「遠山 果々子(とおやま かかこ)さん」
フルネームで呼ばれた。頭の芯まで硬直する。
「貴女は入寮してからカタコユリ荘の洗濯機を何回使いましたか」
「ひぇ、ひゅ」
つっかえてもタチバナ先輩は、不思議に待ってくれている。
それで果々子も返答出来た。
「ぃ、一回、でひゅ」
「一回……洗濯しないで生きていける人?」
「いえ、あ、あとはいつも塞がっていたので……」
「そうね、貴女はいつも生協横の学生ランドリーを使っている」
どきりとした。
まさにその通りで、いつもいつも塞がれっ放しの洗濯機を待っているより、洗濯物を抱えて東寮手前の学生ランドリーに行った方が、果々子的には楽なのだ。
「ぅわあ、ナッツ、ストーカーかよ」
さっきの紫メッシュの上級生が、おどけた口調で言った。
「研究棟の窓から見えるのよ、あそこ生協への近道だし、彼女だけじゃないわよ、洗濯難民」
メッシュ女子には友達口調で言って、タチバナ先輩は静かな声に戻して果々子に話し掛けた。
「カタコユリ荘の設備はカタコユリ寮生の為の物です。使えるのが当たり前な筈でした。学生課より、対策が遅れて申し訳なかったとの伝言(ことづて)です」
「……!!」
あ、頭を下げられた・・!
ゴクンと唾を呑み込む果々子。こういう時に気の利いた返事をすぐに出せない、もどかしい。
「じゃあ私もガクセイカに言いに行きマース。寮でヌシみたいなのがオーボーでケンリのシンガイだって――」
麻美子が叫んでくれたので果々子の無言は目立たずに済んだ。しかし学部が違うとはいえ、こんなレベルの学生でも入れる学校に自分は無理を押して入学したのかと、親に申し訳なくなった。
「あ、そうそう、藤田麻美子さん、学生課よりの書簡です」
先輩は麻美子の戯言などサラリと流して、抱えていたクリアファイルから書類を一枚引き抜いた。
一番近くに居た、フワフワなウェーヴ髪の小柄な上級生がパッと取って、身軽く麻美子の所まで持って行く。道々書類を見て「あらぁ」と声を上げた。
「な、何よ……」
「すぐに見た方がいいかとぉ」
「いらないわ」
「この学校の学生をやっていたいのなら学生課からの通達は必ず読んで下さい。既に何度か届いている筈で、前回の物が赤い警告文だったと思いますが」
タチバナ先輩がまたピシリと言う。
「フン、何よ偉そうに、ナニサマ?」
麻美子は面倒そうに書類に目を落とした。
書類を渡したユルフワ女子が、紫メッシュ先輩の横へ行った。
(何だったん?)
(お察しのアレ)
(だってアレ、ただの脅しやと……ほんまに採用される事ってあるんや?)
(もう本決まり。二十二日って今日……だよね? あらら、じゃあ今日中だ)
(あやや)
果々子の所までコソコソ話が聞こえて来る。なに? 寮生活の手引きにも載っていないような恐ろしい隠し罰則が存在するの?
実はぼぉっと寮生をやっていた果々子は、先輩たちが当たり前のように言っている事も初耳で、自分が挨拶出来ないのも実は重要な罪なのかもしれないと不安になった。
「え、うそ、嘘でしょ、こんなの」
麻美子がやっと文書を読んで反応している。
まさか退寮? こんな時間から?
「では早急に荷物をまとめて下さい。台車が必要なら掃除用具入れにあります」
マジで退寮みたいだ。学生寮ってそんなに厳しい物なの? 自分の事じゃないのに果々子は鳩尾(みぞおち)がキュっとなった。
「ダイジョブよぉ、別寮に移動なだけだから」
青い顔の果々子の側に、いつの間にかユルフワ先輩が来て小声で教えてくれている。
(そうなんですか?)
