カレー大会当日、金曜日。
一、二限目の必須科目を終えて、果々子は全速で寮に戻った。
タマ先輩に「出来る限り早い目に仕上げておいた方がいいよ~」のアドバイスを貰って、野菜などの下拵えは早朝に済ませて冷蔵庫に突っ込んである。鶏肉はスパイスとカレー粉をまぶしてヨーグルトに漬け込んだ。
厨房へ入ると、調理台は野菜を刻む人たちで一杯だ。そう、講義の時間が決まっているんだから空く時間だって一斉。「今年は八組にもなって多いから~」と教えてくれたタマ先輩、ありがとう!
フライパンを取ってまだ空いているコンロに滑り込む。
共同調味料ボックスから油を貰い、素早く鶏肉に焼き目を付けて行く。ビニール袋の野菜を放り込んでジュワジュワと炒めていると、先輩がたからの視線を感じた。
しまった、自分は何かをやり始めると他が見えなくなるから……
「お先にすみません、ここ、十五分で空けます」
振り向いて言うと、空気がふっと和やかになった。
「そんなに気を使わなくていいさぁ、手際いいな~って見ていただけだから」
明るく言ってくれたのは、前にビタミンカステラをくれた向かいの部屋の先輩だ。
「そういえば一回生の前期は必修が詰まって大変だものね。午後も講義?」
「は、はい。だから、早起きして刻んでおいて……」
「あがや――偉いねぇ」
他の上級生にも明るい声を掛けて貰え、果々子はホッとした。
この学校は人気観光地にある上、他の大学にない珍しい学部があるので、様々な地方の人間が集まって来ている。
緊張が取れて落ち着いて聞くと、先輩がたは色んな土地のイントネーションで喋っていて、味わい深かった。
炒めた具材を小さいポット鍋に移し、ひと煮立ちさせている間にフライパンとターナーを洗って、宣言通り十五分でコンロを開けた。
「おお、早いわね」
という上級生たちに挨拶をして、鍋を持って談話室へ向かう。
北側の談話室は今の季節だと日中でも冷蔵庫並みなので、本日のカレー置き場に定められている。
しかし果々子の目的は冷ます為じゃない。前日に清潔に洗って乾かしておいた発砲スチロールボックスの出番だ。
「遠山さん――!」
後ろから、風輪みかんが駆け寄って来た。瀨戸先輩に似て神出鬼没。
「出来た? 出来た? 見ていい?」
「だからそんな期待するような味じゃないって」
言っている横からみかんは小皿とスプーンを差し出す。味見するからよそえって事だ。
「もお」
蓋をずらすとスパイスがピリリと鼻をくすぐる。
「うわ、カレー屋さんの匂いがする。本格的なスパイス使ったの? 予算オーバーしちゃったんやない?」
「街のスーパーに『四人前本格カレーセット』って少しずつのスパイスの詰め合わせが売ってたの。野菜が安かった分そっちに贅沢しちゃった」
単純にカレーの食材だけなら学生生協で揃うのだが、街に降りた方が安くてニッチな食材が手に入る。
果々子は素早くスープをよそってやった。
「うま――い!」
「そう? これから低温調理で野菜の出汁をじんわり馴染ませるの」
言って、バスタオルを敷いたスチロールボックスに鍋を入れ、上からくるんで蓋を閉めた。
「それが昨日の謎ボックスの使い道?」
楽しそうに聞くみかんに、果々子も楽しい気分になる。
「ナンチャッテ低温調理だよ。本当の低温調理とはかなり違う。でもこれでも肉や野菜がいい感じに柔らかくなるし、コンロの数が限られているからうってつけの調理法だと思って」
「今でも十分ウマイんだけど、楽しみ! うちが知ってるカレーとだいぶん違って……色んな味がする、……セロリとか、キノコ?」
「分かるの? 凄いね」
果々子のカレーに使ったのは、玉ねぎ、人参、セロリ、ゴボウ、エリンギ、それとゴロンとした蕪に骨付き手羽元肉。味付けは『四人前本格カレーセット』と缶のカレー粉、ヨーグルトに塩コショウ。
「カレー風味のポトフって言った方が正解かも。あ、鶏肉は皮を外したから」
「えっ、うちの為?」
そんな事をあっけらかんと口に出せるみかんを、果々子は素敵だと思った。
「風輪さんも含めて運動部の人たちに食べて貰えるようにだよ。おかあさんを見習ってみた」
「ひゃあ、感激」
ますます出来上がりが楽しみだねと、みかんは午後のトレーニングに走って行った。万人ウケする味ではないけれど、彼女に喜ばれるならやりがいがあった。
スチロールボックスに油性マジックで名前を書いて、果々子は午後からの講義に出掛けた。
***
「ない・・!!?」
果々子は真っ青になった。
談話室に置いていた黄色いポット鍋が、スチロールボックスごと消えている。箱に名前を書いておいた筈……
悪意? いやそうは思いたくない。何かの手違いでちょっと移動しただけ…………と思いたい。
***
講義を終えて寮に帰って来た時から、不穏だったのだ。
玄関に入るとカレーの匂いが充満して、それは分かるんだけれど、上級生たちは食堂のテーブルにカセットコンロを置いて調理している。
厨房のコンロで足りない場合はカセットコンロを貸し出すとあったが、在庫のうち五台が出動している。じゃあ厨房はどうなっているの?
