裏カレー大会の翌日、四月三十日火曜日、平成最期の日。
三十年続いた平成にこれといった感慨もなく、果々子は学校の裏山で、ドラゴンフライ先輩に山菜を教えて貰っていた。
昨日はバーベキューで賑やかだったらしい校内からも、ここは隔絶された静けさ。
「あったあった、コゴミありました」
「ブブ――、それ鬼ゼンマイ。茎の断面の形で見て」
「ホントだ、全然違います」
「確実に見分けられる物以外は避けた方がいいよ。キトビロと鈴蘭とか、ニリンソウとトリカブトとか、花無いと紛らわしい癖に混生してるし、間違えたら洒落にならない」
「わ、分からない物は手出ししないようにします……」
「その点ネマガリ筍は類似品が無いから安心。でもこっちは熊がヤバい」
「ひぇっ、そんなにヤバいんですか」
「ヤバいヤバい」
「こんな所に熊出るんですか」
「山の幸はどこでも熊さんと競合」
「え、ええ……」
「ここは人の住む街にぐるっと囲まれた島みたいな山だから比較的安全だけれど、それでも100%じゃない」
「は、はい……先輩は熊って会った事あります?」
「自分はないけど、叔父さんは内地でツキノワに会ったってさ。釣りで沢を上ってて、角を曲がったらそこに居て」
「うええ、怖い」
「叔父さんの場合、相手が木の又みたいな所で寛(くつろ)いでボケ――っとしていてくれたからまだよかったって。一瞬誰かの毛皮コートか、まさかのヌイグルミと思いたかったけれど、やっぱり熊で。
自分は空気、自分は空気~~と唱えながらそ――っと後ずさって帰って来られた。それ以来も渓流釣りはやるけれど、人間の痕跡の切れる奥へは踏み込まないようになった」
「そんな事があっても釣りは行くんですか」
「イワナ好きだからね」
しばらく山道からチシマ笹の藪に目を凝らして歩き、先輩は地面の一ヶ所を指差した。
「ほら、そこの落ち葉が盛り上がっている所」
「ええ……何処ですか」
「ここ」
先輩が藪に踏み込んで軍手の指を突っ込むとポキリと音がして、タケノコのミニチュアみたいなのが引っ張り出された。
「すごい、何で分かるんですか!」
「慣れよ」
「私も見つけたい!」
果々子の興味を持ったら猪突猛進が炸裂して、粘った末やっと自力で一本見付ける事が出来た。
「ありましたあ!」
「良かったね」
誉めて貰って気を良くし、ふと見ると少し先にもっと太いのがある。一度見つけたら目が慣れるというのは本当で、次々と見付ける事が出来た。
そうして四本五本収穫して……
「あれ?」
どっちから来たっけ?
立ち上がったが、自分より背の高い笹にギュウギュウ押されて背伸びも出来ない。えええ……?
「日向先輩――!」
返事はない。
数分しか経っていない、そんなに遠く離れていない筈。
急に熊の話を思い出した。この藪の奥に潜んでいたら? 太い笹に足を取られて身動きもとれないのに。
「せんぱーい、せんぱあーい!」
こんなに呼んで返事がないなんて、まさかまさかまさか
「くまですか、くまにおそわれてるんですか!」
ガサガサガサ
「いま、いま行きます! いま行きますよっせんぱいっっ!」
ガシッ!!
いきなり足首を噛まれた。
「ひいいいいい!」
「いいから落ち着いて」
違う、噛まれたんじゃなくて掴まれたんだ。
先輩が腹這いになって、藪の間から手を伸ばして足首を掴まえてくれていた。
「こっち」
導かれて這うように藪を進むと、六、七メートルも歩かずに山道に出た。何処で迷っていたんだ、私は……
ほうほうのていで抜け出して、やっと立ち上がったら、「はいダニ点検――」と、頭や首筋をワシャワシャされた。
「こっちからも呼んでいたんだけれどね。笹藪ってけっこう声を吸い込む」
「そ、そうなんですか」
交代して先輩の首筋を点検しながら、『笹迷い』の怖さを説明される。
地図で見たら「何でこんな狭い範囲で?」という道と道に囲まれた場所を一晩中迷ったりするらしい。
あれだけ笹に絡め取られて真っ直ぐ進めないならそうなるだろうと、果々子は身を持って納得した。
「自分も自信がないからね。道から見えてるタケノコ以外は取らないって決めてる」
「わ、私もそうします」
「ところで真面目な話、もしこっちが熊に襲われても迷わず逃げるんだよ」
「へ? 熊? はい、逃げますよ、はい、勿論」
「そう? 遠山さん、パニクって向かって来そうで心配」
「え、そんな勇気、私にある訳ないじゃないですか」
「…………」
その後寮に帰るまで、ドラゴンフライ先輩には特に何も言われなかったが、夕食後の食堂で、熊の生態本を抱えた先輩方に取り囲まれてガッツリ熊の恐ろしさをリレクチャーされた。
カタコユリ荘所蔵の古い本は、今のコンプライアンスからは考えられない恐ろしい写真が普通に掲載されていて、果々子の平成は、悪夢にうなされながら終わった。