……あまり寝れなかったな。ほぼ出番はないと思いつつもなんだか落ち着かなかった。いや甲子園が目の前なんだと思うとついな。
「おはようございます」
「おはよ」
寮から少し離れたところで鳴さんが何をするでもなく立ち尽くしていた。どうやら俺以上に寝れてないな。鳴さんは甲子園に拭い難い借りがある……無理もないか。
「鳴さんなら、大丈夫ですよ」
「え?」
「行きましょう……甲子園」
「……あったりまえじゃん!」
そして決勝戦が始まった。三年生にとっては甲子園か最後の夏か決まる試合……井口さんも今日は三年生同士で肩を作っている。俺は目に焼き付けよう。この試合を、最後まで。
「ボールフォア!」
「やらねーのかよ!」
初回、鳴さんは揺さぶりに負けていきなりフォアボールを出してしまう。これは七割投球とは関係なく乱れたな。その後伊佐敷さんにタイムリーを許し、今大会初失点を喫してしまう。ここからだな。鳴さんはここまでまさに理想と言えるピッチングで勝ち抜いてきた。この状況でいつも通りのピッチングができるのか。……! 甘い! タイミングが遅れて合わなかったものの、結城さんにど真ん中の全力ストレート。気迫は伝わってくるが、明らかに力みすぎ。
「楽にいきましょう!」
言ってはみるもののベンチからの声援ではどうしようもない。なんとかできるのは本人とキャッチャーだけだ。タイムを取るのも手だけど、鳴さんが初回からマウンドに寄っていかれて気にしないとは思えない。俺ならどうする? ランナーは一塁だ。コースは問わずに低め重視の要求で守備を信じて打たせて取るか……。……! 雅さんはコースを限定するように厳しく構えた。しかしボールが暴れるのか要求より連続して外れて、ツーボールワンストライクに。いくら四番といえどもここは歩かせるのはまずい。ボールカウントを悪くするくらいなら……。……!
「ファール!」
タイミングは合わされたが、アウトローの厳しいコースに決まっていた。あえて厳しい要求を続けることで、そのことだけに集中させて立ち直らせたのか……。鳴さんなら、それができると。なるほどな……。ここまで来たら投げる球は一つしかない。チェンジアップだ。たとえ読まれていようとも……!
「ットラーイク! バッターアウト!」
まだツーアウトだというのに思わずガッツポーズを取ってしまった。タイミングは合っていたのにも関わらずの空振り……まさに決め球に相応しいボールだった。勢いそのままに内野ゴロで後続を断ち切ってくれた。ズルズルと行かないのは大きい。これでこっちも攻撃のリズムを作りやすくなる。
「別に無失点記録なんて狙ってないし」
ベンチに帰って早々クソみたいな負け惜しみを言っていたが、それはもうイラついていた。しょうがないエースだ。
「甲子園で無失点に抑えて、青道を唯一点を取ったチームにしてあげたらどうですか?」
「はっ、言うねえ。そのためには点取ってもらわないとね」
「取ってきてやるよ」
「座って待ってろ。体力を無駄に使うな」
しかし降谷のピッチングを前に三者連続三振に倒れてしまう。
「ちょっと! 俺のこと休ませる気ある!?」
「ま、まあまあ。球数は使わせましたし」
「こうなったら自分で援護するしかないかー」
降谷は初回から全力投球。行けるところまで行ってくれればいいんだろう。どれだけ早く降ろせるかだな。対照的に鳴さんは上手く力を抜いて打ち取れてる。初回の失点は痛かったが十分巻き返せるはずだ。
四回の表、鳴さんのピッチングで力んだのか、先頭のカルロスさんがフォアボールで出た……! 初回の相手と同じ状況。違うのはあちらの盗塁と違ってこちらは送ったこと。これでいい。うちはうちの攻撃姿勢を貫く。吉沢さんがサードライナーに倒れたが、打ち負けていなかった。セットだとやはり球威は落ちるみたいだ。
「雅さん! 頼みます!」
降谷はそこまで精細な投げ分けをしてるわけじゃない。内に厳しい球を続けられたが、内や外の際どいコースに入れることはできないはずだ。ツーボールワンストライクのバッティングカウント。入れに来たボールを……! 雅さんが体勢を崩して、真ん中に来たスプリットを捉えた! 打球は……しぶとくセンター前に……!
「カルロー!」
「還ってこい!」
「もち!」
速い速い……! 見事な主砲の一打で同点に追いついた! スプリットってことはこちらの考えを利用して振らせに来たのか? さすがの判断と度胸だな……。……!
