漫画で歴史に残る女   作:充椎十四

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》デカフェさま


漫画で食いつなぐ女3

 その日忍術学園を訪れた諸泉尊奈門の姿は、学園の面々にとって見慣れた忍装束や軽い旅装ではなく――タソガレドキ城からの正式な使者であることを示す正装だ。まるで「私は護衛でござい」とばかりに彼の後ろに控えているのは反屋と言ったか、タソガレドキ忍者の一人だ。

 

「……習志野殿をタソガレドキに引き渡せ、とな?」

「は。先日の戦で我々タソガレドキはドクタケ領の一部を切り取りました……が」

 

 タソガレドキとドクタケ間でなされた交渉の末、タソガレドキが今回分捕った土地と絵師・習志野権兵衛の交換が成ったのだという。

 

 見るからに鼻高々な諸泉尊奈門の発言により学園の教員らに緊張が走る。

 

 ドクタケ城主・木野小次郎竹高お気に入りの専属絵師である習志野を忍術学園に連れて来ることが出来たのは、ひとえに、当時ドクタケがチャミダレアミタケと睨み合いを続けていたためだ。悪い言い方をすれば忍術学園は火事場泥棒をしたということになる。

 これがバレればドクタケは「拐かされた領民を救う」という大義名分を掲げ、また「自分のものを盗まれた」という怒りをもって戦の準備を始めるに違いない。

 

 また、習志野権兵衛は一応ただの(・・・)絵師であり――彼女を学園内に留め置いている名目も「依頼を円滑、迅速に果たせるように」でしかない。依頼内容が果たされれば彼女を解放することになっており、学園の立場として、誇りとして、正当な理由なく彼女を閉じ込め続けることは出来ない。

 が、その正当な(・・・)理由は口に出すことすら憚られる極秘事項、これが明らかになれば再び天下が大混乱に陥ることは必至。よって学園側は「依頼」が終わるまでに正当らしい(・・・・・)理由を見つけるか捏造するかしなければならなかったのだ。……が。

 

 タソガレドキは、川を挟んだ向こう側――ドクタケ領側にある土地より、習志野権兵衛を取った。

 彼らは彼女の価値を正しく評価している、知っている(・・・・・)ということだろう。

 

 忍術学園も習志野権兵衛を学園所属の人材とすべく動いていたのだが、タソガレドキに先手を打たれた形となる。

 彼らは忍術学園が彼女を知るより前から彼女のことを詳細に調べていたに違いない。

 

「『依頼』が終わり次第、習志野殿をタソガレドキ城に引き渡し願う!」

 

 喜色を隠せぬ尊奈門の声は――習志野権兵衛が保持する知識、彼女に付随する様々な(しがらみ)もとい縁、それらまとめて全て得るのは我々タソガレドキなのだと――言外に、宣言した。

 

◯✕△□◯✕△□

 

 習志野権兵衛のことを知って、彼女の絵草紙が南下しないよう――忍術学園方面に広がらないよう手配するのは簡単だった。

 彼女が印刷を依頼している本屋や書籍類を扱う商人どもに金を握らせ、北方と西方へのみ売るようさせたのだ。

 代わりに流入先となったチャミダレアミタケ城、スッポンタケ城の者らは焦ったことだろう。上質な書籍がドクタケ領から流れてくるということは、ドクタケに教養人が住み着いたということ。彼らが荒れないわけがない。

 

 続けて、木野に近い者を買収してこう囁かせた。「偉大な人物は必ず肖像画を描かせている。殿もそろそろ描かせてはいかが?」「著名な絵師に依頼するのも良いが、先ずは試しに手近な絵師に描かせてもよろしいかと。近所の者なら細部の注文をつけやすいですから」と。

 目論見通り木野はその口車に乗って習志野権兵衛に肖像画を描かせ、出来上がりに満足したらしく嬉々として「儂のお気に入り絵師に描かせた。素晴らしい肖像画だ」と近隣の城主連中に宣伝した。

 

 ドクタケに「習志野権兵衛は素晴らしい絵師(・・)だ」という評判を立てさせつつ、ドクタケを孤立させていく。

 これについては学園や他の城の連中に嗅ぎつけられたところで問題ない。「ドクタケが嫌がらせをする」のはいつものことであり――ドクタケはわりと以前から孤立している。タソガレドキの差し金と知ったところで大半は見て見ぬふりするだろう。

 

