目を覚ました時、俺は布団の上ではなく、冷たい板敷の上で猫の子のように丸くなっていた。
ヒスイでの数ヶ月に及ぶ野外生活は俺の心身をすっかり作り替えてしまったらしい。さらさらとした肌触りや柔らかな寝心地は、むしろ違和感ばかりが先行して、とても眠れやしなかった。
輾転反側した挙句、固い板の上で寝落ちた己に苦笑しつつ起き上がる。
障子の向こうは薄暗い。まだ夜明け前なのだろう。
ミュウツーたちの入ったボールがどこにもないことに気づき、部屋を見回す。
広さは四畳程度、燭台と布団だけの殺風景な造りで、普段は使っていないことが窺える。
牢屋からこの屋敷に来るまで抱えていた、テッポウオのテツを泳がせていた甕もなくなっていた。
「……モモワロウ」
「……モ」
影に向かって小声で呼びかけると、微かに反応があった。
「今の俺、カンペキ丸腰だからさ。
なんかあったら頼むな」
「…………モ」
モモワロウが動揺したのが伝わった。
俺は宥めるように床を撫でてから、目を閉じ、耳を澄ました。
ヒスイでの暮らしはお世辞にも快適とは言いがたかったが悪いことばかりじゃない。
たとえば、俺の五感をとことん研ぎ澄ませてくれた。ほんの少し集中するだけで、近くの気配が読み取れるようになったのだ。
彼我の距離、数、殺気の有無まで掌を指すように分かる。
その
相手は障子の傍に座るやいなや、俺が起きている気配を察したらしい。
戸を細く開け、柔和な声で呼びかけてきた。
「お目覚めでございますね。
朝餉の支度が出来ております。
こちらへお持ちしましょうか」
「あ、は、はい。お願いします」
「かしこまりました」
相手は戸を閉め、慎ましやかな足音とともに去っていった。
それからすぐに戻ってきて、部屋の前に膳を置くのが聞こえた。
「すみません、お手数おかけします。いただきます」
戸越しに礼を述べると、相手は「ごゆっくり」と言って去っていった。
優しい声の
多分、この屋敷の主・ネコヤナギさんの奥さんだろう。
300年前のジョウトの文化には疎いけれど、夫を持つ武家の女性はみだりに人前に姿を現さないとか聞いたことがある。
だから今も、戸を開けて対面しなかったのだ。
俺が得体の知れないよそ者だから顔も見たくない訳ではない……と思う。たぶん。
膳の上にはつやめく白米と香の物、豆腐の味噌汁が置かれていた。
途端に腹の虫が騒いだ。
口中に涎が溢れだす。
ああ、炊きたての米なんていつぶりだろう。
味噌汁のこの芳醇な香りときたら!
震える箸で飯を頬張った瞬間、鼻の奥がツンと痛くなった。
「…………っ!」
噛むほどに泣けてきて、鼻をすすりながら嚥下した。
うまい! 旨い! 美味い!
なんて美味。なんて幸せ。
無我夢中で平らげ、掌を合わせると、心の底からこの言葉を口にした。
「ご馳走さまでした……!」
〇〇〇
妻のモミジが口辺に笑みを浮かべながら戻ってきた。手には、米粒ひとつとて残っていない綺麗な椀を載せた膳がある。
「見事に平らげたの」
「ええ、本当に」
ネコヤナギの台詞に、モミジはしみじみと頷いた。
なんでも、囚人改め客人は一汁一菜の粗末な食事を涙しながら食したという。
「そなた聞き耳を立てよったか」
呆れて叱れば、妻は殊勝げに詫びを入れた。
「申し訳ござりませぬ。つい耳に入りまして」
そして、どこか夢見るような眼差しで中庭を見やった。
庭を挟んで反対側にアシタバのいる離れがある。
昨日までぐずついた天気だったのに、今日は朝から
きっとよい日和になるだろう。
まるであの若人が、お天道様を喜ばせたような按配ではないか。
「やはりお若い方はよく召し上がりますね。
昼餉はもっと量を多くせねばなりますまい」
昨夜連れ帰ったとき、妻には「無宿人である。飯以外構わずともよい」とだけ伝えてあった。
それ以上の説明はしていない。
モミジから訊ねることもなかった。
くどくど申さずとも夫の話を飲み込むのが武家の妻の嗜みだと心得ているからだ。
ところが食事を出してやれば、美味い美味いと感涙にむせぶ若者であった。
台所を預かる者として、これ程嬉しい客はおるまい。
「……うむ。そうしてやれ」
夫の許しに