「行けー!!」
「入っちまえ!!」
惜しい! 鳴さんが粘った末に高めに浮いたストレートをフェンスダイレクトのタイムリーツーベースに……えっ。
「アウト!」
……二塁を蹴って、三塁で刺された。センターの伊佐敷さんは強肩だ。無理はすべきじゃないだろうな。ともあれ逆転!
「ナイバッチ! さすが四番だね」
「ふん。お前のような綺麗なヒットじゃないがな」
お互いがお互いに応えた一打だった。喜びと共に湧いてきた感情があった。これは……羨望なんだろうな。信頼や期待に応え合う二人が羨ましく思えた。同時に……直接力になれない自分の悔しさもあったかもしれない。あちらに一年だろうと堂々の活躍を見せているやつがいたから、余計に。
相手もチャンスを作ったが鳴さんが凌ぎ切った。降谷がレフトに残ったか。ツーベースを打ったし、その後バントをさせた門田さんとの交代なら彼に代打で勝負を仕掛ける策もあったはずだ。それをしなかったのはプレッシャーをかけることを優先したということ。鳴さん……プレッシャーに負けなければ、きっと勝てます。そんなものに鳴さんは負けない……そう信じていますから。
降谷に代えてマウンドに上がったのは丹波さん。キャッチャーとしては……あのデッドボールからよく勝負できる状態に持ってきたと思う。しかし時期が悪すぎた。俺達がコンディション作りを始めた時にそうなったんだ。だから……いきなり失投も出てしまったんだろう。芯を捉えた心地良い音が神宮に響いた——。
「は、入ったああ! ホームラン!」
カーブ二球で追い込んだ後に甘く入ったストレートをホームラン。もっと大きく外せば良かったと思うかもしれない。しかしそれなりに外して構えた位置からゾーンに入ってしまうのはやはり良い状態じゃないんだ。フォアボールを出した後御幸さんがタイムを取って駆け寄るが、その後デッドボール。元々の弱気な部分も出てしまっているのだろうか。俺はあまり逃げ腰のピッチャーというのは好きではない。攻撃にリズム良く繋げなくなるし、打順も巡る。俗に言う流れが悪くなるんだ。ピッチャーってのは流れの源泉。ここが淀むようじゃ……。……!?
「フォークか!」
「勢いがねえ!」
「アウト!」
富士川さんの送りバントが弱くなって三塁で刺された……! 御幸さん……。あなたはそんなピッチャーもリードしきってしまうのか。キャッチャーなら悪い流れも良くさせることができると突きつけられているようだった。カルロスさん相手にはどうする? 山岡さんは追い込まれてもストレートに合わせて打った。甘くなるストレートを避けるなら変化球中心になるか? ワンボールワンストライク。御幸さんは……インコースに構えた。……まさか。
「アウト!」
ホームランにデッドボールまで出したピッチャーにインコースギリギリへの真っ直ぐを要求……! 変化球はストレートによって生きる。そりゃキャッチャーであれば誰でも理解はしている。しかし……俺に今の要求ができたか? できない。だが降谷のそれとは違って内に厳しく攻めきった力のあるストレートだった。ピッチャーが前を向けるようなリードをするのもキャッチャーの仕事か……。
「ボールフォア!」
このフォアボールは前の二つと比べて仕方ない。白河さんの粘りが良かったんだ。切り替えて次のバッターに集中……って。何を相手視点になって考えてるんだ。いや……相手の考えを理解するのも大事なことか。それはしつつも、応援もしっかりしよう。
「吉沢さん! 積極的に行きましょう!」
ここで御幸さんが弱気なリードはしない。フォアボールの後の初球……カーブか。カーブでカウントを取ってきたなら、決め球はフォークか? どうあれ御幸さんなら次は……。
「ットラーイク!」
インコースにストレート……。あれは手が出ない。御幸さんのリードで、あの時見た丹波さんの良さが引き出されていく。
「スイング!」
逃げずにインコースのストレートで攻めたからこそ、リードに幅が出た。吉沢さんもよくフォークにバットを止めようとしたけど、あそこに決めたピッチャーを褒めるしかない。俺は……先輩に引っ張られつつも、それなりに立ち振る舞えていたと思っていた。けど……まだまだなんだな。どんなピッチャーもキャッチャー次第で輝かせることができる……!