 想定外は習志野がドクタケ忍者隊の絵草紙製作を請け負ったことだ。市場に出せる新作がないため彼女の知名度は当初の想定より低くなり、ドクタケの悪評も伸び悩んでしまった。

 とはいえ既存の「源氏物語 若紫」と「平家物語 屋島の戦い」だけでも一定以上の評価を得ており、今もじわじわと名が広がっているのだが。――いや、この二作だけに絞ったおかげ(・・・)で習志野の異質さが他に知られていない、という可能性もある。

 むしろこれで良かったのかもしれない。

 

「将軍が代替わりしてまだ数年。将軍はまだ若い。今しかない――今であれば天下に手が届く」

 

 まだ若い三代目である今潰してしまわねば、黄昏家が天下を握るのは現在より更に困難になる。

 そう言う黄昏甚兵衛に雑渡昆奈門は深く頭を垂れ「御意に」と囁いた。

 

 混乱の種を()えるのだ。

 戦いの火種を()くのだ。

 

 足利の若造を蹴落とし、天下に号令を掛けるのは黄昏なのだと――認めさせてみせる。

 

◯✕△□◯✕△□

 

 尊奈門くんに手紙を送って一月近く過ぎたある日。尊奈門くんがタソガレドキ城主からの手紙を持って学園に来たそうで、私も呼ばれて学園長室に向かう。

 学園長室には私がこの三ヶ月ほどの間に関わった先生方――学園長をはじめ山田先生、土井先生、山本先生、新野先生――が揃っていて、正装した尊奈門くんとその護衛っぽい人の姿もあった。

 

 学園側と尊奈門くん側の間に座った瞬間、尊奈門くんから「ナナオ喜べ、ドクタケとの交渉によりおまえの身柄をうちが引き受けた! 安心してタソガレドキに来るといい」と言われた。

 前置きを飛ばして結論だけ話すのは止めて欲しい。それってどういうことなのよ。

 

 困惑している私に構わず、尊奈門くんは何故かキメ顔で優しい声を出す。

 

「……長い間つらい思いをさせて悪かったな。ドクタケから出られない暮らしは心労が多く大変だったろう」

 

 「ドクタケから出られない暮らし」というのは、ドクタケ忍者隊から直々に指示された領外への外出禁止措置だ。ドクタケ忍者隊の漫画を描いているうちにどんどんドクタケ忍者隊の皆さんやらドクタケ城のあれやこれやに詳しくなり過ぎてしまい、「お前は知りすぎたのさ」と出国規制を掛けられてしまったのだ。

 

 ドクタケ忍者隊の面々に「知りすぎたからねー、キミ」「ヒッヒッヒッ……うちから逃げられないよ」とホラーちっくに脅されたときは確かに怖かったし、あれが殺気ってやつなんだろう、心臓がキュッと絞られるように痛んだ。

 でも逆に考えれば、ドクタケ領を出なければ殺されることはないわけだ。出る予定もなければ出るための足もなく、人攫いに遭った場合は流石にお目溢ししてもらえるだろう。ドクタケ城主の木野様や忍者隊の愚痴や罵倒を大声で並べ立てる長屋の皆さんの様子からして締め付けも厳しくはない。

 それにほら、漫画制作の報酬が良かったから……。制限も脅迫も「こんなに貰ってるわけだしね」と受け入れてしまったというか、守秘義務とその報酬みたいなものなんだろうと納得したのだ。

 

 だからぶっちゃけてしまえば「つらい思い」なんて物はとっくに記憶の彼方だったのだ。うっかり気の抜けた返事をしてしまったのもそのせい。

 

「はあ、まあ」

「『はあ、まあ』じゃないだろう『はあ、まあ』じゃ! もっと私に感謝して、腹に力を入れた返事をしろ!」

「はいッ! その通りでッす! 有難うございまァす!」

「そうだ! 始めからそう言え!」

 

 何故か胃のあたりを抑える土井先生の姿が横目に見える。

 

「それで……聞いても良いのかな、何がどうなってるんですかね。私と何を交換したって?」

「聞いても問題ないぞ、お前にはちゃんと教える予定だったからな。簡潔に言えばタソガレドキがお前の身柄を引き取ることになった、ということだ。屋敷も用意したから安心してこちらへ越してくるといい」

「え、用意した?」

「そして交換したというのはドクタケに接した村で、川があるせいでタソガレドキ城よりドクタケ城の方が近いという土地だ。守る手間などを考えると村を維持するよりお前を手に入れる方がいい、と殿はお考えになった」

