自由過ぎる喫茶店ウペペサンケで、マスターの一番弟子を名乗る男性のコーヒーを頂く果々子。
「わっ、美味しいです!」
「どういたしまして。お腹は空いてる? 時間あるんでしょ?」
えっと、と果々子が答える前に後ろから、「俺オムライス!」「ピザトースト!」などと要求が飛ぶ。
「食べたかったら手伝え!」
の声に、二名ばかりが勝手知ったる感じでカウンターに入って、冷蔵庫を開けてゴソゴソやり始める。
山賊のような人たちだ。
「あれ、きのとやのシュークリーム、誰の?」
と後ろで女性の声。
「あっ、それ私のです、友達に頼まれて」
「おぉ、危ない危ない、うっかり開けてしまう所だったわ」
女性は果々子の横へ持って来てくれた。
「本当はシュー皮のパリパリした奴が好みらしいんだけど、売り切れていて」
「探している時って見付からないわよねぇ」
女性はタチバナ先輩よりもちょっと上くらいの年齢で、隣に座って、山や道具に関係のないお菓子の話などを振ってくれた。
喋っている間に軽食が出来上がり、皆で分けあってつつく。
(よく考えたら、出会ったばかりの知らない大人の人たちとこんな風にご飯を食べるなんて、ちょっと前の自分からは嘘のようだ)
普通の喫茶店メニューで、特別な事は何もないのに、すこぶる美味しかった。
この方々がいたらマスターも大丈夫だろう、そろそろ暇(いとま)しようと立ち掛けた所で、「ちょっと待って」と引き留められた。
いつの間にかセットされたオーブンで、チンと何かが焼き上がる。
「あっ!」
小さくて可愛いシュークリームの皮!
「クリームも今出来上がるから」
ホーロー鍋を手早くかき混ぜる一番弟子さん、凄い!
「シュークリームってご家庭で作れるんですね!」
「当たり前だろ、むしろ菓子屋でどうやって焼いてると思ってた?」
「何かこう、選ばれしパティシエさんが、凄い特別な設備で、ボワワっと……」
「黒魔術かよっ!」
また笑われた。笑いを取りに行ってるつもりなんかないのだが。
荒熱を飛ばしたシュー皮と、クリームは別に絞り出し袋に詰め、箱に入れて持たせてくれた。
「食べる直前にクリーム絞れば、パリパリシューになるだろ」
「うおお、ありがとうございます!」
果々子が手を叩いて喜んでいる所に、玄関ガラスにタクシーが映り、マスター帰還。
しかし……
「ヒィさん、どうしたの!?」
出迎えた男性がドアの前で声を上げている。
マスターはクラッチ杖を付き、足の甲に仰々しいギプスを巻いている。
「ヒビが入っていたらしい」
「アチャー」
「でも不幸中の幸いだよ、見過ごしていたら厄介事になっていたかもしれないって」
マスターはカウンター椅子の果々子の方を見た。
「二週間ほどで完治出来る。きみのお陰だ、ありがとう」
よかった……
果々子はニッコリした。
「ところで、ねえきみ、物は相談なんだけれど……」
マスターは手助けされて、果々子の側にヨイショと座った
「バイトに来てくれないか、二日ほど」
本当は安静にせねばならないマスターだが、ゴールデンウィーク中は年に一度しか集えないような山仲間が次々訪れてくれるから、店を開けていたいらしい。
座ってコーヒーを入れるのは出来るので、運んだり片付けたりの雑事をやる人間が欲しいとの事。
今いらっしゃる皆さんは?