回は巡って七回の裏、丹波さんが限界を迎えて出てきたのは……
「ガンガン打たせ……否! 一つ一つ丁寧にいくんでバックの皆さんよろしくお願いします!」
沢村。やっぱり出てきたな。相変わらず元気のいいやつだ。ツーアウトランナー一塁二塁。しかもカルロスさんが二塁ランナー。鳴さんはミートポイントの広いタイカップ型バットを持っていった。クセ球ストレートでも容易く芯は外さないぜ。俺がこいつをリードするなら……やはりインコースだよな。問題は沢村が応えられるかどうか。甘く入れば鳴さんは打つ。決勝戦のプレッシャーの中でもあのピッチングができるかどうか……。
「ットラーイク!」
……マジかよ。手も出ずか。やはり見た目以上に速く感じるのか。それにまたいきなり左バッターのインコースギリギリだ。あいつの心臓はどうなってんだ? エースの丹波さんにだってマウンドに上がった時緊張した表情はあった。こんな自然体でいられるものなのか……。
「ットラーイク!」
さらにインコース……本当に入ってるのかと思うくらい厳しいコースだ。しかも球種がクセのある真っ直ぐしかないからかテンポがいい。バッターに覚悟する暇を与えない。しかし三球勝負はない。外のコントロールはそんなに良くはないみたいだから、外の低めに外すような誘い球でもいいかもな。御幸さんなら万が一のワンバンでも止めてくるだろう。……さらにインコース? いや、三球同じコースを鳴さんが見逃すはずがない。……! だからか!?
「ットラーイク! バッターアウト!」
インハイの釣り球……。鳴さんならムキになって振るだろう。鳴さんの性格を知っている御幸さんならでは。そして沢村の気持ちの強さがあってこそ。……昔、御幸さんが言ってたっけ。ピッチングってのはピッチャーとキャッチャーが一つになって作り上げるものだって。それを体現したかのような打席だったな……。
そんなピッチングが流れを呼んだのか、八回の表に倉持さんにスクイズを決められ一点差に詰められて、打席には代打の小湊。インコースに覆い被さってきたが、鳴さんのクロスファイヤーは右ピッチャーのそれとは段違いだ。明川の時と同じようにはいかない。木製バットがへし折られて……落ちた!? 持っていくのかよ。一年があの球を……。
「くそっ……!」
思わず声に出てしまった。それ以上の声援をグラウンドに送り出した。なんだろう……もう感情が言葉にならない。炎天下の中、心が何かに焼かれていくようだった。
「ファール!」
ツーアウトランナー一塁三塁。好打者の伊佐敷さんにツーボールツーストライク。ストレート系に絞ってるのか……? 雅さんのサインを送る手が止まった。右打ちの上手いバッターだけに、外から中に入るカーブは使いづらい。チェンジアップは……前に浮いたチェンジアップを鋭く捉えられているからか。鳴さんのチェンジアップは球数が多くなると浮いてしまう……。けどあれは低めに決まれば誰にも打てない魔球なんだ。迷っちゃダメだ……! 鳴さんなら投げられる! ……!
「ボール!」
膝下のスライダーが見送られた……! 粘り強い伊佐敷さんを崩すには緩急しかなかった。それは、雅さんも分かっていたはずだ。思わず柵に突いていた手を握りしめた。爪の跡が残るほど、強く……。
「ボールフォア!」
「頑張れっ! 鳴さん……!」
後戻りはできない。逃げ道もない。ツーアウト満塁で四番の結城さん。高めの釣り球にもフォークにもついていかれた。攻めなければ勝てない相手なんだ。高めの釣り球にタイミングを合わせた今……。サインの交換で少し間があった。鳴さんと雅さんは……会話をしていたようにも見えた。離れた距離で通じ合っていたように見えた。チェンジアップが構えられたミットに吸い込まれていく。完成された作品のようなピッチング……だったのに。崩れた上体から放たれた打球は右中間を抜けて……逆転された。
「なんで……あの球が……。高さもコースも悪くなかったのに……!」
この試合何が起きても見届けよう、そう思っていた。しかし俺は……拳を柵に叩きつけて、視線を下げてしまった。すると背中を思い切り叩かれた。思わず顔を上げてしまう。
「痛っ!」
「まだ成宮は諦めてねえ……。俺も……諦めねえ」
「矢部さん……」
信じられなかった。鳴さん……あなたはどうして、笑っていられるんだ。心を折られてしまうような一撃をもらったのに、なんの後悔もないように……。悔しくないはずはないんだ。俺は思わず周りを見渡す。こんな状況でも誰も下を向いていなかった。鳴さんの方を向いていた。ようやく、俺は理解した。だから鳴さんはエースなんだ——。