「はあ……土地と私を交換」

「ああ。お前は私の友であるし、人気絵師として名も知られてきている。お前は土地と交換するに足る素晴らしい人材だということだな!」

 

 詳しく聞いたけどむしろ混乱しそうだ。

 

 つまりだ。守るのに不便で金食い虫だから手放したい土地があるけれど、領主として「タダで誰かに譲る」なんてことはできない。ちょうど良くドクタケ領に面した土地だから、ドクタケ領にある価値ある何か……つまり私と交換する形を取れば周囲から舐められずに済むと考えた、ってところか。

 ……まあ? 尊奈門くんの言う通り、私ってば人気絵師だし? 人だって借金のカタになる時代だからね。私の知らないところで私の身柄を右から左に取引されたことに怒ったところで仕方ない。

 

「うん……そっか。それは有り難いお話ですね……」

 

 仕方ないけど、胸が痛むな。

 

「……おい、どうしたナナオ。喜ばないのか? これからは私とすぐ会えるんだぞ」

「そうだけど……なんて言うかなぁ」

 

 上手い表現を探してうろうろと目を彷徨わせ――思いついた。

 

「あのね、タソガレドキのお殿様のご厚意はとっても嬉しいし有り難いですよ。尊奈門くんのことを目にかけていらっしゃるから私のことも評価してくれて、引き取ろうと手を尽くして下さったんだろうと思う。だけど、そういうつもりじゃないことは分かっているのだけれど――尊奈門くんと私の友情に値札を付けられたような気分になってしまってね。ちょっとね、寂しいんだ」

「ぐぅっ!!」

 

 急に尊奈門くんが胸元を掻きむしりだす。突然どうしたの、何があった!?

 

 私の言葉に衝撃を受けたのだ――なんてのは思い上がりも甚だしい。

 この時代にトリップしてからこのかた友達と呼べる相手が尊奈門くんしかいない私と違い、この時代に生まれていいトコのお家で育ったらしき尊奈門くんなら友達もたくさんいるだろう。

 尊奈門くんの友情はかなり重いタイプだ。類は友を呼ぶと言うし、「俺たちの友情はプライスレスだろ、な、親友!」程度の発言は何度も言ったり聞いたりしてきたはず。

 

 だから私の言葉が原因なわけがないし、城からの使者に学園が毒を盛るとは思えない。尊奈門くんの身に一体何が起きたのか……。

 辛そうな尊奈門くんへにじり寄り背中をさするも、床に額がつくほど背中を丸めたまま「うぐぐ……」と唸るばかり。

 

「尊奈門くん、大丈夫? 何か悪いものでも食べたかな……あ、そうだ、新野先生! 尊奈門くんを診てやってください! 心の臓あたりが痛んでるんじゃないかと思うんですが、私は医者じゃないし……!」

「……習志野殿、そのあたりで堪忍してやってください」

「堪忍するとは……?」

 

 何をおっしゃる、私が原因なわけがないじゃないか。

 

◯✕△□◯✕△□

 

 とっくにどこぞへ輿入れしていてもおかしくないが行き遅れとまでは言えない――二十あたりの若い娘から「君と私の仲に値札なんて付けられないでしょ?」なんて言われてみろ、間違いなく堕ちる。口説き文句として百点満点どころか百万点だ。

 

 天井裏や床下に潜む六年生らが矢羽音で「無自覚だと? 怖……」だの「そのつもりが無いだけにくノ一よりタチが悪い」だの「うーん、これぞ十一年は組」だのと話しているのが耳に届き、内心大いに頷く。

 一年は組がそのまま大きくなったような娘だからと彼女を十一年は組と呼び始めたのは誰だったか……まさしく十一のは(・・・・)としか言いようがない天真爛漫さとトラブルメーカー具合。本人に悪気がなく善良なところも一年は組そっくりだ。

 

 諸泉尊奈門がどうにか持ち直したことで話がまた進みだす。こちらとしては話が進まない方がいいのだが。

 

「タソガレドキに移るのは忍術学園からの依頼を終えてからでもいいんだよね?」

「ああ。……とはいえ、こちらとしてはなるべく早くこちらに移ってもらいたいと考えている。さっきも言ったが既にお前のための屋敷を用意しているんだ」

「待って待って、準備が早すぎる。私まだ一年生の内容を描いてる最中なんだよ」

 

