートさんが交代で。
何にでもひと手間掛けて、煮物の出汁も素材によって変えてくれている、とにかく美味しい、トンでもなく美味しい。朝三百円、夕四百五十円で頂けるのが申し訳ないくらい。
思わずレシピを聞きに行って、果々子は入寮一ヶ月の間で一番たくさん喋ったのは厨房のおかあさんがたかもしれない(先輩たちは寮スタッフを「おかあさん」と呼んでいる)。
だから、だから許せない。
(まただ……)
週明けの月曜、夕食時。
口の中だけで呟いて、果々子は急ぎ足で通り過ぎる。
食堂でお喋りをしているグループに、男子学生が混じっているのだ。
彼らはカタコユリ荘の隣、ポプラ寮住人。
そう、いざ来てみたら、ポツンと孤立している筈のカタコユリ荘の隣に、でっかい男子寮がそびえていた。建てられたのは四年前で、果々子の母校に古い資料しかなかったのを恨む。
ポプラ寮の定員はこちらの倍もあり、『食事時に限りカタコユリ荘の食堂を利用可』なんて傍迷惑なシステムがある。
そして果々子にとって黄金のような食堂ご飯を、「ださい」「しょぼい」「味無い」と、ブツブツ言いながら食べている。自分が食育にしくじられた猿だとは露ほどにも分かっていない。
そもそも寮食堂なんて前世紀の代物は新築の寮には作られない。東の寮群には外部業者のフードコートが入っている。
元気に歩ける健常者なら徒歩数分なんだから、駄犬のように吠えていないで、とっととフードコートへ行って好きなモン食ってろ! と激しく思う。
そして・・ 文句を垂れ流しながらご飯を食べて、奴らはその後帰らないのだ。
ポプラ寮規は『食事時に限り利用可』、つまり『飯食ったら速やかに去れ』なのだが、猿犬がそんなのを守れる訳がない。女子の生活圏で消灯近くまで我が物顔で、牛のように居座る。大声で騒ぐ。
せっかく女子寮に入ったのに、女子寮の意味がない。
奴らの姿を見るだけで、声が耳に入るだけで、神経がケバ立ってイライラするので、この大好きな食堂からも果々子は足が遠退いてしまっていた。
***
果々子が食堂の扉を開けると、上級生がいつも通りに「おかえり」と声を掛けてくれる。
それに対してもポプラ寮の猿どもは、男子小学生のように笑うのだ。
挨拶に慄(おのの)いている果々子だが、自分に与えられた善意を横から汚されるのは腹が立つ。胸ぐら掴んで何がおかしいのかと聞いてみたい。
イラ付いている所に加えて、
「遠山さ――ん」
気安く呼び掛ける声。
男子学生の中で、同じ新入生の藤田麻美子が大きく手を上げている。ただ部屋が隣で初日に挨拶をしただけの赤の他人。
そのグループ、男子四名女子二名が、一斉にこちらを見る。
果々子のように男子に近付きたくない者とは逆に、これ幸いとハーレムを築きたい人種もいる。麻美子はそちら。
奴らにいい顔をして、洗濯物まで引き受けて、こちらの寮のランドリーを占拠したりもしている。
「これから夕食? ここへおいでよ」
冗談じゃない。
「……今日は申し込んでいないから」
寮食堂は事前申し込み制で、玄関設置の缶に朝夕決まった時刻までに名前を書いた食券を入れておかねば食事は用意されない。それを理由に断るが……
「大丈夫―― イヌイ君が帰って来ないから彼の分が残ってる――」
果々子は眉間のシワを二重にした。
麻美子は、食券を入れに来るのを面倒がる男子から冊子ごと預かって、確認もしないで放り込んでいるのだ。
男子は男子で、お金持ちなのか、無頓着なだけなのか、買った食券が無駄になっても平気なようだ。
「今日は魚と菜っぱで、ハズレだけど――」
ほらまた。ハズレってなに? 食事がいるかどうか確かめもしないで作らせておいて。厨房内の寮母さんを置物だとでも思っているのか。
「買って来たので」
生協の袋を掲げて見せ、一刻も早く離れようと出口の扉に急いだ。
でも、今日、アイナメの煮付けだったのか……あああ、食べたかったぁ……
こんな風に果々子は、ただ心の中で悪態を付いて俯いて通り過ぎるだけ。
だって言えない。
多分これからも……
と、扉を開けた所で背の高いショートボブの上級生と鉢合わせてしまった。
「あれ、生協ご飯?」
あまり見覚えの無い、妙に貫禄のある上級生に声を掛けられ、果々子はいつもより上ずって、無言で何回もお辞儀して通り過ぎようとした。
ショートボブ女子は果々子に構わず、たむろっている集団に向いて、朗とした声で高らかに言った。
「乾燥機を使っている方、カタコユリ寮生以外の洗濯物はただちに回収して下さい」
***
(おお?)