「アウト!」
続く増子さんをセンターライナーに打ち取って、鳴さんが帰ってくる。息をゆっくり吐き出し、歯ぎしりをしていた。もちろん悔しかったんだ。それでもマウンドではおくびにも出さなかった。俺達はきっと同じことを思っていたはずだ。絶対にこのエースを負けさせるわけには行かない。
ついに一点リードされたまま九回の裏を迎えた。先頭の富士川さんに代打が送られる。もちろん矢部さん……。分かっていたことだ。だけど、とてつもなく悔しかった。それでも俺がそんなものを顔に出すわけにはいかない。
「矢部さん! お願いします! 俺達信じて準備してますから……!」
「任せとけ!」
一点でいい。延長に入れば負けない……! 長い戦いにも備えるため、俺は平野さんと共にブルペンに向かった。——その時だった。
「え……?」
俺は、強烈な違和感を覚えた。ブルペンにたどり着いてから、平野さんの方を向くようにゆっくりと振り返った。見間違いではなかった。沢村の表情が……明らかに硬かった。彼を知っている者なら、すぐに分かったはずだ。あれだけ元気に、自然体で投げていたのに。
「神巫? まずは軽めにいくよ」
「は、はい!」
投球練習のため、さすがにグラウンドではなくそちらに集中する。平野さんの球を受けながら、俺は感じた。矢部さんのセーフティは逸れてしまったらしい。ここからでも気迫が伝わってくる。そしてもう一つ感じていた。試合が止まることなく進行していることを。何故だ? 御幸さんは沢村に声を掛けなかったのか?
「春っち!!」
「アウト!」
丹波さんにだって、そうしていた。必要ないと考えているのか? そんなはずない。甲子園行きが決まる最終回のマウンドに一年生が立っているんだ。さすがに沢村であってもプレッシャーに感じるに決まっているじゃないか。そんなこと分からない御幸さんじゃ……。………。まさか。
「アウト!」
二つ目のアウトが取られて、いよいよ追い込まれた。だというのに俺は追い込まれたように感じていなかった。無責任かもしれないが……追い込んでいるように、感じたんだ。それはきっと、当然の結末だったんだと思う。
「デッドボール!」
白河さんは……動けるみたいだ。大事には至らなそうで良かった。安心すると共に俺は……笑っていた。
「ああ……そうなんだ」
きっとこの安心は無事によるものだけじゃないんだろう。あれだけ遠く離れたような存在に感じられた御幸さんだったが、もうそうは思えなかった。たとえあの人であっても、プレッシャーに潰されてピッチャーを一人にしてしまうことがあるんだって、分かったから。
そして歓喜と絶望が分かれる瞬間が訪れた。その一打を放ってくれたのはやっぱり……鳴さんだった。俺達は我も忘れてグラウンドへと駆けていった。鳴さんが安心したように泣いているのが、印象的だった。もちろん……鳴さんもプレッシャーと戦っていたんだろう。雅さんがそれを支えてくれたし、それに鳴さんも負けなかった。誇らしかった……。万雷の拍手の中で俺達は整列する。俺は二人の表情を確認した。沢村と……川上さんだった。御幸さんの表情は……見たいと思わなかった。二人のピッチャーは片や茫然自失、片や堪えている涙が溢れてきていた。審判の挨拶に二種類の礼が交錯する。こうして稲実の夏は続いた。俺は、ここまでだったが。
「ゲームセット!」
甲子園からは規定でベンチ入り人数が20人から18人になる。スタンドで彼らの戦いを見守った。そして甲子園決勝、巨摩大藤巻との延長14回に渡る激闘……。サヨナラとなる3点目を入れられ、負けてしまった。それでも誰がなんと言おうと良いピッチングだった。
「残酷だよな……」
「え?」
鳴さんの本当に悔しそうな泣き顔を見て、そう呟いていた。幾度となく見届けてきた勝者と敗者が分かれる瞬間。そこにあるのはいつも打たれたピッチャーの後悔だった。
「ピッチャーだけは、一人で背負い続けないといけない。これからもずっと……」
「……そうだね。打てなかったって責任はチーム全体のものだから」
「俺はあの人にもう……背負わせたくない」
「それは……俺もだよ」
この夏最後の試合を見届けて、ようやく成し遂げたいものを見つけた。雅さんのようにでもなく、御幸さんのようにでもなく、俺として。成宮鳴を引っ張るキャッチャーになる。そう、決めたんだ。
今では甲子園でもベンチ入り人数20人になったようで。