 学年が上がると内容が難しくなるだろうからまだまだ時間が掛かるよ、どれだけ時間が掛かるか分からないんだよ、と眉をハの字にする習志野権兵衛に諸泉尊奈門は「子猫か子犬のつもりかお前は!」と罵倒になっていない罵倒を叩きつけた。

 反屋何某がその背中をつねって注意する姿のなんとも言えぬ虚しさよ。

 

「習志野殿のおっしゃる通り、忍たまの友は一年生から六年生のものまであります。また、学年が上のものは当然難易度が上がります。質が下がってはこと(・・)だからあまり習志野殿を急かさんで頂きたいのだが……」

 

 習志野殿には自分から説明をするので黙っていてくれと頼まれ影を薄くしていたが、そろそろ我々が入っても良い頃合いだろう。左手を前に突き二人の会話に割って入る。

 

「むろん、時間がかかることはこちらも承知の上だ。忍術学園は休暇のあいだ生徒用の長屋を閉めると聞いている。学園からの依頼が終わるまで、タソガレドキの屋敷はナナオの休暇中の宿として使う」

「なるほど! それは助か――」

「そのことじゃがのぅ」

 

 学園長が嘴を差し込んだ。漂わせる雰囲気はいつも通り好々爺然としたもの。

 

「あと数日もすれば正月休みじゃが……旅に不慣れな習志野殿にタソガレドキと学園を往復していただくのは大変じゃろう。筋肉痛を抱えて正月を過ごすなど大変じゃからの。――それでじゃ」

 

 学園から近い場所に土井先生の住む長屋がある。休みの間はそこにお泊り頂こうと思っておったのじゃが、どうかのう。

 

「何をこのジジ――」

 

 いきり立って声を荒げた諸泉尊奈門が突如カクンと崩折れる。反屋が意識を刈ったようだ。腰を浮かせた習志野殿に「ご安心ください、ただ興奮しすぎたあまり気絶しただけのようです」といけしゃあしゃあと答えている。

 

「それが一番良さそうですなぁ……。なにしろ学園からタソガレドキに行くのは少し距離があります。馬に乗れるなら別でしょうが、歩きであれば二日はかかる距離。正月休みなんて一週間もないわけですから、習志野殿の体力ではキツいでしょう」

「山田先生の言う通り。習志野殿、是非うちへお越しください。学園からすぐのところにありますのでゆっくりと正月を過ごせると思いますよ」

 

 我々であればその日の間に五往復はできる距離だが、習志野殿の足であれば二日は掛かろう。土井先生も私の言葉に乗っかり、ウンウンと頷きながら習志野殿を誘う。

 

「ああ、そうだ。きり丸も休みの間うちで過ごしてるんですよ」

「お世話になります!」

 

 ――おや。

 

◯✕△□◯✕△□

 

 夕飯を終えて一年生長屋へ帰る途中、きり丸を呼び止める声があった。教科担任の土井だ。

 

「あぇ、どうしたんすか先生」

「私たちこれからお正月休みのための荷造りするんです」

「ぼくたちが荷造りする前に何か話があるってことは〜、もしかして……補習でお正月休みがなくなっちゃったとか!?」

「そんな! 土井先生が補習で帰れないならきりちゃん一人で長屋に帰るの!? そんなの寂しいよ、私のうちにおいでよ! きり丸が一緒のお正月楽しそう!」

「ええー、それだとぼく仲間外れになっちゃう。ぼくも乱太郎のおうちに行きたい!」

 

 キャッキャとはしゃぐ三人に土井は「お前たちの言う通り補習があるとしてだ、私が補習で長屋に帰れなくなる原因を作ってるのは誰だッ!?」と吼えるものの、「ええ……誰だろ?」というしんべヱの言葉にずっこける。

 

「……ともあれ。補習じゃないから安心しなさい」

 

 「全くもう」と困り顔で愚痴りながら立ち上がると、三人の頭をぽんぽんと順に撫でる。

 

「きり丸、この正月休みは習志野殿も一緒にうちの長屋へ帰るぞ」

 

 その言葉にきり丸は目を見開く。元々大きな目をより大きく限界まで見開いて、「ほ、ほんと?」と囁いた。

 

「本当だとも。休みの間は忍たま長屋もくのたま長屋も使えないからな。学園から近い私の家に来ていただくことになった」

 