その後ろ姿を見ながら、ネコヤナギは無言で顎を掻く。
(奇妙な瞳をしておるゆえ、気味悪がるかと思ったが……よもや好意を抱くとはの)
妻がああもはしゃぐのは、なにも食べっぷりのせいばかりではない。
似ているのだ。ひとり息子に。
生きていれば、ちょうど同い歳ぐらいだろう。
ほとんど同じ時期に授かった関所
となれば、アシタバも18、9といったところか。
賢く、優しい子だったのに、タチの悪い
呆然としたまま息子の葬儀を上げた時、恋しさのあまりに子の歳を数えてはなりませんぞと寺の和尚に諭されたが、さりとて綺麗さっぱり忘れることなど出来るはずもない。
普段は口にせぬだけで、妻も己も、息子が生きていたらと思わぬ日はなかった。
そこへ年格好や面差しの似た
懐を押さえる。
そこにはアシタバが造ったという木の球を入れていた。
「聞くべきことを聞いたら、さっさと屋敷から放るべきだな……」
さもなくば離れがたくなろう。
妻は落胆するだろうが、仕方ない。
吐息をつきつき、アシタバを泊まらせた部屋へと向かった。
〇〇〇
久しぶりの和食の感動にひたっていると、ネコヤナギさんがやってくるのが聞こえた。
慌てて居住まいを正す。
牢屋から出してくれ、食事まで恵んでくれた人を迎えるのに寝転がっていては無礼どころの騒ぎじゃない。
「入るぞ」
「どうぞ」
ネコヤナギさんは
肌こそ白いが顔に刻まれた皺は深く、まるで生まれた時からこの表情しか作れないように岩石に彫りこまれたよう。
出で立ちと雰囲気が頑固一徹な祖父にあまりにそっくりで、思い出さないではいられなかった。
(じいちゃんも笑うことの少ないひとだったな…………)
今ごろどうしているだろう。
俺が居なくなったことは、もう聞いているだろうか。
息子に続いて孫まで喪ったと、さぞ意気消沈しているに違いない。
力なくぼんぐりを削っている背中を想像して、ぎゅっと目を瞑った。
「──どうした」
「い、いえ。ちょっと目に埃が入って。
もう大丈夫です」
「……尋ねたきことがある」
言って、ネコヤナギさんは懐から俺の造ったボールを取り出した。
ルギアが入ったものと、ミュウツーが入ったものだ。
「これの造り方を教えてくれ。
我が里の者たちに広めたい」
やっぱりそうくるよなあ。
この時代にはまだ存在しない代物だし、日々ポケモンの脅威に晒されていれば、
生身で立ち向かうにはポケモンはあまりに恐ろしすぎる。現代でさえ、コラッタの鋭い前歯に噛まれて命を落とす子供が居るくらいだ。まして医療も未熟なこの時代ではさぞ被害が酷かろう。
懸念があるとすれば、俺が教えることによる歴史への影響具合……SF的に言うならパラドクスが発生しちゃうんじゃないかって点だが、それはもう、俺という
ならもう、返事は一つしかない。
「わかりました」
即座に応じると、ネコヤナギさんが二、三度瞬いた。まさか快諾するとは思っていなかったらしい。
「……よいのか?」
「はい。ただ、お頼みしたいことが」
「申してみよ」
「俺と、俺の家族に飯を食わせてくれませんか」
ネコヤナギさんの手にあるボールを指さす。
ここにいないテッポウオと、影に潜りっぱなしのモモワロウ、それからバサギリ……は大人しくここに来てくれるとは思えないが、ともかく仲間たちの食事を確保したかった。
「家族……」
ネコヤナギさんはぽつりと呟いた。
表情こそ乏しいが、恐るべき獣たちを身内と言い表したことに、驚き、戸惑っているのが分かる。
「そんなに大事な者たちなのか、こやつらが」
「命よりも」
ネコヤナギさんは瞑目し、静かに息を吐いた。
「……あいわかった。
この者らも客としてもてなそう」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げる。
こうして俺は、チョウジの里にしばらく住まうこととなった。
というわけで20話。
異分子かつ怪しげな技術を持つ人間が里に来たらまず警戒されまくるでしょうけど、その技術があまりに有益すぎるのでなんとか処刑は回避しているという奇跡的状況。わはは。
だいぶ話がゆっくり展開ですが、そろそろ刺客たちがやってきそう。
よければ感想高評価おなしゃ!