果々子は思わず立ち止まった。
麻美子たちは「洗濯してあげるぅ~」と男どもの洗濯物を預かり、カタコユリ荘のランドリーを独占し、譲り合って使っている物干しをデカイ衣類で圧迫したりもしている。今もきっと占拠中なのだろう。
「ぇ~~」
と小さい声で言いながらも麻美子は腰を上げない。男子はビックリして動揺しているのが二名、ニヤニヤしているのが二名。
食堂には他のカタコユリ寮生も十名ほどいて、手を止めてこちらを振り向いている。
「カタコユリ荘の設備はここの寮生の為の物です。隣のポプラ寮には最新のランドリーがありますし、まさかわざわざこちらの少ない洗濯機を侵犯しに来るような者はいませんよね。該当者がいないようでしたらただちに撤去、廃棄します」
ショートボブ女子は朗々と語る。
後ろの果々子は呆気に取られて眺めていた。
(いいなあ、こんなに淀みなく堂々と通達出来て、遥か雲の上の凄い人種だ)
「ココロせま――い」
麻美子が粘っこい声で呟いてプイと斜め上を見上げた。
「ヒス女、怖えぇ」
ニヤニヤ男子の一人が言った。
果々子の方が背筋をヒュッとさせる。
カタンと椅子の音をさせて、端で食事していた上級生女子の一人が立った。
「撤去作業手伝います、ナツ先輩」
「あ、私も。可燃ゴミ袋貰って来ます」
反対端でも立ち上がる女子。
おい捨てるなよ、という男子の声は無視され、私も、私も、と気が付けば食堂にいた十名ほどの女子寮生皆が立ち上がっていた。
麻美子の集団はいつの間にか取り囲まれている。
「い、いじめだわ、酷い酷い……」
泣き顔をつくる麻美子。
「フェミ女ども、おっかねぇ」
悪態をつくニヤニヤ男(もうニヤニヤはしていない)。
寮生たちは口を開かず、黙ってその場に留まっている。誰も口を開かずシィンとした空気。
寮母さんはというと、厨房内の奥に腰掛けて、我関せずで伝票作業をやっている。
「す、すみませんでした、持って帰ります」
無言の包囲の中、ニヤニヤしなかった男子の一人がやっと言った。
「早急にお願いします。でも男子学生は食堂以外は立ち入り禁止です」
男子も含めての視線が麻美子とグループのもう一人の女子に集まる。もう一人の女子は腰を浮かせたが、麻美子はドッカと足を組んだままだ。
「だってまだ乾いてない」
「では廃棄します」
「そんな権利あんたに無い」
「あるんやけど……」
の関西弁は、ショートボブ先輩と反対の入り口側、横髪に紫メッシュを入れた上級生が呟いた。
麻美子はギッとそちらを睨む。
「新歓の時に紹介があった筈やけど。『院生のタチバナ先輩はたまに学生課から依頼を受けて代行しに来ます』って」
「ああいうの、ちゃんと聞いておかないと、自分が損だよぉ」
また違う場所から別の上級生が言う。
果々子は隅で首をすくめた。自分も聞いていなかった。
少し動いてしまったのが良くなかったのか、麻美子に目を付けられた。
「ね、酷いよね、遠山さん。上級生が集団で取り囲んで脅して、これ苛めよねぇ、遠山さ――ん」
やめてやめて、巻き込もうとしないで。
しかし咄嗟の口が回らない。それでいつも割を喰うんだ、私。
逃げたかったが、ゆっくり振り向いたショートボブのタチバナ先輩という人にロックオンされてしまった。
何も言わずに果々子をじっと見る。
アーモンドみたいな目が見事なシンメトリーで凄く綺麗なんて、関係ない事を考えてしまった。