と目をやると、カウンターごしでも混沌とした様子が分かる。昼間見た整然とした調理風景とは真逆。
見えるだけでも三人の男子学生がいる。調理台には買い物が白いビニール袋ごとゴタゴタと広げられ、その隙間に麻美子と久恵、知らない女子学生も見えた。
「…………」
立ち尽くす果々子に、昼間声を掛けてくれたビタミンカステラ先輩が近寄った。
「ポプラ寮も食堂利用者だからエントリー資格があるんさ。毎年誰かしら男子が名乗りをあげて来る。今年は二組」
「そ、そうなんですか……」
厨房には十人ぐらい居るけれど、あれで二組なんだ……
「ポプラ寮にも自炊室はあるんだけれどね」
「そっちでやればいいのに……」
「あっちは別の組が使ってるって」
えっ、じゃあ、あの大人数が一つの組?
っていうか、たった二組ならそれこそ自分達の自炊室を譲り合って使えないのだろうか。あちらの自炊室の規模は知らないが、普通の家庭の台所ですら二種類のカレー作成は可能だ。
「吉岡さんが『今週一杯はこちらの寮に籍があるからここを使う権利がある』とか理屈を捏ねて。でも藤田さんやら他寮のカノジョやらも助っ人名目で呼び入れて、何だかもう誰が誰やら」
「はあ……」
シッチャカメッチャカだ。
カタコユリ荘の日曜カレーの味を決める大会じゃなかったっけ?
「たかが八人前のカレーを作るのに、三時頃からずっと厨房を占拠していて。まぁ毎年のパターンね。人は変わってもホンットやること変わらない」
「…………」
ポプラ寮は毎年こうなんだ……
タマ先輩が「早い目に行動して」とアドバイスくれたのが分かった。
それで何だか悪い予感がして談話室の自分の鍋を見に行ったら、見事に紛失していた……という訳。
食堂に戻って上級生たちに聞いても、誰も心当たりがないと言う。
残るは……
嫌だなあ、嫌だけれど聞きに行くしかない……
厨房の入り口に回って覗くと、コンロの三つを使って炒め作業中……何か量が多くない? 八人前だよね?
フライパンを振っているのは知らない女子二人と久恵。久恵はこちらを一瞥してフイと目を反らせた。
男子含め棒立ちしている人間が多い。スマホなんか弄りながら通路を塞いでいるのなら、厨房から出ればいいのに。
「遠山さ――ん、久し振り――」
スパイス缶がゴミゴミ置かれた向こうから、安定の馴れ馴れしさで麻美子が叫んだ。
「ダメだよぉ、保温ボックスを独り占めしたら。皆で譲り合って使わなきゃ」
第一声からクラッときた。
そして床に置かれた果々子のスチロールボックスは、知らない鍋がギュムッと詰まって割れている。
『私物です、低温調理中、触らないでください』とか、細かく説明するメモを貼っておかなければならなかったのか。
(いや、この人の思考まで予測するなんて不可能だ。っていうか、来るなんて思わないよ、あんな出て行き方をしておいて……)
「ついでに仕上げといてあげたよ。中途半端で放っておくなんて、皆に迷惑でしょ」
(え?)
コンロの向こうの空いた台。六台目のカセットコンロの上で、果々子の黄色い鍋がグワラングワランと煮えたぎっている。鶏は分解してフレーク状、野菜もドロドロ、パッと見ただけで知らないルウがぶちこまれているのも分かる。
「…………」
脳が追い付かなくて唖然と立ち尽くしたのは多分十秒くらい……
「これ、この後どうするの? ねえ、言ってること分かる? ねえ、お――い」
甲高い声を遠くに聞きながら、果々子はUターンしてスタスタと歩いた。
早くその場所を離れたかった。
カレーの匂いの充満する食堂を抜け、階段を上り、自室に飛び込み鍵を掛け、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
「はあ~~あ…………」
終わった。
自分はいつもこう。
買い物して準備した昨日から、寝る前に何回もシミュレーションし、早起きして下拵えをした光景が、走馬灯のように駆け巡る。
昼ご飯も食べないで寮に走って帰って…………
(もういいや)
自分みたいなのが行事に参加しようなんて思っちゃいけなかったんだ。
どうせ他の人みたいに普通に進まない。必ず自分だけ何かしらおかしな事が起こって、普通の人が当たり前に行き着く結果に辿り着けない。
いつもそう。一所懸命やって空振って、こんな事ならやらない方が良かった……ってなる。