「俺らは、山岳会の子供の日の行事なんだよなあ。明日が準備で明後日が本番。それでなくとも人手不足で、役員やってるし抜けられなくて」
「夜には来られるんだけれど」
「お願い、人助けだと思って……!」
人助けとまで言われてしまって絆(ほだ)されて、果々子は引き受けたのだが、よく考えたらマスターは果々子の学校も素性も、名前すら知らない。
どんだけ無用心なんだと思った。
***
「マスター許せん! 学生の貴重なゴールデンウィークを!」
ご機嫌斜めなみかん。
「お前は自分が遠山と遊べなくなって不満なだけたろ」
冷静な瀬戸先輩。
「私は助かったよ。突発バイトなんて探しても中々無いもの」
と、果々子。
「果々ちゃんの日頃の行いの良さだねぇ」
幸せそうにシュークリームを頬張るタマ先輩。
「果々子ちゃんはホント、不思議な縁を結んで来るなぁ」
しみじみ何かを納得しているビタミンカステラ先輩。
「うちの叔父さん、羨ましがってたっスよ。その喫茶店、山雑誌で紹介されてマニアの間で有名だって」
ちょっと興奮気味のドラゴンフライ先輩。
「ウペペサンケはアイヌの言葉で、『雪解け水の出(いず)る所』という意味で、大地の営みを感じる良い名ですね」
紅茶を淹れてくれる佐和出先輩。
果々子はぼぉっとしてしまう。
――いいんだろうか。
寮の陸上部組の慰労会なのに、私のバイトの話が中心で。それにうかうか幸せを感じてしまう自分の胸の奥で、『忘れてはいけない』と冷たい棘がチクリと刺さる。
「このシュークリーム、美味しい、美味しい!」
みかんは、一番弟子さんのパリパリシュークリームを素直に大喜びしている。よかった。
みかんと話している間に、先輩たちのお喋りが自分の知らない範囲に移って行ったので、ホッとした。
玲奈は入寮しない事になったけれど、彼女に言われた事はまだ胸に残っている。
『出て行かれたら困るから、無理をして構ってくれている』
先輩がたに負担を掛けているのではないか、今この言葉は本心なのかと、しょっちゅう考えてしまうのだ。
タマ先輩は、自然体でいていいよと言ってくれた。口に出して言う事じたい自然とは違う、なんてひねくれて考えてしまう。考えないようにしようと思っても考えてしまう。
そうして夜、その日一日の反省に襲われてベッドで眠れなくなるのだ。
果々子にとって、自分で思うより玲奈に刺された棘は大きかった。
(こんな神経症みたいな事、誰にも相談出来ない。自分の頭から玲奈の記憶が薄れて、気にならなくなるまで待つしかない)
***
五月四日 土曜日、みどりの日。
バイトの一日目。
そう言えば、雪焼けマスターに、果々子はまだ名前を名乗っていなかった。今日こそは聞かれるだろうと、張り切って出勤したのだが……
「おはようマナスルちゃん、早速掃除をお願い出来るかな」
マナスルちゃんっ!?
「マスター久し振り、あ、きみがマナスルちゃんか、バイトご苦労様」
「こんにちは、マナスルちゃん!」
すっかり『マナスルちゃん』にされている……
しかし何故に初対面のお客さんまで?
「昨日、きみが帰ってから、そういえば誰も名前を知らないし、自然にマナスルちゃんって呼び始めて、山仲間のSNS内でもそれで定着してしまったようだ」
「うへえ」
「いいじゃないか、馴れ初めを知らない者は、ヒマラヤ山脈の連なりのひとつ、憧れの精霊の山の事だと思ってくれるよ」
「私が凄いアルピニストみたいじゃないですか。学校の裏山だって青息吐息なのに」
「ははははは、はいコーヒー運んで」
マスターはカウンター内に背の高い椅子を置いて、コーヒーを淹れるのに専念している。杖を付いて歩けない事はないが、大事をとって安静だ。
ドアに事情を掲示して、本日のフードメニューは出来合いのケーキと乾き物のみ。コーヒー以外の飲み物が欲しい場合は持ち込みOKにしたが、来る人ほぼ全員がコーヒーを頼む。
果々子の仕事はコーヒー運んでフード用意して、テーブル拭いて片付けて、伝票書いて会計して洗い物して補充して。
思ったより忙しい。九時開店から客足が途切れないのだ。
「久し振り」
「元気だった?」
「今年も会えて良かった」
「お達者で何より」
「顔を見られて嬉しい」
「またね」
「身体に気を付けてね」
「お元気で」
マスターが無理を押して店を開けたかった理由がすぐに分かった。
ここは年に限られた時だけ旅人が集まる、ターミナル駅みたいな物なんだ。
ゴールデンウィーク前半はお目当ての山へ行き、最後はここへ来て旧交を暖めて締め括る。
そしてまた気付いた事があった。
訪れる人たちは旧知の友人を見付けて輪になって盛り上がっているが、マスターはけして入って行かない。
二言三言声を掛け、笑い合って終わり。たまに一人で来たお客さんとカウンターで会話する言はあっても、集中して話し込んだりはしない。
常に店全体に気を配っている。
こんな人になれたらなぁ、と思った。