と言おうとして、喉がかすれて声が出ない。
「ポプラ寮一階って男子寮じゃないの! 何よそれ、嫌がらせ!?」
金切り声の麻美子。
横の男性陣もびっくりして書類を覗き込んでいる。
「ポプラ寮は二階から上は男子専用ですが、一階は『どちらでも可』です。現在、居住スペースは二部屋で両方空いていますので、あちらへ行ってから寮監に指示を受けて下さい。移動勧告は藤田麻美子さんだけですが……」
タチバナ先輩は、麻美子の後ろで男子の陰に隠れようとしているもう一人の女子に向いた。
「今希望すれば貴女も移動可です、どうしますか、吉岡 久恵さん」
久恵と呼ばれた一回生は口をパクパクさせるのみで何も言えない。彼女は麻美子に誘われるままにたむろっていただけで、そこまで悪さはしていない。
流されていたら自分もあそこにいたかもしれないと、果々子はまた震えた。
***
麻美子は目を見張って久恵を見ている。巻き込んでしまってゴメンナサイなんて気持ちは微塵も無さそうだ。
男子二人は意味の無い悪態を吐き続け、別の二人は居心地悪そうに俯いている。
「女子寮のモラルを守らんで女子寮の恩恵だけ受けたかったんか?」
紫メッシュ先輩が言うのを、タチバナ先輩が「れもん!」と短く制した。
よく見ると、上級生たちは立ち上がってはいるが、口はしっかり閉じている。場が荒れぬよう配慮しているのか、そういう意識を行き渡らせているのかと、果々子は唾を飲み込んで、タチバナ先輩の凛とした後ろ姿を見た。
と、果々子の肘がそっと引かれた。さっきのユルフワ女子が、後ろに回って出口へ誘(いざな)っている。
「洗濯物片付けるの、お手伝いしてくれる?」
「あ、は、」
また声がかすれて出ない。
***
「怖かったでしょ、ごめんねぇ。こんな事滅多に起こらんよ。
カタコユリ荘は、寮母さんが食堂にキャパ割かれるんで、寮監的なお仕事は、学生課と連携して自分らで賄っとるん。
藤田ちゃんも、通達は早くに来ていた筈だから、無視しないでちゃんと改めていれば、何も起こらんで済んだのに」
食堂を出て歩きながら、ユルフワ先輩がゆっくり説明してくれた。
半分腰が抜けた状態だったので、こうして気に掛けて貰えるのはやっぱり有り難い事だったと、果々子は殊勝に思った。
階段の所に部屋から下りて来た寮生が溜まっている。
「タマ先輩、どうなっているんですか」
「どうもこうも、学生課からの勧告じゃ、もう庇ってあげられんっちゃね」
「そうですか」
「あんまりそこに集まると階段抜けるよ、もう部屋にお入り」
「はぁい」
寮生たちが上に消えると、ユルフワ先輩もといタマ先輩は、果々子にも「お部屋に戻っていいよ」と言った。
「あ、か、片付けは……」
「……やっぱりいいよ、よく考えたら楽しくもない作業だし」
「やりますよ」
何だか今まで喋れなかった分を取り返したい気分で、思ったよりきちんと声が出せた。
先輩に続いて突き当たりの洗濯場へ入る。
寮生四十二名に洗濯機と乾燥機が四台ずつ。十分に足りる数だと思う。
奥に広い手洗いスペースがあり、果々子にはそちらの方が重宝していた。
乾燥機は動いていたが、先輩は容赦なく電源を抜いて中身を本当にゴミ袋に詰め込み始めた。
「そっちお願い。あ、触るのイヤだったらビニ手……」
「いえ、行けます」
果々子はゴミ袋を受け取って生ぬるい衣類をギュウギュウ詰め込んだ。下着は袋ごしに掴んだ。予洗いもしていない運動部のユニフォームやスキーウェアみたいなのもある。何だってこんなのを他人に頼もうと思えるのだろう。
「一回、注意したんだけれどね」
「はい……」
「『あの人たち洗濯出来ないから可哀想でしょ』って」
「ああ……」
その台詞は果々子も聞いた事がある。
「出来ないったって、ポプラ寮のは最新の全自動だから、放り込んだら乾燥まで機械がやってくれるんだけどねぇ。まあ、男子にしたら『洗濯をやってくれる女子がいる』ってのが勲章なんだろね」
そうなのか……
家を出てこの機会に、『出来ない』を出来るようになろうとは思わないのだろうか。
「ダメンズ育ててどうするんかね、自分が結婚する時は家事スキルのある男を求める癖に」
「…………」
手を止めた果々子に、タマ先輩は慌てた感じで言い直した。
「ごめん、ちょい下世話だったね」
「いえ、わ、私も同意です。ただそんな風に上手いこと言葉が出てこないから、凄いなあ、う、羨ましいなあって」
ああっ、また変な事を口走ってしまった。ドン引きされてしまう。
「あはは、私なんか参考にしちゃダメダメ」
先輩は笑って流してくれた。それから立って、洗濯機の方を開ける。
「うぇっ、こっちもギッチリ。開けたくなかったあ~」
「手伝います」
果々子も立って、先輩と協力して重い衣類を引っ張り出し、ゴミ袋に詰める作業を続けた。