 きり丸は習志野権兵衛を慕っていることを隠していない。積極的に「この人のことが好きです」とアピールすると周囲の皆が協力してくれるからだ。

 二人だけの時間を邪魔しないでくれたり、探していると「さっき見たときは◯◯にいたよ」と教えてくれたり。

 

 アピールしてきた甲斐があったというものだ、まさか習志野権兵衛と一緒に正月を過ごせるとは。

 

「そっか……ゴンベ先生も一緒……。へへっ、やった!」

「良かったね、きりちゃん」

「きり丸、ゴンベせんせーのこと大好きだもんねぇ」

「うん!」

「用事はそれだけだ。さ、三人とも部屋に戻って荷造りしような」

「「「はぁーい!」」」

 

 ――二年近く前のことだ。肋骨や尺骨が浮き上がって見えるほどに痩せているのに腹回りだけは膨れていた、つまり長い間ろくに飯を食えていなかったきり丸の耳に……孤児仲間から噂が届いた。

 ドクタケというところには孤児に飯を食わせてくれる人がいるらしい、と。

 

 噂は噂だ、本当かどうかは疑わしかったが……きり丸はそれに賭けた。賭けるほか道がなかった。

 ドクタケはどっちの方向にあるのかだけ聞いて歩き出したは良いものの、そこからドクタケにつくまで何日かかったかは覚えていない。今のきり丸なら一日あれば行ける距離でも、なんせ休み休みでゆっくりの移動。何倍もの日数がかかったはずだ。

 

 運が良かったからか、それともきり丸の生存本能が強かったからか。きり丸は途中で野垂れ死ぬことなくどうにか旅を果たして、習志野権兵衛だとかいう奴のところにたどり着いた。

 名前から男だとばかり思っていたけれど、長屋にいたそいつは女だった。背が高く、肌が白く、ガリガリに痩せているわけでもないのに顎が尖っていた。

 

 こいつは何なんだろう、そう思いながら見上げた。鬼だろうか、山姥だろうか。

 

「君も私の噂聞いてきたの……。そっかぁ」

 

 女は頭を掻いて「うーむ」と唸り、何か決心した様子で表情を引き締めると、囲炉裏に下げた鍋から薄黄色く濁っているぬるい湯を椀に掬った。そして「これを飲みなさい」ときり丸に渡す。

 後から知ったが、あの湯は重湯というものだそうだ。尺骨が浮いて見えるくらい痩せた者はそれを飲むのが決まり(・・・)らしい。

 彼女は色んな決まりごとを知っていた。

 

 椀に顔を突っ込んで匂いを嗅いだら炊いた米の匂いがして、米が入っているから薄黄色いのだと分かった。女は背が高いし髪も短いし顎も細いが……悪人の目はしていない。鬼や山姥などではなさそうだ。信じたものかどうかと横目で女の顔を見ながら、ゆっくり椀の湯を飲んだ。

 とろんとしていてほのかに塩味がした。

 

 女のもとには数日から十日ごとに新たな孤児がやって来て、重湯を飲んだり粥を食べたりしていた。女はきり丸たち孤児にあれこれと指示したり質問したりしては難しい顔で紙に何か書き付けていた。

 

 変な女だと思ったし、きり丸を含む孤児はみんな女のことを「変な婆」と呼んだ。

 

 その変な婆から離れない理由はたった一つ。「ココとココとココを墨で黒く塗り潰してね」と言われるまま指を墨に浸しては紙で指先を拭う作業をしたり、「センタクキって知ってる?」や「キュウスイポットは分かる?」なんて意味不明な質問に「知らなーい」「わかんねー」と答えたり、紙に書かれた変な線のどれが「い」でどれが「ろ」でどれが「は」なのか答えたりするだけで飯が食えたからだ。

 ――タダで飯が食えるから女を利用していた。女の財産がどこに置いてあるか分かったらさっさと盗んでトンズラするつもりだった。

 

 それが変わったのは、きり丸が五分粥を食べられるようになった頃。きり丸より前から女のもとで飯を食っていた奴に、女が「ほっぺが丸くなってきたね、食べちゃいたいくらい可愛いほっぺだねぇ」と言うのを聞いたのだ。

 その瞬間、耳の奥に蘇った懐かしい声。

 

「今日はほんま寒いなぁ……。見て、きり丸のほっぺなんか真っ赤やんか」

「きり丸ぅ、よう食べてよう肥えや」

「食べちゃいたいくらい可愛(かわえ)えなぁ、なあきり丸」

 

