話は六月十二日の木曜日にさかのぼる。放課後、古典部員は部室に揃っていた。
窓の外を見ると、週明けから降り続けていた雨は止んでいた。梅雨晴れを見てそろそろ帰ろうかと思い文庫本を閉じかけた時、地学講義室に弱弱しくノックの音が響いた。
「あの、ここって古典部ですか?」
遠慮がちに地学講義室の扉が開かれると、背の低い眼鏡の男が顔を出した。
「はい、そうですが何か御用でしょうか?」
千反田が来訪者に尋ねると、
「壁新聞部二年の
そう前置きし、小暮は来訪の理由を話し始めた。
「みなさんは今月の神高月報は読んでいただけましたか?」
神高月報とは壁新聞部が発行している新聞で、八月と十二月を除く月刊で昇降口前に貼られている。昇降口は毎日通るので当然視界には入っているだろうが、読んではない。
どうやら俺以外の三人も同じとみて、古典部部員は壁新聞部を前に返答に窮した。
「やっぱり、読まれてないか……」
と寂しそうな小暮。残念ながら古典部の新聞離れは深刻なのだ。気の毒に思った千反田が慌てて壁新聞部部員を気遣う。
「あ、でも先月号は見ましたよ。神山市のレトロ喫茶店特集ですよね。うちの近所にある『喫茶アリス』も紹介されていてなんだか嬉しかったです」
「それは新聞部が発行している『清流』ですね。うちじゃないです」
「あ、失礼しました……」
沈黙。これ以上気まずくなる前にと、見かねた里志が話を進めた。
「で、今月の神高月報がどうかしのかい?」
「今月号に僕が企画した神高川柳コンテストの募集要項を掲載したんです」
サラリーマン川柳の高校生版でもやるつもりか。
「川柳と聞くと、サラリーマン川柳を想像されるかもしれませんが、僕がやりたいのはそうではありません」
さいですか。
「俳句が風景を、短歌が個人の気持ちを詠むとすれば、川柳とは人間を詠む文学と言われています。人間を中心に時代や社会、生活に絡めて客観的に表現したものが川柳なのです。標語やダジャレや語呂合わせを五七五のリズムで詠めばいいというものではありません」
小暮による川柳講義を聞いた千反田が優しく声をかける。
「小暮さんは川柳がお好きなんですね」
「ええ、祖父の付き添いで神山市の川柳同好会に行ってからすっかりハマってしまって。ただ、僕の世代で川柳を詠んでいる人ってまだまだ少ないんですよね。同好会のメンバーも高校生は僕だけなんです。なので、もっと同世代の人にも川柳の面白さを知ってほしく今回の企画を立ち上げたんです」
「その川柳コンテストで何かあったのかい?」
「何もなかった、と言った方が正しいでしょうか……。つまり、一句も応募がなかったんです……」
肩を落とす若き柳人に古典部一同から同情の目が向けられた。まあ、無理もない。まず壁新聞を読んでいる生徒も少ないだろうに、その中でわざわざ川柳を考える生徒ともなるとそういないだろう。
「僕も何百句と応募があるとは思ってなかったんですけど、少なくとも十句は来るだろうと高をくくっていました。それが一句の応募もないままに締め切り日の今日になったんです」
「ということはお願いっていうのは川柳コンテストへの参加オファーかい?」
「はい、ぜひ古典部のみなさんにも参加してほしいんです」
なるほど、そうなるのか。この流れはまずいな。俺は先手を打った。
「別に俺らがやらなくてもいいんじゃないのか? お前が詠んだものを自分で応募したことしにて、それを採用すればいいじゃないか」
八百長になるかもしれないが、そもそもほとんどの生徒が川柳コンテストに気付いてない、とまではさすがに言わなかった。
「できればその手は使いたくなくて。というのも、今回のコンテストの選者には足立先生にお願いしているんです」
「なんであだっち?」
意外な名前に驚く伊原に小暮が答える。
「足立先生も川柳同好会のメンバーなんです。同好会が開催している句会では毎回素敵な川柳を詠まれて入選もよくされています。それもあって今回の選者になってもらえないか頼んだんです。僕の川柳はいつも見てもらっているので、もし僕が詠んだ川柳をお渡したら先生なら気付くでしょうし、自分から頼んでおいて僕の川柳しか集まりませんでしたっていうのはさすがに決まりが悪いというか……。それに先生は生徒が詠む川柳をとても楽しみにされているんです。上手な川柳じゃなくていいので高校生が考えた川柳を、先生には見てほしいんです」
どうやら同世代への川柳の普及だけで動いているわけではないようだ。尊敬する足立の期待に応えたいのが本音に見えた。いくら省エネ主義を掲げる俺でもその気持ちが分からないほど冷徹ではない。
だが、だからと言って俺がやる必要もない。
「なんで古典部なんだ? まずはお前の友達や壁新聞部の連中に頼むのが先じゃないか?」
「当然頼みました。でもみんな興味を持ってくれなくて……。それに、川柳は江戸時代から続く文芸です。ということは川柳も古典と言えなくはないと思います。ですので古典部の方なら興味を持ってくれるかと思いまして」
あいにく我が古典部は古典文学の批評考察研究といった高尚な活動をする部活ではない。最近の主な活動実績といえば放課後の雨宿りだ。
「面白そうだね。いいよ、参加するよ」
「そうね、あだっちをがっかりさせたくないしね」
「確かにこれも古典部の活動ですね」
協力的姿勢を見せる雨宿り部部員達。なぜそうなる。
「ありがとうございます。ではこの短冊に書いてもらっていいでしょうか」
小暮は短冊を四枚、千反田に手渡した。千反田は受け取った短冊を里志と伊原に手渡し、すっと俺の目の前の机に差し出した。俺はやるとは言っていない。
短冊は川柳を書くスペースとしての空欄が大部分を占めており、左脇には「柳号」と添えられていた。枠外の下側に書かれていた「〆切:六月十二日(木)十七時」という文字は几帳面に取り消し線が引かれていた。
短冊を見た伊原が小暮に訊く。
「柳号っていうのはペンネームみたいなこと?」
「はい、俳句では俳号と言いますが川柳では柳号といいます。本名だと恥ずかしがる方もいらっしゃると思って。ちなみに僕の柳号は
小暮と吉春で「小吉」か。
「控えめなのね。どうせなら大吉にすればいいのに」
「僕には小吉くらいがちょうどいいんです」
小吉は自嘲気味に笑った。
「書き終わったら壁新聞部部室前の投句箱に入れてください。急かして申し訳ないのですが、週末の句会で足立先生に渡すことになっているので明日までにお願いします」
「結果発表は来月の神高月報かい?」
「はい、大賞の一句と足立先生の講評が掲載されますので楽しみにしていてください」
その後、他の部活にもあたってみると言って小暮は去って行った。
明日までに川柳を一句考える。これはどう考えてもやらなくていいことだ。
短冊を手に取ろうとしない俺に千反田が和やかに声をかける。
「折木さんもやりましょうよ」
「三人参加すれば十分だろ。俺はやらんぞ」
「折木さんがどんな川柳を詠むのか、わたし、気になります」
そう言って千反田は大きな瞳を近づける。まずい。
巨神の前震を察知した俺は、目の前の短冊を読みかけの文庫本に挟み、立ちあがった。
「書けたら書く」
行けたら行くという保留の常套句を使いまわし、俺はタルタロスから脱出した。
昇降口に着くと神高月報六月号が掲載されていた。右下に「神高川柳コンテストのお知らせ」と書かれていた。募集要項だけでなく、さきほど部室で聞いた川柳の定義や川柳の楽しみ方や作り方、起源などが長々と書かれてあった。その記事からは川柳を知ってもらいたいという小暮の思いが溢れていた。
川柳とは人間を詠む文芸、と小暮は熱心に語っていた。人間を詠んで何になるのだろうか。なぜあそこまで夢中になれるのだろう。偉そうに省エネ主義などを掲げている俺に、活動家の小暮の情熱はきっと理解できないのだろう。
昇降口を出ると、見飽きていた灰色の空に代わって夕暮れが赤く染まっていた。