 村を焼け出されてからこれまで振り返る暇がなかったその記憶に、強く、体を打ち据えられた。

 

 朝起きたら必ず帯を締め直してくれた母の。

 黙って頭を撫でてくれた父の。

 いじわるな兄や、どんくさい姉や、小さい弟や妹の。

 きり丸の丸くて赤いほっぺに触れたみんなの顔や声が次々と浮かんだ。

 

 思い出したくなくて思い出さなかったわけでも、忘れたくて忘れていたわけでもない。思い出すには毎日が忙しすぎただけで……忘れたくない、思い出せるままでいたい、思い出になんてしたくなかった日々が大風となってきり丸に吹き付けた。

 

 そろそろと自分の頬に手を当てれば、数日前より少し柔らかいような気がした。

 

「……なあ!」

 

 きり丸は自分から女に――習志野権兵衛に声をかけた。権兵衛は不思議そうにきり丸を見て「どうしたの、きみ。何かあった?」と首を傾げた。

 

「おれの、おれのほっぺは? 丸い?」

 

 その質問に、権兵衛は目をパチパチ瞬かせて答えた。

 

「これから丸くなるよ」

 

 それからだ。きり丸が彼女を、ゴンベ先生を好きになったのは。

 読み書きを覚えてしまったからゴンベ先生の元を卒業になってしまったが、また一緒に過ごせるなんて!

 そうとも、ああ、夢みたいだ!

 

◯✕△□◯✕△□

 

 土井先生のところで過ごすときり丸くんが付いてくる。そう聞いた瞬間私の心は決まった。土井先生のお宅にお世話になります、と。

 

 きり丸くんはうちに出入りしていた孤児の中でも特に私に懐いてくれた子だ。キラキラした目で「ゴンベ先生、おれのこと可愛い可愛いしてもいいよ!」って言ってくるところがすごく可愛かった……。

 「可愛い可愛いする」というのは何をどうするものなのか分からず、とりあえずコ◯ペンちゃんよろしく「生きててえらい」とか「計算が早いのすごい!」と頭を撫でながら褒めてみたらちょっと不満そうだったのも含めて、本当に可愛かった。

 もちろんきり丸くんは今でも可愛いのだけれど。

 

「ゴンベ先生、おれのこと可愛い可愛いしてもいいんですよ」

 

 土井先生の長屋に着いて数日。大家さんに土井先生が呼ばれて席を外したところ――私のすぐ前に、きり丸くんが胸を張りながら正座した。

 

「え、いいの?」

「もっちろん! 土井先生が帰ってくるまでっすけどね!」

「あらあ……」

 

 見られたくないのか。可愛い。ニコニコしちゃうね。

 

「きり丸くん。忍術学園でお勉強しようって決めたの、とっても偉い! 読み書きの他にも知ってることとか出来ることとかを増やそうと思ったんだね。すごい!」

「でしょぉ!」

 

 それからきり丸くんのありとあらゆることを褒めた。が、土井先生がなかなか帰ってこないせいで止め時が見つからず、ゆうに三十分は褒め続けている気がする。そろそろネタが無い……どうしよう、どうしたら……!

 

 きり丸くんの全身に目を走らせてネタ探しし――嬉しそうに赤らんだ頬を見て思ったことを口にする。

 

「丸いほっぺがとっても可愛い! 食べちゃいたいくらい!」

 

 それまで「そうでしょそうでしょ」とか「当然っす」という相槌を繰り返していたきり丸くんが、突然じゅわっと目を潤ませた。えっ、なに、なんか変なこと言ったかな!? 「食べちゃいたいくらい可愛い」ってありふれた表現じゃなかったっけ!?

 

「……うん。そうでしょ。おれのほっぺ、丸くて可愛くて、食べちゃいたいくらいでしょ?」

 

 きり丸くんは今にも泣きそうなくらい目を潤ませてるのに、満たされたような顔でもあった。

 「可愛い可愛いして」と何度と言ってきたのはこの言葉が出るのを待ってたからなのかもしれない。もっと早く言ってあげれば良かった。

 

「うん。可愛すぎて食べちゃいたいな、がぶがぶー」

 

 指を鉤爪みたく曲げて頬を摘めば、きり丸くんは「先生なんかに食われたら忍たま失格っすよー」と辛辣なことを言ってくれた。

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